小池 勉 (1916年12月5日~2008年7月18日)一代記



    大目次
( ※で詳細目次へ: 各※の下線をクリックしてご覧下さい。)
     大戦前
    
  一  福島
11 小神村から川俣町 (大正5(1916)年12月出生) 
        二  米沢
22
        三  横須賀
40 (昭和9(1934)年4月)
          中国
(日支事変) 53
     大戦
      五  「海軍第一二一設営隊戦記」  
(昭和18(1943)年4月出征)
        1 
        2 戦記
            第一章 開戦・設営隊ラバウル上陸 
            第二章 ブーゲンビル出陣とバラレ作戦 
            第三章 海軍担送隊決死作戦 
            第四章 飢餓地獄 
            第五章 終戦の実像と収容所生活         
       3 
戦記 あとがき
     大戦後
    
  六  復員
90  (昭和21(1946)年2月)
      七  
ひたちなか市勝田 100  
      八  
江東区深川 107
      九  
大田区馬込 126
      十
   世田谷上馬 119
        十一
  世田谷弦巻 136(昭和25(1950)年4月~)
       ⑴ 会社設立前 136※    ⑷ 戦友会 240※
       ⑵ 会社設立192※      ⑸ 波 背の背にゆられ 273※ 
       ⑶ 倒産・再興 213※
      十二 終幕緊急入院平安
399
 
        自分史 あとがき411
        洋吉 あとがき
(解説) 414

    詳細目次
( 下線をクリックしてお読み下さい )
      福島
12 小神村・川俣町
      1 出生(大正5(1916)年12月5日)、そして小神村
11
        
 ・ 「お前の父ちゃんはいない
         ・ 小神 尋常小学校 尋常ではない女子生徒
         ・ 暮らし
            わら草履 畳なく、ごさ一枚に 藁布団
            腹すかし、食うためにとる魚うお・木の実
            初電灯          
      2 川俣町の生活:機屋
18
          
「田舎っぺえ」「負けるものか」
          ・ 長沼君
      3 決別
昭和2(1927)7 20
      米沢  
      1   米野商店
22
      2  熊倉機織工場 23
      3  西部小学校
「男女六歳にして席を同じうせず」 23
      4  ( 荻君・ 湯野川君 )との小鳥捕り
25
      5  「ちゃぼ」奮闘す
27
      6  暮らし
29
        ・
熊倉要助氏 (→)
          ・ 鯰捕り「えん掴み」
      7  米沢の言葉 31
      8  山形県立米沢工業学校 
昭和4(1929)4 32
      9  ちゃぼ
(短小成長) 衝撃を受く 34
        
救済措置「特待生」
          ・ 恩愛
      10  友人隣家 37
      11  卒業・就職 「キリン先生」
39
      横須賀 
昭和9(1934)4 40
      1 横須賀海軍工廠 造船部の頃
41
        ・
人生の分かれ道 (→進路の閉塞)
        ・ 百合ちゃん
(→長沢君稲葉君)
      2 「技手ぎて志望
44
      3 徴兵検査
(昭和12(1937)4)45
        ・
青天の霹靂 (→仲修復)

      4  昭和13(1938)年4月 48
        ・
石の上にも三年
        ・ 救済のバトン
(人事課長→第二課長)
        ・
軍工廠 建築部への転属  技生 拝命 (技手拝命)
        ・ 現場主任 三浦技手
      中国 (日支事変) 
昭和14(1939)4
               
愛刀入手
      1 上海
54
                ① 軍装  くらし
               ② 
カメラ (→)
      2 南京
57
                ① 飛行場
               ② 挹江門
 59
                  事務長小坂君 (→旧友小坂氏)
                    水交社慰安所
            ③ 高郵
 62
                 資材緊急輸送ボイラー爆発
            ④ 留守隊長
 68
                 刃傷事件阿片 
            ⑤ 飯野技生 (← )
            ⑥ 緊急入院 
(→ 飯野技生 ) 73
      3 帰任
 昭和16(1941)4 76
   
          モーゼル銃苦力頭所持品検査
              飯野技生 (→飯野さんとの戦後交友)
      4 原勤務地横須賀
80
           
長沢三兄弟
      「海軍第一二一設営隊戦記
(昭和18(1943)4月出征)
      復員 
昭和21(1946)2月 90
      1 上司 三浦技手との再会
運輸省建設部 91
      2 家族との再会
疎開先福島大槻村 92
      3 切符身分証明書 
94
      4 運 建
長沢君 (→薫建設へ) 96
      5 キリン先生との再会 
99
      勝田 : 平井工務店 
100
      1 後輩 小関君
      2 水戸に戦友小沼技手を訪ねる 
101     
      3 仙台にキリン先生を訪ねる 
103
      4 明神村勤務 
105
      5 林書記の合流 
106
      深川 
107
      1 工廠の小久保先輩と再会 
107
        ・ 小久保工務店 
108
        ・ 
退職 昭和22(1947)714日 113
       
    (→ 復帰 143)
      2 娘眞理子の誕生 昭和
22(1947)26 108
      3 健康法カメラ 
110
      4 小久保工務店の頃 
110
        ・ 小関君
        ・ 林さん
(材木屋)
        ・ 飯野さんとの戦後交友
(お竹さん) 111
         
(→(飯野さん の) 竹 に 雪 )( → キャンプマックネアー会社再興)
        ・ 長沢君
(薫建設) 
      5 太田建具店 113
         ・
小関君 (薫建設へ)
         ・
自立の道 建築代理士試験合格 昭和22(1947)1122 114
         ・ チンドン屋ペニシリン (娘高熱を発す) 
118
         ・
山本山 (本店 建具工事) 瓢箪から駒 乱闘から美貌? 121
         ・ 退職 122
      6 
建設業小池工務所発進 115
         ・ 薫建設下請け
(長沢君から)             
           馬込 読売新聞社宅工事 
116
         ・
小野大工 
             大工差配小野清
         ・
「飲兵衛」轟く 昭和22(1947)1230 117
         ・ 材木仲立ち
(林さん→清野さん)(→材木代勤務) 119
      7 (元請会社)薫建設 倒産 119
         
(→長沢君自立146 :
小関君 岡本建設へ 202)
     
大田区馬込 (担保代わりの管理居住三浦さん) 120
      1 私の運河転落
(武装警官隊出動) 昭和23(1948)年春 123
                     
(建築代理士会春期総会後)
      2 
新宿に「小池工務所」事務所 126
        ・
並木さん
          ・ 渋谷さん
    
世田谷上馬 昭和23(1948)1230 129
      1 暮らし
(渋谷さん宅間借り) 130
      2 「都建材」:田中土建 上野動物園 鶴の池工事(飯野さん) 131
      3 田中角栄社長と談判 
132
      4 頼まれ社長 
133
      5 関工業 
134
    十一
 世田谷弦巻 昭和25(1950)3 136
      会社設立前
      1  瓢箪から駒 : 鞄 から新居 
136
      2
 (薫建設下請仲間の清野建設) 材木代勤務 (材木仲立ち) 142
                        「義を見てせざるは勇なきなり」
         ・  ジェリー藤尾
         ・  
小久保工務店復帰
         ・ 
小関君 (北海道へ)  長沢君(百合ちゃん)
      3 秩父土建
(←小久保工務店) 144
         ・
海上保安庁アパート 
         ・ キャンプマックネヤー (飯野さんからの、変わった仕事) 147
            魚河岸から ヤマダカンパニー、プリーズ
        
(飯野さん の)  (←飯野さんとの戦後交友) 148
         
 (→ 会社再興のため奮闘 油槽所工事土木工事 そして 絶縁)
         ・ 林さん受入れ 昭和26年 (事務主任)(←材木屋) 150
      4  世田谷新住民三軒 
151
         ・ 林さん宅 
林に囲まれた小池
         ・ 犬竹大工宅
 152
         パチンコ狂想曲 153
      6  荒野の対決 :
野犬群ワン’から怒髪 天突 156
      7  カトマン 
157
        8  サイドカー陸王
         ・ 
購入 昭和28 169
         ・ 
転覆・顔の傷 昭和30(1955)418 171
         ・ 転覆事故入院時の女医先生宅 
205
      9  栄楽飯店繁盛記 
162 
        ・ 
突如三百円貸してくれませんかと乞われて 昭和28
        ・ 叔父の三本杉転居 
160
        ・ 
開店  昭和30(1955)222 166
      10  
えにし
          ① まよ姉 
176
             
仲修復米沢工業高校への寄付
          ② 高橋区議
179
               
真弓豆腐店
          ③ 綾部頭 
181
               
安達流 安達瞳子女史 182
          ④ 息子の恩師 
186
          ⑤ 
PTA会計を仰せつかる 昭和30(1955)4 187
      11  仲人
(会社倒産後再興期も含む)
           ① 穂刈さん
(←長沢君手許長沢君自立) 194
           ② 尾沢大工 
197
           ③ 川田さん 
198
           ④ 最後の仲人 
391
      12  母 永眠
(昭和32721) 189
       会社設立有限会社 睦工業
昭和32(1957)918
           ① 我が家の改築 
192
           ② 長沢君
(設計・監督) (←長沢君自立) 195
           ③ 社員急増 借金嵩む 
201
           ④ 林さんの新規事業 202
           ⑤ ニコニコストア 
202
             真の侠客 山田頭 
204
           ⑥ 山田塗装 
208
           ⑦ 斉藤瓦店 
210
      
倒産 そして 再興
      1  会社倒産
昭和35(1960)1214 213
          ① 三品先生
(← ) 214
          ② 大寿美水道 

          ③ 返済 
221
          ④ 堀川木材
      2  民生委員 
222
      3  会社再興に奮闘
          ①
油槽所工事 (佐藤組の飯野さんから)
            ・ 日立
217
            ・ 結城 
220
          ② 
建築工事 231
          ③ 
土木工事 (佐藤組の飯野さんと)
            ・
川崎市王禅寺 231
            ・
横浜市保土ケ谷 234
            ・
(飯野さんとの) 絶縁  237
      4 犬竹大工死 と 我が社
( 最終の工事へ ) 386
          ① 最後の仲人 
391
          ② 最後の仕事 ラスト2 
393
      戦友会
      1  戦友会 ・ 慰霊活動 
240
          ① 
一二一設(海軍第百二十一設営隊)戦友会 240
          ② 鎌井衛君岡本隊長
昭和39(1964) 241
          ③ 
全国ソロモン会 陸海軍合同遺骨収集団  248
                            昭和
43(1968)
          ④ ベララベラ島残留兵士
昭和45(1970)  268
      2  汚点事件勃発
昭和44(1969)年4月28日 大塚警察署 251
         ・ 戦友連繋 
林書記と高松主計長に助けらる 255
      3  遺骨収集調査団参加
昭和47(1972)7~8 257
         ・ 野辺路のリヤカー
         ・ 涙滂沱
         ・ 友の化身 日々草
      4 神田会長の死
昭和58(1983)年1月15 373
      5 合掌慰霊碑 
375
      6 脳梗塞と会務退任 
377
         
 (窮余の策の)「全国ソロモン会副会長」となる 383
       背の背にゆられ
      1 心友  
      ・ 旧友 小坂氏 
(←事務長小坂君) 273 ・ 学友 長谷部君 287
      ・ 戦友 石塚さん
(←石塚さん負傷・入院) 297職友 波多野さん 300
      ・ 
畏友 飯野さん ( ) 237
      ・ 
親友 林さん ( ) 255
      2  変遷
保有店舗の事情 276
      3  娘 眞理子  
278
        ①
俊秀      美希
      4  息子 洋吉
 289
          司法試験任官 名古屋地裁 
          ・ 北原邸工事 
290
          ② 仙台 (昭和50(1975)) 
294
        ③ 
網走・東京・秋田 364
      5 海外鴛鴦おしどり旅行 
305
       ① ハワイ
305     ⑤ 中国 324 
                   上海1南京楊州鎮江蘇州上海2
       ② ヨーロッパ
307  ⑥  豪州 341ニュージーランド 349
        
    シドニーキャンベラ   南島北島 
       ③ 東南アジア 
314  ⑦ 桂林 358 香港
        
シンガポールバンコック香港
       ④ 
アフリカ 318
      6 
あけび」入会 (昭和52(1977)) 393
          と 歌集「日日草」の出版
(昭和62(1987)) 396
     十二 終幕緊急入院平安 399
 
        自分史 あとがき411
        洋吉 あとがき
(解説) 414
                
























出生 そして小神村へ                     
 私の出生地は、福島県伊達郡川俣町字中島一八番地となっている。 
 勿論、私に当時の記憶はないし、昭和五十年頃に川俣方面に旅行したときに、探し回ってやっと尋ね当てたその番地は、さっぱりとした感じのよい住宅地で、小さな家が建ち並び、家々の庭先には可憐なコスモスが咲いていた。記憶はないものの、私が生まれた大正五年(一二月五日)頃は、もっとボロボロの家が建っていたのであろうと思われて、感無量の私だったのである。

 私の家は、父三之介が私の生まれる一か月前(一一月七日)に四四歳で死亡し、私の二、三歳の頃にここを去って、ここよりずっと田舎の小神村に引っ越していた。   

 父が死んだとき、私の異母兄の長男義雄は二〇歳だった。だが、この兄は口ざかしい男で一見働き者に見えたが、その実、移り気の生意気者で、定職に就かず、色々なことに手を出してはすぐに失敗して、次々と仕事を変える事の繰り返しだった。その為、男手の稼ぎのない我が家は、年中貧乏で苦しい生活だった。私が生まれた頃、我が家は、異母兄長男 義雄夫婦と兄の子供英夫、異母姉二人、それに、私の 十歳年上のまよ姉と二歳上のかよ姉、そして、母と私、の九人家族で、働くのは母と上の姉の二人だけだったから、生計は成り立たないのが当然だった。                            
 この兄の嫁は、母の実妹であったが、母とは性格の全然違った人であり、働くところを見かけたことがなかった。そして、小神村に行ってから次々と子供を産み全部で九人まで数えることになったのだ。    
 私の人生の記憶は、小神村での生活から始まる。福島県伊達郡富田村大字小神字彌五郎内、これがここの地名である。          
 私の記憶では、母とまよ姉は、年中出稼ぎに行っていて不在がちだったように思われるが、今では、私が小学校に入る頃からのことがぼんやりと思い出されるのだ。                     
そのころ、兄の子は、私より一つ上の英夫の下に二人生まれていた。兄は、一年に二、三回帰るほかは家にいなかったのだが、何か、東北の各県を回っては、今で言う営業の仕事をしていたようだった。それも、扱う物は一定でなく、農機具だったり、雑貨だったり、いろんな物を商っていたようだ。

 私には父がいない訳だが、当時兄を父親だと思い、兄の子供達を兄弟だと思っていた。それが、ある日英夫に       
「これは俺の父ちゃんだ! お前の父ちゃんじゃないぞ! お前の父ちゃんはいないんだ!」                      
と言われたときには吃驚した。                  
 それからは、母もいないときで、叔母ちゃんに聞くのも嫌だったから、一人で考えなければならなかった。一人で魚釣りをしながら深刻に考えたのだった。その頃はやりの浪花節の一節が今でも思い出される。多分春日井梅鶯の曲かと思われるが、その五郎正宗の一節に
「お前の父ちゃん関東の人で、今じゃ名代の刀鍛冶、会いたきゃ会わせてやりましょうと・・会うて嬉しは夢の間か・・会わぬがましで-あった-る-か-・・」                      
とあった。                           
 それがその後、私の脳裏で何度も流れたものだった。父の実家は、茨城県水戸の在だと聞いたので、その頃福島地方では水戸をも関東と呼んでいたこともあって、私には、その曲が父に通じるように思われ、ひいて、父が関東に実在するようにも感じたのだった。        
 父が死んでから私が生まれたということは、ずっと後に聞いた訳であるから、その頃、人の死も生も、何も分からない子供の頭で、そんな風に悩んだことは、今日の私の性格の基盤を形成する要因となったと思われる。 
 叔母が毎日の食事の世話をした訳だったが、彼女は何をやらせても上手でなく、余り旨いものを食べた記憶がない。金もないので何も買えないのだから、それは無理もない話かもしれない。そんな訳で、子供達は結局自給自足が原則のようになり、自分のおかずは自分で作るようになっていた。つまり、叔母はこう言うことが多かったのだ。
「今日は何もないよ。お前達、自分で蛙でも捕って食え!」 
 そこで、私たちは手に桑の蔓枝を持って草原に行き、そこで赤蛙を探すのである。忽ち四、五匹を捕まえると、皮を剥いて料理し、焼いておかずができあがるという訳である。こうして、食える物は何でも食って腹の足しにすることが、私たちの生活の要諦となったのであった。
 時には、怪しげな物を叔母から食わされた記憶がある。鳥の肉のようだったが、小振りで、鳥にしては形がおかしい。今考えると、どうも鼠だったような気がするが、定かではない。でも、それは大変旨かった。叔母は、
「鳩だよ!」
と言ったが、今も未解決の疑問の一つとして、私の頭に引っかかっているのである。
 小学校は、小神尋常小学校といって、村の高台にあった。だが、まことに小さな学校で、教室は一つきりなかった。先生が二人で、生徒は五〇人くらいだったが、それは、とても「尋常」とは言えない、異常な学校だった。一年生の初めに五、六人いた女の子が、二年生になったときには、半分になってしまったのである。秋の終わりの頃、村に人買いが来る話が聞かれた。貧乏小作人は、米の不作で困窮し、家計のため、女の子は幼くして売られていくのだった。子供だった私にはそんな深刻な事情は分からず、級友が減って却って友達と近くなったような気がして無邪気に喜んでいたのだった。    
 兄は、年末になると家に帰ってきた。子供達は何かお土産はあるかと、期待して待つのだが、兄が仕事に成功したことはなく、何時も失敗ばかりで、年末の帰宅にも、何の土産もないのが殆どであった。     
 子供の足で、山を一つ越えた川俣線の小駅まで「お迎え」に行ったのに、お土産は「さが」一匹だつたという記憶がある。「さが」とは小さな鮫のことであるが、その土産は一キロもない僅かな量で、一家の一夜のおかずにはとても足りないのだった。そして、我が家に増えるものと言えば、兄の子供ばかりであった。                
 母達は、出稼ぎの合間には、近くの大農家の手伝いに行って賃仕事に励んだ。それは、村の高台にある豪壮な構えの屋敷であり、斉藤家と言ったと思う。村人はそこを「清水が柵」と呼んでいた。多分、大昔はそこがこの部落の城主の城であり、「柵」とは「砦」のことなのであろう。 その頃のことで、私の記憶にとりわけ残っているのは「清水が柵」の葬式である。斉藤家の誰が死んだのか覚えていないが、私達子供にとっての第一番の目当ては、お葬列に赤飯の「ほどこし」があることだった。大きなお鉢を肩に掛けた二人の大人が、子供達に一握り宛ての赤飯を配ってくれる。子供達は並んで大勢わっと押し掛ける。私達はこのときとばかり、一度貰うと急いで家に帰り、叔母ちゃんに渡して、又出かけては並ぶのだ。                          
「もう、三度目だぞ」                      
と私が言うと、叔母ちゃんも、                  
「がんばれ!」                         
と声を掛けるという具合で、その日、家ではご飯を炊かず、皆で葬式ご飯を頂くという訳なのだ。                    
 小神村での貧乏暮らしは、本当に最低の生活で、今思えば、よくもまあ生きていたものだと思われるのである。             
 着物は着た切り雀である。足にはすり切れ草履だ。雨が降れば草履は懐に入れて裸足となった。
 そして、年中腹すかしである。山に入れば、まず食える木の実を手当たり次第に食う。魚ももっぱら食うために捕るのだ。家の中は畳もなく、ござ一枚敷かれているだけであり、寝具も、綿の入ったものはなく「藁布団」だけだった。藁布団は子供の肌にはまことに困ったもので、ちかちかして眠れないこともあったが、それでも馴れるとだんだん平気になった。便所は、別棟というと聞こえがいいが、離れた木の下の、屋根のない小屋であり、扉はなく「むしろ」が一枚垂れているばかりだった。紙は勿論なく、小箱に木の葉が集められていた。

 この村に電灯が初めて点いたのは、私の小学二年の頃だった。それまでは石油ランプだったのである。毎日ランプのホヤ掃除をすることが子供達の仕事だったが、幼い子供にはそれはなかなか難しいことであった。ちょっと力を入れ過ぎるとホヤがすぐ割れてしまう。割れると修理はきかないから、買いに行かねばならない。この村でそれを売っているのは、ずっと遠く、二キロばかり離れた小学校の下の雑貨屋きりなかったのだ。私も、夕暮れの寂しい道をそこまで買いに行ったのを覚えている。                              
 初めて電灯が点いたときは、燦燦とともって消えることのないその灯りがなんとも珍しくて、終いには目がくらんでしまうほど何時までも見入っていたものだ。笠もない裸電球だったが、その夜は、夜中も点けて寝たから、ボロ屋は他人が見れば赤裸にされたように不様なことだったろうが、私達は家が明るくなったことに、只はしゃいでいたのだった。
 電灯工事に伴って、田圃の中の木の電柱の下に落ちている工事用の結束線の一〇センチ程の切れ端が、子供達にとっての大変な宝物となった。毎日電柱下の田圃に子供達の裸足の足跡が無数に付いているようになった。子供達は電線の切れ端を拾ってはそれを大事に持ち歩いて、お互いに自慢し合うのだった。                     
 秋、大風が吹いた日は急いで裏山に登った。栗の実拾いである。  
 母は、その頃、米沢に出稼ぎに行っていた。上の まよ姉も母と一緒に行っていたようだった。母は、米沢にもう数年来行っていて、その地にも大分馴れてきていたようだった。兄が、また仕事に失敗して、ついに米沢に行って母と一緒に働くと言い出して、行ったのだが、それは長続きしなかった。またすぐ止めてふらふらしていた。         
 その頃かもっと前だったか、母が丁度清水が柵に働いていたときのことが思い出される。兄があるとき、酒に酔って大暴れしたのだ。そして、母のことを大変怒って、あろうことか「殺してやる!」と言って追い回し、母は最後には清水が柵の蚕室に隠れて難を逃れなければならなかった。私は、そのとき程兄を憎いと思ったことはない。それ以後、私はこの兄を兄とは思わないこととなった。父が同じだと言うことが不思議な程であった。他の異母姉の二人などはまことに良い人達で、私自身親しんでいたのだが、兄だけ別だと思ったのは、やはり、母に対する兄の態度に起因することは間違いないことなのである。          
 私が小学校一年生の時の大正十二年九月一日に、あの関東大震災があった。私には余りはっきり記憶がないが、夕方頃になって噂が流れてきて、東京が大変だという騒ぎが始まった。その夜、南東の空が気味悪い程ほの明るく曇っていたような気がする。その頃、この辺の人達の中には、家族の誰かとか親類の者とかが東京にいる人がかなりあって、誰もが大変心配したものだ。私の家でも きの姉が東京にいるはずだった。そして数日後に、一応死んだ人はなく、皆無事であることを知ることができて、一安心したのだった。                
 私の家では、兄の仕事が次から次と変化して、色々目まぐるしく大変だった。一時、下駄の「鼻緒」の仕事で、家の中に大量のその手の荷が積まれたことがあった。そして、叔母も兄も、来る日も来る日も下駄の鼻緒付けに明け暮れたのであった。また、あるときは、「マッチ」の徳用大箱の卸の仕事に手を出して、貨車一台火事で焼いてしまうと同時に、家中役立たずのマッチ棒が山積みされることとなった。やむなく、それを炊事の薪用に隣近所の家に配り、我が家でも、半年位は炊事にそのマッチ棒を使い続けたのだった。勿論、それによって大損して、我が家は皮肉にも、灯りをともすマッチのために毎日暗い日々が続いたのだった。
 私は、その頃、母に会えるのは一年に一度位であった。父もなく、母にも会えない毎日は、未だ幼い子供にとって淋しい悲しい日々だった筈だが、私は友達も多く、遊ぶのに夢中で、元気一杯だった。
 小学校には良い先生がいて、学校生活は楽しいものだった。教室二つの学校は、先生が二人きりで、一人の先生が一緒に三学年位の子供を教えるのだが、別に皆不満なく面白く授業を受けていた。あの先生達の技能は大変なものだったと今も感心している。そして、私が四年生になる前の三月末、私達は小神村から川俣町に移転することになった。   


 川俣町の生活                        
 住み慣れた小神村を後にして、川俣町に引っ越したとき、私は初めて転居の寂しさを味わったものだった。遊び慣れた友達との別離という子供にとってつらい気持ちと、新しい友達との付き合いが始まるという不安とは、大変なものだった。
 川俣の学校では、学友から「田舎っぺえが来た」と言われ、皆の軽蔑の目を浴びて、私には何とも悲しいことであったが、その気持ちは誰にも言えず、自分一人の胸の内に留めたのだった。私は、そのとき「なあに この奴らに負けるものか、今に見ていろ!きっと目にもの見せてやる!」と心の中で叫んでいた。    
 川俣の我が家の生業は、機屋だった。兄が自分では何をやっても駄目なのを覚って、母や姉たちを最大限利用する作戦に出たのだった。川俣町瓦町の路地裏の小さい家に織機を六台ばかり据え付けて、毎日ばたばたという織機の音で人の話も聞こえぬ程の騒音の中の生活となったから、子供達に良いものではなかった。私は四年生になったので、勉強に力が入ってきて、暇を見ては勉強したが、兄の子供達が邪魔して思うようにできなかった。勉強机はなく蜜柑箱がその代用だった。叔母は私に赤ん坊と四歳位の男の子の子守を言いつけて、勉強の暇を与えてくれず、母と姉は、一人で二台以上の織機の運転にかかりきりで、ちょっとの暇もなかった。                           
 小学校は、小神村とは段違いの大きさで、一学年三クラス、二階建ての豪壮なものだった。一学年ィ、ロ、ハの三組の内、ィ組は男子生徒、ロ組は女子生徒、ハ組は男女共学となっており、私はハ組に編入された。先生は女性で、久保シゲ先生だった。久保先生は、私の異母姉きの とは同級だったとか聞いたことがある。もっとも、この姉は学校は途中でやめて東京に行ってしまったので、先生に姉の話は禁句だった。
 昭和十二年に、徴兵検査で川俣に帰ったとき、この久保先生と共にその当時のクラス会が催され、私は先生に川俣時代の懐かしい話をして本当に嬉しかった。                           
 川俣での私の生活は決して暗いものではなかった。毎日が楽しかった。学校も楽しかった。私の学業成績もクラス中五、六位のところにあったから、皆の目を引いたようだった。四年生の時の年末に、学校中の算盤競技会があり、そこで私が二位を取ったときは、我ながら吃驚したものだった。家の隣家はやはり機屋で、そこの長男が私の同学年のィ組の長沼敏夫君だった。彼とは大の仲良しで、よく遊んだものだが、彼の家は、私の家とは比べようもない上流であり、堂々たる家構えだった。だが、彼は、そんなことに関係なく私に良くしてくれ、二人は心底親しい友達だった。                            
 昭和五十年頃、川俣方面に旅行したとき、懐かしさに電話帳で探して、彼の家に電話してみたことがあった。ところが、彼の姉が電話に出て、彼が中支戦線で戦死したと聞き、がっかりしてお悔やみを言っただけで終わったのだった。彼とは魚採り、山遊び等楽しい思い出が一杯だった。あの戦争は、本当に悪いことばかりだった。私の苦闘の戦争の間にも、こうした懐かしい人々が悲しい憂き目を見ていたのだ。戦争こそが諸悪の根源だと思われてならない。                  
 私は、学校にはいつも早朝に行っていた。そして、共学のハ組で、女生徒が早く来て朝の掃除をする際は、それを一心に手伝ったのだった。
 それは、私としてはごく自然にそうしていたのだが、私の「貧乏人の気働き」のせいかもしれないし、それとも、ただの馬鹿真面目だったということなのかも知れない。そんな手伝いをして、彼女達から新しい鉛筆を貰ったときなどは、何より嬉しく思ったのだった。
 川俣の学校の帰りに、私達男の子は厳松山というお寺の山を回って帰るのが日課になっていた。春の季節には、その山の笹藪に入って筍を採るのが楽しみだった。大勢の子供達が入るので、それはなかなか見つからなかった。それを必死に探し当て、家に帰って叔母に差し出すときは、我ながら意気揚々たるものだった。
 家業の機屋は、子供達には分からなかったが、余り業績が良くないようだった。大企業と違い、零細企業では、仕入れ、販売とも不利なことばかりだったのだろう。そのため、相変わらず家の中には暗い空気が漂っていた。                           
 母は「働くのは私らだけじゃないか!このままでは大事な息子が勉強に打ち込めない。」と思い始めていたようだった。家中に険悪な口論が絶えなくなった。そして、昭和二年八月七日の深夜、川俣最後の夜となったこの夜、母と兄たちの談判は最悪の決裂を迎えた。       
「おらは出る!」                        
母の最後の言葉が決然と叫ばれた。                
 私は、寝ているところを起こされて、すぐには判断が付かなかったが、それまで母や兄たちのは話し合いが続いていたのは知っていた。姉に急いで仕度するように言われて、納得して学用品を揃え、身仕度は忽ちできあがった。母達も大した荷物はなく、風呂敷包み一つだけの軽装だった。もう、夜の十二時過ぎ頃だった。狭い路地を通って街道に出たら、家々の軒端に七夕の竹が静かに立っていた。            
 それは、丁度お辞儀をしているような淋しい格好で、人は誰もいないのに、私達親子を見送ってくれているような感があった。我が家では七夕を飾るゆとりもなく、その日が七夕だったとは気が付かなかったのだ。
 これからどこへ行くのか、私には皆目分からなかった。ただ母について夜道を無心に歩くだけだった。 気が付くと、私達はいつの間にか小神村の方に進んでいたのだった。小神村には母の姉のおまさ伯母達が住んでいた。それは、私達が以前住んでいた彌五郎内の家なのだが、その家は大きな農家の、古い藁葺きの一棟で、二軒に割って人が住んでいた。私達は以前西側にいたので、おまさ伯母達が東側だったのか、それとも私達の住んでいた後に伯母達が西側に来たのか、今となっては判然としない。伯母の家に転がり込んで私達は短い夜を過ごしたのだった。
 翌朝、母とまよ姉は相談して行き先を決めたようだった。私と かよ姉は未だ子供だったので、その決定に従うだけだった。            
 そのとき、母は四六歳、まよ姉が二一歳、かよ姉が一三歳であり、私は一一歳で、小学校五年生の夏休みだった。かよ姉は、前年の春に小学校を卒業していた。今にして思うと、母にとってはただ一人の男子である私の教育のことを考えて、ぎりぎりの決断の時期だったのだと思われ、まるで計画して仕組んだ作戦だったと感じられる程で、今更ながら母の偉さに敬服するのである。                    
 母とまよ姉は、米沢の機屋に機子として数年間行っていたのだが、働き場所として、第一に米沢を選んだことは間違っていなかった。まよ姉が三日程後に帰ってきて、私達の行き先は決まったのだった。そして、米沢へ向かって我が家は移動して行った。

      母とならば 吾は嬉しき いずべとて
         恐ることなし 温(ぬく)き手のあれば             

 米沢での生活の初め                     
 米沢で着いた所は、鷹匠町の米野商店だった。母とまよ姉はこの近くの機屋に来ていたときに、米野の店の人達と昵懇になったらしい。幅広く商売していて、何でもあり、ない物がないようだった。酒類、米、食品、雑貨と、本当の「何でも屋」だった。太った中年の女将さんは、気さくな親切者で、この人にお客は引き寄せられて大繁盛だった。私達は、この家に数日泊めて頂いたのだった。母達が働いていた機屋は移転して、今は近くに無かったらしい。それで、母達は方々働き口を探し回っていた。私は、米野の息子友二君が私と同年だったから、すぐ友達になれて、一緒に遊び回っていた。彼は、親切で、言葉の違う私を本当に良く面倒見てくれた。そのお陰で、私は福島の田舎とは全然違った異郷に来ても、余り不安を感じず、この前 川俣に移ったときよりも遙かに気分が軽かった。
 数日後には母達の働き口が決まった。それは、ここから三キロばかり離れた御小者町の熊倉という機屋だった。ここは、最近拡張して工場を増築し、宿舎も新しく建てて、織子を募集していたらしい。    
 私達は、早速ここに移転して、宿舎の二階に住まうようになった。熊倉の親父さんは、町の有力者でカイゼル髭をピンと生やした赤ら顔の温顔に何時も微笑を浮かべている人だった。母と姉二人は早速新しい織機で機音もさわやかに働き始めたのだった。若い織子が三人ばかりいて、私のことを珍しがって可愛がってくれた。             
 この家の若大将は、「武んちゃ」と呼ばれて米沢工業出の二七、八の背の高い元気の良い人で、若い嫁さんはまだ新婚ほやほやの感じだった。他に、次男の病身で神経質の人がおり、お手伝いの女中二人位が「勝手の人」だった。木の香も新しい宿舎は、畑の真ん中で、私は米野友二君とも離れ、しばらくは寂しい思いをしたのだった。         
 学校の方は、熊倉の旦那が手続きしてくれて、西部小学校に行くことになり、そして第一番に嬉しかったことは米野君と同じ組になったことだった。この学校は、川俣の学校の三倍位もあり、二階建ての立派な建物で、上杉家の墓所である御廟の森のすぐ西にあった。       
 この学校で第一に驚いたことは、男女別棟だったことだ。建物の中央が正門で、そこから中央廊下がまっすぐに延び、その廊下の左が女生徒棟、右が男生徒棟だった。雨天体操場も、庭も、全部別で、男生徒と女生徒は一日中、いや一年中 一緒になることはないのだ。一年に一回の卒業式だけは例外だったようだが、それも私には、一緒だったかはっきり記憶にない。要するに、男女別学、「男女六歳にして席を同じうせず」が厳格に実行されていたのには、さすが米沢藩と感心させられる。
 学級は、私らが一組と二組だから、女生徒も同じらしいので、一学年四組となる訳だった。私は、五年二組となり、担任は藤田精逸先生という小太り 中背の人だった。隣の一組の先生もやはり藤田先生だったが、この先生は小柄で、チャップリン髭の気障な先生だった。隣の組とは余り遊ぶことはなかったが、県工(県立工業)に行き建機組で同級となった人がいたので、その人達とは つい 小学校も同級の感じで以後付き合っていた。つい数年前の西部小のクラス会で、この隣組の水野三郎君が、この藤田先生にはその後三十年も経ってから、ひどい目にあったとこぼしていた。酒癖の悪い人で、彼の家に立ち寄っては金品をねだるなどしたそうで、「ひどい人だ」と彼は言っていた。私の組の藤田先生は立派な人だし、親切で子供に好かれていた。異国人のような私も可愛がってくれて、良くかばって頂いたことに感謝している            
 我が家は、熊倉の宿舎に一か月ばかりいて、借家を見つけて引っ越した。そこは、館山口町の表通りの川に面した長屋だった。隣家が桶屋で、年中隣からとんとんと桶のたがを叩く音が聞こえていた。ここに半年程いて、再度引っ越して、今度こそ初めて一軒家の家に入ることができたのだった。                           
 それは、やはり同じ館山口の、ずっと西の方で、熊倉の工場にも近いし、小学校にもすこし近付いたことになった。それは私達には今までの最高の家だったが、普通の家から見れば、本当の「バラック」だった。トタン葺きの平家で、六畳と三畳の二間しかない建坪八坪位の家だった。外羽目は三分板の樫板一枚で、冬の寒い朝は、内側に霜が白く付いていた。それでも、初めて住んだ一軒家の生活は、私には初めて人間らしい我が家と思われて楽しい気分だった。             
 そして、道の前の大きな家の隣の荻秀冬君と友達になった。彼の家は機屋さんで、工場には織機が十台位あって、兄と二人の男兄弟だった。兄が私と同年で、彼は私より一つ年下だったが、私より背は高く温和な性格で、私と気が合い、すぐ友達になった。彼の兄はとても活発で、それは乱暴に近かったし、私とは全然遊び方が違っていて、私はこの兄貴とは遊んだことがなかった。私は、学校から帰ると、すぐに荻君の家に行って遊び、殆ど終日彼と一緒だった。私の米沢の生活はこの荻君との交友がすべてのようなものだった。彼と私は、性格、趣味、考え方か似ていて、何をして遊ぶにも一緒だった。魚採りから植木いじり、小鳥飼い、雪遊び、水遊び、茸採り、薪拾いと、次から次へと、季節によって遊びは絶えることなく続いて、楽しいものだった。間もなく私ら二人に、もう一人、荻君と同年の湯野川君も加わるようになって、三人は何をするにも何時でも一緒に動いていた。色々楽しいこと、失敗したことなど、思い出すだけで今でも心躍る程である。秋の茸採りに、成島山の山奥に迷い込み、熊を見て必死に逃げ帰ったこともあった。また、米坂線の鉄橋の上で列車が来て、逃げ場を失い、橋下の鉄骨の中に滑り込んだときのように、思い出すだに脂汗が流れるような場面もあったのである。 
 冬の早朝の四時頃に、小鳥を採りに愛宕山に登ったことがあった。三人めいめいに、自分の飼っている良く鳴く「ひわ」を二篭位ずつ携え、鳥もちその他の用具を持って登るのだ。その小山の頂上に「高ばい」を架け、鳥もちは漆の枝先に付けて、これを二本長く篭の上に立てると、谷下の未だ薄暗い森からひわの一群が鳴き始め、おとりの鳥の鳴き声につられて「高ばい」の上に飛んで来る。三人が緊張の一瞬、息を殺して待つ間、我々のおとりが頃合い良しと最後の「下ろし」鳴きをかけると、群鳥は一気に「高ばい」に突っ込んで来るのである。こうして、私達の収穫となるのだが、殆どが黒い雌鳥であり、雌ばかりのときは失望させられるのだった。黄色い雄鳥は色も声も価値があり、飼う楽しみがあるのだが、雌は飼っても鳴かないので、焼き鳥の材料だった。    
 この荻秀冬君がそれから五十年後のある日、突然世田谷の我が家を訪ねてきたときは、夢を見ているようで、大変驚いたのだった。彼とは、昭和十五年頃まで文通していたのだが、その後、戦時中音信が途絶えていた所、昭和五八、九年に西部小学校で同窓会の名簿が作られ、その中に彼が私の住所を見つけて、矢も楯もたまらず来てしまったのだと、彼は言っていた。五十年ぶりの彼は、昔のままの面差しで、米沢弁丸出しの言葉も何とも懐かしく、私は涙の出る程感激したのだった。    
 彼の話では、湯野川君は、中支戦線で戦死したとのことであった。荻君の兄も戦死して、彼の両親も今は亡く、彼は数年前に機屋をやめて、今は奥さんと二人の生活とのことだった。彼は、若いときに病身となり、子供はないとのことだった。一年後に、私は家内と二人で米沢を訪れ、彼の家で一夜を明かし、積もる話に花を咲かせたのだった。彼とは、その後も、奥様共々親しい交際が続いている。私にとっては彼こそ本当の友と思われ、良い友を与えて下さった神様に感謝している次第である。

 こうして振り返ると、現在の私の生活のルーツは、やはり米沢にあったのだと合点が行くのである。荻君との遊びで、百人一首を初めて知り、和歌の心を味わえるようになって、それが私を現在の「短歌あけび」の会員たらしめたもとだったし、又、現在椋鳥と四十雀の巣箱で楽しい年を重ねているのも、米沢での前述のような遊びに遡ることができると思われるのだ。                          
 米沢の西部小学校の生活も、私の性格形成に大きな要因となったと思われる。西部小へは五年の夏休み明けの二学期から通学が始まった。大きな学校に来て、目を見張った私は、「これはすごい学校だ! でも、負けはしないぞ! こういう立派な学校でこそ、全力で勉強するぞ!」と心中大いに張り切っていた。                  
 だが、はたから見たら、それは、まるで漫画だったかも知れない。私は、学年中最小のちびで、一年生が迷い込んだのではと思われかねない程であったのだ。だから、忽ち私のあだ名が決まってしまった。「ちゃぼ」だった。そして、それは小学校から工業学校に行っても変わることはなかった。私の米沢での学校生活は「ちゃぼ」一本で貫かれた。
 だが、この「ちゃぼ」、唯のちゃぼでなかった。勉強にかけては「しゃも」にも負けない意気込みだった。その結果か、米沢転居の年の十一月には「副級長を命ず」の学校長名の証書を頂いたのだった。    
 また、こんな記憶がある。冬の寒い日のことだった。その日、私は下校時に学校から十通ばかりの父兄宛の通信を託されたのだ。雪国の冬は、想像もしなかった初めての経験で、私の小さい身体は吹雪に吹き飛ばされそうに思われた。一旦帰宅した後、吹雪の中を駆け回って配り歩き、いよいよ最後の一通となった。ところが、この最後の家がどうしても見つからないのだ。転居したのか、それとも宛先の書き違いか、冬の日は暮れかかってきた。だが、どうしても見つからない。私は一心に考えた。
「これは駄目だ。だが、もしこれが届かないために大事な学校の事務に支障が出れば大変だ。これは今日中に学校に届けて、対応して貰うべきだ。そうだ、今からこれを学校に持って行こう!」        
 私は、そう決心すると、一路 西部小への約四キロの道を急いでいた。だが、風速十メートル以上の強風で、粉雪が横殴りに吹き付け、私の小さい身体はなかなか前に進まなかった。              
「負けてたまるか! こういうときこそ男の頑張りだ! 急げ!」私は、自らを鞭打つ気持ちで必死の思いで道を急いだ。学校に着いたときは、教員室には電灯が点いていた。こうして、やっとの思いで先生に封筒を届け、報告して、ほっとしてまた急ぎ帰途についたのだった。
 このことは学校の教員室の話題になったらしい。翌朝、校長先生から、朝礼時に、全生徒に私の前日のことが美談として発表されたのだった。            
 そんなことがあった後、六年生の初めに 私は「校旗 旗手を命ず」の発令を受けた。最小の‘ちゃぼ‘の私が「旗手」とは、それは本当の漫画だったが、命を懸けて学校を守るという旗手の気概だけは誰にも負けない私であった。                         
 中支戦線、大東亜戦と経巡って、その間常に私の心を占めていた「責任」の観念は、この頃から私の心中に根を張ったものと思われる。
 しかし、しがない流れ者の 織り子の子 である私が、このように学校で大事にされたのは、私を蔭で支えてくれた大きな力があったからでもあった。それは、母の働いている熊倉工場の社長、熊倉要助氏の御力だった。熊倉家は、米沢藩以来の氏族であり、氏はその当時、市会議員だった。私の古い通信簿を見ると、保護者の欄に大きい「熊倉」の印が押してある。それは、当時の米沢での熊倉家の勢威に鑑みれば、私の学校生活には大いに役立っていたことは間違いなく、これを思うとき、今更ながら熊倉さんの御恩を深く感じるのである。

 私の家には、近所の子供達がいつも大勢集まって一緒に遊んでいた。私の家はいつも子供の遊び場だった。子供の親たちは、私の所であれば「勉強を教えてもらえる」と思ったのだろうか、いずれにしても、親達公認の遊び場というような観を呈していた。でも、私は彼らに勉強を教えたことは一度もなかった。だが、私自身、私の所に来ている子供は皆良い子になるような気がして、彼らと一緒によく遊んだものだった。

 母達の工場での労働も楽なものではなかった。二歳上のかよ姉もその頃は一丁前の織り子として毎日母達と一緒に工場に通っていた。私は母を助けるべく、できるだけ働いた。その頃、私の家では炊事の水は遠くから担いで運んでいた。館山口辺は水が不便で、井戸水もよほど金をかけないと良い水は出ないらしかった。私達貧乏人は仕方なく、家から四百メートルばかり離れた共同井戸から水を運ぶ他なかった。バケツ二つを天秤棒で前後に担いで運ぶのだが、小さい子供の私に、それはかなりの大仕事だった。が、私は練習を重ねて、調子よい腰つきでちゃんと担げるようになった。また、薪は時々山に行って集めてきていたから、殆ど買わずに済む程だった。動物蛋白は、釣りや掻い掘り、「えん掴み」等で獲物を取って、串で焼いておかずにするのだった。茸採りも私には遊びではなく、収穫は全部ゆであげて塩漬けにして、冬の食物にするのだ。私は母の苦労を思うと贅沢はできないと常に心掛けていた。
 米沢は、その点、上杉鷹山公の時代から質素倹約の精神が徹底していたので、貧乏人には暮らしやすい町だったかも知れない。食物は決して無駄にはしなかった。米沢は林檎が名産だったが、未だ青い小さい内に剪定して、余分な果実を落とすのだ。それが、「すぐり林檎」といって安く大量に町に出されると、我々貧乏人はそれを買って漬け物にするのだ。それが子供達の弁当のおかずになるのだった。名物桜桃も雨にあって果に割れの入ったものは、漬け物、おかずに と利用される。

 私は魚採りの中で、鯰の「えん掴み」が得意だった。それは、貧乏人にはもってこいの取り方だった。何の道具も要らず、唯二本の腕だけで足りるのだ。鯰のいそうな川岸の石垣の隙間に手を差し込むだけなのだが、それには、鯰の性質を知った上でのちょっとしたコツを必要とするのだった。鯰の背はまことに敏感で、もし人の手が背に触れたら、鯰は瞬時に逃げ去ってしまう。ところが、腹は というと、これが全くの鈍感で、手が触れても動じないのである。それもその筈、彼らの腹の感が良かったら、いつも川底を這っている彼らは、くすぐったくて、ついには笑い死にしかねないだろう。そこが、私の付け目なのだ。だから、手の指を上向きにして、石の隙間に差し込んで、鯰の腹を探り、その頭の位置を確かめたうえ、一気に掴みかかり、親指を彼の口に差し込んで、他の指と一緒にがっちり締めるのだ。すぐに、腰に回した針金に獲物を通して、一丁上がりである。私の腰には鯰がずらりと、まるで土人のふんどしのように見えるほど、列んで下げられ、私は、仲間に得意の大見得を切るのだった。私の家には、こうして私が捕った鯉や鮒、鯰等の串がいつもたくさん列んでいたのである。           


 米沢の言葉
 米沢に行って第一番に困ったのは言葉の問題だった。福島の言葉とはまるで異なり、まるで異国にいるようで、初めは本当に困った。その際に助けてくれたのが、前述の米野友二君だった。山形県と福島県は、同じ東北でも全く違った方言なのだ。「ありがとう」が「おしょうし」、「きたない」が「うだて」、「こんにちは」が「はつあい」、「さようなら」が「いまんづ」といった具合である。この「いまんづ」には一番困った。学校の友達との別れにこれが連発される。何のことか全然理解できない。友ちゃんの話で漸く分かったのは、それが別れの挨拶であるということだった。「それでは今は唯別れるばかりなり」の意味なのかとも思われる。
 また、ずっと後の、米沢工業学校での話だが、私は東京から赴任されたばかりの若い先生に、方言による誤解から大変怒られたことがあった。それは、製図室で先生に何か工作を頼まれ、その作業をしていて、紙を貼るのに糊が必要になり、私が教員室に借りに行ったときのことだ。私が                              
「先生、糊あっかし。」                     
と言ったのだ。ところが、先生は、この言葉に大変機嫌を損じ、   
「お前は先生に対して何という失礼な言葉を使うのだ。お前がそんな男とは思わなかった。」                       
と言われ、私は、何がなんだかちんぷんかんぷん、唯呆気にとられて黙るしかなかった。後で、よくよく考えてみると、先生は米沢弁を知らなかったのだ。米沢では、依頼する言葉の下に「し」を付けるのは、まことに丁寧な言葉遣いであり、目上の人に対する礼儀正しい言葉なのだ。先生には、この「し」の意味が通じなかったから、私の言葉を「糊あっか!」と同じに聞いた訳なのだ。それではまことに乱暴な言葉になる訳で、それなら怒るのも尤もだと私は納得したのだった。私の言葉もなかなか本当の米沢弁にはなりきれなかったが、やがて福島訛りの入った米沢弁で何とか間に合うようになっていた。             

 小学校から県工へ                      
 米沢に移って三年目、私は、小学校の卒業と、そして進学という時期を迎えていた。私の学校の成績は、上位の、しかも優秀の域にあったが、我が家の家計は食べるだけで精一杯で、とても私の進学を許す状況にはなかったから、進学については、私は初めから諦めていた。だが、ここで、あの熊倉社長が何としても進学しろと助言してくれたのだった。それで、母もまよ姉も、ついには「何とかなるわい」ということになり、私は山形県立米沢工業の建築科に願書を出すことになったのだった。
 当時、米沢には県立工業、県立商業、県立中学の三校があり、県工の建築科は、一学年二十五名の最難関とされていた。尋常小学校から直に入る者は少なく、大部分が 更に二年修学した高等小学校卒であり、その年の倍率は八倍以上だった。私は試験を無事通って入学を許された。中学校は制服、制帽、革靴と、入学には金がかかるので、私は母に何とも申し訳なく、心苦しかった。靴は中古だったが、足に合うものがあって立派な県工生ができあがった。                           
 館山口の我が家から県工までは、約三キロ半位の道のりを徒歩で通った。しかし、もっと遠い館山の方から五キロも歩く通学生がいたから、私は楽な方だった。一学年は、染織科五十名、建築機械科五十名の計百名だった。建築組は二年までが教養課程で、この間は建築・機械は一緒の授業だった。                          
 校舎の左側が機械科、右側が建築科であり、建築科二十五名中、西部小出身者は五名だった。同級生は四人で、二年位上には川上君という背が六尺近い頑強な男がいた。彼に比べると私などはまるで幼児のようだった。私は相変わらず組中の最短小で、あだ名は小学校のときのままの「ちゃぼ」であった。しかし、それは県工では大きな声で呼べないというハンディの付いたあだ名であった。というのは、この学校では古くからの先生で、同じあだ名の偉い先生がおられたのである。それは今井先生という英語の先生で、背は小さいが、立派な方であり、学校中で校長に次ぐ尊敬の対象となっていた。だから、「ちゃぼ」はこの学校に来て格が上がったような感があり、私はちょっと気分が良かったのである。この今井先生はなかなか厳しく、又、礼儀正しい先生で、和歌にも精通されていた。私は卒業後に先生の歌集を頂戴したことがあるが、今はもう故人となられている。                      
 同級生は殆ど年上で、彼らは私などはずっと目下の子供と思っていたかも知れない。だが、こと勉強にかけては、私は決して負けていなかったから、最初の一学期の終わりの通信簿で、私がクラスの三位の成績であったことには彼らも驚いたようだった。彼らの私を見る目、対する態度が一遍に変わった。私も、二歳年上の大きな体格の級友を抜いてそのような成績を得られたことが夢のようであった。そして、「人生、これなら何とかなる」と自信を付けたのもこの頃であった。         

 しかし、我が家の生活は決して良くはならなかった。まよ姉は焦りだしていた。母に比べて心配性のこの姉は、先々のことを考えて、気を揉み始めていた。母は余り物に動じない忍耐強いところがあり、脇目を振ることのない人だった。                        
 私が二年生になったとき、まよ姉はついに米沢を離れ、東京に出て行った。                              
「このままでは、お前の学費も出せなくなる。私が東京で稼いで学費を送るから。」                          
と言うのだった。だが、そうして上京した後、姉の東京での消息が分からなくなった。目黒の(母方)叔父一家も必死で探し回ってくれたが、皆目不明のままだった。私は、そのことが気掛かりで勉強にも力が入らない不安な日々が続いた。そして、三年生になろうという年の三月頃、突如、姉が東京で京染屋を開店したという知らせが届いたのだ。母も大いに喜び 安心して、一家の雰囲気は一度に明るくなったのだった。      
 ところが、姉の次の言葉が、私に破滅の淵を覗かせるような衝撃を与えた。                             
「米沢などの田舎の学校を出ても、何にもならないよ。東京に来て、私の店の丁稚になりな。東京に出れば、他に学問の道もあるから。」  
姉の当初の 私の為の学資も稼ぐという目的は、姉の商売の意欲の前にしぼんでしまっていたのだ。母は、この言葉に、非常に悲しんだ。  
「折角、その気になって勉強し、良い成績も取っているのに方針を変えて良いことはない。」                    
 は、思い余って熊倉の社長に相談したらしい。熊倉社長は、母の話に、
「お前の言う通りだ。勉にここでの勉強を退かせるのは惜しい。私に考えがある。しばらく待て。」  
と仰ったという。そうして、社長が私のために思案してくれ、校長と談判して、私を授業料免除の特待生として通学させてくれることに決したのだった。私の家の家計を見て、市会議員の本分を精一杯奮ってくれた社長の温情に私は救われたのである。こうして、私は無事三年生に進級することができたのである。               
 それからは、毎日が充実したものとなった。学業もどんどん向上して席順ば大体いつも二番に付けていた。一番は二つ年上の本間清造君だった。彼は必死に勉強して、私に首席を奪われまいと努力していたが、その頑張りの姿は哀れな程にも感じられた。その頃、級友の八割は煙草を吸っていた。私は、校則に違反することなどできる筈もなく、決して煙草は手にしなかった。そのことは、私がその後成人しても変わらず、煙草のための出費もない訳だから、ニ度の従軍にも大いに我がためとなったのである。ことに、最後のソロモン戦では、喫煙者は命と煙草を交換して、どうせ死ぬなら煙草を吸って死にたいと、食事と煙草を交換し、それで絶命した者も多数あったから、煙草も吸えなかった貧乏をむしろ幸運であったと感謝している次第である。             
 前述の本間君は、その後東京の逓信省に就職して、立派な社会人になったのに、半年ばかりで病没してしまった。学校での必死の勉強でいつも青い顔をしていたが、多分あれで身体を壊して肺病でもかかったのかとも思うが、良い男は短命なのかと悲しく思われた。        
 私が「特待生」であることは、その当時決して公表できない秘密事項だった。「特待生」には少し恥の観念が伴っていたからだ。だから、クラス中誰一人それを知る者はなく、先生も固くその秘密を守ってくれた。授業料の封筒は、皆と一緒に渡されて、私が後でこっそり教員室に行って、空の封筒を先生にお返しするのである。            
 私は、そんなこともあって、先生には特別可愛がられたようだった。特に、建築科の笹島先生には本当にお世話になった。その頃、学校の教科書はなるべく新しく変えない方針が採られているようではあった。我々貧乏人は、一年先輩の古い教科書を譲って貰って間に合わせることにしていたから、私の本は大分古くて、先輩三代位の名前が書いてあった。私が毎年譲り受けるのは優秀な先輩からのもので、その本には色々と添え書きもしてあり、私には貴重この上ないものだった。だが、学問の教科書の余り古いのは、日進月歩の学問のために決して褒めたものではない。そのような必然的事情で教科書が変更になり、新しくなるときも幾度かあった。そのときは大変だ。それは私にとって目の玉が飛び出る程高価なものだったから、母にはとても言い出せず、しばらく私は胸の中で思案していた。そんなとき、笹島先生からそっと話があった。   
「小池君。君、新しい教科書買ったかい?」            
私は、小さい声で、
「いや、未だです」                       
先生は、また小さい声で、                    
「それなら、私がやろう。私には教師用に二冊来たから、君に一冊やろう。」                             
と言われるのだ。何とも有難いことだった。私には先生の顔が神様のように輝いて見えたのだった。                   
 その頃、私の学友の常連は、機械科の水野三郎君と、鈴木政雄君だった。二人とも西部小の一組で、二組だった私とは小学校では別だったが、県工では無二の親友となった。彼らはなかなかの悪で、良く悪戯をしたが、私はその点は彼らに馴染めず、大人しい方であった。国語担当の芳賀先生は、若くて快活な面白い先生だった。国語の時間になると生徒は勉強そっちのけで、先生の話に顔をほころばせていた。先生は、   
「今日は熊取の話をする。皆、教科書は机にしまえ。今日の話は吾妻山の熊取名人の話だ。」                      
と次から次へと面白い話が続き、教科書は一向に進まない。試験の前になると、先生は、教科書の数頁から、               
「何頁の何行と何頁のこの行」                  
と、皆に印を付けさせ、                     
「その内から問題を出すから、他の所は忘れてしまえ。」      
と言うのだ。だから、国語の試験は皆満点に近いので、先生の教員室での評判も良いことになる訳である。先生の家は木場町で、私の家からも近く、水野、鈴木と私の三人で、夜、幾度か遊びに伺ったことがあった。先生の若い綺麗な奥さんが御馳走を出して下さるうえ、話も面白かったので、三人は大喜びで夜の更けるまでお邪魔していた。それなのに、帰るときには、花壇の良い花を根こそぎ盗んでくるのだから、水野、鈴木は手に負えない悪童だった。それでも、次に遊びに行くと、先生は分かっていても一言もそのことに触れない。本当に良い先生だった。   
 同級の小林君の家は、西部でも大分北の方で、私の家からは一里以上離れていたが、彼の家では、私に彼の勉強の補修をして貰おうとの考えから、彼に私を一緒に帰らせて、勉強を見てくれと頼むのだった。それで、小林家では私に御馳走を積んで接待してくれるのだが、私は余り嬉しくもなかった。でも、彼は私が行くようになって学業が大分良くなり、親達は喜んでいたようだった。                  
 私はお人好しで、人に頼まれると何でも引き受けてしまう癖があった。あるとき、同級の中俣君の家が火事になって、彼の製図の宿題が消失したとのことで、私は頼まれて、徹夜で彼の製図を仕上げてやったことがあった。                            
 その頃、私の近くの染め物工場の息子で白田虎夫さんという人がいた。米工の三年上の先輩で、学校では柔道の選手だった。有段者である。この人はなかなかの快男児で、私にとっては尊敬する大先輩だった。彼はその近所では指導者タイプの人であり、学校の成績も良かったから、私はこの人を目標にすれば間違いないと思ったのだった。私はこの人から色々本を借りては読み耽り、大変役に立ったように思う。そのとき読んだ本が思い出されて懐かしいが、ゴーゴリー、ゴーリキー、チェーホフ、ツルゲーネフ等心に残る数々である。
 私がその後横須賀に就職し、荻君を通じてこの米沢の友人達の写真や文集等を入手するなどして、しばらくは交際が続いたのだったが、日支事変に従軍した後は、霧の彼方に消え去って、思い出すだに模糊としてしまう状況である。白田さんの描いた絵が思い出される。西郷隆盛、リンカーン、五重塔等の墨絵は、思い出してはその立派さが懐かしい。                
 私の隣家は、板垣さんという大工の棟梁だった。男の子が二人いて、私より四、五歳下だったが、毎日私の家に遊びに来ていた。その母親は、口やかましくはあったが、気のいい人で、私には愛想が良かった。県工五年の夏休みに、私はこの棟梁に頼んで大工の実習を約一か月させて貰った。それが、私には大変有益な実習となった。私は県工卒業後、横須賀海軍工廠に勤務することとなったから、図らずもこの時の大工の現場経験が、私の生きるための実習となり、その後の我が家の生計に連なることとなったのだった。そんな訳で一か月の実習は私にとって大変価値があったから、授業料を払わねばならないところを、手間賃まで貰ってしまい、何ともお礼の申しようもない有り難さだった。       
 卒業近くなると、級友は、それぞれ就職、進学と、今度こそ家庭の階級によって未来に対して準備し、互いに別れ、散る運命に直面しなければならなかった。進学者はクラスの中でわずか二人位だった。それは、大会社の社長の息子とか、山形辺からの汽車通学の請負師の息子とかで、私らとは毛並みの違った人種だった。その他は、大体就職組で、中には、二、三人家業に就く者もあった。私は、当然就職組なのだが、頭には自信があるといっても、体格は身長が一四〇センチと全く駄目だから、建築の現場監督はとても無理だし設計であっても、押し出しが貧弱では駄目だろうと思われた。それでも、学校は格別心配してくれ、最初大林組の受験に私と長谷部繁夫君とが向けられた。だが、入社試験では、長谷部君が合格し、私は不合格となってしまった。長谷部君は野球の選手で体格は良かったし、成績も三、四番だったのだ。先生は、次に私を名鉄(名古屋鉄道局)に回してくれた。汽車で名古屋に行き、既に就職が決定していた竹田二郎君の名古屋での先輩であるという巻坂設計事務所に仮泊させて頂き、試験場に向かった。名鉄には学校の先輩もいて私を親切に手引きしてくれての受験だったが、これもついに不合格となってしまった。
 とうとう、学校の建築課長鈴木富治先生、通称「キリン先生」も途方に暮れる窮地に立ってしまった。そして、先生がおっしゃるには、              
「横須賀の海軍工廠には、中俣、大原の二人が決まっているが、ここは何人でも採ると言っている。ここは建築でなく、造船だから、君をやるのは惜しい気がするが、もう、他には口がない。」
とのことだった。私は、これ以上先生にご迷惑をかけるのは申し訳なく、「結構です。私は何でもやります。自分が駄目だったんですから、文句はありません。喜んでいきます。」 これで決まりだった。私は早速母に報告し、母も承諾してくれて、私の就職は決まったのだった。                    

 横須賀海軍工廠時代                     
 横須賀には既に中俣、大原両君が決まっていたので、私は彼らの下宿の 汐入町中西方に一緒に下宿することになった。そこは、汐入町の山の上にある、こぢんまりした下宿屋で、老夫婦と小学生の娘一人の家族のところに、我々三人が六畳間に入れてもらい、他に海軍の水兵が一人別室に住まっていた。                      
 それは、昭和九年四月のことで、日本は、軍備拡張の最盛期であり、海軍工廠は、職工が渦を巻いているような、殺気立った恐ろしい騒音に包まれていた。
 私が入ったのは、横須賀海軍工廠 造船部 艤装工場、内業建具班、小川與一組だった。初めて見る造船所は、大変な数の各職が、細部にわたるまでその分担を網の目のように組み合わされていた。中俣、大原は、艤装の外方組で、建具が船室に取り付けられるときの、現場の型板を制作し、建具の完成時に取付作業をするのである。軍艦は、建物の建築と違って、全て曲線構造である上、建具の取付となればなかなかの難事業である。
 その方法は、我が海軍の多年の研究と経験によって完成された、まことに合理的で、強く且つ正確、そのうえ優美と、一点非の打ち所のない工法となっていたのだ。近代戦での激烈な戦闘にも耐える強度をも備える、まさに最高の技術の結集が、あの堂々たる軍艦の英姿なのである。  

 の最初の等級は 二等工員であった。その上に一等工員、組長、工手こうて (:技生)、技手ぎてとある訳で、技手になって初めて判任官となる。その上の「技師」は 高等官である。最下級の身の私から見れば、工手は既に神様、技手などは正に手の届かぬ神様の上の神様だった。私の組の組長 小川與一氏は、組員三十名ばかりを統括する長で、それは大変な権力だった。仕事は一切しない、毎日書類の整理と現場の見廻り、監督だった。彼は、私の仕事を見下ろしながら、こう怒鳴るのだ。     
「おい、小池!何をもたもたしているのだ。その仕事が今日できなければ、明日俺にお金を持ってこい。高い日給取りながら、仕事ができなければ、国賊だぞ!」                      
 建具の仕事は大工とはまた違った細かい技術が必要で、私の大工修業くらいではとても間に合うものではなかった。それでも、米沢での、板垣大工の所での一か月の修業はこのときに大いに役立った。私は、鉋、鑿を自分で研ぐこともできたし、指金さしがね使いも一応はできていたのだ。
 毎日の仕事は夢中で働くばかりだった。深夜まで残業が続き、最初は「これは私には無理ではないか。このままでは身体を駄目にするのではないか。」と心配したが、そんなとき私は米沢での辛苦を思い出し「こんなことで負けてたまるか!なんとしても頑張ってみせる。俺も男だ」と我が身に鞭打つのだった。                   
 昭和九年の暮れには、米沢の母とかよ姉を横須賀に呼んで一軒家で生活できるようになった。そして、姉を嫁にやることもできた。それは、私が下宿していた中西の親父さんが、私の生活ぶりを見て、   「小池さんの姉さんなら、間違いない。良い口があります。」    
と言って、中里町の磯村正雄さんを紹介してくれたことからだった。 

 私と一緒だった中俣、大原の二人は、私が世帯を持つと同時に中西方を出て、安浦の家に下宿替えをしてしまった。だが、彼らにとってそれは人生の分かれ道、大変な間違いのもととなったのだった。安浦の下宿のおばさんは、とても良い人で、しかも、私も訪問して一遍に好きになった優しい美人でもあった。年は三十四、五の女盛りだし、娘が二人いるが、夫はいないのだ。子供は、二人とも下宿人との子で、大学生との間の子という上の百合ちゃんは、美人で利発な良い娘だった。   
 そして、間もなく、大原とおばさんとが、切っても切れない仲になってしまった。そのうちにおばさんの腹が膨らんできた。やがて、そのことが米沢の親達にも知れて、彼は工廠を辞めることとなり、満州へと飛んだのだが、極寒の満州に倒れて、あえなく冥界の人となった。その後、中俣が大原の跡を継いだ形となり、彼も満州行きとなり、病気になって米沢に帰って、間もなく死んだとのことだった。級友二人が食われてしまったおばさんの家に、その後も私は時々訪問したが、私は何の間違いもなく、色々この家の相談に乗ったりし、米工出で一年後輩の稲葉一男君が下宿に残ったので、中俣達二人のいなくなった後も長い付合いになったのだった。上海から帰った後、中学校を卒業した長女の百合ちゃんを、海軍建築部の工廠現場に給仕として就職させたのも私だった。年経て、死んだ大原君の子が可愛い娘になってその顔立ちが彼によく似ているのが、私には何とも悲しかった。                

 工廠に入ってからの私は、我ながら、それまでより大分成長したように感じられた。思ったことは実行するという、実行型となり、身体も頑健になってきた。柔道部に入って終業後毎日稽古に励み、小身の身で、なかなか上達はしなかったが、今残っている書類に、二年続けて寒稽古の皆勤賞があるのを見ると、約三年間は頑張って続けたらしい。そのとき、組の同輩で九州の高鍋工業出の佐田君が、弓道の有段者であることから、彼と一緒に弓の稽古もさせて貰った。米沢の鷹山公が高鍋藩からの養子だったことがいつも私の脳裏にあったから、そんなこともあって、この佐田君は私の無二の親友となり、最後には彼を私の家に下宿させたこともあった。その頃、外建、内建の若者で組織されていた青年会にも、いつも元気に参加し、一度その宴会で酒を飲んだとき、私が大熱弁を振るったこと等もあって、それから皆が私に注目するようになったようだ。青年会の旅行にも率先して参加した。富士登山に行って、初めての富士登山で些か参ったことを口惜しく思って、翌年、中俣、大原と三人で再度挑戦し、今度は楽に彼らを案内することができ、自信を付けたのだった。富士山には、上海から帰った昭和十六年にも工廠現場の若い連中十名ばかりを連れて登ったので、「ニ度登る馬鹿」と言われる富士山に「三度登る大馬鹿」を演じた私だった。          
 また、服部君という、二つ年上で、文学好きの組の先輩がいて、彼の友人らと四、五人で文集を作って楽しんだこともあり、現在の短歌のようなものを作った記憶がある。                  
 は、この工廠で出世するには何としても技手ぎてになりたかった。だが、技手になるには技手養成所の試験に合格しなければならない。この技手養成所がどこにあるのかも私には分からなかったが、横須賀にはなかったので、多分江田島の海軍兵学校もある、呉市の辺りにあったのだと思う。しかし、その試験は五万人に一人の合格率とのことで、誰も望み得ない高嶺の花であった。
 だが、私は、何としても技手試験に挑戦しようと決意した。まず、造船学から入ろうと思った。工廠には工員養成所という学校があり、その頃、上級の一等工員は大抵この学校出だった。青年会の先輩の指導員も皆そうだったので、私はこの人達から造船学の教科書、ノートを借りて勉強を始めた。造船学のノート類は工員の大先輩小久保千太郎さんからお借りできた。その他、英語、国語、数学等の教科も独学で勉強を始め、小遣いの内から古本屋を漁って参考書を買い集めた。そして、昼食後も、休憩時間も、寸暇を惜しんで勉強した。家でも、暇さえあれば勉強した。数学等は学校で習わなかった微分、積分も十分勉強してしっかり頭に入れた。                
 初め 米工の同窓生は総員四十名ばかり工廠にいたが、前途の見込み無しとして次々に退職していった。そして、三年後にはわずか五、六名を残すだけとなったのだ。                    
 その頃、海軍工廠を自分の都合で退職した者は、日本の官公庁への再就職ができなかった。軍部の圧力で他の官公庁の侵し得ない制限として、それは罷り通っていたようだった。だから、米工の同窓生は工廠を辞めると満州への道しか再就職の道がなかったのだ。これによって、中俣、大原もその犠牲になる以外の道は無かったのだ。余りにも酷な時代と言わざるを得ない。私は、この様な進退両難の窮地にあって、負けたくなかったから むしろ積極策を採ることを決意し、きっとやってみせると心に誓ったのだった。                     
 そのようなとき、昭和十二年四月、私に徴兵検査の呼出状が来たのだった。私の戸主小池義雄は川俣にいるので、私は兄の家から福島連隊区川俣検査場に出頭することになった。この兄とは、昭和二年に川俣で別れたきり絶縁状態であったが、戸主の権限は厳然としていて、これに反することはできなかったから、私は、不本意ながら川俣の兄の家に赴き、挨拶をせねばならなかった。                   
 兄の家では 大きな子供は皆上京して、小さい清(小学三年くらい)が年長で、他に女の子が二人ばかりいた。叔母ちゃんは相変わらずみすぼらしい姿で働いていた。兄は何か組合の事務のような役に就いているようだった。                           
 検査会場は、川俣小学校だった。私が二年間通った懐かしの校舎を眺めて、あれから十年の歳月を思うと、それはまるで前世のように遙か昔、薄い記憶の中に霞むようでありながら、私が自身の足でその実在の世界を踏みしめているのが、不思議な気がしたのだった。        
 検査は、試験官の前で丸裸になり、性器も検査されるというものだったが、初めての関門を通って、俺もこれで一人前の男になったのだと、なんだか晴れ晴れした気持ちになった。この検査の際、昔の同級生達二、三人にも会えたので、すぐに同級会の話がまとまり、ハ組の女の同級生にも連絡がとれて、二日後の夕には、楽しい同級会が催されたのだった。往時の担任久保シゲ先生にも来場願って、本当に楽しい、いつまでも心に残る会であった。長沼君の親戚の女の同級生は、私の初恋(?)の女性だったが、別れたときの幼女はすっかり大人の女となり、そのあでやかな笑顔は一種神々しいばかりで、私などにはとても手の届かない人のような気がして、心ならずも 引き退がる他なしと思ったのだった。久保先生にも話をすると泣けてきそうで、余り話もせずに お別れしたのだった。私は、折角の機会に気持ちを素直に表現できなかったことが心残りで、もっと話術や社交術を身に付けなければとそのとき痛感した次第である。
 横須賀に帰って数か月後に、兄からの通知で第二乙種合格、補充兵工兵三番の通知書が送られてきた。番が若いから招集が危ないぞと兄は書いていた。

 それから、半年後、この兄から突然の金の無心が舞い込み、我が家は青天の霹靂に見舞われた。「川俣の無尽組合の集金を使い込み、二百円の金がないと懲役に行かなければならない。助けてくれ。」というのだ。叔母が乳飲み子を連れて泣き込んできたのだ。母は、私に、
「あの奴らはいつもこの手だ。人ばかり当てにして、自分では働かない。今まで、この手で私がどんなに苦労させられたか! こんな奴らはもっと苦しめばいいんだ。決してかまうな!」
と言うのだった。しかし、私は考えざるを得なかった。「私は一人前の男だ。腹違いとは言え 兄弟なのだ。見殺しにはできない。」と考え、私は母に言った。                      
「かあゃん、これは何とかせねばなるまい。今度だけだ。私に免じて 今度だけ助けることにしてくれ!」            
 そして、私の貯金通帳を空にして百五十円、中里のかよ姉から借りて五十円、合わせて二百円を叔母に持たせて帰したのだった。      
 だが、この兄は、妻を使って芝居を打つくらいは平気の平左、徴兵検査で私の成人した男気を見て取って、彼特有の勘の鋭さで金になると嗅ぎつけるや、泣き込み隊を送り込んで、この大金をせしめ、他にも親戚各戸に泣き付かせたほか、自らは名古屋の妹(私にとっては姉の)きのに長文の泣き状を送るなどして、全部で千円近い金を集め、これを川俣から東京に進出する資金としたのだった。その後、中里の姉への返金は、私の働く荷となったことは言うまでもない。            
 この兄達の家庭はどうなったかその後の経過を略言すれば、前記の清も、その兄達同様、小学校を終えると売られるようにして東京に出て行ったが、彼らは学問は不得手でも、勤勉で忍耐強く、真面目でよく働いたから、奉公先を次々と独立して、正業を持ち、いずれも成功している。
 兄も上京後は、その上京資金の大芝居もなかったことの様に過ごして、子供達のお陰で楽隠居となり、長生きして、八十一歳で亡くなった。しかし、亡くなるときは、病気に苦しみ、             
「苦しい!死にそうだ!」というのを、娘が          
「おじいちゃん、人間、なかなか死なないものよ。」      
と言ったものだから、苦しみの余り自ら首を括ってしまったらしい。人の最期は神様が差配するのだと私はつくづく思ったのだった。    


 海軍工廠 造船部より建築部への転属                 
 海軍工廠造船部での汗みどろの勤務と勉強への熱中が過ぎて、私は、外界の様相が判然としない程視野が狭まっていたかも知れない。それが、徴兵検査で川俣に帰って、自分を振り返る機会を得、将来を客観視することができて、じっくり考えることとなった。             
 学校を出るときに修身の森谷先生がつくづく生徒に教訓したものだ。「お前達若者が、就職して一年や二年で、そこが良いか悪いか、確かな判断ができる訳がない。石の上にも三年というぞ。まず、三年我慢してみろ。三年経って不服があったら初めてよく考えて、他の道のことを思うのだ。三年だ! 三年待てよ!」     
と。そうだ、私は三年を過ぎて四年目だ。このままでは技手になるのに十年かかる。他所なら卒業後四、五年で技手クラスに任官できる筈だ。ここは余りに不利と言うべきだ。「学校に相談してみよう。」と思うと、私は学校のキリン先生、鈴木富治先生に早速手紙を書いていた。       
「私はここに三年いました。同窓生は皆辞めていって、今残っているのは私と一年先輩の宗川さんだけです。先生なんとかなりませんか。」 
と私は必死の思いで手紙を書いたのだった。先生から折り返し返事が届いた。                             
「今年は卒業生の就職は好成績で、皆決まった。君のことを考えたのだが、横須賀に海軍建築部というのがある。君達の先輩が一人入ったことがあるのだが、今年学校に照会があり、我が校では今年の分が決まった後だったので、未だ応募者が出ていない。君なら成績も良いし、大丈夫と思う。君が直接建築部へ行って交渉してみないか。もし良かったら学校から成績表やその他の書類はすぐ送る。行ってみてくれ。」    
との文面だった。私は「よし、やってみよう。当たって砕けろ、前へ進めだ!!」と張り切って、工廠は一日休むことにし早朝仕度を整えて横須賀鎮守府脇の海軍建築部本部庁舎に出向いたのだった。      
 そして、建築部の人事課長の前に、私は緊張して立った。     
「君は今、海軍工廠で働いているのだね?」            
「そうです。艤装工場の二等工員です。」             
私が言うと、課長の顔が暗くなった。               
「それが困るのだなあ!全く間が悪い。つい先月のことだよ。工廠と各庁間のトップ会談で、これからはお互い工員の取り合いはしないことにすると、協定ができたばかりなんだよ。」       
そして、言葉を継いで、                   
「それに、君は今日、工廠を無断欠勤してきたそうだが、それが分かると君は即日首になるだろう。勿論、私はそれは言わないことにするがね。」
 私は、絶望の淵に立たされ、ただ呆然とするばかりだった。
 課長は気の毒そうに私を見つめて、しばらく言葉もない状態だったが、気を取り直すようにして言うには、           
「君は建築の学校を出て、造船の職工では気の毒だ。今、ここの第二課長で、技術課の長の方がおられるので、その方に会ってみなさい。そして良くたのんでみ給え。」                    
 私の余りの落胆ぶりに、人事課長はいたたまれなかったのか、第二課長にバトンタッチしてくれたのだった。やがて、別室で、私は第二課長にお会いできた。私の大体のことは、既に人事課長から聞いておられるようだった。そして、第二課長は、                
「そうか、君は米沢の建築科を出て、今、造船部の職工という訳だ。可哀想だなあ!」                          
と言われて、私の顔をじっと見つめた。私はもう真剣そのもの、必死の眼差しでそれを見返すばかりだった。しばらくして課長は発言された。
「私は東大で建築と造船を勉強したんだが、工廠の艤装工場の今の工場長は私の同級生なんだよ。可哀想な君をなんとか助けたい。私が君の工場長に折を見て話すから、君は今のまま黙って働いてくれ。この間、工廠長との協議で、建築・造船間の職工の転勤を取り止めたばかりなので、ちょっと難しいのだが、私がなんとかする、君は待っていればよい。」     
なんと有難いお話かと、私は第二課長の顔が神か仏のように見え、ただ感謝するばかりだった。私はなんという幸運者なのだろう。人事課長とこの第二課長の温情に私は救われるかも知れないのだった。     
 私は、この世にこのような善意の人達がいることをそれまで知らなかった。「この世は、決して悪いものでない」とこのとき感じ、私の人生に光が差し込んだような感じがして、神に感謝した一日であった。  
 それからの私は、それまでにも増して勤勉な毎日を過ごした。しかし、すぐには身辺の変化もなく自身で何一つできないもどかしさも募って建築部の技手の中村さんという人を訪ね当て、色々と事情を聞いたりもすると、転勤の難しさを改めて教えられて、心が砕けるばかりになったこともあった。だが、その内、私の工廠での勤務に少し変化が兆してきた。組長の話で、私が、職工から事務の方に回され、二階の事務室に移って、工場の設備計画、建物の設計希望図等の作成をさせられるようになったのだ。私は、薄々、これは私の望みの実現近しと言うことかと感じた。

 そして、昭和十三年四月、私は正式に工廠から海軍建築部に転勤を命ぜられ、「技生を命じ、月給金四十二円也を給す。」の辞令を頂いたのだった。技生は工廠では工手こうての位で、私は、一気に三階級特進したことになり、また、即日工廠現場勤務を命ずの発令があって、これまでどおり楠が浦門より工廠に入って、その建築部現場事務所に勤務することとなったのである。                         
 工廠現場事務所での現場主任は、海軍技手三浦角五郎氏で、その下に技手二名、技生三名、給仕の少年二名、女子給仕二名という配置であった。三浦技手は、秋田工場出身の古参技手で、工廠現場の古狸といわれる実力ある人だった。その上に工事主任官の技師がいたのだが、実権は三浦技手が握っていたようで、海軍工廠に対してもこと建築工事に関しては、絶対の権限があり、大した羽振りだった。秋田訛りの残る体格の良い偉丈夫で、初対面の私は圧倒されそうだったが、私にも東北出身の図太さがあったし、同じ東北の米沢工業だということで、私を好意的に迎えてくれたのだった。                     
 三浦技手は、私には初め仕事をさせなかった。彼は、まずは建築部に馴れること、そして、力学から始めて勉強をみっちりやれと、私に言ってくれたのだ。それで、私には毎日鉄骨構造の勉強に励むことが仕事となった。海軍工廠内の建物は殆ど鉄骨造りの工場で、私の今まで関わったことのない特別の部門だったが、実際の工事の設計図も手近にあったから、私の勉強はこうした実物教材で大きな成果を上げることができた。それに、私には、県工在学中、構造力学が一番好きな学科であったし、鉄骨構造はすべてが理詰めの計算から成り立っていて、丁度私の性格と合致するようであったから、私はまるで水を得た魚のように嬉々として勉強の範囲を拡げていったのだった。こうして、私は毎日が楽しく勤務が面白かった。このように、部下を教育して育て上げ、実務の効率を上げる三浦技手はまことに大した人であるが、工廠の職工の経験を三年も経てきた私には、ここ建築部での生活はまるで別天地の感があり、私は己の幸運をまことに有難く思うと共に、何か不思議な感にとらわれさえするのだった。                           
 工廠の職工から建築部に転勤して、忽ち三階級も進級し、今までの油まみれの作業服から、綺麗な作業服でネクタイを締めた私の姿は、工廠の職工達には雲の上の人のように見えたも知れない。技生は、三年も経てば技手に任官するのが通例だし、新任技手はフロックコートで威儀を正して工廠中を肩で風切って歩き回る。これでは工廠から不平不満が沸き上がり、絶対転勤させるべからずの声が沸き上がるのは当然のことだった。だが、私は、工廠内で昔の同僚に会っても今まで通り挨拶し、昔の先輩に会えば丁寧にお辞儀もする。昔の工手に会うときは昔のままの丁重な挨拶をしたのだった。そのためか、工廠相手の会議でも、私が出ていると、互いの意思疎通が図られて工廠側の態度も良好となり、難しい交渉も纏まることが多かった。                 
 こうして私は、次に、設計、製図、現場監督と実務の真っ直中を進んでいったが、苦心の成果が次々に形となって実現されて、ますます勤務に張り切ったのだった。                   

  
 上海設営本部に転勤し、日支事変に従軍        
 それは、昭和十四年四月のことだった。突然、私に本部から転勤命令が下った。
 当時、日本軍部は、満州事変以来の中国大陸での戦線を上海方面にも拡大し、帝国海軍も、上海の海軍陸戦隊を支援するべく、海軍建築部の施設部隊を出陣させることとなったのだった。支那方面の海軍戦線は、第三艦隊の区分であったから、佐世保海軍建築部が、第三艦隊旗下の一部からその要員を出動させていたのだが、次第に戦線が拡大され、前年の末には、ついに日本軍は南京を攻略、奪取して、漢口、武漢にまで勢力を及ぼすに至ったため、設営隊の守備範囲も拡大して、到底佐世保だけでは手不足となり、他の建築部の増援を仰がねばならなくなったという訳であった。
 こうして、横須賀からの初の増援部隊の幹部として六名ばかりの要員が選定されることとなって、工廠から転勤して一年目の私に白羽の矢が立ったのだった。これは大変な抜擢であり、私にとってはまさに光栄の至りというべきことであったが、私には、これもやはり二課長殿の口添えによるものと思われたのだった。彼は、あのような経緯で工廠から転勤した私を特に注目してくれていたであうから、私の勤務振りによって前線勤務に耐え得ると判断してくれたのではないか、私はそう推測し、自分の努力が認められたことを大いに喜び、かつ感謝したのだった。                       

 私は、軍装を急がねばならなかった。技生の制服は別になかった。軍装の定めとしてはただ一つ、軍刀を用意せよということだった。私は、上京してまよ姉に相談した。幸運なことに、麹町の姉の店の隣が刀剣屋だったから、早速そこの主人が差し出した一振りを見せて貰った。銘は美濃住守正とある古刀で、二尺三寸の脇差型だが、小身の私には適当ではないかとのことだった。私には別に不足はなく、姉が出征祝いにくれるとのことで、有難く頂くことにした。刀の軍刀造りは上海でも可能との話だったので、これで私の上京の目的はほぼ達せられ、軍刀を手に喜んで横須賀に帰ったのだった。                     
 この刀が、その後三年の間、中国大陸で私の身を守ってくれ、次いで大東亜戦においては、遠くソロモンの地で幾度も私と共に死線を越えて、ついに終戦を迎えたときに、敵豪州軍に没収される運命であったとは、そのとき、神ならぬ身の知る由もなく、それが我が愛刀との奇しき出逢いだったのである。                       
 この時の同僚飯野憲作技生とは、これより昭和四〇年頃までの長い友人付合いとなった。
 横須賀から佐世保、更には輸送船の暗夜航の末に上海埠頭に上陸して、上海東ゆうはん路の第三艦隊設営部に着任した。上海設営部長権藤技師(少将級技将)の指揮下に入り、活動が始まった。 

 私は、早速街に出て、衣服軍刀の軍装を整え、これで海軍設営隊技生の格好が付いたのだった。技手以上には、文官軍服として海軍士官同様の服装があり、軍帽を被り、短剣を釣ったその姿は、一見海軍士官のようでなかなか格好が良かった。
 我々技生は、これと違って、民兵のようなスタイルで、技手とくらべればぐっと格の下がった感のものだった。帽子はカーキ色の戦闘帽、服はカーキ色の背広型の軍服、足には、黒の皮ゲートルを付けた編み上げ靴だった。左の腕には、幅十五センチくらいの、上下に太い黄の横線を引き、中央に大きい桜花に錨の紋を付けた腕章だ。が、格下感と言っても、この技生の服装は、当時の設営隊の一般隊員である軍夫達には大変な権威があり、これに対し一つ間違えば、往復びんたが飛ぶという訳なのだ。当時軍夫の隊員は技生に対しては、立って物言うことは許されず、折敷の姿勢で片膝をついて丁重に発言することが厳命されていたのだ。

 だが、我々技生同士は、当時まだまだ国内の気分が抜けきっておらず、敵弾の飛ぶ最前線というような実感もなかった。技生も左に女偏が付くと朝鮮の遊女になるのだし、大したこともないと思っていたのである。それでも、だんだんと現場の作業にも就くようになり、次第に「戦場」というものに馴れていったのだった。一人前の男になったつもりで、毎日遊女屋に出入りしては彼らの言葉を耳から覚え、一か月も経ったときには、私は上海設営部の中では、中国人と話せる部類の者になっていた。ガーデンブリッジを渡り、龍華飛行場の工事の見廻りに行った際、フランス租界のフランス兵の銃剣の前を通るときには、恐ろしい寒気がしたものだ。

 上海の戊基地飛行場脇には設営隊の宿舎があり、土木の高木技生は直接隊員を指揮していたので、まことに荒々しく勇ましいものだった。この高木技生は私より先にソロモンに向かい、その後ブイン海岸で対面したときは吃驚して奇しき運命を思ったものだが、彼はその一年後にソロモンの露と消えたのだった。上海設営部は全支の設営隊の本部であり、まるで内地の建築部のようであったから、私も当初設計室で設計など内地同様のことをしていた。  

 呉から来た電気の技手の瓜生さんは、人の好い、魚釣り大好きのおじいさんであったので、私は、彼と共に夜毎、黄浦江の鰻釣りに行った。そして、釣った鰻を食堂で蒲焼きにして振る舞ったから、食堂は連日の蒲焼きで一同大喜びだった。だが、数日後にそのことが軍医長の耳に入って、軍医長から、黄浦江の魚は伝染病の危険があるので食用まかりならぬとの厳命が下されてしまい、鰻の蒲焼きは再び食堂に現れることはなかったのである。                       

 私は、上海で初めて写真機を買い、連日何でも撮りまくっていた。その頃、設営部には若い女性タイピストが二人いて、男ばかりの荒々しい部内に二輪の花が咲いたようだった。女のタイピストの一人は大変な美人だったから、当然彼女も被写体に含まれているが、そのときのネガ六百枚(南京、鎮江、楊州)が今でも私の手元にある。それについては、内地に帰る際、上海丸での憲兵の検閲を逃れたときの苦心なども思い出される。                             


 南京設営隊発進                       
 上海設営本部には出先の設営隊の戦況も頻繁に入ってきて、次第に緊迫の気配が漂うようになり、そして、ついに南京班新設の発令となった。舞鶴出身の小島技手(建築)を班長とし、飯野技生(土木)、と私(建築)の二名が班長補佐、事務員として小坂記録員が任命された。隊員は四百五十名とのことだった。この隊員がどこからどう配置されたか、私には未だに分からないのだが、隊員中の事務係員の様子等を見ると、相当現地馴れしていたので、他班の経験者部隊が南京に送られたものと推察され、佐世保建築部の苦心の策だと感心したのだった。
 尤も、当時横須賀建築部も南洋のトラック島周辺の軍備を極秘裏に進め、第何農場の仮称で大飛行場を建設していたこと等を思うと、日本の軍部の戦線拡大策は殆ど現実のものとなっていたのだ。           
 我々南京班幹部は、上海駅から列車で南京駅に到着して、城南にある光華門近くの、大光新村の隊舎に入った。
 南京班の設営主眼は光華門外南京飛行場の整備維持管理だった。当時海軍航空隊は、漢口に前進して、重慶作戦等の戦闘に連日奮戦していたのだ。設営隊員は主に九州方面から募集した工員で当時「軍夫」と呼ばれていたが、給料は相当高額だったと思う。その頃の海軍慰安所で海軍士官と私の隊員が女の取り合いをして、隊員の方が楽勝した話を度々聞いた。            
 飯野技生は、私より五歳くらい年上で、男振りが良く、女には大変な好かれようで、今の奥さんも何番目かという話であった。が、その言動は荒っぽく厳しかったから、隊員達は馴染みにくかったようだ。そのためか、飯野さんに対する隊員の襲撃事件が起こり、彼はそれで前歯二本を折られて軍医のお世話になる羽目となった。彼もこれによって少し心を改めたのか、その後隊員に少し優しくなり、事件の再発もなかったことは何よりだった。だが、彼は、小島技手には絶対不服従であったから、小島技手は彼では使いにくいと考えたのか、飯野さんは昭和一五年の早いうちに、一年足らずで上海に転勤となった。                      
 私は、隊にあった陸王のサイドカーの運転を運転員から習って、発進法だけ聞いた位のところで、外に出て街道を突っ走り、危うく転覆しかけたこともあったが、その後すっかりサイドカーの運転を習得してしまった。お陰でソロモンのバラレ飛行場の作戦では黒金のサイドカーで大いに動き回れたから、この陸王も私にとっての恩人(?)だと思っている。

一〇 南京飛行場緊急作戦                    
 そして、我々南京設営隊に海軍司令部から緊急作戦命令が下達された。「漢口航空隊中攻機隊全機が南京に退避する。南京設営隊は同飛行場を緊急整備して作戦可能なる如く致すべし。」            
これは並々ならぬ作業だった。南京飛行場は、海軍航空隊が漢口へ前進した後は殆ど使用されておらず、各機能は完全に休眠のままで、使用に耐えるべく復旧するには数日を要する状態だった。だが、命令は二日以内とのことだったから、飯野技生は地上及び発着設備の復旧作業に当り、私は居住区全般の復旧に取り組むという分担を決めて、突貫作業を開始した。当然我が隊員だけでは人員が足りないので、すぐに中国人苦力を各苦力頭に厳命して集めさせた。 兵員室には畳を新調して入れねばならない。窓ガラスも破損が多い。水道設備も復旧するには資材不足であり、上海から輸送するには日数が足りないから、別働隊を盗棒ョートル市場に向けてそれらを調達させた。作業に臨んでは軍刀の抜き身を振り回しながら指揮した。もう夢中だった。私は「反抗するものはブッタ切る」と叫んでいたのだ。                         
そして、二日後の夕、二十数機の一式陸攻中攻が轟々たる爆音を轟かせ次々と南京飛行場に着陸したときには我ながら良くやったと、滴る汗を拭いつつホッとしたのだった。こうして、戦地での初めての困難な作戦を乗り切って、私は「やればできる。大丈夫なのだ。」と自分に言い聞かせたのだった。                       
 この作戦で、空軍の立て直し戦略が好転し、形勢を挽回して中攻機隊は再び漢口に前進し、南京はまた静けさを取り戻した。だが、飛行場近辺では、夜間に時々銃声が聞こえたりする不気味な状態が続いていたから、我が軍の対中国作戦も容易でないような気がしてならないのだった。


一一 南京設営班挹江門ゆうこうもんに移転                  
 そうこうするうち、我が南京設営班に対し挹江門近くの海軍地区への移転命令が下された。南京の挹江門は揚子江に面したところにあって、南京城の正門ともいうべき所である。その門外には下関しゃかんといわれた街があり、上海からの鉄道の南京駅もあった。石積みの門のアーチが三つあり、その上に楼屋の名残の柱が二、三本焼け残っていた。内側からの左側には壮大な土塁が高さ十メートル、幅四十メートルくらい大きく立ち塞がり、その壁面に「忠孝仁愛信義和平」の八文字が画然と記されていた。これは蒋介石の政治思想を表したものと思われ、文字国中国を表現して余すところがないと思った。我々の本部は、それに向かい合った煉瓦塀に囲まれた一角で、約千坪ほどの広大な敷地だった。その中に煉瓦建ての二階屋が四棟列んでいた。中国軍の士官住宅だったとの話である。その右端の一棟を事務所及び幹部宿舎とし、他の三棟を隊員宿舎にすることにした。宿舎の不足分を仮設で造り、その他倉庫車庫等を急増し、正門と門衛所を新設して、正門には「海軍設営部南京班」の大看板が掲げられた。車庫には貨車二十台、乗用車二台、サイドカー一台が勢揃いして堂々たる部隊の様相が整った。今までの大光新村の設営隊とは打って変わっての大変革で、漸く一人前の部隊の観を呈したから、私は良い気分だった。                             
 毎日の朝礼後、体操の指揮は私の役目で、私も徴兵検査で五尺二分の身長が五尺二寸三分(160.28㎝)となり、一応役目が務まる身体に成長していた。
 毎日の作業は、各隊舎の建築補修、設備の改修、道路・橋梁の新開設と多岐にわたり、隊員四百名位では不足がちなので、中国人の苦力を毎日二、三百人は使っていた。当時この中国人達の日給は五十銭だった。毎日事務長の小坂君が基地隊主計長から軍票でこれを調達してくるのだった。私は、その頃苦力は使役しなかったが、土木の飯野技生は毎日百人位の苦力を使い、小坂君との間でいつも悶着が絶えなかった。飯野さんは小坂君から無理矢理金を受け取り、領収の印は勝手に印を作って押したりするので、小坂君はいつも不服で首を振っていた。飯野さんは彼のことを「首振り小坂」と渾名を付けて笑っていた。この小坂君が、今私の町内に居住していて、その家の設計施工を私が請け負ったのだから、今更ながら縁は異なものと言わざるを得ない。           
 南京設営班は、南京駅のある下関に近く、海軍部隊の集中している所にあったから、各部隊の設営作業の要求も多く、自然、私は各隊の士官達から丁重に扱われるようになった。陸戦隊の士官があるとき、   
「小池さん、貴方は幾人子供がありますか?」           
と言うのには驚いた。                      
「結婚していないのに、子供がある訳がないでしょう。」      
と私が言うと、彼は信じられないという風だった。         
 すぐ近くに海軍将校の親睦施設である水交社の南京分所があり、その舎監とは特に昵懇になった。彼は、海軍の士官が泊まると、私に彼らの南京見物の案内を頼むのだった。南京は上海と漢口の中間にあるから、揚子江を昇降する艦船の士官が水交社の客となるのだ。私は南京に来た設営隊幹部の客達も何度となく案内して、いつしか南京見物の案内は私の一手販売、私の仕事の一部になっていた。            
 水交社のお客は設営隊よりもずっと上級の士官達だったから、些か緊張もしたが、私も大陸馴れして、大分図々しくなっていたので、平気を装って図太く振る舞っていた。玄武区紫金山にある孫文(孫中山)の陵墓中山陵はいつもは拝殿の前まできり入れなったが、一度だけ将官級の士官を案内して最奥の棺の部屋まで行けたときには、これぞ役得と我ながら喜んだものだった。                      
 設営隊は、どこでもいつも、慰安所と隣り合わせにされることになった。それは慰安所の設営を面倒見るように、司令部の暗黙の計算があったかららしい。南京海軍慰安所は、我が隊と道を挟んだ隣で、民営の形で、内地の遊女屋の主人が日本人、朝鮮人等の遊女を内地から連れてきて営業していた。だが、彼女らの維持管理、病気の検査等は軍が扱っていたようだ。我々の工事も基地隊司令よりの話で内々に作業していたようだった。そして、それは、上海本部も黙認のようで、班長の小島技手は決して私には関与させなかった。私はその作業に一度も行ったことはなかったので、皆の話で想像するだけだった。           
 我が隊の地続きに少し小高い丘があった。あるとき、その森の中から砲声を聞いたことがあり、陸戦隊の士官から、そこは海軍の獅子山砲台で、揚子江の艦船を砲撃する為にあるのだということを聞いた。   
 私は、毎日の現場見廻りにはサイドカーで回ることが多くなった。私は、いつも猛スピードで運転し、何度も憲兵の制止を受けたが、決して停止しなかった。それは、陸、海軍の衛兵等は平気だったが、憲兵となると運転免許がないので、不安だったのだ。正規の運転員が憲兵に止められて、        
「お前の車は、いつもスピード違反だぞ! 気をつけろ!」     
とどやされると言ってはこぼしていた。でも、私の運転は確かで決して事故はなかった。当時、このサイドカーが後日私のため役に立つこととなるとは思ってもいなかった。                  
 戦争の様相はますます拡大し、南京設営班の作戦範囲も次第に大きくなって、鎮江方面にまでも進むようになっていた。      


一二 楊州より高郵こうゆう陸戦隊作戦                  
 私は、単身での江隠陸戦隊補修工事も終了して、安堵していたとき、突然、高郵陸戦隊の増設工事のための資材輸送の急命を受けた。
 高郵は、南京下流(揚子江南岸)の鎮江から北支に通ずる大運河を、鎮江から北の楊州に遡航し、更に北上して達する高宝湖畔の街だった。そこに海軍陸戦隊の基地があって、戦況の緊迫からこれを増強するため、建物の増築が南京設営班に下命されたのだった。そして、小島班長から私に、資材を調達してその輸送に当たるよう命じられたのである。  
 早速資材計画に入ったが、隊の在庫では水道用資材等の不足材があって、上海からの輸送を待っていては間に合わない。私は基地隊主計長に話して、南京の盗棒しょうとる市場で探すことにした。大平路たーぴんろの日本商社員を連れて、盗棒市場に同行し彼に現金を払わせて、後は主計長から正式に支払われるよう手配したのだった。
 南京から揚子江を下った鎮江対岸(北岸)の六圩ろっかんまでは班の方で汽帆船で送ってくれることになった。その後は、鎮江陸戦隊の協力を得ることとして、全て私の責任で、高郵陸戦隊まで届けるようにとの命令だった。今度こそ私一人の力ですべて完了せねばならぬ大作戦だった。武器は、私の拳銃一丁と軍刀以外になかった。工員五名を連れて、私は下関で船に乗り、一路鎮江に向かって下航した。                  
 鎮江で陸軍の船舶工兵が段平船(石材専用の平底で幅広い船)に荷物を積み、曳舟となる汽帆船に曳航されて対岸の六圩に上陸した。上陸地点の砂浜に全資材を揚陸して、私は陸軍の船を見送り、呆然と佇んだ。さて、これからどうするか。思案投げ首の体だった。しかし、なんとかしなければならない。私達だけの力ではこの荷は動かない。私は、まず、周りを見回して誰かいないかと探し、偶然、陸軍の兵隊を見つけた。彼は私に次のように話してくれた。                 
「私達は、楊州から引き上げます。海軍さん、ここは危険です。ここにいたら全滅します。この電話で楊州の本隊に頼んだ方が良いです。楊州の鈴木部隊です。」                       
 私は、早速彼の軍用電話を借りて楊州を呼んでいた。       
「私は、南京海軍設営隊の小池と申しますが、楊州の先の高郵陸戦隊に設営資材を送る任務で、今六圩に着いたところです。まことに申し訳ありませんが、トラック十台を貸して頂きたい。それで楊州に運んで、それから運河を昇りたいのです。是非助けて下さい。」        
と、私は必死の声で頼んだのだった。               
「よし! わしは鈴木部隊の副官だが、直ちにトラック十台をそちらに向ける。待ってい給え。」                    
と引き受けてくれたとき、私は天の助け、地獄で仏と感激したのだった。待つほど約一時間、揚州方面から砂塵を上げて来るトラックの列を見て、私は思わず目頭が熱くなるのを覚えた。運転席には私達六人の内一人だけきり乗れず、残りは荷台の方に乗らねばならなかった。私が先に外に出て、荷台に乗って出発した。だが、二十分ばかりで私は車を停車させ、民家に駆け入って支那酒を一本買い取り、半分ラッパ飲みして隊員に残りを渡し、交代したのだった。                 
 揚州に着くと、早速連隊副官が丁重に扱ってくれて、       
「すぐに食事の用意をさせる。風呂も用意する。今夜はゆっくり休み給え。なんなら街へ見物の案内をしても良い。」           
と言ってくれた。この陸軍の親切さには海軍として汗顔のやり場ない思いだった。そして、私と我が隊の目的、任務についての話し合いになった。彼は言うのだった。                    
「現在、この地方の戦況まことに日本軍に不利な実情だ。高郵方面への道路は通行不能だ。連日道路修理に励んでいるが、夜になるとと、その工事人夫が今度は支那軍の使役でどんどん爆破にかかる。君達の輸送を応援することは、楊州の陸軍部隊の力では到底不可能だ。困ったことだ。今のところ万策無しと言うところだ。」           
 私は、万策尽きたところで、最後のことを考えていた。「強行突破!」これ以外の道はないと決心していた。               
  私は、すぐに副官に頼んで、高郵陸戦隊司令に電報を打った。  
「陸戦隊戦闘員十名、工員十名、道路補修具と戦闘の用意をして、直ちに楊州に下航せよ。」                      
副官は、電報を打った後、私の顔をつくづく見ながら沈痛な言葉で言うのだった。                          
「これは困ったことになった。海軍さん! なんともそれは自殺行為だ。全滅は目に見えている。。一日で終わりだ。惜しいことだ。」     
 その夜は、私は明日からの戦闘に「これも任務のためだ。元々死は覚悟のことだ。道さえできれば、陸軍のトラックは貸すと言ってくれた。なんとしてでも決行しかない。やってできないことはない。」    
私は、勇気凜々、武者震いでその夜は眠れなかった。        
 翌早朝、運河に高郵陸戦隊の大発一隻が防寒服に完全武装の陸戦隊十名、スコップ、鶴嘴を持った工員十名が楊州に上陸した。だが、そのとき、陸軍の伝令が私に、                     
「副官がお呼びです。」                     
と伝えてきた。すぐに副官に会うと、               
「君の荷は段平船一隻に積めるか?」               
という話であり、私は、                     
「鎮江から六圩に渡るのにそのようにしたから、大丈夫です。」   
と返したのに、副官が、                     
「では、陸軍の曳舟が一隻上航できることになったから、君の荷を曳いてやる。」                           
と言ってくれて、事態は急転直下好転したのたのだ。急いで荷物を全部トラックから段平船に積み換え、兵員、工員も全員それに乗船させ、私は一人残って彼らに手を振って別れたのだった。鈴木部隊の副官にはこの度の援助を心からお礼申し上げ、六圩までトラックで戻り、そこから鎮江への小さな客船に乗った時は夜になっていた。         
 この船の中は 全部支那人ばかりで、私は片言の中国語でなんとか鎮江への乗船ができたのだった。だが、船内はまことに寒く、先刻までは任務のため感じなかったのだが、耐えきれなくなった。そのとき、楊州で別れ際に部下の工員が、                   
「小池さん、寒さの用心にこれを。」               
と「チャンチュウ」を一本私のトランクに入れてくれたのを思い出し、それを忽ちラッパ飲みして、元気を取り戻した。そして、それがだんだん効いてきて、隣の支那服の男と話をしするうち、彼が、     
「貴方、日本の方ですね。私も支那服は着ているが、日本人ですよ。」
と言うではないか、彼は日本の商社マンで、今ではこの国中駆け回っていて、                             
「腹にはいつも、これですよ。」                 
と小さな拳銃を見せるのだった。私は、この恐ろしい戦場を命を的に稼ぎ回る日本人の図太さを見せつけられ、呆然となった。       
 やがて、鎮江に到着し、洋車に乗って、鎮江陸戦隊に行って、南京設営班に任務終了の電話を入れ、南京行きの列車に乗ったのだった。  
 だが、列車の旅も簡単ではなかった。途中、鉄路が敵の襲撃に遭って不通となり、これが補修に一時間近く手間取り、南京駅に着いたのは夜中の十二時を回っていた。そして、迎えに来た小坂君に「どうせ寝るだけなら、孔子廟だ」と、大平路を経て孔子廟の酒場で、一夜を明かしたのだった。                           
 その後、高郵陸戦隊へは、小島技手と共に、工員十名ばかりを連れて増築工事向かったのだった。この時は、大運河を船で遡航して途中、邵伯鎮の廃寺に一泊したりして高郵に着いた。            
 高郵の工事では、浴室増築でボイラーを設備することになり、南京の盗棒市場で買ったボイラーから大事故を起こしたこととが忘れられない。ことの経過は次のようなものだった。建物は出来上がり、釜場もできて、釜を焚くばかりになった。工員が一人釜番に決まり、彼は一心に釜に向かって薪をくべ、釜が沸くのを見守っていた。大分経って彼が、
「小池さん、 釜が泣くんだよなあ。 可哀想だけど、俺はなんともしようがないなあ!」                       
と、私に言うではないか。釜が泣くとは初めて聞く話で、私はすぐに釜場に行って見てみた。なるほど、釜はかすかに、わんわんとと泣くような音を立てているのだ。それは哀れとも何とも、言葉では表せない哀調なのだが、私にも処置無しだった。私は彼に、           
「気を付けて、少し離れて見ていろ。もう薪は入れない方が良いぞ。」
と言って、その場を離れたのだった。そして、一時間位の後に、この釜場から、まるで大砲のような物凄い大音響が轟き、釜が爆発して、釜場の屋根をぶち抜き、湖上遙かにと飛び去ったのだった。三百メートル位は飛んだようで、釜は高宝湖の水中深く沈んでしまった。幸いにして怪我人もなく、釜場は設計変更して、在来の釜に補助タンクを設けて給湯式としたのだった。                       
 高郵陸戦隊の増築工事も完了し、我々設営部隊の引上げも近々というころのある夜、敵襲があり、小川の木橋が爆破されて、その後陸戦隊との戦闘もあった。最前線は決して平穏ではなかった。        
 南京に全員引き上げた後、しばらくは大した作戦もなく、南京周辺の工事が続いた。土木の飯野さんの組は、下関郊外の山の麓に射撃場を造るので、連日苦力を使っての工事を進めていた。この辺は下関から三、四キロ離れていて治安が悪く、住民は敵性と見られていた。射撃の標的の木材が何度も盗難に遭い、その度に新造するので、なかなか工事が完了しなかった。そんな中、時々野生の鹿が隊員によって捕獲されて私達の食卓に載った。我が隊の幹部食堂には、支那人の料理人一人と、給仕の若い姑娘一人がいた。この部屋で食事をするのは小島技手、飯野技生、私と小坂記録員と、土木の一等工員だけだったが、飯野さんは前記のとおり昭和十五年の早いうちに上海に転勤となったのだった。           


一三 南京設営隊の宜昌ぎしょう前進作戦                 
 その内、ある日突然、南京設営隊に宜昌への前進命令が下った。宜昌は、漢口より揚子江の四百キロ上流の奥地だから、大移動と言うことになり、これはまさに大作戦だった。
 そして、病人を除いた、約四百名の南京班全員の前進で、私が隊の留守を預かれとの本部命令だった。前進部隊を下関で船に乗せて、見送る私は、今後の彼此の運命を思い感無量で、前進隊の武運長久を唯祈るのみであった。小坂記録員は上海本部転勤となって、南京を去った。私は、二十人ばかりの病人と事務係工員三名、電工、運転員三名の合計三十名足らずで、今迄通りの南京班の工事を運営しなければならなかったから、大変だったが、毎日現場回りで働き通し、体力の続く限り頑張った。                     
 一度、私は、五人ほどの気安い隊員と大平路の奥の日本料亭で宴会をもった。そして、宴たけなわとなったとき、電工が一人酔って暴れ出して、料亭の主人との争いに日本刀で斬ろうという有様になってしまった。この日本刀は、彼らが自分で自動車のスプリングを鍛錬して造ったのを研ぎ上げて、白鞘に収めた立派な物だ。いつの間にか持ち出して携行していたのだ。料亭ではすぐに憲兵隊に連絡したらしい。私は咄嗟に思った。                              
「これは大変だ。憲兵隊ではすぐに留守隊長の私に電話するに違いない。私が一緒にいてはまずい。」                   
私は、すぐに車を飛ばして本隊に帰った。案の定、憲兵隊から私に電話が入った。そして、                       
「君の隊員が、酔って暴れてここにいるが、我々も困っているんだ。頼むからすぐ連れに来てくれ。」                  
と言うのだ。私が、                       
「その者は、確かにうちの工員だが、そんな者はそちらで一晩みっちり焼きを入れて下さい。私も忙しい身体で困っているのです。」    
と言ったものだから、憲兵は、                  
「それは困る。我々にも海軍軍属は苦手なんだよ。頼むから連れに来てくれよ。」                         
と弱り切った様子だった。私は、それでは行きますと、自動車を運転させて大平路に向かった。憲兵隊に着いてみると、電工はまだ大分酔っ払っていて、憲兵隊の廊下中に小便をしながら歩き回っていた。憲兵は、ほとほと参っていたらしく、私の顔を見るや、ようやく一安心できたという表情で喜んだ。私も、憲兵に詫びと礼を言って、彼を引き取って帰隊したのだった。                        
 その頃、私は、隊員中にいる阿片中毒者二、三名に手を焼いていた。どういう訳か、まことに真面目な良い男ほど中毒になり易いようだった。古参の事務員で阿片に詳しい男の話では、             
「阿片ほど良いものはない。酒よりも、煙草よりも、女よりも、阿片の方が良い。酒や煙草は身体を壊すが、阿片は大丈夫。女を買えば、病気が怖い。阿片は、自制心があれば、度を超すことはない。小池さんは気持ちがしっかりしているから大丈夫ですよ。一つやってみませんか。」
と言うのだ。                          
 だが、私は、絶対に動かされなかった。気の弱い真面目な者は、酒や女にたじろいで、つい阿片に引っかかり、挙げ句に中毒になって苦しむのだ。残留隊員の中の二人が既にそんな状態だった。        
 そのうち、その一人が一寸した刃傷事件を起こして問題となり、隊長として上海に報告を余儀なくされる羽目になった。        
 私は、上海の人事課長の三岡書記に手紙を書いた。三岡書記は横須賀から一緒に来た同士で気の置けない先輩だったので、私なりに思うことを便箋に十枚位も書いて出した。                 
「これは、すべて隊長たる私の責任であります。彼は、まことに良い男で、この阿片さえなければ一点非の打ち所のない男なのです。彼を今この件で処罰したら彼の一生は駄目になります。私が最善を尽くして彼を更生させ、何としても直しますから、私に免じて 彼を私に任せて頂きたい。」                            
と頼んだのだった。三岡さんからすぐに返事あり、         
「君の熱情と温情には参ったよ。君の言う通り、この件については君に一任することにする。成功を祈る。」              
とあった。                           
 彼は、阿片から切れるために大分苦しんだようだが、良い友人も付いていてくれ、すっかり立ち直ったので、私は ほっと安堵したのだった。


一四 飯野さんとの深い縁
 南京での同僚だった飯野技生と私の間には、何か不思議な糸で結ばれているような、なかなか切れない縁を感じさせるものがあった。
 南京では初めから車の両輪のようで、二人で隊内を仕切っていた感があったが、彼は私より五、六歳は年上であり、出身も関東は埼玉県のようだった。男前できりっとして気が強く、決して上司に大人しく従うことはなかった。どんなに偉い人に対しても反発して、容易く服従することがなかった。しかし、女に対してはまことに親切で、惚れやすく、女にはとても好かれるようだった。彼は、一旦惚れたら一直線にその女一筋になるので、女の方でも完全に参ってしまうらしい。だから、彼は次から次へと女ができ、それは、際限なく回り続ける五色の風車のようだった。彼の部屋はいつも私と同居だったが、彼は部屋に寝たことは殆どなかった。彼はいつも女の所に行って泊まるのだった。そのことでは、小島技手も早くから匙を投げていて、決して文句を言わなかった。  
 彼は、南京に来ると早々に、留守宅の奥さんに手紙を書いたのは良かったが、封筒に入れる際、これを、同時に書いた友達の手紙と入れ違え、友達宛の手紙を奥さんに送ってしまった。その文面は、といえば、  
「南京という所は、何ともこたえられない、良い所だ。酒は旨いし、女は良いし、日本内地の比ではない。この調子ではなかなか日本には帰れない。」
とやってしまったと言うのだ。これを見た奥さんは、彼の性格が分かっていただけに、心配が募り、やがて病気になって、とうとう亡くなったと聞く。彼には何代か前の別れた奥さんとの間になした男の子があり、まだ小学校低学年だったその子供がどうなるのか、哀れでならなかった。 南京では、日本料理屋の女、九州出身の芸者姉妹、中国政府高官の娘と、女出入りはまことに賑やかなものだった。夕方になると、その中国娘が洋車に乗って彼を何時間も待っており、彼は、時には裏の柵を越えて、他の女の所に行くため逃げ出すということも度々だった。    
 私が急病に倒れて南京の海軍病院に入院したときには、院長の電報で上海から急遽彼が交代要員で来てくれたのだった。         
 私が内地に帰るときも、他の同僚一人と彼とで、一緒に帰還したのだったが、横須賀に帰ったら、間もなく、南京の芸者の妹が彼を追ってきて、彼としばらく同棲した後、彼女が自殺未遂をして、その姉が連れて帰るという騒ぎであった。                   
 その後、                           
「漁師の網元の娘とできちゃった。」               
と言ってきて、私が、娘の親との交渉やら、仲人やらを頼まれ、結婚式を挙げたのが、私自身の婚礼の二日前であった。          
 その後、また次の女ができたからと、今度は離婚の交渉にも付き合わされる羽目になるという具合で、彼と私の因縁は、その後も更に尽きることなく続くのだが、こういうのを世間は腐れ縁というのだろう。しかし、これを書き続けるときりがないので、この辺で打ち切ることとする。


一五 肋膜炎で緊急入院
 南京で留守隊長となった私は、その任務を果たすべく必死で働いた。熱中すると、自分の身体を気遣うことも忘れるのが、私の性格上の欠点なのであるが、この頃は、自分でスコップを握って、コンクリートを練ることまで夢中でやるという始末であったから、そのうち、体調がおかしくなり、腹の辺りが痛み出して、なかなか治らない状態となった。そして、とうとう海軍病院に駆け込んで、軍医の診察を受けると言うことになってしまった。ところが、診察してくれた軍医にもすぐには診断がつかないのだ。三度目位の診察のとき、その軍医が意を決するように、
「やってみるか。」
と言って、なんと私の背中に太い針を通した。そして、       
「ああ、やっぱりそうだったか。分かった。肋膜に水が一杯溜まっていた。これは駄目だ。即刻、入院!」
と言うではないか。こちらはさっぱり分からないままだが、とにかく、
「それでは困ります。私は独りで部隊を指揮しているので、私がいなければ部隊は立ち行きません。数日の猶予を下さい。」        
と頼んでみた。しかし、軍医は承知しない。すぐに、軍医長に連絡して、軍医長から上海設営部長に至急電報を打電するという緊急処置が執られてしまった。                     
「小池技生、急病につき入院のため、直ちに交替要員を派遣されたし。」
 こうして、あの飯野技生が上海から即日派遣され、私は、病室で彼と事務引き継ぎを行って、入院とは相なったのだった。         

 私の病室は大部屋で、他の患者と一緒だった。入院当初はレントゲン室とか、検査室とか、軍医の説明とかで色々忙しかったが、三日目位から以降は、毎日薬を飲んで寝ている日が続いた。肋膜患者などは他の負傷兵に比べれば、ただのベット塞ぎのようなもので、軽い患者だった。 私は、初めての入院で、毎日退屈で仕方がなかったから、そのうち酒でも飲んでみたいと考えるようになり、ある日見舞いに来た隊員にこっそり酒を持って来いと命じた。そうして、夜九時の巡検の後に近辺のベットの兵達を集めて、静かな宴会が行われることとなったのである。湯飲み茶碗に酒が注がれて回される。気の利いた兵隊が肴のつまみを用意して配ってくれる。余り声は出せないが、この人目を盗んでの酒盛りは何とも楽しいものだった。酒の補給も手順良く続けられたから、この酒盛りはなんと毎晩続いたのである。そして、これが私の病気を忽ち好転させた。百薬の長とはこのことであろう。二十日ばかり経って、回診の際軍医に、                           
「ホー。大分良くなった。若い者は良いなあ。これならば、退院もすぐ間近だ。」                           
と言われたときには、我ながら嬉しかった。なんと言っても病院よりは、外の方が良いに決まっている。                  
 私はその頃は、昼間は外に出て、庭で散歩するようになっていた。私が設計して建てた白壁の東屋が庭内にあったのだが、私はこれを目にするに付け、屋根の青瓦が白壁に映えて、我ながら立派なものだと思った。その周囲には、形の良い池がめぐっていて、東屋と池を配したその庭は、さながら楽園のようだった。この瓦は遠く紫金山の麓の蒋介石の別荘の瓦かも知れないと聞いていた。このような病院施設の工事に精出した設営隊だから、私に対する待遇は特に良かったのかとも思われた。   
 そして、私は数日後に無事退院することができた。        

 本隊に帰ってみると、飯野さんは大分自由に振る舞ってはいたらしいが、留守隊長の替わりとして来た彼の 上官との対立という様な問題も当然のことながらあり得なかったから、その意味では平穏であったらしい。仕事はと言えば、光華門外の飛行場が連日の雨で冠水し、その排水作業に忙しかったようだ。飯野さんの指図で飛行場に据え付けてある二百トンポンプを二台、フル回転して排水に当たっていた。                   
 が、飛行場の冠水はやがて解決したのに、彼は、以後も昼夜連続でポンプを回し、周囲の広大な池まで完全に排水してしまう大規模な「掻い掘り」作戦を始めたのである。これには私も驚いたが、今、彼のやることに口を挟むことのできる者はこの南京にはいないのだ。      
 彼の話で、飛行場に行った私は、二、三十人の苦力が漁網を引いて魚を捕っているのを見たら、つい自らも池に入ってみたくなり、魚を手掴みで捕り始めた。魚は皆この池で十分に育ちきっていたので、巨大なものばかりだった。鯉、鮒、鯰も内地では見られないような大物であり、他に中国産の、れん魚、草魚、雷魚、白れん等の獲物が大量に捕れて、まるで、漁師の大漁の状況だった。大きな草魚等は私が精一杯持ち上げても、その尾を地面から離すのは不可能だった。とても、本隊だけでは処分不可能で、ドラム缶十本ばかりに詰めて、海軍の各部隊に配給して回るという騒ぎである。思いがけない魚の配給に各隊の主計課は大喜びだった。我が隊でも烹炊員が色々な料理を作り、又、一部塩漬けして貯蔵する騒ぎだった。こんなことも小島技手がいたら許されることではなく、飯野さんの破天荒な行動は到底常人では止めようがなかった。
 その噂が、あるいは誰かの口に乗ったのか、南京班には次の班長が着任し、新しい技生も配置されて、どうやら私達の時代は終わったようだった。

 飯野さんは上海に帰任して、私にも内地帰還の話が囁かれていた。南京で約一か月休養して、昭和十六年三月頃に南京を出ることになった。早速事務員に私の酒保物品の精算を頼んだら、何と七十円近い未払いがあるとのことだった。その頃の私の給料はと言うと、本給は全部家族渡しで、その上に現地で同額の支給を受けていたのだが、食事代は官費で賄われたれから、支給分は私の場合結局全部酒保での支払に充てられていた。

 は、自分用の拳銃として、モーゼルという連発式の新式銃を友人から買って持っていた。引き金を引けば、機関銃のように続いて弾丸の飛び出すものだった。それを、この際、少しでも金が欲しいので、事務員に売ることにして、十円程で手放した。帰りの旅費など計算すると六十円は不足だったので、仕方なく、母に手紙を書いて、金六十円の無心をした。こうして、酒保の支払いも済ませ、これでもう懐かしい南京も最後だと思うと、色々なことが思い出された。命懸けの場面もあって、思い出は尽きなかったが、いつの日かまた来ることを期待して南京駅より発ったのだった。

 下関しゃかんのホームで、同僚部下の面々の姿の中に、下関の苦力頭くーりーがしらがいるのを見つけて、私は一瞬胸が熱くなった。彼は、数か月前の冬の寒い夜、私が下関で酒に酔い、いつの間にか道に迷って、射撃場の近くの、村民全てが敵性であり、危険だとされていた地域に入ってしまったとき、咄嗟に私を見つけて、急いで民家の物置に引き入れ、隅の藁束の中に私を隠してくれたのだった。その上で、彼は、夜明けに洋車を連れてきて、私を下関まで送ってくれ、こうして私は彼に一命を救われたのである。彼は、我が隊が苦力を使うときは、いつも先頭に立ってその世話をする、まことに勤勉で義理堅い立派な男だった。だから、私は、彼のことは終生忘れることができない立場なのである。             
 私は、この苦力頭のことを心に留めていたので、後年、昭和五十年頃、妻とツアー旅行で行った上海で、偶々道を聞いた中国人の老人が、私達四人ばかりをタクシーに乗せると言って、上海で数少ない車を探しに行ってくれて、一時間以上が経ったとき、仲間は、          
「やはり、車は無理なんだ。彼は帰ってこないだろうから、諦めて、帰ろう。」                            
と言ったとき、私は、                      
「いや、中国人は絶対約束を守る。必ず来るから、待ちましょう。」 
と、頑固とも取られかねない態度で言ったのだった。        
やがて、彼が全身汗水漬くになって、一台のタクシーを連れて来たとき、私は本当に嬉しくて、快哉を叫びたいほどだった。私がこれ程に「中国人は嘘つかない」を固く信じることができたのは、この苦力頭の誠実心があったからなのであり、彼は、私の命を救ってくれただけでなく、人を信じることがいかに大切かを教えてくれた人でもあったのである。


一六 上海設営部より横須賀建築部へ               
 上海本部に着いて、まず三岡書記に挨拶した。三岡さんは、例の私の手紙の件がまだ頭に残っていたらしく、              
「小池君、大変だったな。だが、君はよくやったよ、わしは感心しているんだ。」         
と言ってくれたので、私も感謝の辞を申し述べたのだった。     

 早速、飯野さんを戌基地の設営隊に訪ねたら、彼は、上官の技師に気安く誘い掛けた。     
「技師。これから家に一寸寄りませんか。小池君も来たので、一杯やりましょう。家内にもうんとサービスさせますよ。」         
だが、技師は、                         
「わしは、今日は他に用事があるので、失礼するわ。また、寄らせて貰いますよ。」        
と丁寧に断られた。                       
 飯野さんは、上海では南京の芸者とアパートで一戸を借りて、世帯を持っていた。少将級の設営部長でさえ、狭苦しい宿舎に入っているご時勢に何と言うことなのだろう。実に驚くべきことのように思われたが、彼は何か上官の悪事でも握っていて、文句を言わせないだけのものが彼の胸に納められているのかも知れない。私は、その晩彼の家で御馳走になって宿舎に帰ったのだが、何とも味気ない後味の悪い気分であり、やはり彼の性格には私と相容れないものがあると感じたのだった。
 上海からの客船は、豪華客船の上海丸だった。その船体を黄浦江上に見たときには、来るときに陸兵と一緒に船倉に詰め込まれた薄黒い輸送船が思い出されて、一瞬、三年ばかりの間に自分が少し出世したような錯覚に惑わされたが、上海丸での我々の船室は、やはり三等位のところで、飯野さんと東京の筆生との三人が相部屋で、しかも、ござ席だった。
 出港して数時間を経た洋上で、憲兵隊の所持品検査が始められた。憲兵曹長が一人で、回って来るのだ。やがて私の所での検査が始まった。私達は背広姿で、おのおの軍刀を袱紗に包み、傍らに持っていたので、憲兵は我々を海軍士官と見たらしく、言葉つきは丁重であった。私は、南京等で撮り始めた写真のネガを、約六百枚、海軍の図面袋に封をして、二袋持っていた。                        
「これは何でしょうか。」                    
と憲兵が尋ねるので、                      
「私達は、支那方面艦隊設営部の者だが、軍機に属する物であり、人に触れさせることはできない。」                  
と返事したら、憲兵は、                     
「ああ、そうでありますか。失礼しました。」           
と丁寧に敬礼して、それで私の検査は終了したのだった。前述したように、その中は、かの上海本部の美人タイピスト等の写真もあり、私は内心びくびくしていたが、意外と毅然と言い放ち得たことに、我ながら快心の笑みを浮かべたのだった。                  
 佐世保施設部で、人事課に出頭し、横須賀転勤の辞令を受け取って帰路についた。飯野さんの提案で、霧島温泉に一泊することに決まり、まずは、内地の温泉でくつろいで、中国での足かけ三年間の苦労をさらりと流したのだった。                       
 横須賀駅に降り立った私の財布には二円ばかりの金が残っただけだった。だが、こうして、私は無事に内地に帰って来れたのだった。   


一七 横須賀施設部工廠現場                   
 昭和十六年四月ころ上海から帰って、私は原勤務地の横須賀海軍工廠現場に復帰した。
 建築部は施設部と改称されていた。工廠現場は以前のまま三浦技手が現場主任だったが、陣容は大分変わっていた。大変人数が多くなって、技手も三名となり、その他に徴用技生も三人ほど新たに配属になったうえ、少年給仕が二人増えて四人、女給仕二人という大世帯だった。ここのほか現場の出先事務所もあり、そこでの工事も大多忙のようだった。
 その頃の海軍の戦備拡充の様相には凄まじいものがあり、本州の北端の大湊にまで海軍工廠が新設されることになって、当横須賀工廠がその設計基本とされ、当工廠現場が設計本部となった。そして、当現場事務所の技術陣はすべてその設計に当たることとされたのである。 私が帰ったころは設計は大体完成して、工事着手の寸前だった。私が着任後、旬日も経たない内に、工事陣は次々大湊へと出発して行った。私は横須賀工廠の工事現場において、以前に増して責任を持たされて、設計、監督等多忙な日課に追われることとなった。         

 工廠には米工の一年先輩の宗川伸さん一人が未だ残っていたが、私は三浦技手と相談して、彼を建築部に転勤させることに成功し、彼と共にその転勤を喜び合った。だが、彼は、私が設営隊としてブーゲンビルに出陣した後の昭和十九年八月には同じく設営隊(第三〇五設)で出陣して、その後、太平洋上で乗艦と共に爆沈、戦死してしまったことは、今もって私の痛恨の極みなのである。                 
 横須賀軍港の小海の二百トンクレーンの下には、船艦陸奥の艦橋が人目を圧して聳え立っていたが、それは私が工廠在勤中から着工された陸奥増強工事だった。                       
 私は、工廠当時その士官室の洋服ダンスの製作に当り、仕上げたそのライラックの木目模様が目に浮かぶようだったが、今はさらに高度の技術をもって、この巨艦の改造に係わることとなったのだった。小学校の読本に「今日を晴と満艦飾を施せる大戦艦・・・」とうたわれた陸奥は、進水当時は三万三千トンと公称されていたが、この度の大改造で、四万五千トン余りの排水量となり、船体後尾も七、八メートル延長されて、戦備各般にわたる増強が施されたのだった。艦の主エンジンも当然増強されて、今までその全許容能力が最高重量五十トンだったのが、新エンジンは総量百トンとなる計算だった。

 造機工場、組立工場の増改築工事が工廠側の要求によって進められていた。そして、この度の増築工事は、緊急作戦のため、当工廠現場で設計するよう本部より命があった由で、三浦技手は、この設計を私に一任したのだった。私は、自分の好む構造力学の実用設計であり、大張り切りで着手したのだが、それはそう簡単なことではなかった。組立工場の現状を視察したところ、現場の工廠側は、「現在のクレーンガーダの高さのままで、梁上クレーンが走るようにしたい。また、梁の下の柱も現在のままの高さにしたい」と言うのだ。そうすると、結局、現在のクレーンガーダの「成の高さ」そのままで百トンを持ちこたえる梁を設計せねばならないことになる。三浦技手もそのように設計せよというのだった。私は早速梁の構造計算に入った。私の計算では、上下のアングルは八インチとなり、ウェブプレートも厚さ一インチ、となると、それは巨大な梁であった。力学的な計算は、シンプルビームの計算であるから、難しいものではなく、単純明快だった。三浦技手もこれを承認され、その他の鉄骨構造は在来に倣うこととなって、全設計は完了し、本部の承認も得て、請負入札も手順良く決まり、施工は馬淵組と決定され、着工の段取りとなった。この時点で、私は、当時第一の現場出張所、中央現場事務所主任の役を仰せつかった。                
 ここの組立工場は造機部の最終段階の工場であり、艦船の汽缶その他重要機械の組立作業のため、連日連夜ごった返しの状態だった。第一番の私の現場担当は、「水盛り遣り方」だったが、それが難事中の難事だった。トランシット(測量儀)の見通しが不可能なのだ。職工達の出入りは絶えることがなく、そのうえ機物金物が雑然と散乱していて、測量もできない。やむなく、私は建物の端の線を測って、そこからトランシットで九十度を振り出して、遣り方の中心線を決めたのだった。    

 基礎工事は、設計通り進められ、捨てコンクリートの割栗コンクリート工事は、夜中の作業と言うことになったのだが、部下の工員達から、この工事の問題点を指摘する声が聞こえてきた。それは馬淵組の土工の悪名高い「朝鮮ミキサー」の話だった。当時、同組土工の親分格の者は大男の朝鮮人だった。彼は乱暴で、力が強く、他の土工達は彼の怒鳴る声にはいつも震え上がっていた。また、我が方の工員達にも、彼には文句一つも言えずに遠慮する傾向があった。その「朝鮮ミキサー」は、コンクリートの混合を完全にせず、途中で基礎に入れ込んでしまうのだ。それでは本当のコンクリートができず、強度が出ないので、我々はこれを禁止していたのである。私が現場を見ていた際に、案の定、私の目の前でこれが始まりだした。このとき、私は上海帰りの男の見せ所とばかり、一気に怒鳴っていた。                    
「馬鹿者! 何をする。そんなコンクリートがどこにある。俺は許さんぞ。」                             
私の剣幕に彼らも吃驚したらしく、今までの監督とは段違いの厳しさで臨まれ、作業法は忽ち正常に復したのだった。           
 鉄骨の加工組立も、馬淵組の工場まで現寸検査に行ったりして、着々と進んでいった。だが、梁の加工組立の段階に至って、組の幹部から私に相談があった。                        
「我々のニューマチックハンマーではこの梁の絞鋲はできません。」 
と言うのだった。私の設計では八インチのアングルは、厚さ一インチで、梁に組むにはウェブプレートとも三インチ、七十五インチとなり、鋲の長さが九十センチ位にもなる訳だったから、これをコークスで赤めても、ハンマーで打っている内に鋲は冷え切ってしまって、「かしめ」ることはできない道理だった。さあ困った。私にもこれに対する何の手立ても見つからない。当時の建築工法では困難なことで、三浦技手もこれれには参ったようだった。そのとき、造機工場の技師から名案が出た。  
「製缶工場の水圧絞鋲機を使えばできる。」            
と言うのだった。それは軍艦の最重要な汽缶の絞鋲の際に使う強力なものだった。早速組の鉄工を製缶工場に 向けて、見事クレーンガーダの組立を完成させることができたのだった。             
 苦心の末に工事は完成して、工廠から「百トンクレーンの荷重試験に立ち会ってくれ」との連絡があった。この試験のとき、私は初めて梁上走行起重機の運転席に乗ったのだが、旧工場から増築部分に向かったときに、私は一瞬我が目を疑って呆然とした。新旧のクレーンガーダの接点が直線でなく、曲折しているのだ。それは微少な曲がりだったが、曲がりは曲がり、直線ではない。最初水盛り遣り方のとき、在来建屋からの一線が引けずに、角の線から九十度を振り出したときの私の失敗であることは明白だった。だが、建物の幅には間違いがなく、クレーンは正常に動いていった。そして、百トンの荷重試験自体は無事終了したのだった。私はつくづく自分の未熟さとと修業不足を恥じ入るばかりだった。

 だが、我々の工事は突貫に次ぐ突貫で、次から次へと新築工事が進められ、目の回るようなところへもってきて、工事中の事故も次第に増加する気配があった。三浦技手からは、もし死人が出た場合は、工廠内では生きていたことにして、早く廠外に搬出するよう、固く命じられていた。工廠内で死亡となれば、すぐに憲兵が来て調査ということになり、そうなれば、憲兵隊の許可が出るまで死体は動かせなくなって、現場に支障が出るうえに、調査結果によっては工事係官の責任問題等大変なことにもなる。だから、各自十分注意するように、とのことだった。
 私がまだ中央現場に出る前、事務所で設計をしていたときのことである。近いから出来る筈だと、事務所前の理化学研究所の増築工事の監督を任された。それはほとんど完成していて、窓のガラスス工事の施工中だった。ある土曜日の午後、私が見廻り中、現場に立ち寄って、二階の窓から外を見ていたときのことである。いきなり窓の上から人が降ってきたのだ。それは本当に突然のことだった。三階の窓から職人が落ちたのだ。そして、私の目の前で悲惨な状況が展開されたのだった。眼の下に、空のウインチ小屋の片流れのナマコ屋根があり、その先端に職人の首がまともに当たって、直後、彼は地に伏してもう動かなかった。私はすぐに階段を駆け下り、組の職人達を集めて、急いで彼を担架で門外に出すよう指示した。「生きているのか!」                      
と声を掛けてきた守衛に対し、私は、               
「生きている。大丈夫だ! すぐに医者に連れていけば何とかなる。」
と叫んだのだが、内心では、既に絶命しているに違いないと思っていた。「あのウインチ小屋のナマコ鉄板は二十八番だろう。その鉄板に彼は首を引っかけたのだから、当然首が切れている。とても命のあろう筈がない。」という気持ちだったから、三浦技手の日頃の指示通りに外に出せてひとまず良かったと安堵し、あの職人に対してはまことに気の毒なことをした、悲しい事件だったと一応の心のケリを付けたのだった。  

 この工事の請負人は小泉組だったので、後日同組の者に事故の顛末を聞いて、私はまた吃驚した。  「彼は助かりました。彼はナマコ(亜鉛鉄板の波板)に口を開けたまま当たったらしく、歯の堅さが幸いして、歯が大分欠けはしましたが、ほかは大丈夫だったんです。小池さんの処置が早かったことが良かったと言って感謝しています。」                             
と言う話を聞いて、運の良い男もいたものだと、神様に礼を申し上げたのだった。                          
 鋸鉋工場増築工事の時の事故は大変だった。鉄骨の建て方工事の最中のことだったが、タワークレーンで鉄の梁を釣り上げて回転中に、支え綱のワイヤが切断されたらしく、突然クレーンがぶっ倒れたのだ。高さ三十メートルの大クレーンが、山を崩した土を運搬するための汽缶車の前に落下したのだ。しかも汽缶車の直前わずか一メートルの所にである。もし汽缶を潰したら大爆発で多くの怪我人が出るところだったが、一人の怪我人も出さずに済んだのは、まことに不幸中の幸いで、我ながら肝を潰す出来事だった。                      
この頃は、土木係が山を削って敷地造成をする傍らで、建築係がもう基礎工事にかかり始める、その間ほとんど隙間もないほどであった。当時の土木係の技師は六船渠(ドック)の瀬浦又三技師だったが、彼こそは、後年私が配属された百二十一設営隊の施設隊長となる人であり、しかもブイン本隊の技手室直撃の犠牲者となることなど、神ならぬ身の知る由もない運命だったのである。                    
 事故の思い出と言えば、その次には、この時造成された敷地に建築工事中、二階の床スラブが、コンクリートを打ち込んだその晩に崩壊したという、考えられないこともあった。今考えると、あの頃は地鎮祭も執り行わず、ただただ工事の進捗のみを念頭に置いていたから、或いはあの地には悪霊が鎮められることなくは跋扈していたのではないかなどと勘ぐりたくもなるのだ。                     
 だが、そんなことがあっても、私は上海から帰って以来一段と元気が出て、連日現場を飛び回っては、鉄骨の母屋の上を革靴でぴょんぴょん飛び跳ねるように動いていた。母屋の間隔は一メートルあるから、短足の私が固い皮底の靴で良くできたと思うが、一つ間違えば一巻の終わりだった。その頃の職人にはなかなか気の荒い者もいて、靴先で職人に指図した監督が、鉄槌で足を潰されたなどという話もあり、三浦技手からは十分注意するよう言い聞かされたものだった。          
 その後、前述のクレーン倒壊事故は、クレーン先端部の、ワイヤを取り付けるための通称「陣笠」と呼ばれる丸鉄板と本体を結ぶピンが寒気のために折れたことが原因であったと分かり、寒風の中、軍港が戦時態勢に入って、時代が戦争へと駆り立てていた、その激しさの一端として思い出されるのである。                     
 そういった戦時態勢の雰囲気の中でも、中央事務所は実に明るかった。そこは年中大きな笑い声に溢れていた。私の所に、毎日、造機部の工手が遊びに来ていた。彼は昼休みに私と碁を打つことを一番の楽しみにしていた。私とどっこいどっこいのざる碁で、しょっちゅう待った待ったの掛け合いであったから、昼休み、部屋は笑い声が絶えなかった。ある日、その碁の最中に、私が給仕君に、               
「おい、あれを持って来いよ。」                 
と命じたのだ。彼が皿に盛ってきた料理を、工手に出して、     
「これ、食ってみてよ。旨いんだよ。」              
と私から先に食べ始めるのだった。彼も釣られて食べ出して、    
「これは旨い。こんな旨い物、初めてだ。旨い。旨い。」      
と言いつつ、彼はそれを全部平らげてしまった。やがて、時間が来て、帰り際に、                           
「小池さん。さっきの御馳走、あれは何ですか。」         
と私に聞くので、私は平然と、                  
「あれ、チュー公だよ。」                    
と言った。彼は、                        
「チュー公とは、何のこと?」                  
と聞くから、私が、                       
「ね、ず、み。鼠ですよ。ここの鼠は余計な物食ってないから、味が良いんだよ。」                          
と言ったのだった。彼は飛び上がって驚いた。           
「うわぁ!!俺は鼠を食っちゃった!」              
彼は喉を鳴らして吐こうとしたが、それは既に腹の中深く入って何も出てこなかった。私は、
「しかし、旨かったんだから、結構じゃないの。」         
と笑うのだった。                        
 私は、ここでは時々この鼠の唐揚げで元気を付けていたが、それが後に赴いたソロモンの地での延命の助けになるとは思ってもいなかった。
 その頃、工廠現場に秋田県出身の三浦技手の後輩加賀屋養蔵技生が勤務していた。彼は私と同年くらいで、小柄の優しい男であり、私とは非常に気が合って、親友となった。また、工廠から現場に転勤してきた佐藤駒夫君は、赤ら顔の好青年で、仙台の出身のようだった。彼も私とは兄弟のように親しくして楽しそうに勤務していた。夏には、事務所の給仕達と女性、加賀屋技生、佐藤技生など十人ばかりで富士登山に向かった。私は三度目だったので、指揮官のつもりになって大張り切りで先頭に立った。この時は、女性の身体を考えて、吉田口からのコースを取ったので、前の二回に比べれば楽なもので、楽しい登山だった。    
 戦後、昭和四十九年ころに、秋田市に加賀屋さん宅を訪ねたとき、彼の奥さんは元工廠現場の女事務員で、彼らは当時熱烈なロマンスの後の結婚であったことを思い出し、相変わらずの仲の良さにほほえましく思ったのだった。彼の話で、佐藤駒さんは、陸軍に招集されて出征し、戦死したとのことだった。彼自身も、第二百三設で出陣し、ニューギニア西部のハルマヘラ基地で終戦を迎えたとのこと、お互いの前線での苦労を語り合って、時の経つのも忘れたのだった。その後、私が入手した海軍設営隊総覧という資料によると、その第二百三設の項の同隊員名の中に、柴田技術中尉の名前を見つけ、彼こそは工廠現場から大湊工廠の現場主任として転勤した人なので、彼が加賀屋さんを指名して設営隊に呼んだのかとも思われたが、今は調査の術もない。とにかく、大勢の人々が戦争で死んでいったのだ。                   
 昭和九年に米工を卒業して、この工廠に就職し、昭和十七年までの八年間、ここは本当に私にとっては、社会生活の第一歩からの修行の地だった。工廠在勤中は色々な経験をし、軍艦についても種々の思い出が残っている。水上機母艦大鯨の進水から、艤装工事、次いで、日本最初の溶接軍艦と言われた巡洋艦鈴谷の進水式場工事、その艤装工事、鋼製建具の初歩の工作、戦艦山城、北叡、金剛の大改造工事等々を手がけて、私も次第に軍艦の、ひいては海軍の知識を身近に蓄積していったのだった。このことが後の設営隊での各種作戦にも大いに役立ったし、艦隊の構成やら艦内の名称・配置等海軍関係の知識はある程度理解できていたから、それが他の中隊長達よりは技手としての任務遂行に手助けとなったことは否めないと思う。
 海軍工廠から建築部に転勤できたのは、人事部長と第二課長の温情によるものであり、それが又、上海設営班の経験をもたらし、戦場の貴い経験を得ることに繋がった。それらが、結果的に今日の私の命をあらしめているから、これらの時期を通じての先輩同僚の限りない援助に対する心から感謝の気持ちは、とても言葉で言い表せない。       


    この後の、私の太平洋戦争中の体験については拙著「海軍第一二一設営隊戦記」をお読み頂きたい。
   なお、私は、同戦争の開戦翌年 昭和一七年の四月に技手を拝命した。技生拝命後四年を経過していた。
   当稿は、戦地ソロモン諸島のブーゲンビル島から帰還し、戦後の生活を始めるところから、再開します。

 

 戦後の生活の始まり
 私の戦後の生活は、豪州から母国日本に帰り着き、まずは横須賀市汐入町の我が家にと思って、家のあった丘に辿り着いたのに、その家が爆撃で無くなっていたことから始まった。そして、絶望して立ち寄った同市中里の、かよ姉の婚家 磯村家で、姉から、私の家族が福島県郡山の大槻村に疎開して無事と聞いて、安心し、どっと疲れが出て、そのまま二時間ばかり昼寝してしまったのだった。              
 翌早朝、私は、東京に出て皇居二重橋前で、天皇陛下に拝礼し、帰還のご報告を終わってから、今後の生きる道を考え、何よりも、三浦技手に帰還の挨拶をすることから始めようと思った。私は、それ以外に敗戦後の方策について何も思い当たらなかったのだ。          
 京浜急行の金沢八景駅で下車し、六浦の三浦技手宅の門を叩いた。三浦技手は在宅していて、                     
「オー。小池君、よく還ってきた。待っていたぞ。君の帰りを。」  
と喜んでくれた。私はソロモンでの終戦と部隊の終末の話など簡単に報告し、家族が福島県にいること、仕事の当てのないことを話した。彼はすぐに、                            
「それでは、すぐ、横須賀に出てこい。仕事は私と一緒にやろう。今、私達旧施設部全部が運輸省建設部に転属して、私は工廠現場の者達とその金沢支部にいる。事務所は駅のすぐ側だ。元の連中が皆いる。明日、事務所に来て皆に会ってくれ。それから相談をしよう。」      
 明日の出頭を約して、私は、姉宅に帰宅し、「無事還った。明後日中に行く」と疎開先の家内に電報を打った。             
 翌日、金沢支部に三浦技手を訪ね。長沢、大沼君をはじめ旧工廠の現場そのままの、支部職員達に挨拶したのだった。三浦技手は、まず福島からの家族移転を急ぐようにと、運建技官採用者の証明書を作ってくれた。仕事は三浦技手の補佐役だから、従来通りやればいいので、何の心配も無かった。                         
 そして、上野から福島行きの列車の人となり、私の家族との再会の旅となったのである。汽車の中ではさすがにもう気が立って、心は焦るばかりだった。あの汐入駅で別れたままの妻は、母は、そして生まれた筈の我が子洋吉はと、思いは巡るのだが、これまでの戦地生活からすれば、家族に会えること自体がまるで、夢の中でのことのようであった。これは現実かと顔をつねれば痛いので、やはり、これは本当なのだと自分に言い聞かせていた。そして、ついに列車は安積永盛駅にガタンと停車した。だが、時間は既に夕刻であり、辺りは薄暗くなっていた。駅員に聞くと、大槻村はここから五キロばかりの一本道だと教えられたが、歩くことなど何とも思わなかった。敵がいる訳でなし、弾丸の飛んでくる心配のない道など、半日でもぶっ通して歩けるという自信があった。一本道をとぼとぼとリュックサック一つを背負って歩いて行った。二月は二十日の頃だったので、東北の福島県ということであれば、当然寒い筈だったが、我が家に帰る興奮で、私には寒さも感じられなかった。歩くうちに腿の内側がひりひりしてきたが、傷がある訳もなし、気にも掛けずに黙々と歩き続けたのだった。やがて、村の家が少し建て込んできたとき、道の脇の小川で洗い物をする女の人が立ち上がり、顔を見ると、なんとそれは私の妻だった。                    
「貴男! 帰ったの!」                     
と妻の笑顔で、私も破顔した。一別以来三年、少し太って化粧気のない顔は元気そうだった。「ああ、遂に私は生きて帰ったのだ。」しみじみ、そう実感した。すぐに家に入って、懐かしい母に会って挨拶した。母は喜んでくれたが、言葉は少なかった。普段余り表情を出さない人だから、内心はきっと、泣き叫んでぶっ倒れる気持ちだろうと思う。私のいない間は、ただ黙々と心中夜も昼も、寝ても起きても、私の無事を神仏に祈り続けていたであろうから。                   
 私は妻が出した着物に着替えようとして、ボロの軍服を脱ぎ、先刻ひりひりした腿を出してみて驚いた。私の腿は血で真っ赤になっており、未だに出血していたのだ。私の身体はソロモンでの栄養失調状態のままであったから、身体全体から脂肪分が失せ、皮膚もボロボロなのだ。それが歩行中に服との摩擦で破れて血が噴き出したという訳である。そして血がなかなか止まらない。家族は吃驚して、急いで油薬を付け包帯を巻いてくれるのだった。                      
 母によると、村の人の話では、戦地から帰り急にご飯を沢山食って、死んだ人がいるそうだとのことで、私用に柔らかいお粥が作られて、少しずつ食べるよう注意された。長男洋吉は二歳三か月だったが、数え年四歳になるのに、未だ歩けなかった。初めて見る父はとても馴染めないようで、彼は私の顔を不思議そうに見上げるばかりだった。     
 妻には、今後のことについて、三浦技手に会って彼の所で働くことにした旨を話した。三浦さんは私をすぐに運輸技官に任官させるというし、私達はもう生活の心配は要らないのだとも話した。         
 妻の話では、昨年の六月から役所の給料が止まっているとのことだった。戦に負ければ、軍の給料は止まって当然とも思ったが、少し変だなと考え出した。そして、昨年六月と言えば、私が志願して武官に転換し、准士官になった時期であることに気が付いた。きっと、何かと手順の悪い海軍が、現地との連絡で、私の文官の給料を止めることは手際よく済ませ、それに代わる武官の給料の支給を開始することを忘れたのに違いない。だが、武官の分を誰かが詐取しているかも知れないし、私が言い出せば新たに罪人を出すことになるかも知れない。戦に負けたのだから多少の損は仕方ない。自分は生きて還って、働き口もできて、明日からは心配ないのだ。我慢すべきだ、そう妻を説得し、私が呉を出るときに頂いた千円を妻に差し出した。妻は貯金もあと千円ばかりで、来月の生活が不安でたまらなかったところで、私の千円が危機一髪の助けになったと喜ぶのだった。                     
 私は次に横須賀進出の手配に廻った。それには、まず汽車の切符買いから始めねばならない。次の日から毎日私は永盛駅で切符買いの列に並んだ。だが、切符の発売は一日に二、三枚という具合であったから、遠い道を歩いて行く私にはなかなか番が回ってこない。毎日無駄骨を折って通った三日目、私は意を決して駅長に掛け合うことにした。駅長に三浦技手から渡された官の角印入りの、運輸省の証明書を見せて、切符の発給を申し入れたところ、これによって、事態が一変した。駅長は私の前で敬礼し、                           
「まことに失礼致しました。初めにこれをお見せ下されば、お待たせしませんでした。切符は早速差し上げます。お荷物用の貨車は何両用意致しましょうか。」                       
と丁重に頭を下げるのだった。                  
 私は夢を見ているようで、拍子抜けし、今までの苦労は何だったのかと馬鹿らしく感じると共に、今更ながらこの国の官の威光の強さに驚き呆れるのだった。そして、駅長の手配してくれた貨車に無事家財道具の一切を積んで、横須賀に着いたのは二月二十六日だったと思う。直後の三月一日から東京、横須賀への転入は制限されて、新規転入は一切不能となったのだから、この時の駅長の手配がなかったら、私の戦後の運命は真っ暗だったかも知れないことを思えば、私にとってはまことに有難い間一髪の展開であった。ついでながら、金融制限令が発令されて、三百円以上の貯金が現金化できなくなったのも、三月一日だった。   
 私の荷物の搬入に際しては、全部運建(運輸省建設部)のトラックが姉宅まで運んでくれたから、ことの運び様としてもまことに結構この上ないものだった。                         
 昭和二十年早々からの横須賀危うしの噂に、妻が気を揉んで、いよいよ疎開のため横須賀を出ることとなったときには、飯野さんが役所の工員を多数連れてきて、家財道具を全部枠造りにして完送してくれたそうで、私が戦後家財に関しては何の不足もなく、心配なく暮らせたのは、一にかかって飯野さんのお陰であったから、私が彼の恩には万難を排してもと思う所以はここにあるのである。私が還ったとき、私が横須賀の初所帯でボール紙を丸く切って作ったお釜の下敷きまであったのには本当に驚いたものである。                     
 そうして、姉の家から連隊脇の一軒家に引っ越して、横須賀での私の家庭はようやく定着した感があった。だが、私の人生には、その後もまだまだ激動の波が次々と押し寄せてくるのだった。         
 その頃、運建は大船に関東支部があり、昔の海軍建築部の、軍隊及び軍港に関係のない現場事務所が、その支部になっていて、以前の現場主任が在勤職員をそのまま使って業務に就いていた。所管業務は運輸省の施設工事だったが、大したことはやっていない様だった。戦後の過渡期の、施設部残存部隊の、生計のための仮の姿というところだった。
 長沢利男君は、私が出征したときには未だ十五、六歳の少年で、その兄二人と一緒に施設部当時から勤務し、三浦技手は、利男君を自分の手元で使っていた。彼の長兄は経代と言い、実に良い少年だった。小学校を出るとすぐ給仕として勤務し、その後工員となって、私の出征時には既に技生になっていたと思う。次兄も当事務所に入っていたが、これは鉄工で、兄弟達とは違って黙々と働く実直な男だった。末弟の利男君は、長兄に似て利発だが、長兄よりも気が強く勉強もできた様で、三浦技手の虎の子工員となって、三浦さんが「この子は成人前に任官させるんだ」と大変目を掛けていた。そして、現在の運建事務所で、彼は既に成人して立派な青年となり、三浦さんの一の子分として活発に働いていた。彼の長兄の経代君は陸軍の召集で出征して、中支方面で戦死したとのことで、痛恨の限りである。                       
 さて、そうこうするうちに、私にはだんだん三浦さんの事務所の驚くべき実体が見える様になってきた。それは、彼でなければできない、大胆不敵な振舞いというべきであった。驚いたことに、彼は、三浦半島全体の海軍の建設資材を、すべてその手に集めて私物化していたのだ。六浦の海岸脇にある、三浦さんが借り上げた、馬淵組の約三十坪の倉庫二棟には、これら資材が満杯だった。それは釘、硝子、セメント等の建築資材、作業服、毛布、蚊帳等の衣類、そして食糧だった。その中には、なんと白米百五十俵も積まれてあったのだ。三浦さんはそれを私に見せて、                              
「これは、これからの我々が、平和日本を建設するための最重要の物だ。君はこれを命懸けで守ってくれ。」                
と言うのだった。                        
私は、                             
「命懸けは経験済みです。任せて下さい。」
と答えたものの、米は、このままでは保存管理や移動が難しいと考え、その対策として、石油の一斗缶に詰め替えハンダ封印しようと言うことになり、私が毎晩若者一人と、その作業にかかることになった。それが数日続いたある夜、一寸怖い思いをしたことがあった。私達が倉庫内でその夜間作業に従事中、隣の倉庫に盗賊が入ったのだ。それも集団による盗賊で、五、六人が侵入してきて、倉庫の羽目のナマコを外し、倉庫から釘樽を担ぎ出し始めたのを見つけて、 私は若者にすぐ近所の交番に走らせた。交番の巡査は、その頃の窃盗団は武器を持つ賊もあり危険だったので、すぐ近くの米軍MPに通報したらしい。武装したMPが舟艇で出動し、海から賊を包囲する様な隊形で進んできた。だが、盗賊団もなかなかの強者達で、逃げ足も速かった。包囲の網を詰めて、最後に捕らえた賊はただ一人だった。彼は尋問には、           
「今朝、金沢八景駅で、初めて会った人に、仕事があると頼まれて来たのだ。あとはその人達と仕事のつもりで働いた。」         
と言うだけで、首領は不明とのことだった。            
 私達の作業が終わった頃、班内の共産党の分子と私との間で争いがあり、彼との格闘で、私は上海設営隊土産の大事なワイシャツをボロボロにしてしまう一幕もあったが、どうやら、だんだん班内に不穏な空気が漂い始めた。そして、遂に米の所在が発覚し、食糧営団からの出頭命令が来たのだった。途端に三浦さんは真っ青な顔になり、       
「小池君、もう駄目だ! 君は営団に行って米を全部出してくれ。私は何も知らぬことにしてくれ。」                  
と言って、その日の内に逃げてしまい、行方不明になったのだった。 
 私は、工員達に、                       
「おい君達、米を持てるだけ持って帰れ。私は明日、全部営団に米を渡すことにする。急げ!」                     
と言い渡し、彼らは急いで一缶ずつ米を持って帰宅した。次の日、私はトラックに残りの缶全部を積ませて、食糧営団事務所に出頭し、米を全部引き渡したのだった。その後、私は横浜の特公警察から呼び出され、米のことについて厳しい尋問があった。私は、           
「米があったから出しました。それだけですよ。私は先月ソロモンの戦地から復員したばかりで、今までのことは何も知りません。」    
ときっぱり返答した。警官も、戦争気分の抜けきらない様な、荒々しい私の態度に恐れをなしたか、それ以上の質問はなく、それで米騒ぎは終わりだった。                          
そんなことがあってから、私の三浦さんに対する考えが、だんだんに変わっていった。彼の側に加賀屋技手の兄貴で、彼よりずっと年上の男が付いていた。これがなかなか口達者のしたたか者で、三浦さんと組んで、色々な悪事を重ねてきたらしい。現に、彼は横浜の銭湯を買い取り、その主人に納まって、役所と風呂屋の「二足の草鞋」を履いていた。三浦さんは終戦のどさくさに紛れ、施設部の朝鮮工の人達の貯金通帳を一手に詐取し、彼らの印鑑も事務所にあったので、全部換金し着服して、その額は億の位に及ぶなどという噂も立っていた。その陰の財力を振るって、彼は次期市議になろうとしている、との噂も班内では流れていた。
 そして、遂に、私に決心を迫る事態が発生した。それは、三浦さんが、巧妙な手段で 私を用い 自分の悪業を払拭する作戦に出たことによるものだった。当運建事務所の経理部門の決算書を、合法的に処理した如くに記載して、その責任者を私とし、私に捺印せよと言うのだった。                            
 私は決然これを拒否した。そして、言葉を改めて、言った。    
「今日限りで、私は退職致します。色々お世話になりました。」   
 そうなるには、実は、伏線があった。数日前、大船の運建関東支部に連絡することがあって乗った東海道線の電車の中で、思いがけない人に会ったのだ。それは米工の「キリン先生」鈴木富治建築課長だった。 
 先生は、                           
「おお、小池君、よく還ってきた。実は君を探していたんだ。今どうしているんだ?」                        
とのお尋ねで、私は、                     
「今、運建の金沢支所にいますが、どうも気に入らないので、辞めようと思うのです。」                        
と答えたのだった。先生は、                   
「それは丁度良かった。君、水戸の勝田に行かないか。僕の友人が勝田で工務店を開いているが、君の様な人を探していたのだ。頼むから行ってくれ。」                           
と言われて、そして、                      
「私は、今、仙台の大木建設に勤めていて、今日は請求書類を持って、大船の運建事務所に行くところだ。大木は今、運建の仕事が多いんだよ。」とのことだった。                        
 私は、偶然の出来事に呆然とするばかりだったが、この偶然は、今の事務所の状況に照らし、なんとも幸運なことと思われて、神に深く感謝したい気持ちであった。                     
 私は、三浦さんのことで、その頃考えるところがあった。このまま彼に付いていけば、金に困ることはないかも知れない。だが、私は嫌だった。私達が命懸けで戦ってきたのは正義のためだった筈だ。こんな汚い金欲しさのために命を懸けたのではない。こんなことをしていては、死んだ戦友にも申し訳ないではないか。俺は辞めるべきだ、と思った。
 三浦さんは、私の予想もしない反撃に面食らったらしい。そして、私宅へ色々と使者を向けて、金やら米やらを届けてきたのだが、私は、全部拒絶して追い返した。家内には、                
「三浦さんの所は面白くないので、辞める。キリン先生の話で、勝田の平井工務店に行くことに決めた。」                
と簡単に話した。                        


 勝田の平井工務店へ                     
 私は、母や妻子を横須賀不入斗(いりやまず)町の自宅に残して、今で言う単身赴任となって、勝田に向かった。勝田は水戸駅の一つ先で、小さな農村だったが、日立製作所の大きな工場があり、活気のある田舎町だった。  
 平井工務店の社長は六十先の老人で、小さい製材工場の脇に事務所があり、他に技術屋もいない様だった。小金を持った役人が戦後の思い付きで建築屋を始めた様な風だった。鈴木先生とは古い友達のようで鈴木先生紹介の私のことは、先生の話で先刻十分承知し、私には、良く来てくれた、大いに歓迎、という態度を示してくれた。        
 食事は年増の女の人がやってくれて、私はとても大事にされ、気楽な生活だった。仕事は大した工事もないようで、全てがこれからというところだった。私が着任したのは四月の初めで、田舎風景豊かなこの町の様子は、私には誠に心地よく、戦に負けてこの方、初めて人間に戻ったような気分に浸るのだった。                   
 しばらくすると社長から、                   
「鈴木先生の話で、米工の今年の卒業生が三人来ることになった。君、宜しく指導してくれ。」                     
と言われた。さては、今年は不景気で卒業生も就職難かと思い、敗戦の日本はこれから大変だなと思われた。この会社の現状で、三人もの新卒者をどうすれば良いのか、私にはこんな経験はなかったので、戸惑うばかりだった。                          
 やがて、三人が来る日が決まり私が水戸駅で彼らを迎え、大八車に彼らの荷物を載せて勝田に運ぶことになった。水戸駅から勝田までは六キロ位あって三人に車を曳かせて、私が道案内をした。戦場を駆け回った私には楽な作業と思われたが、学生の彼らには難行だったらしい。勝田に着いたときには、彼らはもう伸びていた。彼ら三人は、小関宮二君他二名であった。私は、彼らに対する指導としては、まず大工作業からかかることにした。社長から大工道具を買って貰い、道具の研ぎ方、手入れ法等から始め、板削り、継ぎ手仕口等教えたのだが、その頃学校ではこれらについて何も練習したことがないとのことで、彼らには辛いことであったらしい。一か月も経たない内に、小関君以外の二人は退社していったのだった。                        

 水戸に戦友小沼技手を訪ねる。                
 その頃、私は、この勝田が水戸に近いことから、水戸の小沼さんに会おうと決心した。小沼技手には、ピエズ島の第一二地区捕虜収容所で、電工の柳川小隊長の博打の負けに絡み、博打相手の兵曹長との談判の結果、兵曹長に私から二十円を代わりに払うため、柳川の中隊長だった小沼技手から十円を借りていたのだ。あれはなんとしても返さなければならない、この際丁度良い機会だから返しに行こうと決めたのだった。              
 会社の休みの日曜日に、私は水戸駅に降りて水府橋の近くに来ていた。近所の人に尋ねると、小沼さんの家はすぐに分かった。私は、本道から少し下った小道の先に小沼さん宅を見つけ、その門を入った。      
 小沼さんは、別れたままの温顔で出迎えてくれ、そして、奥さんにも初対面の挨拶を交わすことができた。小沼さんは、陣中でいつも「可愛い春子。私の春子。」と繰り返すので、中隊長仲間では「小沼さんの春子」と名物のように言い囃されていた、その「可愛い春子」さんなのだ。その春子さんは、気取らない人柄の、親しみやすく気さくなおばさんで、私のような東北人にも、まるで身内の人のように接してくれたから、私も一遍に気に入ってしまい、冗談を言いながら思わず大声で笑い合ったりしたのだった。                        
 そして、私が十円札一枚を小沼さんの前に差し出して、      
「今日は借金を返しに来たんだよ。」               
と言うと、小沼さんは手を前に出して、その受取を拒んだ。     
「それは要らないんだ。もう、済んでいるんだ。」         
と言うではないか。私は、彼に、                 
「借りたものは返す。これは私の主義で曲げられないことだよ。」  
と、なおも札を前に出すのだが、彼は、              
「私は、呉に着いてからすぐに病院に入れられた。柳川も一緒だった。そして、そのうち、南方からの復員兵全員に海軍の権兵衛外套が支給されたとき、柳川に話して十円の代わりにこの外套を貰ったのだよ。だから、貸し金は取立て済みなのだ。」                
と言うのだった。                        
 柳川が国に帰ってしまえば、私にもいつ会えるか分からない、見込みの分からない私を探すより、その方が手っ取り早いと、小沼さんなりに判断したことであって、私にとっても有難いことなのだが、極寒期に新潟に帰る柳川君から、ただ一枚の防寒外套を取り上げるまでのことは、私にはやはり出来ないことだと思われ、これからの世間の荒波を越えていくことは、この私には難しいことなのかと感じられたりもしたのだった。だが、小沼さんと会えたことで、私は本当に嬉しかった。このことが、やがて、昭和三十六年頃、小沼さんのお蔭で、結城の石油タンク設置の大工事に携わることに直結するなどとは、思いも寄らぬ私であった。
 この柳川君は、昭和頃に世田谷の私宅を訪ねてくれ、ピエズ島のお礼と共に、出陣前の小柴訓練所で、彼が脱柵するのを見逃した私の処置にも礼を述べてくれたが、私はそのことをすっかり忘れてしまっていたこと、又、小沼さんが、その後、戦時中ラバウルで相良兵曹から受けた打擲によって腰の神経を病み、苦悶の末他界されたこと等は「第一二一設営隊戦記」に記したとおりなので割愛させて頂く。       

 社長命で仙台の大木組へ                   
 その頃のある日、平井社長が私に言うには、           
「実は、以前、鈴木先生から、建築用の釘が手に入るルートがあると聞いて、先生にお金を差し上げて、釘の入手をお願いしてある。その後、連絡がないので、君、まことに済まんが、先生の所に行って、様子を聞いて来てくれないか。」                     
とのこと。                           
「先生は、仙台の大木組の社長宅にいる筈だから頼むよ。」     
との社長の話で、私は早速仙台行きの列車に乗り、仙台近くの船岡町の、大木組の社長宅を訪ねたのだった。大木組の大木健介氏は、米工の三年くらい上の先輩であり、鈴木先生は、社長の恩師と言うことで、当時同組の専務取締役に就いておられたのだった。だが、夕食後の雑談の様子を、私は側で聞いていて、先生の現在は名前程ではなく、社長からは、手に負えない不出来な社員と見られているように感じられた。社長にとっては、気に入らないことばかりのようで、その不満の連発に、私は先生が可哀想になってくるのだった。先生は、社長の言葉にただ首をうなだれ、そして、小さい声で                    
「あのー、それはね、先方にも言ってあることだし、なんとか好転すると思うのだが。」                        
先生の声は消え入るように細くなるのだった。社長は、太い声で、  
「先生! そんな生温いことを言っている場合じゃないよ。もっと、しっかりして頂かないと困るんだよ。」               
と手厳しく言うのだった。                    
 その後、先生と二人だけになったとき、私が平井さんからの釘の話を持ち出すと、                          
「君、それはね、色々と手配したのだが、思うように行かず、私も困っているんだ。そのうち何とかしたいと焦ってはいるが、現在未だ方策が立っていないんだ。」                      
先生の話で、私は事情を全て推察できた。             
「これは駄目だ。先生は既に、お金を他に流用して使い果たし、釘の入手に回す分はないのだ。先生は金のやりくりで、にっちもさっちも行かなくなっている。」                       
結論は既に出ているので、私は先生に、              
「余り無理をなさらないように。平井さんには私からよく話します。私は帰って新卒者の指導をやらねばなりませんから。」        
と仙台を後にして、勝田行きの列車の客となったのだった。     
 勝田に帰って、平井社長には、次のように報告した。       
「社長。鈴木先生に会ってきました。先生の話では、釘の入手は困難のようで、先生は困っております。新製品は未だ発売になってなく、戦時中の物が闇で細々流れているだけ、又、進駐軍の物資は米軍の取締りが厳重で、手が出ないとのことでした。私の推測では、余り見込みはないと思います。期待せずに気長に待つほかないと思います。」     
と平井さんの希望を砕くような言葉で、先生のことを諦めるように進言したのだった。                         
 鈴木先生のことを、学校時代などつくづく考えてみると、先生の性格が大体理解できる。先生は、人が好く、悪気のない正直な人で、いつも生徒のためを思っているが、奇策や機敏なことは出来ず、他人に先手を取られて、いつも後手に回るような具合だった。だが、私は先生のお蔭で、海軍工廠に就職でき、工廠からの転勤ができ、又、今度は平井工務店に勤務替えができたのだから、鈴木先生の御恩は一生忘れることができないのだ。                      


 平井工務店の明神支店勤務となる               
 米工の新卒者は小関君だけとなり、私は彼と二人して栃木県は日光の近くの明神村に、社長が数年前に買い取った山から材木を搬出するために出張することとなった。私達は、はじめ山麓の農家を借り、平井夫人と子供一人と共に、そこに泊まることになった。木材は山から大分伐りだしてあり、その製材からかかることになった。河原脇に製材所があり、そこに事務所にする小屋を建てて、小関君と二人で住まえるようにした。
 その後、社長の話で、工務店が東京の住宅営団の仕事を請け負うこととなって、私は東京へ出張の上、その設計打合せ等に追われる多忙の身となったが、更に、東京からトラック二台で来て、明神の材木を運ぶことになり、杉丸太の良材を車に満載して東京に搬出したのだった。社長からその杉は当時の公定価格で契約したと聞いたが、村の山師の話では、
「今時、公定価格なんて、あってなきが如きなのに、馬鹿げた話だ。」とのことで、お笑いぐさのように言われ、私は、平井社長の馬鹿正直で曲がったことの出来ない性格にも少し不安を覚えたのだった。    
 その頃、静岡にいる戦友の林書記が、私に手紙で綿々と窮状を訴えてきた。実家にいるのだが、農家である親と彼の奥さんが不仲だという。そして、この秋、甘藷の置き場に困るから彼らの住まっている物置を空けて出て行けと言われたというのだ。               
「私には子供が二人あり、家内の腹には次の子も入っている。住むところがなく、職もない。進退窮まってしまったから、何とか助けてくれ。」と言う。私も、今の状態では、自分の力だけでは何もしてやれない。平井社長の力に頼る他なかったので、私は思案の末、社長に、     
「社長、私の戦友が一人困っているんです。彼は、海軍書記だった人間で、海軍では建築部の木材課にいたこともあって、材木には明るいし、事務長として好適だと思いますが、ここで使って貰えないですか。」 
と相談したのだった。社長は、                  
「小池さんが良いと思うのならそうしたら良い。その一家が住めるように事務所に建て増ししても良いですよ。」             
と言ってくれた。                        
 早速、林さんにその旨を手紙で知らせ彼の一家の明神移転が決まったのだった。やがて、林一家はこの村の住人となり、林さんの奥さんが大きなお腹を抱えてまめまめしく働く姿も見られたのだった。     
 私は、東京神田の住宅営団の事務所に時々出張する傍ら、村で雇い入れた大工に木造住宅の軸組を刻ませ、必要な木材を調整しては、それを東京に発送する仕事に励んだ。林さんは、明神村で製材所と大工作業場の間を駆け回り、小関君も大工達の監督方で忙しく働いていた。社長もほとんど出歩いて東京泊が多いようだった。            
 会社の経理係は林さんの主たる役目で、この方は楽ではないようだった。平井さんの奥さんの話からも、社長の金銭感覚は余り整然としないようだった。東京には妾が三人もいて、どうも、金の多くはその方に流れているようなのだ。役所の工事費についても、社長は、経済の実情に関係なく役所の言いなりで受けるために、余り利益が出ないようだった。
 私は、少し考え始めた。これは、どうもうまくない。このままでは、会社が駄目になるのじゃないか。林さん、小関君、私の三人が、共々に路頭に迷う結末になるかも知れない。それよりも、今の内に私が転身して、道を切り開けば、何とかなるかも知れない。私一人はどこに行っても食う自信があった。これは、まず、自分がここを出るしかない。私はやがて決心のつけ時を思案するようになっていた。そんな時、運命の神は突然現れたのだ。                         

六 平井工務店から小久保工務店へ                
 私はそのとき、東京から明神村に帰るべく東武鉄道の浅草駅ホームに立っていた。
 そこで、偶然、工廠の先輩小久保千太郎氏に再会したのだ。
「おお! 小池君。君を探していたんだよ。」           
小久保さんは、開口一番そう言った。彼は、工廠の外建の大先輩で、工員養成所での一等工員であり、私の工廠在勤中、内外建具班の若者達のクラブ活動を先頭に立って指導して、私達に希望を与え、生活に張合いを持たせてくれた大事な人だった。私が発奮して技手養成所受験を決めたとき、工員養成所の造船学のノート類は彼から借用したのだった。彼の話では、彼の横須賀の持ち家三軒を畳んで、東京の深川に移住し、建築請負工事の「小久保工務店」を開業したという。
 だが、船大工の彼には、家屋建築はまるきり異質の仕事で、皆目分からない。そこで、内業建具班から建築部に回って技手に任官した私のことを思い出して、「小池を探せ!」ということになったと言うのだ。私は、即刻、    
「私は今、日光の近くの明神で工務店に勤めていますが、小久保さんの店なら、やり甲斐があります。行きましょう。」          
と答えたのだった。                       
 小久保さんは、海軍工廠当時は、何か修養団のような組織にも入っていた程の人で、正義感のあるなかなかの好人物だったから、私は安心して返事ができたのだった。彼の言では、深川の永代に二間の社宅が空いているから、すぐ横須賀から移るようにとのことだった。私は数日後に横須賀に帰って、妻にこのことを告げ、東京移転の手配を頼んだ。  
 その頃、妻は一か月ばかり前の二月六日、女児を出産していた。私が明神から帰っていたときに産気づき、目黒から家内の母である叔母が来てくれ、二日ばかりして、私が帰ったら、生まれていた。安産のため、母子共に元気で安心したのだった。そして、妻から名前を考えてくれと言われたが、当時社用多忙ですぐ出発となり、次に帰ったときは誕生一週間後で、今日が届けの期限と言われた。戸惑ったところで、ひらめいた名前が、戦争中の主計長の名前を頂いた「眞理子」であることは、私の戦記に記したとおりである。                  
 平井社長や林さんには、やむを得ない事情により退職する旨を伝え、了承して貰って、私は横須賀から深川の永代の住民となったのである。これが、私の東京入りの第一歩であった。             
 目黒の、妻の実家では大変喜んでくれ、妻も母も、この目黒の人達と同じ東京に住めるようになって、非常に喜び、我が家は一段と明るくなったようだった。                        
 だが、小久保工務店の工事は簡単なものではなかった。私も民間の建築工事は生まれては初めてで、皆目分からず、成行き任せに、目の前の工事に押し流される状況だった。この会社の事務・会計の担当は、大学出の小池さんだった。また、彼の従兄が、工事係の雑務を担当していて、この人もやはり小池さんだった。偶然にも小池が集まったのだ。   
 小久保さんは、工廠在勤中、片手間に生命保険会社の外交をやり、大変成績を上げて、千代田生命では、屈指の名声を馳せたようで、彼の横須賀での資産の拡大にも繋がったらしかった。その千代田生命の支店長が、この小池さん達の父親らしかった。小久保さんは、支店長の恩に報いる意味で、その息子を自分の社の会計係としたという訳だ。だから、小久保社長は、この小池には頭が上がらず、何事も彼の言に従わざるを得ないという状態であった。その後、この小池会計と私の反目が極に達して、私が決然退職する場面が来ようとは、私にも予期できなかった。
 平井務店は、私が去ったことで、柱が倒れたようになり、解体されて、私は小関君を小久保工務店に引き取ったのだった。林書記の奥さんは、女児を出産し、三人の子持ちになって、簡単には動けなかった。だが、彼の誠実さは、いつしか村人達の評価するところとなっていた。村中の人々が彼の生活を考えてくれて、村の山持ちの人達が林さんを見込んで、                             
「私の山を提供するから、思うように伐り出して、製材をしなさい。山の代金は材木を売ってからで良い。」               
と言ってくれたそうである。願ってもない好条件に林さんは喜んで飛び付いたのだった。こうして、彼は材木屋として生計が立つ身となって、私は一安心したのだった。                    
 我が家の生計も決して楽なものではなかった。家内は、時々小久保さんの実家の飯能地方に芋の買出しに行って子供二人となった我が家五人の食糧を確保するのに躍起だった。眞理子が大変丈夫で、一人遊びに疲れると一人でころりと横になって眠るなど、手がかからない子であったから、母は「この子は楽な子だ。」と言って、ただ洋吉一人を大事に育てていた。                           
 私は、早朝から現場回りで暇がなく、設計の図面引きはいつも夜業だった。徹夜で図面引きに熱中していると、小久保さんの奥さんが、お茶よ、お菓子よと、接待してくれるのが痛ましかった。私は、その頃「西式健康法」に凝っていて、朝食無しで板の間に寝るなどの荒行を続けていたが、戦地からの栄養失調も復調していない状態での荒行は、身体にこたえたらしかった。次第に痩せてきて、体調も悪くなった。深川保健所に診察して貰いに行ったら、                  
「これは、肺浸潤だ。人工気胸をやらねばならない。」       
と宣せられ、私は胸に太い針を通される羽目になってしまった。人工気胸など初めてやったが、胸の中がぶつぶつ鳴って何とも気持ちが悪いうえ、なんだか自分が大病患者になった様で、情けなくなってしまった。ニ度これを受けて、私は考えた。                
「これは西式の間違いだ。これは止めた方がよい。私の身体は活気を失ってしまった。これは酒で活気をつけるのが一番だ。」       
私は、方針を変えて保健所通いを中断した。そして、大いに酒を飲み、腹一杯飯を食ったのだ。そうしたら、肺浸潤も何もかも吹き飛んでしまった。それは、丁度あの南京での肋膜の時のようで、私はここでも、酒による逆療法で病気を蹴散らしてしまったのだ。          
 家内も、色々と金策を練って、少しでも家計の足しにしようと懸命だった。そして、私は、上海で買ったカメラを売って金にすることを考え、家内に相談した。私達にとってカメラは既に無用の長物だった。家内がこれを売るため各所を探し回って、売れた金が五千円という金額となり、二人で思わぬ大金に喜び合ったのだった。             
 その頃、工廠現場で馴染みの長沢利男君が我が家を訪ねてきた。彼は、今、横建技手だった森技手が社長の薫建設で工事主任をしていて、四谷に住んでいた。そして、そのうち何か私のできる工事があったら下請けをしてみないかとのことであった。私は今は小久保工務店で手一杯なので、駄目だが、考えておこうと答え、彼との昔話に花を咲かせたのだった。                              

 飯野さんとの戦後交友                    
 飯野さんとは、上海からの同時帰還後、安浦の高木技手の送別会を彼の家で行って以来、文通もなく、没交渉だったが、この度の復員で、挨拶すべく、横須賀は馬堀の飯野宅を訪れた。彼の家で、私が仲人を演じた奥さん「お雪さん」が三人の子供を育て、まめまめしく働いていた。
 彼は、私をすぐ連れ出して、彼の馴染みの横浜は上大岡の料亭で、芸者を交えての宴会になった。そして、
「小池君、また、女ができちゃったんだよ。」           
と言うではないか。いつもの女騒ぎとは言え、今度ばかりは事情が違う。私はこの夫婦の仲人なのだ。お雪さんは、私が、鴨居浜の網元の、お雪さんの親達に掛け合って、難しい談判の末、私が責任を持つからと親を説得して纏めた結婚なのである。「ああそうですか。」という訳いはいかないのだ。本当に困ってしまった。飯野さんには出征中我が家は大変お世話になり、私の留守中時々訪ねては相談に乗り、ことに横須賀からの疎開の時は荷造り輸送等全部やってくれて、家内はただ見ている状態で完全な疎開ができたと言うから、戦後我が家の生活が可能となったのもひとえに飯野さんのお蔭と言えるのだ。この人の女性とのもつれは常人ではとても裁き切れないものがあった。永代に越してから、彼が我が家に来て、「何か仕事はないか。」と言い、「新しい女の処置に困っている。」とのことに、小久保さんに頼んでこの宿舎の一室を彼に与えて、彼を当店の工事係に採用する旨を承知して貰った。だが、小久保さんの奥さんは昔気質の人で、夫婦でない男女の生活を極度に嫌っていたから、奥さんは飯野さんを毛嫌いし、お竹さん(飯野さんの妾)に殊に辛く当たったらしい。やがて飯野さん達はまた横浜方面に移っていった。
 私は小関君と共に会社の工事に専念し、着々業績も上げて、砂町近くの東陽町に会社の資産として二百坪余りの地所の所有権を確保した。
 昭和二十二年七月十四日、私は従業員のボーナスの件で小池会計主任と談判して、ついに決裂となり、即刻、退社を宣言した。それは主任が、
「今年は業績が伸びていないから、盆のボーナスの支給はできない。」と言ったため、私は自分のことよりも他の人達のことを考え、    
「もう、この人のいる会社は御免だ。辞めた。」          
と決心したからだった。私は、その日の夕方には家財をどんどん馬車に積み込み、西に向かって馬車を進めていた。            

 小久保工務店から太田建具店へ
 かねて深川千田町の太田建具の親父さんが、           
「小池さん、もしできたら、私のところに来てくれないか。私は読み書きができないので、これから経営上都合が悪いんだ。君が来てくれれば本当に助かる。決して悪いようにはしない。」           
と言ってくれていたのである。私はそれを思い出して、西方千田の太田建具に向かったのだった。太田さんは、大変喜んで迎えてくれ、すぐに隣町の石島町の社宅に案内してくれた。そこは六畳と四畳半の二間の一軒家で、道路沿いの小綺麗な平家の家だった。掃除も行き届いたその空き家に家財を持ち込んで、我が家はようやくその日の内に落ち着くことができたのだった。翌日、小久保社長と彼の兄の飯能の人が私宅を訪れ、何とか戻って欲しいと頼み込まれたのだが、私は、        
「小池会計のいる内は帰れません。」               
と言って断った。
 小久保工務店を出るとき、小関君が泣き声で、私に訴えた。                   
「小池さんにここを辞められたら、私はこれからどうなるんですか。」
私は、すぐに、                         
「小関君。君の行き先はちゃんと決まっている。四谷の薫建設だ。長沢君に引き受けてくれるよう頼んで了解済みだ。心配するな。」
と答え、こうして、小関君は本格的な建設会社の社員となったのである。
 私の太田建具店での勤務が始まった。ここは職人数人と工場を持つ建具製造業で、江東区内の工務店や大手建設業者等に出入りして、なかなかの繁盛だった。三十歳くらいの息子がいて、工場の一切の指揮をし、親父社長が外交一切を担当していた。親父は六十歳くらいの実直な人で、私を大事に扱ってくれ、私は、まるで父親に対するような甘えた気持ちになってしまうのだった。                    
 しかし、私は、やがて、建具やその外交だけと言うことでは物足りなさを感じ、自立の道について考え出した。そして、建築設計こそが無資本で開業できる最良の道と考え、その方策を練った。建築の第一歩は、建築許可申請手続きであり、建築設計事務所の仕事の第一歩は、この行政機関に提出する建築許可申請書の作成業務である。そして、東京都では、この作成業務に就くためには建築代理士の資格を取らなければならない。それには年一回の都の試験に合格するという関門があった。私は早速今年の受験申込書を急いで提出し、勉強を始めた。      
 今まで、ずっと海軍にばかりいて、市街地の法規に縁遠くなっていたため、主に法規の勉強に重点を置いて頑張ったが、試験勉強などずっとやっていないので、「ままよ、当たって砕けろ、出たとこ勝負だ。」と腹を決めて試験に臨んだところ、これが合格となり、しかも、合格証の番号が六番で、後から聞くと成績順ということであったから何とも「まぐれ」の幸運としか言いようがない。その証書に、昭和二十二年十一月二十二日、と日付の記載があった。                 

 建設業の開始
 その頃、また、長沢君から下請けを誘う連絡があり、四谷の薫建設の事務所を訪ねて、森社長に会った。そうして、薫建設の下請業者の列に加わったのだ。当時建築業界は住宅新築で最盛を極めていたが、輸送難等のため、国内は木材不足となり、建築業者はまず材木の調達が先決問題となっていた。ところが、米軍総司令部には、占領地に建てる米軍の住宅用として大量の資材が確保してあり、しかも、それは即座に完成できる組立住宅用資材だった。五十平方メートル位の平屋建て住宅が、屋根、床、壁を含む全てを、完成品の組立によって数日で建ち上がるのだ。「ビルマ協会」という財団が、総司令部から一手にこれら資材の払下げを受け、これを東京都住宅局に納入して、都が、応急都営住宅を建設することになった。そして、まず戸山が原の旧陸軍練兵場の広大な敷地で、この建設の主たる工事が始まった。ピルマ協会は、旧大名の戸田公爵が社長で、この人は、大戦中、ビルマ方面司令官の要職にあったから、米軍との縁でこのようなルートができたらしい。薫建設が、この都の工事を請け負った。そして、私は、その都営住宅の大田区馬込での十棟を、読売新聞社従業員住宅組合向けのものとして、請負う形となったのだ。「小池工務所」、それが、この建設業発足時の、私の建設業者として最初の名称だった。                       
 私の毎日は、実に多忙になった。太田建具での、見積り、完成品納入、建合せ、職人の手配、請求書の提出、工費の受領等の本業の他に、副業である小池工務所の仕事、住宅十棟の完成のための一切の施工業務にも従事することとなったのだ。今度の建築工事のためには、まず大工を見つけねばならないが、私に予めの目当てはなかったから、途方に暮れてしまった。しかし、私はまたしても幸運の神に出会うことになった。それは太田さんの若奥さんから始まった。              
 太田さんの若奥さんが病気で入院した際の隣のベットにいた婦人が稲葉さんと言って、米沢の人だというのだ。更に聞くと、なんとそれが私の横須賀の百合ちゃの所に下宿していた、あの米工の後輩、稲葉一男君の奥さんだったのだ。そして、稲葉君の来訪で、彼が現在鹿島建設の監督をしていることが判明して、彼に大工の棟梁の紹介を頼んだという訳である。    
 こうして、私は、埼玉県の鴻巣に住む小野大工棟梁宅を訪れて、仕事の依頼をしたのだった。稲葉君の話もあり、小野大工は、十名程の大工と、その差配に弟の小野清を付けることを約束してくれた。
 いよいよ、読売新聞社従業員住宅の工事が着工となり、上棟式は昭和二十二年末の三十日、三棟と決定した。それまでの毎日、私の現場回りは大抵夜中で、遅いときは十二時過ぎのこともあった。 くたくたになる程だったが、私はソロモン戦線のことを思いつつ、これしきのことで参るものかと頑張り通した。  大工差配の小野清は、全身入墨のヤクザ者だが、気っぷの良い荒くれ者で、昔の侠客の、吉良の仁吉のような義理堅い男だった。何故か私と気が合い始め、そのうち、私のためには命を惜しまぬなどと言って、徹底的に私に協力する姿勢を示した。どうも、私にはこのような種類の人に好かれる因縁があるようで、戦地で苦労を共にした設営隊の乙幡豊吉が思い出される経過であった。                 
 そして、十二月三十日、無事三棟の上棟を終わり、大工達との祝宴で、私は白く濁ったどぶろくをしたたか飲んでしまった。帰途につく際、私の足下の危なげなのに気付いて、小野が私の用心に若い鳶を一人付けてくれた。この鳶は池上線中延の頭の息子で二十歳くらいの元気な若者だった。私は、電車で錦糸町駅に向かうべきなのを、神田駅辺りで全然歩けなくなり、若者は、これでは、小池さんはもう駄目だから、大事な鞄だけでも自分が小池さんの家に届けるほかないと考えたようだった。彼は、私を置いて深川に向かったが、さて深川のどこにあるのか、私の家の所番地を、彼は知らないのだ。彼は、途方に暮れて思案の末、深川の中心である門前仲町に行けば分かるだろうと合点して、そこで都電を降り、街角の交番に尋ねたのだった。                
「この辺に小池さんの家がある筈なんだけど、知りませんか。」   
これには巡査も返答のしようがない。若者は言葉を継いで言ったという。「建築屋で、飲ん兵衛の小池さんですよ。」            
この言葉が巡査の耳と頭を直結したらしい。            
「分かりました。その小池さんは永代にいましたが、今は石島町です。」巡査は即答したという。なんと有難い(?)ことに、私の飲ん兵衛の勇名は深川中に轟いていたのだ。
何処をどう廻ったのか有楽町のホームで正気に返った私は、自ら錦糸町行きの電車に乗ったが、それは終電車で両国止まりだった。仕方なく、駅前で輪タクに乗り、                      
「石島三十番地だ。頼む。」                   
輪タクは正確に私宅で私を降ろしてくれた。自宅に来て驚いた。現場の若者がいて、太田建具の親父さんが待っていたのだ。私は鞄から竹中工務店の支払手形を取って、社長に渡し、              
「竹中は現金だと年が明けてからとなるとのことで、手形にしました。」
と言うと、社長は、                       
「手形で結構、竹中の手形なら銀行は即座に割ってくれる。上々だよ。」
と言って喜び、私には何の小言もなかった。家内は私の飲み過ぎを咎めたが、工事の入金もあり、これで我が家も年が越せることになって、帳消しとなり、私も安心して寝床に入ることができたのだった。   
 竹中工務店の工事は時々大工事もあり、太田社長は私の働きに十分満足してくれていたようだった。家内は、太田社長の弟が豊住町で経営していた製材工場の方から事務を頼まれ、毎日勤めに出ていた。
 母は洋吉、眞理子の子守で一役買ってくれていた。洋吉は毎日チンドン屋を追い回し、飴をしゃぶって遊んでいた。    
 その頃のことだった。眞理子が風邪から熱を発し、医者の薬も効かぬまま、すっかり弱って、困ったことがあった。家内も休んで看病するのだが、駄目だった。私も心配して付いていると、家内が、      
「鰻の脂が効くそうよ。鰻を酒瓶に入れて、熱湯に入れると脂が溜まるから、それを飲ませると良いそうよ。」           
と言うので、私はすぐに自転車で町中を廻って鰻を探したが、冬場で何処にも売ってはいない。困り果てて、深川高橋の方まで足を延ばし、最後には魚屋でどじょうを一匹買い取り、飛んで帰って早速どじょうの脂を絞って飲ませたのだった。それで、少し熱が下がったようにも思ったが、なんと言っても、本当の薬でなけばやはり駄目だ。ようやく、太田社長の世話で高価なペニシリンを注射して貰ったら、その効あって眞理子は救われたのだった。                   
 この時以外、眞理子は余り医者の世話にならない子だった。洋吉は、私が復員するまでは病弱で、年中医者通いだったそうだが、私が帰ってからは不思議に元気になって、母も一安心するのだった。     
 その頃、明神村の林さんから連絡があり、            
「材木の売れ行きが悪くて、弱っている。何とか東京で買手を探して欲しい。」                            
とのことだった。私は、早速薫建設の下請け仲間の清野四郎君に相談した。彼は、薫建設の他にも事業の手を広げているようだった。彼は、私と同じ福島県出身だが、満州で事業をしたことがあり、当時、一般からは満州帰りの暴れ者風に恐れられていた。しかし、私には同県人のよしみで、親しく付き合っていたから、私の言葉で、彼は早速林さんから貨車二台、三十トンばかりの材木を買い取ってくれたのだった。    

一〇 薫建設の倒産                       
 薫建設は、馬込工事の進行半ばで、業績が悪化し出し、社員中の不良分子の反乱等もあって、次第に経営不振となっていった。ビルマ協会の経営悪化がその大元の原因だったようだ。元々、同協会が元大名の事業経営で、乱世社会の対応には不慣れな放漫感覚だったから、当然の結果だったのだろう。薫建設崩壊し、専務の首吊り自殺等、最悪の結末となっていた。事務係長の富岡君等が随分私のためにも苦労してくれ、手も尽くしてくれたが、彼の力でも、万策尽きたのだった。彼自身も、妻妾同居という困窮状態となった後、九州に引き揚げ、結局、彼も九州で自殺したと噂に聞くから、哀れなことであった。
 私は、読売新聞向けの馬込の現場を進める途中で元請けが倒産し、全く困ってしまった。だが、この時、読売新聞社の住宅組合の人々は、私にとても親切だった。中でも、組合長の三浦さんは、当時読売の政治部次長で、労働組合の委員長の役にあり、私のために最大限の協力をしてくれた。彼は、秋田県人で、同じ東北の私に同情したのかも知れないが、まるで、親戚の人のようだった。私が、「家内を読売で使ってくれないか。」と相談したら考えておこうと約束してくれて、後日これが実現したのだった。そして、三浦さんの話で、未だ入居しない一軒を私への支払いの担保にすることを了承し、そのうえ、私に移住して管理するよう取りはからってくれた。太田建具の社長にこれを話したら、社長は快く承知してくれて、
「それは早く引っ越して、そこに行った方が良い。ここへはそこから通えば良い。」
と言ってくれた。社員が内職していて、その結果、社宅を出て行くなどという身勝手なことを、普通の社長なら許す筈もなく、大変お叱りを受けるべきところを、この社長は違っていた。私は、本当に次々と良い人に巡り会い、恵まれ過ぎではないかと思ったりしたのだった。
 そして、引っ越しの手伝い方を、家内の父で、母の弟、目黒の叔父に頼むことを考え、叔父が立ち寄っていた従兄の菊雄さんの事務所・住宅のある巣鴨に夕方から急いで向かった。ここは私が設計し建築した家で、巣鴨の駅近くの、大通りに面した立派なものだった。着いてすぐに従兄達と酒を飲みながらの歓談となり、すっかり気分を良くして、時間が経ち、引っ越しの話が最後になってしまって、
「馬鹿者! 本題を忘れるとは、呆れた奴だ!」
と叔父にしかられたのだった。かくして、私の、大田区馬込への移転は完了する。                           
 太田建具には電車で通って精勤した。太田で請ける竹中工務店の仕事には時々大工事があったが、これを私が担当して、順調に進んでいたから、社長は大変喜んでくれていた。
 当時の竹中の仕事はお茶の「山本山」の、日本橋店新築工事だった。ここの建具工事を全部太田が請けて造るのだ。それは太田にとっては近来にない大工事だったが、建築工事に関係のない私ら建具屋が上棟式に呼ばれることなど思ってもいないことだったところに、竹中の現場主任の計らいで、その盛大な上棟式に呼ばれることとなった。これも、主任が私を買ってくれてのことと感じて、有難かった。大勢のお客には各々大きな鯛が付いて、祝儀袋には五千円の札が入るという、私が初めて体験する大盤振る舞いだった。だが、この後、私にとっての大災難が待っていたのだ。竹中の職人の中で一人酒癖の悪い奴がいて、これが暴れ出したのだ。防水工事屋だったが、組中での名物男で、組中の誰も相手にしないことにしていたのが、私馴染みがなかったので、彼は私を標的に攻めてきたのだ。彼の度重なる悪口に、組員は私をなだめて、    
「君、あ奴の酒癖は組中有名で、誰も相手にしない。我慢して逃げるが勝ち!」                          
と助言してくれた。だが、彼の言葉はますます増長して、口汚くなり、私の我慢の限度を超えた。遂に、私は怒鳴った。           
「ようし! 分かった。勝負しよう。表に出ろ。」         
と彼を連れ出して、電車通りに出た。そして、彼を早業で払い腰に路面に叩き落とそうと思って、腰を入れたのだが、私も酔っていて、腰がふらつき、倒れたのは私の方だった。私は前歯を電車の線路で二本折って、口から血を出した。それで、乱闘は終わり、彼も自分のしでかしたことに目を覚まし、大人しくなって帰って行った。           
 数日後、現場に行って現場主任に聞いた話では、主任は、私よりももっとひどい災難だったという。大変に酔ったという点は私と同じだったのだが、彼はそのため立川駅のベンチで寝てしまい、気が付いたときには、大事な鞄をなくしていたというのだ。鞄の中には数十万円の金が入っていたという。その後その鞄の行方は一切不明のままなのだ。
 私の前歯二本は、子供の時からの出っ歯であり、顔より先に突き出していたから、鉄の線路に当たって折れるのは当然のことなのだが、この時に治療して却って格好良くなり、私の容貌も一変して、改善された(?)のである。人間怪我の功名とはこのことなりと思った次第である。  
 私はかねて、今後の自らの事業方針として独立した建設業を目指すべく思案していたし、やがて、太田建具は経営困難になることが目に見えているようにも思うに至った。太田さんのこれまでの好意を思うとき、私の決意は難関に突き当たったが、私は、一計を案じ、太田建具での私の代わりを探すことを考えた。すると、役者は目の前にいた。竹中工務店の社員の中の一人に、私は白羽の矢を立てたのだ。私は、竹中の一人の若者と談判し、彼の現在の給料の五割増しの給料を約束し、彼の都合の良い勤務法を聞いて、彼をそのように太田社長に紹介した。これが、社長の了承するところとなって、私の太田建具退社が決定したのだった。

一一 深川署武装警官隊出動事件                 
 昭和二十二年十一月に建築代理士試験に合格していたから、私は深川の代理士会に加盟して、その会合にも数回出席していた。会員同士の交際もあり、多少設計申請等も手がけていた。二十三年の春、未だ桜は二分咲きくらいで肌寒い気候だった。私は、代理士会の春季総会に出席し、宴会が終わって、ほろ酔い気分で、帰るつもりになったときには、既に都電は終わっていたので、歩いて東京駅に出ようと思った。会場は江東区役所の近くだったようで、清澄公園近くの都電通りの横町を歩いて、運河を越える丸太の上の仮橋に差し掛かった。それは、幅十メートルばかりの運河で、太い丸太二本の上に板を渡した仮橋で、中程の所では、人間一人の体重に橋は十センチ以上も撓むのだった。私は、初めの内は撓みと調子を合わせてうまく歩いていたが、酔いのため調子が狂ってきて、身体が不安定となり、遂に足を踏み外して運河へと落下してしまった。春先の寒い時期に水に飛び込んで酔いも一遍に醒め、私は鞄を持ったまま、登り口を探して泳ぎ回っていた。そして、なかなか登り口が見当たらず、辺りは真っ暗闇で見当も付かず、水は丁度満潮らしくどんどん水面が深くなって、小身の私は遂に足が立たなくなり、夢中で取り付いた大丸太のいかだは、仮縄で伝い上がろうとする私に、つるりと滑って回転し、絶対に目的を叶えてくれない。私は、このようにもがき苦しんで疲れ果て、このままでは水に溺れて駄目になると思い、何とか手立てはないものかと考えた。そして、まずは救助を求めるのが先と、             
「助けてくれ! 誰か来てくれ!」                
と叫んでみるのだが、運河沿いの建物は大会社の倉庫らしく、深閑として人気がなく、何の応答もない。「これは駄目だ。何とかしないとこちらがもたない。早くしないと危ない。」と必死で考えた。そして、私は、運建時代の六浦倉庫での窃盗団事件を思い出し、最後の手段を思いついた。
「警察を呼ぶのだ。それにはこれが一番。」そして、叫んだ。                         
「泥棒だ! 誰か来てくれ! 助けてくれ!」           
私は反響やいかにと耳を澄まして待った。ここは深川署のすぐ近所の筈で、彼らの車なら二、三分で来れる筈だ。待つこと暫し、車のエンジン音が聞こえて、忽ち帽子に顎紐を締めた武装警官が車で二台、私の上に現れ、                             
「どこだ! どこだ! 誰かいるか!」              
私は咄嗟に叫んだ。                       
「ここだ! ここだ!」                     
警官が、                            
「なんだ、どうしたんだ!」                   
「まず、上げてくれ。話は上で詳しく話す。」           
と私。                             
 やがて、私は地上の人となって、完全に救われたのである。    
 そして、警官には、                      
「私は永代二丁目の小久保工務店にいた小池です。今夜、丸太橋から運河に落ち、満潮のため背が立たず、大声で助けを呼んでも応答がなくて、時間も経って危険となったので、窮余の策として「泥棒」と叫びました。そういう訳で、盗賊はいません。有り難うございました。」     
と礼を言ったのだった。                     
 小久保工務店は当時区会議員宮内さんの後援会長で、警察方面に顔利きだった。咄嗟に使った名前だが、その効果は覿面で、警官の態度は途端に好転し、
「なんだ、小久保さんとこの人か。それじゃ仕方ねぇや。」     
と、私を深川署に連れて行ってくれ、濡れた衣類の代わりに、乾いた毛布を貸してくれた。毛布にくるまった私を見上げて警官は、     
「おい、君。その姿はガンジーそっくりだよ。いい格好だ。」    
と言ったから、私は、                      
「ふざけんじゃないよ。こんな格好では様にならないや。警官の余った服でも貸してくれよ。」                     
と要求したが、                         
「そんなもの、余分はないんだよ。しばらく我慢する他ないな。」  
と断られた。翌朝、私は警察のすぐ前に代理士会の会計係の人がいたことを思い出し、署員に彼を呼んで貰って、簡単な衣類一揃いと靴(靴は、新品のものであったが、片方は運河に流してなくなってしまった。)を借用して、ようやく格好が付いたのだった。             
 警察では、昨夜の出来事を私の家族に連絡するため、私の住所を調べていたが、交番等の調査でも私の住所は見当たらないとのことで、私は、
「おかしいな。一昨日まで確かにあった私の家がなくなる筈はない。仕方ない。私が帰って探します。」                 
と言って、深川署を去ったのだった。               
 後日調査の結果、馬込の現住宅群は、丁度警察署の境界線上にあり、どちらにも畑のままで、住宅が建ったことが未記入のため、所在不明となってしまったらしい。私は無事我が家に帰ることができたが、家内にはまた酒を飲んで失敗して大目玉を食ったのだった。そして、私は第何号かの禁酒誓約書を書かされる羽目となったのだが、これもやがて自然解除となるに決まっていたのだった。               

一二 吾 新宿方面に発展す                   
 私の工事関係は、前述の小野清の手引きにより新宿西口方面に発展することとなった。小野は新宿西口を根城とするヤクザ組織小津組の自称顔役で、彼と一緒に西新宿の露天商や酒場を廻るとなかなかの羽振りであった。仕事関係でも、小野には皆頭が低くて、結果、私にも従ってくれるので、大変便利であった。また、南口の大工の棟梁清野長太郎は、秋田の出身で、小野とは、若いときの大工修業の相弟子であったから、昵懇の仲であり、清野さん自身も南新宿ではなかなかの羽振りであった。清野さんは、終戦直後には、南新宿で大変な勢力があり、文化服装学院の敷地を含めた広大な土地を、札びらを切って買い占めたものだったらしい。だが、無学のお人好しで、悪い不動産屋に欺されては次々と手放すことになり、その殆どを失って、当時は、自宅と身内のための二百坪だけが彼の所有地だった。小野は、威勢だけは強そうでも、高田馬場の片隅の借間住まいという生活だった。だが、清野さんの前では、小野は大した威勢で、清野さんは頭を垂れて、何でも小野の言うことを聞くのだった。小野が、私を清野さんに紹介する際には、         
「この人は大物だ! 俺が保証する。この人についていれば悪いことはない。」                            
と私を高々と持ち上げて吹聴したのだった。清野さんの世話で南新宿の青木畳店の大きな店の一部三坪ばかりに、「小池工務所」の看板を掲げて、私の新宿での営業開始となった。               
清野さんの話で、工事は次々と注文が集まり、私の事務所も建築屋らしくなってきたが、資材等の物価上昇が激しくて、営業収益は大して上がらなかった。契約金の増額請求が当然のような情勢だったが、私は決して注文主にそんな請求はしなかった。それは私の意地のようなもので、商売の仁義として決して破れない筋道だと思っていたのだ。
 畳屋の青木さんは六十先の老人だったが、なかなか人徳のある人で、私は時折この人に処世の道を聞いては、これに従うようにしていた。当時、この人は、私に良く言った。                 
「小池さん。建築屋たるもの、自分の住宅は絶対に中途半端の半成家ではいけない。必ず常に、立派に仕上がった家に住まっていなければ良い仕事は来ないものだよ。」                    
私は尤もだと思い、これをしっかり心に刻んだのだった。      
 青木さんに出入りする早稲田大学の卒業生が、ある時同校建築科出身の人を紹介してきた。この人は渋谷さんと言い、早稲田大学卒業の際恩師の銀時計を受賞した程の優秀な人だとのことだったが、当時世田谷でセメント瓦の製造販売・施工業を営んでおり、是非工事の受注をしたいとの話だった。丁度当時、私が十二社地区で、一棟、屋根の葺替え工事を請けていたので、早速図面を渋谷さんに渡し、見積りを頼んだのだった。数日後に渋谷さんから見積書が届いた。私はこれを見て驚いてしまった。大変安いのだ。私はこれでできれば大変助かる訳だが、しかし、見積書にある屋根の坪数を見て、首をひねった。私の計算よりも少ないのだ。私は十五坪と計算していたのが、彼の見積もりでは十二坪になっている。私も技術屋として間違う筈はないから、これは渋谷さんの計算違いである。「『弘法も筆の誤り。』とか。これは渋谷さんと会って話そう。」と思い、急ぎ彼に来て貰った。そして、私が、
「渋谷さん、貴方の見積書は大変安いが、調べてみると、貴方は坪数を十二坪としている。私の計算では十五坪になるので、これは貴方の計算違いと思う。この金額では貴方は大変な損をすることになる。私は相手に損をさせてまで儲けたくはないから、坪数は十五坪とし、坪単価はこの見積り通りとすることで良ければ、お願いしたいが、どうですか。」
と言うと、渋谷さんは、私の言葉を聞いて大変驚き、目を潤ませて言う
のだった。                           
「こんなことは初めてです。今までの建築屋は『安ければ良い』の一決まりで、見積りの間違いなど誰も言わないから、結局、私は損ばかりしていました。自分の間違いなのだから、誰にも文句は言えず、泣き寝入りでした。貴方のような人は本当に珍しい。私はほとほと感心しました。今後も宜しくお願いします。」                  
と言って喜んでくれた。                     
 この人とは、その年の暮れに、私自身、彼の家の離れにお世話になる程の御縁となるのだが、人の出逢いと交際は、運命の神様だけがご存じの、不思議なものと思う。                    
 この頃、小田急線豪徳寺駅前の「山下不動産」の加藤さんとの交際も始まり、彼の親戚の並木さんと、当時の新宿事務所に、私との共同経営で不動産事務所も開くことにした。並木さんが良い人で、信用できると思ったからだったが、彼とは四十年経った現在も交際が続いていて、やはり御縁があったのだと思う。                 
 ビルマ協会の崩壊と薫建設の倒産から半年ばかり過ぎた昭和二十三年暮れの二十九日、薫建設の富吉さんから連絡があって、五反田の薫の残務事務所で彼と会うことになった。そして、            
「小池さん。貴方の工事残金を払えば、馬込の家は明け渡してくれるか。」
と言うから、                          
「勿論だよ。私は曲がったことは嫌いだ。工事の残金八万円を支払ってくれれば、すぐにでも引き渡しますよ。」             
と答えた。こうして、年末に家を明け渡すこととなり、私は家内と相談の上、売家を探しに不動産屋を走り回ったが、八万円では資金不足だった。十万円あれば、何とかなるが、借金は不可能だった。私は本当に途方に暮れた。行き場がないのだ。年老いた母と小さい子供を連れて、まさか野宿もできない。思案に余って、私は世田谷は上馬の渋谷さん宅を訪ね。事情を話した。すると、渋谷さんは即座に言ってくれた。   
「小池さん。是非私の家に来てくれ。すぐに八畳一間を空ける。離れになっているから、大丈夫住める。」                
地獄に仏とはこのことだった。本当に助かった。私は大いに感謝して、馬込に帰り、家内と母に世田谷移転を決めた旨を知らせたのだった。 
 荷造りなどは簡単だった。ここははじめから仮住まいのつもりだったので、荷は縄かけのままになっていて好都合だった。三十日は、年末営業の最終日で、薫建設の富吉さんの連絡で銀行前に立ったときは、午後三時三分前だった。彼と一緒に入口に入ろうとしたとき、シャッターが降り始め、その下をくぐってやっと中に入って払出しを受けた。そして、私は領収書と引き替えに八万円を受け取り、銀行の裏口から、馬込の我が家へと急いだ。馬込ではトラックに既に家財が満載され、傍らに目黒の叔父が立っていた。                      
「どうだ、お金は貰えたかい。駄目なら荷物はまた家の中に戻すよ。」
「大丈夫です。金は間違いなく貰いました。さあ、世田谷へ向かうぞ。」
私は発車の合図を大声で叫んだ。                 
 家内と母は、三浦さんはじめ読売の皆さんに丁寧に挨拶して、こうして馬込暮らしとのお別れをしたのだった。             


一三 上馬での生活 渋谷さんに替わり建設会社社長に       
 上馬の渋谷さんの家は、玉電の松陰神社前駅から歩いて十分くらいであり、玉電で渋谷に出られるから、都心に出るにもまことに便利なところだった。渋谷さんの家族は、渋谷さん夫婦と子供五人に、年老いた両親という賑やかな大家族で、洋吉の遊び相手は大勢そろっていた。我々の住居は八畳一間だったが、母はこれで十分だと言って、不平で私を困らせることはなかった。その内、馬込の三浦さんから連絡があり、  
「今回、読売新聞で、清掃員の募集があり、大勢の中から二名決まったとの部下からの話だが、もし良ければ、君の奥さんの意向はどうか。」
とのことだった。私も、これからの家計を考え、是非お願いしたいと頼んだ。すると、彼は即座に、                   
「よし。それでは、二名の内、一名を止めにして、あんたの奥さんに決めよう。」                           
と言ってくれて、家内の読売新聞への就職が決まったのだった。新聞社の勤務は早朝からで、決して楽なものではなかったが、給料は大変良く、我が家の家計はこれで大変助かり、三浦さんの好意に一家中深く感謝したのだった。                          
 渋谷さんは私と相談して、建材及び建築工事の会社を始めようと「都建材」という会社を設立し、彼が社長となり、私は工事主任の役を引き受けた。建材関係は従来のセメント瓦の製造販売だったが、次第に建築工事が多くなって、一かどの建設会社のようになっていった。得意先は、早稲田の学友関係からの紹介で次第に広がっていった。       
 当時、政界の若手実力者だった田中角栄が、「田中土建」という建設会社を経営しており、田中さんの奥さんの弟が、早稲田の経済出で、その田中土建の会計主任であり、渋谷さんの友人だったので、その関係から仕事を請けるところとなっていた。               
 都建材が請けた工事関係は、私が一切取り仕切っていた。建設省の正門補修、各所の修繕工事等だったが、中に上野動物園の鶴の池新設工事もあった。これは、土木関係だし、私には苦手だったので、当時飯野さんと連絡があったことから、彼にその監督を依頼したのだった。工事が大分進んで仕上げ工事にかかったとき、どうしたのか飯野さんが現場を放棄してしまい、私が工事の続行を見る羽目になって、私は上野公園の不忍池のほとりの水上鳥類園の現場に毎日通って、どうにかこれを完成したのだった。                         
 また、次には、赤羽近くの都営住宅二棟の基礎工事を請け、工事の中間請求で、月末の支払日に、私は田中土建の事務所に出向いた。当日、田中土建の市ヶ谷本社玄関の板の間には大勢の人が集まっていた。やがて、二階から社長の角さんが、下駄の音を立てて降りてきた。初めてみる角さんの顔は、精悍で自信に満ちており、私は噂通りの強き男だぞと直感した。彼は、開口一番、大声で、               
「今日は金がないから、商人は帰ってくれ。半纏者だけ残れや。」  
と言ったから、商人と言われた材木屋、金物屋等は黙ってすごすご引き揚げていった。私は、鳶土工を使っての基礎工事人だから、自ら半纏者だと決めてその場に残った。もう月末も押し詰まって是非とも金が欲しかった。七、八人残った仲間の連中は、次々と社長室に呼ばれて、元気に入っていった者も、出て来るときは皆しょんぼりと、       
「駄目だ! 半分だよ、困った。」                
と嘆き節だった。そして、私の番が来た。             
「次、小池君、入れや。」                    
との社長の声で、一息腹に力を入れて、社長室に入った。      
「小池君。君の請求は水増しじゃねぇのか。わしは現場見て知ってんだ。」
と頭ごなしの文句付けだ。彼は、無類の鋭敏な頭脳の持主で、書類は一度見ただけで即座に判断を付けるし、彼に反論できる人などいない、との専らの噂で、彼の言は殆ど無条件で通っていた。だが、私だって引っ込んではいられない。なんとしても請求額を貰わねば死活に関わるのだ。だから、私は答えた。                      
「社長! 今日は何日だと思ってますか。今日は月末で、その請求書を書いたのは月ハナです。その時は一寸は水増しかも知れないが、月末の今では仕事は遙かに進んでいます。私はそれを貰わねば困るんです。社長! 私は毎日生きた人間を使っているんですからね。」   
と語気強く言い切ったのだった。私の必死の形相と言葉に社長は次の言葉が出なかった。そして、流石の角さんも暫しの無言の後、首を振りながら呟いた。                          
「う-む。生きた人間か、生きた人間なぁ。」           
そして、やおら、意を決したようにきっぱりと答えた。       
「よろしい。君には請求通り払うことにする。」          
そして、言葉を接いで小声で、                  
「だがなぁ、他の衆には黙ってろ。俺も困ってんだからな。」    
 私は気分良く部屋を出て、だが、未だ残っている人達には、    
「駄目だった。困ったもんだ。」                 
と言って、会計室の前に列んだのだった。             
 渋谷さんと仕事を進めていく内に分かったのだが、彼は余りにおとなし過ぎて攻撃精神がなく、気が弱くて引っ込み思案型であり、そのため彼の下、会社の経営は次第に悪化して行き、この会社の前途は暗澹たる状態になってきた。そして、ある日、渋谷さんは私に言った。   
「小池さん。僕には、事業経営の力はないし、社長の資格もない。この会社を君に任せたい。申し訳ないが、そうしてくれ。」       
彼は頭を下げて会社の後始末一切を私に任せたのだった。調べてみると、会社には職方・商店の支払未済等が約七十万円余り残っていて、大変な赤字だと分かったが、私が会社を引き継いで、これら一切の責任を負うこととなったのだった。                      
 渋谷さんの話で、半蔵門脇の関工業に行ってみてはとの話が出た。この関という人は、早稲田の建築科出と吹聴していたが、実は経済学部出で、なかなかのやり手だった。渋谷さん以下数名の早稲田の建築出を集めて研究させ、ついに戦後の資材不足に即応した木造アーチの特許を自分名義で取得し、社員の給料は未払いのまま、渋谷さん以下の社員は逃げ出すという、彼にとっては計画的作戦を完成したのだった。渋谷さんは、                             
「僕ではとても歯が立たないが、小池さんなら可能かも知れない。」 
と言うのだった。私はある日、この関工業に社長を訪ねた。彼は快く私を迎え、                            
「君に頼みたいことが色々ある。是非時々寄ってくれ。」      
と言い、こうして 私と関との交際が始まった。彼の広い事務所には 色々な客が集まり、話題は豊富だった。彼の新案特許の「木造アーチ」は杉の貫材を六枚ほど重ね合わせ、それを熱処理して半円形に曲げて撓め、約三十センチ間隔に堅木の木栓を込めるという簡単な構造で、これが梁の代用となり、これを二メートル間隔に配列すれば丸屋根ができあがるのだ。丁度米軍の仮兵舎の木造版という訳だ。なかなかの好評で、関はこれで大儲けをしたが、研究費は無料という彼一流の詐欺的な経済学でもあった。私が太田建具店で出入りした竹中工務店の「山本山」日本橋本店の屋根も、この関式丸屋根だったことを、関から聞いて知ったのだった。                          
 関の次の作戦は、次のようなものだった。彼の敷地の後隣は、約百坪の敷地に十坪くらいの平屋の小住宅があったが、これには、あの有名な政治家高橋是清の孫が夫婦でこじんまりと暮らしていたのだった。関がこれに目を付けて、作戦計画が組まれて行くのだった。七十近いこの高橋さんに、                           
「高橋さん、私はこの事務所の土地をある金持ちに売ろうと思っている。それで貴方の土地も一緒に売りませんか、私と一緒なら売れるが、他にこの辺の土地は簡単には売れない。是非そうしなさい。」      
と言えば、美人の関の奥さんも、高橋さんを丁重にもてなして、甘い口ぶりで関に協力するのだった。そして、話が決まると行動は早かった。私に高橋さんの家の取壊し、整地工事を発注した。私の工事もまた素早かった。三日後には完全に整地されて、関の屋敷として堂々とお目見えしたのだった。この土地は半蔵門前の大通りの西側、英国大使館の小路を挟んだ南隣で、東京では超一等地で、関は、次にはこの土地を当時の最高価格で売込む作戦に入る段取りとなる。高橋さんは私の着工前に関の手配で近くのホテルに転居させられていた。今で言う地上げの嚆矢である。                              
 私は、関の話で麹町近辺の木造住宅の新築工事等も手がけるようになった。私は関の気持ちに馴染んだ振りをして、私なりに計算して進めていたが、関には細かい話はせず、                 
「社長、月末の金は二百万ばかり要るよ。頼むよ。」        
と彼に請求し、後で精算することとして札束を受け取って帰ったのだった。このことを渋谷さんの母親が伝え聞いて、家人に、         
「小池さんは恐ろしい人だ。ウチの息子が給料も貰えないでいた関から、お札の束を取ってくる。」
と漏らして、私を恐れ始めたようだった。                
 私も母から、                         
「ここは子供が意地悪で駄目だ。このままでは洋吉が駄目になる。何とかして、ここは出た方が良い。」と言われ、毎朝の散歩の度に弦巻方面を物色していた。       

一四 なくした鞄発見から新居建築へ               
 その頃、関の工事で、麹町番町に五十坪ばかりの住宅を新築する仕事があった。これは新宿西口の小津組の息子の住宅らしかったが、その頃は小野清との交際も切れていたから、小関君、田屋君の二人の若者が、私の社員として働いていた。この他、紀尾井町にも四十坪ばかりの新築家があり、工事は多忙だった。また、渋谷さんの話で、代田の鈴木建設から下請けした目黒の林業試験場の官舎二棟の新築工事等も始まっていた。この鈴木建設は福島県の人で、人は良いのだが、会社は貧乏で、支払いは余り良くなかった。                    
 昭和二十五年春四月、花見の季節だった。私は、目黒の現場事務所のバラックで、小関、田屋の二人と、「今日は元請けから支払いを受けたら花見に行こう」と約束をし、待っているように言って、代田に向かった。鈴木の社長は、私の請求の十万円ばかりの金額に、渋い顔をして、払ってくれたのはたった三万円だった。私は不足を訴えて粘ってみたが駄目だった。これでは花見も出来ないと思うと、目黒で待たせている二人にも済まない気がし、情けなくて、社長には挨拶もせずに退出し、目黒に帰った。そして、二人に、                  
「残念だが、花見は中止だ。ここでその代わりをやろう。小関君、焼酎を買ってこいや。」                       
と言うことで、三人で焼酎で花見代わりの酒盛りをしたのだった。  
 ひとしきり飲んで、夜八時を過ぎてから、私は、彼らをそこに残し、深川千田町の太田建具に注文に行くことにした。夜に歩き回るのは慣れっこだった。現場は上棟後十日ばかり経っていて、そろそろ建具の寸法取りの段階に来ていたので、相手は政府の建物だから、工事は早い方が良い。太田なら前金無しで作ってくれる、と判断したのだった。東横線で渋谷に出て、地下鉄(銀座線)で日本橋から都電で行けば良いと踏んでいたのだが、空きっ腹に焼酎を入れて十分に酔ってしまっていた。地下鉄で眠ってしまい、気が付くと上野だったので、急いで降り、そして、折り返し日本橋に戻るつもりが、また乗り越して、再び渋谷から乗って、また日本橋を過ぎて浅草で目を覚ました。「これから千田町まではとても無理だ」と上野まで行って降りて、山手線で渋谷から世田谷に帰るつもりが、山手線を一回りして、気が付いたときは有楽町だった。これはまた失敗したとすぐに飛び降り、しばらくホームで座ってから気が付くと、大事に持っていた筈の鞄が手にないではないか。時間は既に深夜の十二時ころであり、これからでは何とも処置無しと一旦諦め、玉電の終電にも間に合わないので、何はともあれ現場事務所に戻ろうと、目黒に帰って、小関と田屋の二人が寝る間に割り込んで寝たのだった。しかし、眠れたものではない。大変なことになっているのである。当時の三万円と言えば、今の金で百万円以上の価値ではないだろうか。それを紛失したとなると、またしても私の大失点となり、今度こそ断酒宣言くらいでは許されず、家内から離婚を迫られることは必至であると思うと、とても眠れる筈がなかった。そして、早朝四時半ころ起き、昨夜の自分のコースを辿ることとして、まず、渋谷駅から、上野、浅草駅と廻ったが、皆駄目、そして、また上野駅に廻ったとき、上野駅員が、 
「国鉄の終電は大体池袋車庫に入ることになっているから池袋駅に行ってみなさい。」                         
と教えてくれた。私はすぐに池袋駅へと飛んで行き、同駅の忘れ物係に鞄の有無を聞いたのだった。しばらく私の話を聞いていた駅員は、落着き払って私に聞いた。                      
「貴方は横須賀に何か関係がありますか。」            
「私は、戦前、横須賀に八年間住んでいました。」         
と私が言うと、駅員は、ぐっとつばを呑み込んで、きっぱり言った。 
「その鞄はあります。今、持って参ります。」           
私は、夢かとばかり驚き、思わず自分の頬をつねってみた。確かに痛い。有難いこともあるものだ。駅員が持ってきた鞄は正に私のもので、中を調べたところ、何の不足もなく、三万円もちゃんとあった。書類の間に横須賀の姉の履歴書が一通あった。これが先程駅員の言った横須賀の関係を立証する証明となったのだ。私は駅員に深く頭を下げて心からの礼を述べたのだった。私は、またしても、運命の神様に救われたとつくづく思い、不思議な気持ちで神に感謝したのだった。     
 ところで、私は、鞄を探索中の地下鉄の中で、偶然家内に会っていた。家内にとっては、毎日の定刻の出勤の途中のことで、予定の行動なのだが、私の顔を見て、すぐに察しがついたらしい。          
「貴方。またなんかやったのね。どうしたの。」          
私は、既に昨夜から考え、覚悟を決めていたので、         
「また、酔って寝込んで、鞄をなくした。金が三万円入っていた。これから探すが、見込みはないかも知れない。」            
「分かりました。これで決まり。離婚させて貰うわ。目黒の母に話します。」                             
家内は決然と顔を引き締め、銀座で降りて行ったのだった。     
 私は、鞄を確保してから、池袋駅の洗面所で顔を洗うべく、鏡の中の己の顔に見入った。昨夜来自分の容貌など気遣うゆとりもなく、あがきもがいて朝となって、ホッとして顔を洗う気になったのだ。そして、鏡に映った顔を見て、私の頭の中に閃いたものがあった。     
「これだ! この顔が役に立つ!」                
 そのときの私の顔と言えば、髪はざんばらで、目は血走り、殺気立って凄みがあったし、頬がこけて目はくぼみ、正に苦悩の権化のようでもあった。この鏡が天の助け地の恵みであった。この駅が支線との分岐点であるため、洗面所が設置されていて、ホームに大きな鏡があったというのが大きな幸いだった。                    
 こうして、私の足はそのまま代田の鈴木建設に向かったのだった。そして、怪訝な顔の社長に、                    
「社長。私は、昨夜部下と酒を飲んで相談し、決めましたよ。この仕事は駄目だ。とてもついていけない。この建物は全部ぶっ壊して、おしまいにしましょう!」                       
と自分の顔を突き出して言い放った。さぁ、社長は吃驚して慌てふためき、会計の爺さんをせっついた。                 
「会計さん。小池さんが大変だ。あの現場が駄目になる。何とか金ができないか。」                          
すると、会計は、                        
「今、考えています。あの小切手は横線だから、明後日回りだし、今日の手形はない・・・」
そして、思案の末に、三万円だけならできるとの返答が出たのだった。
こうして私は三万円を六万円に増額できたのである。これなら家内を何とか黙らせる望み出てこようと言うものだ。            
 私が世田谷に帰ると、母は、何も知らずに、           
「なんだ、父ちゃん。今日は早いじゃないか。」          
と言うから、私は、                       
「今日は、昨日の花見で疲れたから、休みにしたんだ。」      
と返事して、昼食を作って貰い、食べてから、少し眠ったが、その間にも、家内の帰るまでに作戦を立てるべく、頭を縦横に回転させていたのだった。                            
 私は、前述の母の意見を聴いて、弦巻に土地五十坪を借り、渋谷さんを保証人に立てて、賃借契約もできていたし、住宅の設計図も既にできあがっていて、資金計画だけが立っていない状態であった。この際、この六万円で自宅建築に着手することはどうだろう、と私は考え、そうすれば、家内のお許しも出るのではないか、そうだ、これぞ最上の策だ、と確信するに至った。                      
 夕刻、家内が目黒の叔母と連れだって家の前に立ったとき、私は両手で二人を押しとどめ、家内に、                  
「おい、鞄はあったよ。金もあったし、鈴木からまた金を貰って、金は六万になった。これで弦巻に家を建てる。だから、母には何も言うな。」
と小声で、早口に話すと、家内は即座に了承したのだった。     
 母が、                            
「おや、目黒のおばさん、今日何か御用ですか。」         
と言うのに、叔母さんは、                    
「いや、一寸ね、孝子が寄ってくれたので、私もたまには伯母さんの顔が見たくて、寄っただけですよ。」                
と何気ない風に挨拶し、これで一件落着となったのである。     
私は、次の日、目黒の現場に行って大工達に、          
「都合でこの現場はしばらく休み、私の家の工事にかかる。すぐ弦巻の現場に廻ってくれ。」                      
と下知し、三軒茶屋の材木屋から注文材を運ばせて、刻みにかかった。私の家は、最小限の坪数で、六畳の板の間を私の設計室兼応接間とし、これに、四畳半と、三畳の二間と一坪の台所、三尺角の便所を付けただけの八・七五坪の木造平屋という設計だった。これで、当分我が家は生活の根をおろせることとなる訳で、初めて我が家の建築ができる運びとなったのは、実に私の酒飲みの結果の「瓢箪から駒」であったのだ。
 だが、この建築の敷地の現状は、すぐには着工不可能な状態にあった。敷地内の欅の大木の根が三本も残っていたため、地主の紹介で、近所の富田金枝さんに頼んで、その片付け方に一か月もかかったし、敷地内は竹の根が一面に張り巡っていて、基礎工事にも難儀した。基礎は便所と玄関を布基礎とした外は、コンクリートの壺石地形で、金をかけないことをモットーに進めたのだった。私はしゃにむに工事を急がせ、二ヶ月ばかりでほとんど完成させたが、内部の壁は小舞を掻いたまま、粗壁も付けずにそのまま引っ越したのだった。             
洋吉は、上馬で昭和二十五年四月、弦巻小学校に入学していたので、新居は本来桜小学校の学区だったが、当分はこのままと思って、一寸遠くなるが、転校させなかった。しかし、その小学一年の冬の通学に、雪の日は通学が可哀想だとの母の意見もあり、二年生から桜小に転校させることとした。                          
 渋谷さん関係では、日本橋の森友徳兵衛の家を大井町に新築し、その弟の家を杉並の方に新築したりして、結構工事量はあったのだが、利益は大して上がらず、私の東京での建築の勉強材料となっているだけの感があった。                           

一五 林書記の材木代取立てと清野建設              
 その頃、栃木の林さんから、                  
「清野さんに売った材木が、全然回収できず困っている。何とか頼む。」旨の手紙が舞い込み、早速、私は清野四郎さん宅に出向いた。清野さんのところは、薫建設の下請け時代とは打って変わって立派な建設会社となり、目黒の建売住宅の建設現場には立派な「清野建設」の看板が立てられていた。彼自身も、鼻下にちょぼ髭を生やして、私の前で悠然と座り、                              
「小池さん。あの林さんの材木は酷いもんだよ。あれは建築には使えない品物だ。あれは君お金にならないよ。」             
と言うのだった。私は面食らって暫し無言で話を聞き、そして、考えた。
「これは大変なことになった。林さんは人が良いから、村人に騙されたのだ。明神辺りの栃木人は人が悪く、林さんはこの村の金持ち達の手玉に取られたのだ。村の山持ち達が『金は後で良いから、私の山を伐りなさい』と親切ごかしに言ったのは、誰にも売れないボロ山を林さんに任せて処分するためだったのだ。年満たない若木ばかりで、製材しても角材にはならないような、したがって、建築には向かず、仮設物か土留材くらいにしか使えないような材を送りつけられた清野さんの話も尤もだ。」と。                           
 だが、清野さんは、言葉を継いで、               
「だが、小池さん、そこで相談なんだが、林さんの材木代を払う手段が一つある。それは君の考え一つに懸かっているんだが、考えてみてくれないか。」                           
と言い、次のようなことを言うのだった。             
「私は、ここで学校の敷地を買い上げて建売住宅をやっているが、現場は監督が不足して工事が捗らず、困っている。君なら設計もできるし、申し分ない。給料は十分払うから、何とか頼めないか。」      
私は、折角「小池工務所」の看板を掲げたばかりだったが、私が呼び寄せた結果の材木取引で林さんが苦しむことになるのは見るに忍びない、ここは一番「義を見てせざるは勇なきなり」だ、と決心して、清野さんの申出をその場で了承したのだった。               
 こうして、私の清野建設での監督の仕事が始まったのであるが、建売住宅の買取申込人が次々と訪れ、まずは設計図の作成から、大工の手配、新規工事の水盛り測量等と、私の仕事は毎日多忙この上ないものとなった。この頃ここの購入客の中に外人もいて、住宅の一つに入った家族の中に、未だ十歳くらいの少年だったジェリー藤尾が、遊び回って悪童ぶりを発揮していたのを覚えている。              
 そして、私は月末の都度、林さんの材木代を請求して、数か月かかってこれを回収することができたのだった。また、ある時は、工事場の中で、怪我人が出て死亡する事故があり、この時は私が清野の名代で、死人の賠償等一切の始末を引き受け、大変僅少の金額で済ますことができたことから清野さんに大いに感謝されたのだった。         
 清野建設には、約一年間勤務した後、代金回収も成ったことだし、私自身のやむを得ない事情を訴えて退職させて貰い、私は再び自由の身となったのだった。                        
 その頃、小久保さんから話があり、かの小池会計は会社に大損を与えて、遂に退職したとのことで、私にまた来てくれとのことだった。私は、元々小久保さんとは気が合っていたから、彼の申出に賛成して小久保工務店に戻ることに決心した。                   

一六 秩父土建工事部長時代                   
 小久保工務店は、名称を秩父土建と改称し、小久保千太郎社長は、そのままで、私は工事部長を拝命することになった。小池会計と共に彼の従兄も退社していたが、小久保さんの長男は、小池会計によって親に背いて悪道に踏み入り、遊女と深い仲となったようで、既に家にいなかった。その代わり飯能から来た甥の犬竹さんが大工職で働いていた。
 当時は、旧海軍関係者が動き出して、海上保安庁が海軍の代替官庁のようになり、羽振りを見せていた。小久保さんも旧海軍の知己の人づてを得て、保安庁の仕事ができるようになっていた。         
 その頃、弦巻の地主から、私に相談があった。地主の榎本さんはこの辺屈指の大地主で、広大な土地を持っていたが、御主人は戦時中に死亡し、今は奥さんが差配していた。榎本さんは、同家先代が近年死亡したとき、相続税の関係から、息子への名義書換ができないままになっていたため、土地を売ることができず、そのため、当面現在は貸地をして家計を立てていた。
 だが、私の近所にある二百坪の貸地の上の建築に、地主の奥さんは困っていた。それは、ある老夫婦が夫の退職金をもってアパートの建築を計画したのだが、大工に言われるままに建前時に全工事金を渡したところ、その大工に逃げられてしまい、延べ約六十坪の建物が、屋根を葺いたまま工事が頓挫してしまっていたのだ。この老人は、金は一切なくなり、現状での買い人を探してもなかなかお客が見当たらず、建物は雨に晒されて黒くなる始末なので、何とかならないかという相談だった。
 私が小久保さんにこの件を話したところ、海上保安庁で新築アパートか、そのための土地を探しているとのことなので、早速、私と小久保さんとで保安庁に赴いた。保安庁の営繕課長と相談したところ、彼は「役所の建物だから、借地は困る。保安庁として一定の間取りを必要とする問題もある。一部屋ずつのアパートは困る。」などとなかなか難しい。だが、地主は、土地は前述の理由で当分は売れないが、建物を保安庁の希望通りに改修することは可能と言うので、それではと話を進め、買取価格に改造費を含めて、総工費は、保安庁の予算面からも願ってもないものとなった。数回の交渉でこれが成立し、こうして、秩父土建の最初の大工事が契約できたのだった。その代わり、下北沢駅近くの課長の家を実費で補修することを頼まれるというおまけの工事が伴うこととなった。                              
 保安庁アパートの工事現場は、私の家のすぐ近くであったから、仕事場所としてはまことに好都合であったし、また、アパート工事のついでに我が家の左官工事のやり残しを仕上げることもできたから、それによって我が家はやっと人の住む住宅としての完成を見たのだった。ところで、この左官工事をした大橋左官は、世田谷通りの吉田建材の親戚と知って、縁は異なものと思ったものだが、なにしろ深川の左官だから、中塗りの土にはなんと隅田川の「ヘドロ」を用いたのだった。彼がこれを我が家の家中の壁に塗ったその日には、家中ヘドロの悪臭で鼻の曲がる程であったし、また、翌日壁の泥の中から小さいどじょうが顔を出したという始末で、「どじょうが出てきて今日は、坊ちゃん一緒に遊びましょ」と子供と共に大騒ぎしたのもご愛敬であった。        
 上壁もすっかり塗り上がると、私自身の設計になる我が家は、小さいながら、堂々たるものとなった。竹の根を片付けずにそのまま建てたため、玄関脇に二本の筍が生えてきたのだが、それが却って立派な竹となり、高級庭師の仕事のように我が家に風格を添えたのだった。しかし、畳の下からも筍が芽を出してしまい、急いで取り除いたという一幕があったことも思い出である。                    
 母は、事務所の出窓の下に鶏小屋を作り、卵が時々とれるようになった。母はこの家を非常に喜んで、「父ちゃん、ここは良いぞ、もう決して引っ越しはすんな。」    
と言うのだった。私の家は、生まれてこの方、借家ばかりであったから、この小さな家が「自分の家」だということが、母には何ともいえない喜びであったに違いない。そして、今までの仮住まいの間の家財道具を、今度こそ完全に荷解きしたのだった。               
 その頃、小関君は、私と共に随分頑張って働いてくれていたが、私の深川の小久保さん復帰という方向転換を契機に、彼は、一時勤務した薫建設の社長に見込まれて、社長と共に遠く北海道に渡って行った。

 森社長のお気に入りの長澤君は、いつの間にか社長と離れて、一人で東京の小さな会社に身を置き、建築の設計、代願等も営んで次第に自立の道を辿っていた。                      彼は、その頃、木元百合子という女性にぞっこん惚れ込んでいた。その娘は、私の米工同級の、中俣・大原両君が、汐入中西家での下宿の次に引っ越した安浦の下宿屋の娘で、私が、中国から帰還後に工廠現場に就職させた娘だった。私も百合ちゃんはとても良い娘で、彼とは似合いの夫婦になると思っていたので、「仲人の役を引き受けるから頑張れ」と陰から応援していたのである。しかし、これが、運建時代の同僚、大塩君に先手を打たれて、失恋の結末を迎え、長沢君はその悲哀に苦しむこととなった。彼も私に似て、女には勾配が鈍い方で、大塩君の勾配の早さに先を越されたらしい。私はこの頃、彼が酒にのめり込んで苦しい心を紛らわしているのを淋しく見守るばかりだった。        

 秩父土建も名前だけは立派だったが、小久保社長の顔だけでは大した仕事もなく、少し焦り気味の時、飯野さんから突然変わった仕事が舞い込んできた。それは富士吉田から御殿場へ出る道の途中、富士山の麓にある米軍キャンプの仕事だった。朝鮮戦争で米軍は苦戦し、耐寒訓練のため、ここに「キャンプマックネヤー」と称する野営部隊が日夜実戦さながらの猛訓練をしていた。兵舎はすべてテントだったが、冨士の強風のためその維持が困難になって、テントの内面を板で補強する緊急作戦となったのだった。飯野さんが当時勤務していた東京の山田建設が請け負った、その下請けを、秩父土建に頼んできたのだ。幸い、私は再勤していたので、                          
「小池君、これは設営隊の小池君には最適だよ。頼む。」      
と、小久保さんも大変乗り気で、私は大工の総員を連れて冨士に向かったのだった。 この時の大工は、犬竹さんはじめ土屋大工等十二、三名だった。冨士での我々の宿舎は木造のバラックで寒々としていた。
 現場には飯野さんの妾であるお竹さんが料理番で、彼の息子の一男ちゃんも、親父に怒鳴られながら走り回っていた。十一月に入った冨士の山は正に極寒の地だった。工事は悪天候の中、遅々として進まず、米軍士官からは厳しい命令が飛び、山田建設は私に、大工達のさらなる奮闘を求めたのだった。飯野さんは毎日酒を飲んで威張り散らし、私はお竹さんと、職人達の食事のおかずの心配までしている始末で、築地の魚河岸からの魚の買入れにも走るという具合だった。町で買うより、築地の魚河岸まで行けば、足代を見ても十分経費の節約ができた。東京からの電話のかけ方も板について「ハロー、キャンプマックネヤー、山田カンパニープリーズ」と言えば、山田建設の日本語の声が出るのだった。          
 この富士山の工事は約四十日ばかりかかり、実に苦しい工事だったが、最後の支払いでも、飯野さんの使い込みがあったため、私は自腹を切って大工達への支払いを済ませるという有様だった。        
 また、この後、飯野さんの夫婦間の問題のため、私の家で本妻お雪さんと、飯野さん、お竹さんらの対決談判の場が持たれた。本妻に欠点は見当たらない。一にかかって飯野さんの不始末で、お竹さんは最も不利と言わざるを得なかった。だが、お竹さんにも簡単には引き下がれない事情があるらしい。お竹さんの言は、                
「それでは、私は身を引きたいと思います。ただ、それには条件があります。私はこの人のため自分の家を一軒処分してお金を全部出しました。それをお返し頂ければいつでも身を引きます。よろしくお願いします。」ということだった。それで、話が途切れたまま、次の言葉を発する人はいなかった。飯野さんは現在一銭も蓄財のない状態だったので、家一軒分の金など夢のまた夢の話だった。私は、お雪さんの仲人ではあるが、私としても決裁のしようがなかった。こうして、この会談は物別れに終わったのだ。その後、飯野さんのところに、私はこの時の残金請求に行ったのだが、神奈川県の山奥の土木現場に建てられた粗末な下小屋での話でも、お竹さんの面やつれした姿と一男ちゃんが親父に叱りとばされて泣いていたような状況では、とても強いことは言えず、私は、彼への請求は打ち切る旨を宣言して帰ってきたのだった。
 キャンプマックネヤーの時の土屋さんとは、その後次々と付き合いが続き、ついには彼の息子の仲人をして、その子供も間もなく成人する筈
だが、土屋さんは軽井沢で数年前に他界されている。
 石島町にいた時分に、私は、近くの深川海辺町に持っていた十坪ばかりの借地を、一時この土屋大工に貸し、彼が小屋を建てていたが、その後、栃木の大塚健吉大工にこれを貸し、私は無償で大塚さんにこの借地を譲った。                           
 この頃、大塚大工からの話で、沖縄人の山田さん一家が私の所に押し掛け、行き場がないので頼むと言われて、私から榎本地主さんの奥さんに頼み込み、当時まだ藁葺きの大きな農家屋だった地主の家の土間に筵を敷いて数日寝かせて貰ったのだった。そして、地主の計らいで、五十坪ばかりの土地を借り、大塚大工の手で急いで住宅を建てて、引っ越して、山田一家は世田谷の住人となったのだった。この人は沖縄の学校の先生で、彼の次男が洋吉と同級生となった。親父さんはその後中学校のPTA会長となり、将来を有力視された矢先に、無熱肺炎とかで、三日で急逝されたのは気の毒なことであった。この家族と私の関わりはその後も長く続くのである。                     
 榎本地主さんはその後、昭和二十五年に相続税の件も、物納の形を取って解決し、息子の昭二さんに名義書換が完了したのだが、この時の物納で、大蔵撮影所の広大な土地を手放すことになったらしい。そのころ、地主の奥さんの話で、先に私の口利きで海上保安庁に貸した二百坪を保安庁に買い取って貰えないかとの申入れがあった。私は、小久保社長に話し保安庁に地主の奥さんと同行して談判したが、事務官の話では、
「それは当方として願ってもないことではあるが、役所の金はなかなか簡単ではない。今から稟議に出しても、実際にお金を渡せるのは三年後になる。それでも良いですか。」                 
とのことで、それでは当座の話に間に合わないからと、地主の奥さんはこの話を取り下げたのだった。                  

一七 林さんを我が家に受け入れる                
 昭和二十六年、栃木の林さんから、明神の材木屋の営業がいよいよ不能となったと言ってきた。私は、小久保さんと相談して、彼を秩父土建の事務主任にして貰うこととし、我が家を増築して、林さん一家を住まわせることにした。そして、早速、我が家に六畳一間を増築、押入れも付けて、林さん一家を世田谷に迎えたのだった。こうして、我が家は一遍に大所帯となり、子供達は賑やかになって喜んだが、母や家内は、私の無鉄砲に驚き呆れて、今後どのようになるのか、不安を隠せないようであった。                           
 小久保さんは、急に事務所が賑やかに会社らしくなって、喜んだが、事業が拡大された訳でもなく、経営は楽ではなかった。小久保さんの長男は、親とは別に紙類の販売等、商人まがいのことをやっていたようだった。区会議員宮内さんの工場の改築や別宅の新築、越中島とか、川向こうの酒造会社等雑多な工事は尽きなかったが、大した利潤は上がっていなかった。住宅金融公庫制度が始まって、離れの社員住宅を建て替えるのに、私が集めた公庫申込みで小久保が外れたため、当選した清野四郎の名義を借りて建築したのだが、これが、二十八年後に、建物を鉄骨三階建てに改築する必要が生じて、行方不明の清野氏を探索し、その死の直前の病室で、彼の押印を貰うことができ、工事完成を見るなどという、思い設けぬ出来事へと続くのである。             
 そのころ、旧ソロモンで技手室当番だった清水君が私宅に来て、成城駅近くで大店舗を構えて盛業だとか大法螺を吹いて私を騙し、五万円を借り倒された。その後、彼の一家を江戸川の玄関二畳のあばら屋に見つけて、その哀れさに、貸金のことは一切諦め、反対に彼のために仕事の世話などしたのだった。その後、彼は急死したが、彼の奥さんが子供を抱えて奮闘し、立派なタイル工事店を経営していると、風の便りに聞いたことがある。                        
 私の家での林さんとの同居が一年経ったころ、母は、私に言うのだった。                              
「お父ちゃん。林さんは良い人だが、あの奥さん変わっている。お前、これは家の子供達にも良くないから、なるべく早く出て貰うことだよ。

一八 世田谷新住民三軒の住宅工事                
 私は家内とも話をして、地主に相談したら、地主は、先日話を決めた清野さんの隣地六十坪なら貸しても良いとのことだった。この清野の話というのは、清野長太郎の弟長次氏に、大山街道から分かれて桜新町に向かう通りに面した土地を貸すことを既に決定していたという件である。早速林さんに話をして、その清野の隣地の借り方を手配したのだった。私の土地の借地権は坪五百円だったが、三年後の今は坪六百円とのことだった。三万六千円という金は当時の林さん一人では捻出できず、私のいた渋谷さん宅の八畳に入っていた弟の林孝さんと一緒に住むことにして、二人で土地の権利金を工面したのだった。その頃、小久保さんの関係で、四十坪くらいの建物の移築工事があり、家屋を解体したまでは良かったが、その後、敷地の交渉が行き詰まり、建築が立ち消えとなって、木材が積んだままになっていた。林さん宅の建築にはこれを使うことが決まり、私の設計で林さんの家が建つことになった。建築費の関係から最小の住宅で良いとのことで、両家とも六畳一間に押入とし、中央に玄関、それに続く中廊下の奥に共用の便所、台所と計十二坪ほどの平屋の小住宅は、十日ほどの間に約五万円で完成して、これで林家の東京新居ができあがったのだった。経った今も、この住宅は健在であるが、当時の苦心も、今の林さんの孫達の代では、誰も知ることのない歴史の彼方に消えなんとしているのである。               

 小久保さんの甥で飯能から来た犬竹大工は、二十三歳くらいの働き盛りで、宮大工だった親父仕込みの優秀な腕を持っていたが、叔父にあたる小久保さんは今まで約三年の間、時には日当の支払いも滞ったまま、彼をこき使っていたから、彼はむくれ切って、口もきかない状態でいたのだった。私は、それを見かねて、                
「社長、彼は可哀想だ。もう、嫁が欲しい年なんだから、家の一軒くらい建ててやらねば、今までの申し訳が立たなくなる。」       
と言って小久保さんに迫ったのだった。そして、私宅前の通り沿いの隣接地三十坪を地主から借地し、未だ林さんの家を建てる話が出る前に住宅公庫に申し込んであった林さん名義の融資枠で、犬竹さんの家を建てる計画を進めたのである。この土地は、地主が借地人探しに行き詰まり、私に使うよう頼んできたので、計六十坪を借りて、建売住宅二棟を建てる計画をしていた内の一棟分であり、林さんの家もできたため、犬竹宅とすることが可能となったのだった。               
 犬竹宅の住宅は公庫住宅として、堂々出来上がったのだが、その頃丁度彼の嫁取りの話が持ち上がり、嫁さんが飯能の大きな茶問屋の娘であったことから、嫁側の希望でなんとかお茶屋の店の開ける所が良いとの話になったため、また私が別に土地を探すこととなった。そして、紆余曲折の末に桜木中学校前の通り沿いに適地を見つけ、彼はここに新居を建築した。
 合わせて、完成した公庫住宅の方の売り方にも奔走して、現在の住人である竹内さんを見つけ、苦労して公庫の借主名義も竹内さんに変更して、かくして、無事計三軒の世田谷新住民が生まれたのである。     

一九 犬竹大工とパチンコ屋開業                 
 その頃、日本の各都市にパチンコブームが押し寄せて、秩父土建の建築仕事でも、パチンコ店の工事を犬竹さんと数カ所で続ける内、彼がすっかり其の人気に圧倒されて、自分がその仕事を始めたくなってしまい、ついには私までその気に染まっていったのだった。         
 そうして、秩父土建前の大通りの筋向かいにある金子硝子店の店舗部分を借りられそうになったことから、私の意識はにわかにパチンコ屋を開業することに集中していった。まず、資金の件だが、私の手持ちはゼロだった。機械三十台として、当時の金で最低三十万円は資金として必要だった。私は見回してみて、その調達可能な先は郡山の姉、「松葉屋京染店」以外に見当たらなかった。私は直ちに郡山へ飛んで、姉に頼み込むと、姉は内心不安だったらしいが、義兄を説得して、私の要求通り三十万円を貸してくれたのである。犬竹さんとの工事は急速に進み、早くも開店となって、家内も手伝ってくれてのパチンコ店はなかなかの賑わいだった。チンチンジャラジャラと景気の良い音が響き、店番は忙しい。また、機械係の犬竹さんも、てんやわんやの大騒ぎで、息つく暇もない。
「おい。出ないよ。何番だよ。すぐ出してよ。」          
とあっちもこっちも大騒ぎで呼び立てるのだった。         
 だが、一週間も経つと、客足は潮が引くようにまばらになり、客は顔見知りの、近所の旦那衆ばかりとなった。しかも、この客達はいつも自分の台を決めて、毎日その台だけで遊ぶものだから、機械の癖を知り尽くし、必ず大当たりして儲けて帰る。そして、その内に、私の座っている窓口に、その日取った球を山積みにしては、           
「今日は煙草二つでいいや。後は貸し前だ。」           
と言い置いて帰って行くという具合になる。次の日この人は金を出さずに、                              
「昨夜の貸し分の内五十個くれや。」               
と言って、玉を手にして遊び始め、毎日ただ遊びをしては、景品だけ持って行くのである。こちらは毎日早朝四時起きして、飴屋横町から三千円以上の仕入れをして来るのだが、毎日の入金が四、五百円となってしまっては、店は無意味な金の放出場という存在に変わってしまったのだった。この常連の客に毎日ただで景品取りさせる訳に行かないから、私はやむなく、犬竹さんに機械を締めて玉の出ないようにさせた。そしたら、今度は客が全く来なくなり、ついに一日二、三人となってしまって、これでは、店の借り代だけでも一日二百円もかかるのに、赤字が嵩むばかりだから、家内に手伝わせて毎晩夜中の十二時頃まで玉磨きするのも馬鹿らしくなって、私はついにパチンコ屋の廃業を決心したのだった。
 このような類いの商売は、常人のやるべきものではないと、私はつくづく思い知らされた。これは博徒か、ヤクザのやることだと、私はこれで一つの教訓を得、また、ここに来る客の愚かさも同時につくづく分かったのだった。そう、ギャンブルこそは、亡父の無言の遺言で、それまで私が最も嫌ってきた遊技の筈だったのだ。これ以後、私は、パチンコは一切遊ぼうとは思わず、十円玉一つ使ったことがない。それで多分、私はその後の人生で、合計すると三十万円以上の金を失わずに済んだと思うから、この勉強は私にとって決して無駄ではなかったと思う。  
 松葉屋への借金返済はまだこのずっと後になるのだが、このパチンコ屋作戦の裏には、私と犬竹さんとで暗黙裡に進めた別の作戦があった。それは実は、二人で小久保さんから逃げ出すための偽装作戦であった。秩父土建は、当時開店休業の状態が続いて、林さんもやむなく別にお茶の商売などで金を稼いでいたらしい、そういう状況に陥っていた。私も、小久保さんの長男に頼まれて借金の世話などしたために、ヤクザの取立てにあって半殺しの目に遭うなどしたから、そんな関係で嫌気も差していたのである。                    
 私の家では、林さんが出た後、一部増築してこれを貸間とし、家計の足しにするべく計画した。そして、不動産屋の紹介で入った人が、やはり林さんだった。私は、どういう訳か、林という人に縁が深く、短歌の先生も林先生、昭和三十六年頃、事務所を脇に移して、元事務所を貸店舗とし、これに入ったパーマ屋さんも林なら、経堂の貸店舗のうなぎ屋も林で、隣家が林という具合で、ずっと林に縁があって、正に林に囲まれた小池なのだった。                      

二〇 根津山公園決死の野犬戦                 
 その頃、我が家は玄関と三畳も貸間として家計の足しとするなど、外見は建築士でも、内面は細々とした生活が続いた。         
 ある日、私は新宿方面の現場からの帰途、職人宅を回った後に安食堂で焼酎を飲んで、終電車に乗り損ねてしまった。タクシーで帰っても、我が家に車代はありそうもない「ままよ、歩くに如かず。足はそのためにあるんだ。」とばかり、新宿から世田谷に向けて歩き出した。途中大原を経て松原に差し掛かったが、松原交番の前を通って尋問されたりすると煩わしいと思い、近回りすべく、左の小道へと入っていった。真っ暗な畑の中を進んで、根津山の荒れ地を突っ切って通ろうとした訳だが、この根津山は、現在は整備されて羽根木公園となり、今では世田谷有数の梅園となっている所である。そして、荒れ地を進むうちに前方に野犬の集団が見えてきた。十数匹の野犬の先頭にはボスらしい大型の雑種の日本犬が、さながら部下を従える大将の様に、堂々と、そして、正に血に飢えた狼のような眼光で、進んで来た。私は咄嗟に、こんな時には四つん這いで「ワン」というのが一番と聞いていたことを思い出し、私と対峙したそのボスに対してそれをやってみたが、犬どもには全然通じない。十数匹にワンで通ずる筈がないのだ。そして、犬どもは徐々に囲みを狭めて、私に飛びかからんばかりとなってきた。このままでは彼らの餌食にされてしまう、死んでたまるかと思い、咄嗟に私は立ち上がって、「この野郎! 俺を誰だと思っている。ソロモン帰りの『悪食のツウ』を知らねぇか! 手めぇのどてっ腹を蹴破って、皮ひっぱいで刺身で食ってやるぞ!」                         
と怒髪天を突くの形相で叫び、二、三歩ボスの方へ近寄ったら、私の剣幕にさすがのボスもたじろいで、今まで立てていた尻尾を下げ、一目散に逃げ出したのである。ボスの姿に他のぼろ犬、ちび犬どもも、これはだめだとばかり逃げ散ったから、私はようやく助かったのだった。私に少しの隙があったり、気迫に欠けるところがあったら、まさしく危なかったと思う。私は、本当に相手にかぶりつく気持ちで迫ったから、あれは、やはり、ソロモンで蛇、トカゲを生食いし、実際犬をも食った経験が言わせた叫びだったのだ。人間、必死になれば大した力を現すものだと、そのとき、改めて痛感したのだった。             

二一
 加藤万の引きで世田谷に発展す
 この頃になって、私の世田谷での工事が活発となっていった。この地区の不動産業の人達との交際が拡がり、中でも玉電山下駅前の不動産屋、山下商事の加藤万治郎氏、通称カトマンと馴染みになって、彼の世話で次々と工事を請けるようになり、多忙になってきたのである。彼は東北出身で木訥な感じが親しみやすく正直そうなので、客にも好かれて商売は繁盛していた。一見阿呆面していても、なかなかの策士で、彼の弁にかかれば大抵の人はいちころで騙され、その手玉に取られてしまうのだった。私も、何度もそんな場面を見て、よく知っていたつもりでも、つい釣り込まれて、いつの間にか親しい関係となり、ついには、抜き差しならない関係となってしまうのだった。
 この加藤さんの関係から、私のところでは、狛江方面の仕事が次第に増加していった。それは彼が、成城の家を追われて、狛江の池之端の家に引っ越したことに因るのだった。彼の世話で随分仕事をしたが、彼には、当事者の中に入って、両方の悪口を言っては自分は圏外に逃げ、責任逃れをするという、まことに憎むべき面があって、人の好い私は分かっていながら、つい釣り込まれてしまい、後で悔しがる苦い結果となることが多かった。
 彼は、女に関しては手が早く、女の方でも忽ち彼の意のままになるのだった。彼の妻は物堅い女であったが、極度の近眼だった。人の顔も三メートル離れたら判然としないようで、彼はそれを逆手にとって、奥さんの面前で、女といちゃつくという始末だった。その頃彼には、静恵さん、通称シーちゃんという二号さんがいた。この女性についても、彼の小さな事務所の五、六メートル先でシーちゃんが待っていて、彼の奥さんが戸を開けて出かけると、すぐシーちゃんが入れ替わりに入っていくという具合だった。奥さんは、時に他人をシーちゃんと間違えては、大騒ぎをして、後で大慌てするようなことの繰り返しで、疲れ切っていた。
 ある日、彼は、事務所の大家が営む店の改造を私に依頼してきた。私が概算見積もりを言うと、                    
「小池さん、大家さんの所だ、勉強して安くしてよ。」       
と嘆願するので、これは彼も商売を離れて頼んでいるのだと思った私は、彼の仲介分を考えずに契約して、工事金六十万の内現金三十万を初めに受け、後は完成後に月賦ということに合意して、三十万円を受け取り、山下駅前の彼の事務所に帰ったら、                
「小池さん、私の分をくれ。」                  
と言う。私は、                         
「初めから、そう言ってくれれば良かったのに。」         
と言ったが、私がしっかり問い正さなかったことが悪かったのだ。  
「それじゃ。三万円だけだぞ。あとは無しだよ。」         
と彼に三万円を渡したのだ。彼は、                
「有り難う。これで助かった。今日は、月末なのに、米屋の払いができなくて困っていたんだ。これで家内も喜ぶ。」           
と満面の笑顔だった。ところが、翌日昼近く、彼の事務所に行ってみると、彼は真っ青な顔で、                     
「大変だ! 小池さん。困ったことになった。家内が和泉多摩川の駅で小田急に轢かれて死んじゃったんだ。俺はすぐ家に帰るが、背広の上着を静恵の所に置き忘れて来たんだ。小池さん、悪いけど、それを狛江の家にすぐ届けてよ。頼む。」                   
と言うのだ。二日ばかり前から、シーちゃんは私の世話で、ボロ市通りの栄楽の前の榎本さん宅に間借りしていた。私承諾してボロ市通りに走ると、彼女もさすがに青い顔になり、               
「私も行かねばならなかね」                   
と言うのに、                          
「駄目だ! あんたが行ったら、娘達に殺されるよ。」       
と制して、私は彼女を残して上着を持ち、狛江の彼宅に急いだ。彼の借家は、大地主の大家宅の工事の際に、ついでに補修してやった別棟の一軒家だった。彼の話では、当日朝、奥さんは、私の遣った三万円で米屋の払いや買い物を済ませ、遅れた時間を気にしながら駅の踏切に着いて、和泉多摩川駅には停車しない急行電車が高速で近付くのが、近眼のため見えずに線路に入ってしまったため、轢かれて二十メートルも引きずられて即死したらしい。私の支払った金のために死んだのだと思うと、私も少し不気味な感じがしたのだった。彼との葬儀の相談の中で、仏壇に飾る奥さんの遺影のことになり、奥さんの良い写真が一枚もない、  
「この、皆と一緒のぼけた写真一枚だけだ。」           
と差し出すのを受け取って、                   
「農大の学生連中がアルバイトに来ているから、奴らに書かせよう。明日届ける。」                          
と帰ってきて、急いで手配したのだった。こうして、私の作らせた奥さんの遺影が祭壇を飾ることになった。葬儀後の家庭内のことは、乱闘となるか、穏便に治まるか、私には為す術のないことであるし、原因を作った加藤さんが、当然、ことにあたるべきだから、私はそれ以上は関与しなかった。                          

二二 三本杉に別宅を建築                    
 その頃、加藤さんの友人である世田谷は三本杉の松田氏の話で、七十坪ばかりの土地を借地することになった。地主は、その辺一帯を持つ大地主だが、農業もせず、主人は病院の試験動物の飼育係をしているという境遇の人だった。戦死した主の弟が逆縁で入ったというのだが、奥さんは少し「脳たりん」だった。年下の若い主人を大事にして、子供が四人もいた。金に困ると土地を切り貸しし、入金があると子供達とデパートに数日通って飲食に使い果たすという生活振りらしい。松田さんは地主の家の一室を借りているので、不動産屋という自分の利害から、土地を次々と処分させるよう運んでいたのだ。私も、安く土地が借りられ、しかも、そこが環状八号線の計画路線上にあるのを知り、将来の土地買収を見込んで借り受けることにして、そこを仕事上の車庫及び下小屋にしていた。その頃は、公庫住宅建設の最盛期に入り、各所でその工事を進める内、私の名前での申込みが当選して、この際、これで三本杉に 住宅を建てて、貸家にでもすれば将来のためにも良いと考え、郡山の姉もそれを勧めたので、姉に資金援助を頼んでその実行にかかった。  
 家は忽ち出来上がり。完成間近になっていた。丁度、その頃目黒の家内の実家は、従兄のお人好しが災いして、彼が友人達と手を出した石炭業が失敗し、加えて、叔父は中風で半身不随という状況に陥っていた。今まで、叔父夫婦は麻布の国華社の社宅にいたが、今度はそこを追い出され、半身不随の叔父と従兄一家が池袋の借間に五人で住まうことになるという話に、私は考えた。                   
「家内の親は私の親も同然だ。まして、それが大恩ある叔父一家となれば、私が黙っている訳にはいかない。これは郡山の姉には約束違反で叱られるだろうが、構うものか、事後承諾を貰えばよい。」      
 そして、私は、家内に三本杉に叔父さん一家を引き取る計画を打ち明けたのだった。家内の連絡に従兄達は大喜びだった。二十九年の春頃、叔父一家は三本杉の住人となり、叔父は歩くのも不自由の身だったが、周りは静かな農村風景で、近くには矢籐園の大植木畑が青々と続いており、空気も都塵を離れたすがすがしさであったから、叔父は非常に喜んでくれ、私はようやく最後の孝行ができたと思ったのだった。
 この時、この家に下屋を差し掛けて、三畳ほどの部屋を造り、最初は犬竹大工の手下の尾沢大工を入れていたが、彼が弦巻の下小屋に入ることになり、彼の後に加藤さんに頼まれて、二号さんの静恵さんを入れたのだった。加藤さんも時々この三本杉の家に来て、シーちゃんとの間にできた彼の赤ん坊を可愛がっていた。だが、一年後には、この家を手放すことになり、静恵さんは区役所下の安藤板金の家に、私から頼んでおいて貰うことになった。私がこのように加藤さんの女の世話をしたのは、彼女の子供が可哀想だというだけの理由からだった。彼は、私を見込んでますます依頼心を募らせた。安藤さんの奥さんは精神病で、そのため、安藤さんは、
「他人ならば断るのですが、小池さんでは仕方ない。だが、一か月だけにして下さい。」
と言うので、その旨を固く約束して置いて貰ったのだった。
一か月が近付いた頃、加藤さんは、
「あと一か月、頼む、小池さん、一生の頼みだ。」
と私を拝み倒し、安藤さんも不承不承に承諾してくれ、その一か月後には、私は今度はボロ市通りの榎本家に静恵さんを移したのだった。  

二三 栄楽飯店繁盛記                      
 昭和二十八年、私が目黒の清野建設の現場に通っていた頃、当時渋谷駅地下鉄ガードの、井の頭線側下辺りは、バラック建てのゴタゴタした安酒場街だった。毎晩、そこで安酒を飲んでは毎日の疲れを癒やすというのが、その頃の私の生活パターンになっていた。私なりに行く店も大体一定していて、店の常連のようになっていた。だから、そこに働く女とも顔馴染みになって、その内の未だ素人で場馴れしていない感じの中年女に酔った弾みで、私の名刺を渡して、そのまますっかり忘れていたのだった。そして、数か月後、秋口の寒い日の朝、私が家の前で道を掃いていたとき、この彼女が単衣一枚の姿で突如私の前に現れたのである。「小池さん。私は今、ボロ市通りの、お風呂屋の前に住んでいるんです。一寸困ったことがあって、お願いに来たんです。済みませんが、三百円貸してくれませんか。子供が給食費を学校に出すのが遅れて、今日は何としても駄目だとせがまれ、困ってしまったのです。」       
と涙声で語るのだ。私も、家の前で、女と話などして、家内や母に見つかったら、それこそ大変と思うと、話もおちおち聞いていられない。心せくまま、胸のポケットに手を入れたら、千円札が一枚あったので、彼女に、                             
「これを持っていけ。早く行け。」                
とそれを彼女に渡して、私は急いで家に入ったのだった。全く困ったものだ。どうして私の家が分かったのだろう。私は不思議でならなかったが、それが、私の渡した名刺の故だということは後で聞いたことである。
 数日後、ボロ市通りに出て、銭湯の前のボロ屋を見つけて、覗いてみると彼女がいるので、立ち寄って話をしてみた。そして、三尺の土間の向こうの六畳一間がこの一家の住まいで、二階には別人が入っているようだった。子供は三人で、夫婦の家具など一つもない、貧乏一家の様相だった。そして、六畳の片隅は、根太が折れて落ち込み、そこを避けた平らな床は、五畳ほどで、畳もなく、汚い茣蓙が敷いてあるだけである。私は、                             
「これは酷い。何とかしよう。」                 
と床の修理を引き受け、毎日薪を買っているとのことなので、建築現場から薪を運ばせると約束したのだった。それでも、彼女は物堅くて、私からの借金を二百円ばかり返してくれ、後日また少しずつお返ししますと言うのだった。その年の暮れ近くのある日、彼女の主人と称する男が私宅を尋ねてきた。                       
 彼は、私に、                         
「私の家の店の権利を売りますから、買って下さい。私達は二階の人を出して、二階に住むことにしますから。」             
と言うのだ。なるほど、ボロ市通りは大昔からの商店街だったのだ。この通りのすぐ近く、通りを百メートルばかり東に行った道路沿いの南側にある屋敷こそは、代官屋敷と呼ばれる大邸宅で、藁葺きの大門の奥には、江戸時代以来のお白州付きの建物が厳然と残っていた。     
 約四百年前、年貢を納めに来る貧しい農民が、農具や衣類、諸道具を物々交換したのが、ボロ市の始まりであり、今でも、暮れと新年の十五、十六の両日に、ボロ市が立って、この通りは大賑わいとなるのである。だが、その頃は、未だ藁葺きの家も所々に残っているという具合で、現在の繁栄の様相など夢想だにできない寂しい通りだったのだ。しかし、私には、将来性のある商店街と思われたのである。         
 彼らの姓は岩城といった(夫婦は正式には入籍しておらず、女房の方は清水と言った)。この男の言うことは、すぐには信用できなかったので、私は、その隣家の理髪屋に出かけた。その頃、私の近所には、他に大山通りの方に一軒あったが、他は理髪屋は皆無だったので、私はこの須田床屋の常連だったのだ。そして、床屋のおばあさんに聞いて驚いた。おばあさんはあきれ顔で言うのだった。               
「隣の連中に権利面は聞いて呆れる。とんでもない話だ。あの連中は大家に家賃は払わないわ、二階を又貸しして家賃を猫ばばするわ、挙げ句、自分らは生活保護を受けながら、亭主は働かずにいて、職業は詐欺師と来ているから、何にしても、まず、大家さんに相談するのが一番ですよ。」
と、呉々も用心するように忠告してくれた。私は、早速渋谷の立派な屋敷に大家の岩瀬さんを訪ねた。すると、大家は、私に、       
「小池さん。私、あの連中には困り果てているそんですよ。けれども生活保護家庭を無情に追い出す訳にも行かず、弱っているんだ。小池さん、どうしたらよいか、知恵を貸して下さい。」            
と言うではないか。そこで、私は、私の見込んだ将来性を活かすべく、
「階下を店舗用として借りる。権利金として一万円を払い、家賃は三千円。岩城一家には二階に移って貰う。」              
ということで、岩瀬さんと話を決めたのだった。世田谷に帰って岩城を呼んで、                            
「渋谷で大家さんに会って決めてきたんだが、あなたたちは二階に越して貰いたい。貴方に五千円を支払うが、これは大家には内緒だ。分かったね。」                            
と言って、彼に五千円を渡し、焼酎を一杯出したのだった。この、暮れの思わぬぬ入金に大喜びし、酩酊したうえ私宅前の電柱にどんどん登って、天にも昇るその気持ちを表した後、子らの待つ家に帰っていった。
 その頃、三本杉の叔父は目立って病状が悪化して行き、意識も朦朧となって、最期の近いことを思わせる容態となった。私は、従兄にいに今度の世田谷の店舗の話をして、叔父を喜ばせるように勧め、従兄が、   
「お父さん、今度ね、勉君が、ボロ市通りに店を借りることを決めてくれたから、春早々に店が出せるんだよ。本当に良かった。」     
と病人に話して聞かせたのだった。叔父も、顔を少しゆがめて笑ったようで、話は理解できたようだった。それが、昭和二十九年の暮れの三十日だったと思う。そして、年が明け、三が日が過ぎた四日の早朝に、叔父は息を引き取ったのである。                  
 葬儀は、世田谷通りの越後屋が知合いだったので、手順良く盛大に執り行えた。敷地内を清掃して花輪を並べたとき、私は本当に最後の孝行ができて良かったと思った。通夜には私の兄や甥姪達も来てくれ、賑やかだった。
 そして、姪の美佐子と従兄菊雄さんと私の三人が、ウィスキーの角瓶を囲んでの話で、美佐子が、
「伯父さん達、今度のお店は何の店にするつもり?」        
と聞いたとき、菊雄さんは、                   
「僕は、商売はやったことがないので、考えているんだが・・・」  
と未だ腹の決まらない様子で、                  
「僕は戦時中、建築金物の製造会社にいたことがある。建築は勉君の 専門だし、或いは、建築金物屋はどうかと思う。」         
と言ったのだった。すると、美佐子は、              
「伯父さん。私はラーメン屋が良いと思う。金物屋は元手が沢山要るし、その上、資金の回転も悪いから、難しいわよ。」
と言い、これに菊雄さんが、                   
「しかし、私はラーメン屋については何の知識もないから、できそうもないなぁ。」                          
と言うと、美佐子は、                      
「私が教えてあげる。家は英夫兄さんも、清兄さんも、製麺屋だし、毎日ラーメン屋廻りをしているから、何でも知っているわよ。ラーメン屋が一番よ。」                          
と声を大にして言うのだった。ウィスキーの瓶が空になった頃、話は決まって、従兄の小バハイはラーメン屋と言うことになったのだった。美佐子の帰った後、従兄さんと二人で店の開店の相談をした。
 葬儀万端がすっかり片付いた後の新年の初仕事は、従兄さんの店の開店作戦だった。私は、現場を見て設計に入り、大工、鳶、左官と配下の総力を挙げて、工事を急ぎ、完成間近になったとき、従兄はそれを見ながら、義姉に、                         
「(息子)栄一も四月には(高校)卒業だし、店は二人でやれや。」   
と言い出した。私は、そのとき言葉を改め、            
「従兄にいさん、それは駄目だ。今度こそ、従兄さんが先頭に立ってやって貰いたいのです。従兄さんこそが、最後の腕試しを思って、全力でぶつかって下さい。」                        
私の真剣な顔に従兄さんも真顔になって考えてくれ、        
「よし。それならば、俺がやる。」                
と決心を固め、このときに、店の名前も、栄一の「栄」の字をとって「栄楽」と決まったのだった。店名は、その後栄一の代に「栄楽飯店」と改称されて、ボロ市通りの名物店となっていったのである。
 開店当時の店は、間口二間半、奥行き三間の小さな店で、客は八人で満席となった。料理人は従兄の手配で、コック職人の溜まり場から差し向けられた中年の人だったが、この人が大変良い人で、
「私のような高い職人を使っていては営業が成り立たないから、私が一か月で全てを伝授するので、後は自分たちだけでやりなさい。」
と言って、ラーメンから中華料理まですべてを丁寧に手ほどきして、教えてくれたのだった。開店の時には、私の配下の職人達総員が顔を並べ、開店花輪も賑々しく、ボロ市通りは早くも春満開の観を呈したのだった。昭和三十年二月十二日のことだった。
 その後も開店日に続いて連日客が満員で、従兄達も幸先良しと張り切ったのだった。この義姉さんは、元は酒場の手伝いの経験があり、接客は板についたものだったし、栄ちゃんも学校よりも家業が大事とばかり働き出したから、栄楽は文字通り栄えて楽しい活気を呈していった。栄楽の開店によって町内の同業者の被害が出たこともあった。この通りの流しのラーメンは商売にならず、付近のこれに毛の生えたような小さなラーメン屋も八軒ばかり店を閉めたのである。私のところで使っていた鳶の頭の綾部さんでは、職人達が毎日栄楽の味はどうか、塩加減はどうだと話しているそうで、それがすぐ私の耳に入れられて、私から従兄さんに知らされたから、味の方も改善・維持されるという具合だった。  
 しかし、当時電話は未だ金をかけなければ設置できない状況だったので、当分、私方の電話で出前の注文を一手に引受けることとなった。電話で注文を受けると、洋吉、眞理子が自転車で店まで走るのだ。洋吉の自転車が家の前から栄楽に向かう小道で、ボロ市通りの「藪そば」の出前の自転車と衝突し、道一杯にそばを撒いてしまう騒ぎとなったこともあった。当時は私の建築業も既にこの通りでは知られた存在であったから、私の謝罪挨拶だけでご勘弁願うことができたのだった。     

二四 私と陸王                         
 私と「陸王」のサイドカーとの間には深い縁があるように思われる。中国戦線での南京設営隊で、私はこの「陸王」から自動車運転の道に入ったのである。南京光華門内の幅広い直線道路を、全速力で疾走して、私はこの車の威力と爆音が大好きになってしまった。サイドカーは私の勇猛心を奮い立たせ、難関に真っ向から立ち向かう際の最良の友となってくれたのだ。その実例が、ソロモン戦のバラレ島でのサイドカー「くろがね」だった。世田谷移転四年目の昭和二十八年、私は、世田谷通りの荻野自動車修理工場でその懐かしの「陸王」に出会ったのだ。それは南京で乗ったのと同じカーキ色の思い出の姿で、側車はさすがに機銃車ではなく、箱形の荷台車になっていたが、構造はすべて昔のままだった。私は、思わずその運転席に座ってハンドルを握り、感触を懐かしんでいると修理屋の親父が、                      
「小池さん、乗れるのか。」                   
と聞くから、                          
「これこそ、運転を覚えた最初の車なんだよ。俺は、これの分解修理までやったんだ。」                        
と言うと、                           
「じゃ、一回りしてみなよ。」                  
と言う。私は、早速、エンジンをかけた。初め、なかなか始動しないので、キャブのバルブを調整すると、うまく始動したから、そのまま三軒茶屋方面に走らせてみた。なかなか快調で、思うように気分良く運転ができ、満足して「そろそろ」と帰路につき、若林通りにさしかかったところで、巡査に制止された。                   
「君、運転免許証を見せなさい。」                
と言うから、私は、                       
「そういうものは持っておりません。」              
「それがないと、運転はできないことになっている。」       
と言って私の住所氏名を記帳した。私は、             
「それでは車を修理屋さんに返します。」             
と、今では考えられないことだが、また運転して荻野さんに戻った。 
そして、親父さんに、                      
「今、そこで巡査に捕まって、名前を書かれてしまった。これでは免許も取れないことになるよ。困ったなあ。」             
と言うと、親父さんは、                     
「小池さん、この車を買ってくれないか。君が買うなら、安くするし、免許を取って乗ると言うなら、警察の方も何とかする。」      
と言うではないか。それで、私は、値を負けて貰って、その陸王を買うことにしたのだった。親父さんは、早速若林の世田谷署に飛んでいったが、しばらくして、意気揚々と帰ってきた。            
親父が言うには、彼は警察に、                  
「小池さんは 私のお客なので、あの人を捕まえたらあかん。あの人は軍隊で陸王に乗っていて、あの車はお手のものなんだ。免許も取らせるし、あの車を買って貰うんだから、頼むよ。」           
と言ったそうだ。彼は世田谷署には顔利きで、こんな交渉は朝飯前だったようだ。いや、よく考えると、この経過こそ彼の計算尽くだったのかも知れない。                          
 しかし、私はこれによって、その後、彼の修理工場を鉄骨二階建てに改築する工事を請負うなど、長い付合いが始まることになったのだった。
 鮫洲の試験場には工事の隙を見て何の勉強もせずに、ある日思い立って出かけた。試験場の陸王はオンボロ車で、受験者はなかなか始動できず、皆落第してしまい、私の番になった。私は各所調整して始動させ、コースを一巡して、実技は合格となった。しかし、学科試験は初めてのことで、国内法規が不案内のため不合格となってしまい、学科についてだけ後日を期して敗退したのだった。数日後、今度は電車に乗ってから、ずっと参考書と首っ引きで勉強し、試験に臨んで、合格することができた。こうして、免許証を取得でき、車も購入できて、これが私の現場見廻り、木材の応急搬送等と、私の建築業に大いに役立ったのだった。
 また、時々子供二人を乗せて狛江方面にドライブを楽しみ、子供達は疾走する爆音と側車の中で受ける風に、大喜びしたが、何分にも中古のボロ車で、私の修繕手入れでは時々運転不能となることもあるのだった。夏の夜、折角狛江方面、多摩川辺までドライブしたその帰りに、喜多見の田圃の中の一本道で、車は突然停止して始動不能となってしまった。無数の蛙がケロケロと笑うように鳴き立てる中、私の懸命の努力もついに空しく、子供達と悄然歩いて帰宅したのだった。         


二五 成城 陸王転覆事件                      
 栄楽の開店後、加藤万の世話で、成城学園駅前に中華料理店「七面鳥」の店舗改造工事に着手した。店主は、新宿の店で腕を磨いたコックの鎌倉君で、成城の上流階級の人達を相手に奮起するのだと張切っていた。私も、成城の駅前と聞いて、表舞台に顔を出すような気分で、工事に精を出したのだったが、開店を明日に控えて、鎌倉君が顔を曇らせたのである。                             
「困りました。駅前通りの不動産屋の社長の世話で品川の屠殺場から豚のガラを貰うことになったんですが、僕は仕込みの手配で暇ができなくて、行けそうもないんです。困った。」              
と言うのを聞いて、私は、                    
「それは私が引き受けよう。誰か案内が付いてくれれば、私がサイドカーで行ってやるよ。」                      
と申し出て、その社長の配下の若者にサイドカーの運転席後ろに跨がって貰って、出発と相成った。その日は、寒空で雪がチラチラ舞い出す中、品川でガラを荷台に積み終わったときは、余りの寒さに私は酒場に入って立続けに銚子二本を空けたのだった。品川を出て、世田谷の栄楽に寄って、従兄のところで休憩すると、従兄は、            
「これは豚の頭だね。うちのコックの話では、豚の頭はスープの出汁には使わない方が良いそうだ。スープが濁るので困るのだそうだが、一つだけ貰って使ってみるか。」                   
と言う。私は、その方面は全然不案内で何も知らなかったので、品川から、言われるままに黙って持ってきただけだった。雪の勢いが少し強くなって、従兄は、                        
「勉君、一杯くらい良いだろう。」                
と、焼酎をコップに注いでくれた。私も余りの寒さにそれをぐっと飲み干し、続いてもう一杯飲んでから成城へと出発したのだった。    
 成城への道は、勝手知ったる世田谷通りである。陸王の千三百CCエンジンが火を噴いて赤くなり、サイドカー特有の振動に揺られると、私は忽ち酔いが全身に回ってしまい、成城に入り、目的の店まで三百メートルを残す手前のカーブにかかって、ついに陸王はあえなく転覆して、私は意識不明に陥ってしまった。                 
 私が気付いたときは、大勢の男達が陸王を持ち上げ、私をその下から引きずり出そうとしていた。周りは黒山の人だかりで、私は誰かの車ですぐ近くの木下病院にかつぎ込まれていた。サイドカーの後ろに跨がっていた若者は、顔面が血で真っ赤になり、片腕をぶらりと下げたまま、道路脇の屋敷で立ち上がったのだった。              
 私は、顔面に怪我して、四針ばかり縫うことになった。若い衆の腕は脱臼で、顔は前歯四本を折ったとのこと、脱臼はすぐに回復し、歯は歯科で治療することになった。その日は家内も開店前日の手伝いで来ていたので、私の手術は手早く進められ、数時間後には成城署の交通係から病室で事情聴取を受けた。その聴き方には咎め立てする雰囲気はなく、丁重かつ緩やかな感じだった。                  
「あの地点は、道路工事の完了直後で、路面に細かい砕石が撒いてあったのです。そのため、車の前輪が滑って、左側の側溝に落ち、それで転覆したのです。だが、車のハンドルが振れた形跡は全然ありませんから、酔払い運転ではありません。」                  
と説明してくれるのだった。私は事故の際、約一トンの車体の下敷きになった訳で、医者は内臓器官の損傷を懸念して厳重な検査を重ねたらしい。だが、私は顔面以外まったく無傷だった。医者はまるで奇跡だと言っていたが、私は当時、五十キロくらいの細身だったので、腰がすっぽりと側溝に落ち込み、車体の重圧から免れることができたのだった。 
 成城署の私に対する緩やかな態度には、社長の若衆関係があったように思う。社長というのは、実は、新宿にボクシングジムを経営する右翼住之江の親分だったのだ。そのせいか、連日の治療には若い女医が親切に当たってくれたし、私が時々病院の事務室で、家内と銀行の手配などの必要から長電話をしても嫌な顔はされなかった。         
 入院後十日くらい過ぎて、医師が私の顔の火傷に気が付いたのだが、そのときは既に手遅れだったようだ。陸王の焼けたエンジンの下に顔があったため、頬を焼かれたのだが、前述の理由から内臓の損傷を危惧しての検査に手間取り、顔の方が疎かになったというのもやむを得ない事と言う外ない。外科主任の医師が、植皮手術をやる外ないと宣言していた。                              
 そのときの外科主任は、元皇太子の侍医であったという佐分利(六郎)博士で、当時外科では最高権威と言われている人だった。その佐分利博士の手術で、私の顔には脚の皮膚からの植皮が行われたのだ。が、手遅れということもあって、やはり火傷の跡は残ることとなってしまった。でも、その植皮のお蔭で、目までが引きつるようなことはなく済んだから、私としては、せめてもの幸いと思うべしと自分に言い聞かせている。
 怪我をした若い衆は大変な出っ歯だったが、入れ歯で容貌が一変し、大変な美男となったから、本人も大喜びしてくれ、なんと私に感謝するという始末である。退院後、家内と社長に挨拶に行ったときには、家内共々内心びくびくして、頭を深く下げたのだが、社長は非常に機嫌良く笑って、                            
「いやあ。こんなにして頂いて申し訳ない。貴男も大変だったね。これから気を付けてね。」                      
と、私が差し出したビールの箱を受け取ったのだった。       
 そして、後日、このときの女医のお蔭で、私は家業の難関を切り抜ける幸運に巡り会う事となる。                    
 この「七面鳥」は、私が、一か月の入院とその後の一か月の通院を経て全治しても、工事の残金の五万円ばかりが払えず、鎌倉君が私に電話で、                              
「余り思わしくないので、商売を止めようかと思う。」       
と言ったとき、私は激怒した。                  
「何を言うんだ。私が電話するのは金が欲しいからではない。折角造った店がどうなのか心配しているのだ。君がそんな弱気なら、今から行って店を叩き壊す。そんな弱気でどうするんだ。開店の意気込みはどうした。初心忘るべからずだ。奮起一番、成城一の店になってみろ。」  
私の剣幕に、鎌倉君は度肝を抜かれて目が覚めたらしく、      
「分かりました。頑張ります。」                 
と、きっぱり言ってくれたのだった。それからの彼は、めざましい頑張りを見せた。そして、大繁盛の糸口を掴んだようで、二か月後には私の残金を完済し、数年後には成城どころか世田谷一の店舗となり、筋向かいに五階建てのビルを建設するほどの隆盛を見たのだった。     
 私は、最初、思わしくないのは、四月十八日が厄日で、山本元帥の戦死、横須賀初空襲と、私たち海軍には悪い日だからか、などと縁起に絡めてみたりしていたが、よく考えてみると、それは開店の前日で、私の事故こそが厄日であったと分かり、私が厄を受けて厄除けをしたから、この隆盛に繋がったのかと、今では思ったりしている。       


二六 郡山 松葉屋まよ姉との関係              
 郡山の京染屋「松葉屋」の女主となったまよ姉とは、川俣の義雄兄の元からの離脱以来、大変縁が深く、時には多額の援助を受け、私は又私なりに姉のため大いに働いて、現在に至る営業の手助けもしてきたつもりである。私が復員したとき、姉は郡山市大槻に疎開していた。そして、より郡山駅に近い地に店舗を借りて、京染店を開業すると、傍ら、頻繁に上京もして、東京の得意先を廻り、相当な商いをしていた。             
 昭和二三年頃に、姉の話から、初台に理髪店の新築工事を請け負って仕上げたことがあった。その後、同じく姉のつてで、久我山に茶屋工事を手がけ、次に、その家が永福町に移転しての建築工事、文学座の女優(田代信子)の家を四谷塩町に新築して、建前の日に雨天となり、近所の宮口精二さん(映画「七人の侍」の剣客役)の家で祝宴をあげたり、随分、多方面の工事に関係した。
 また、昭和二七、八年は、千葉多喜次郎さんの家を、西永福に地所の購入をお世話して建てたり、次いで、久我山にその息子さんの家を新築等施工して、さらに、千葉さんの命により、新宿若林町にアパート兼貸店舗(お好み焼屋)の家を新築、地下を鉄筋コンクリート造りとして、小関建設に下請けさせて完成したのだった。千葉さんの話から専修大教授大島好道先生の住宅を、敷地購入から建物の設計施工まで一切を請けて新築し、犬竹大工が、配下の尾沢君を使って、大工仕事に敏腕を振るったのだった。また、弦巻四丁目に、私の貸間にいた林清信さん名義でアパートを建設し、この貸店舗部分を加藤万の世話で菓子屋「つるや」のおばさんに貸し、その隣に京染屋の「なたや」を入れて、多年すったもんだの末、遂に「なたや」は引越して貰い、郡山松葉屋の支店として造作したが、郡山の義兄の病状悪化で休店となり、一時、幡豆のきの姉が店に出たりしていたが、幡豆の義兄が死亡し、義兄の息子政仁さんが「母として孝養する」と言明して、きの姉を幡豆に連れ帰ったので、店は全面的に「つるや」に貸すことになったのだった。又、並木さんの話で、松陰神社の駅前に酒場の工事をし、その工事代金の代わりに神奈川県の川碕、蔵敷の土地を取り、貸家を建造することとして大槻の安田真三さんに話を向けてみたが、不調となり、結局、まよ姉が引き取って貸家を完成したのだった。難しい土地で、登記できず、散々苦労して、築後三五年も経て、今年中には登記可能と聞く。その姉も昭和五三年に亡くなってしまった。                
 その間、郡山の一人娘弘子に、義雄兄が仲人となって、父の甥の小池完之が婿養子に入り、目下盛業中である。郡山の店の借地を購入するのに、それまでの借地権を認めないとの地主の言に、私が行って談判し、これを認めさせて購入したという出来事もあった。又、別に二〇〇坪のアパート用地を姉の生前に購入してあり、一昨年これに三階建てアパートを新築して賃貸している。弦巻四丁目の土地も、地主がボロ市通りのガソリン屋という近さなので、三〇年も前に購入でき、前面道路にあった拡張計画が、私が商店街にしてしまったため、計画変更で現状のままとなって、地価も高額に見込まれるようになった。         
 まよ姉は、尾久の義雄兄の子供達が皆成功し、金持ちになったので、私に、「仲直りして頂戴。昭和一二年の二〇〇円を私が代わりに払うから、そうして下さい。」                     
と和睦の話を向けてきた。ところが、初め姉が、当時の二〇〇円は今の金で二万円だというから、私が腹を立て、話は決裂しそうになったが、その後二〇万円ということになって、私が承諾し、私は兄側の父母の法事に出席したのだった。お清めの宴席に出る前に、姉からその二〇万円をニ度に分割で払いたいと頼まれて、               
「それで良いが、使い方は私に任せ、決して、文句を言わないこと」と約束させて、初めの一〇万円を受け取ったのだった。宴席で、私は皆に言い渡した。                          
「貴方達はお金持ちになったのに、未だ父の墓を建てていない。私は貧乏だから金は余りないが、ここにあるこの一〇万円を墓代の一部に充てて、どうか墓を建ててくれないか。母の墓は私が豪徳寺に建ててあるので、貴方達で父の墓を建ててほしい。死んで六〇年余りも墓がなかったのだ。父もどんなにか喜ぶことと思う。是非そうして下さい。」    
 私の言葉に、兄はじめ一同は一言もなかった。姉も今まで何度も義雄宅に行っていて何故そのことに言及しなかったのかと、私は訴えたいところであった。こうして、第一回目の一〇万円を処置し、第二回目の一〇万円の支払いは、それから二年ばかり後になった。
 私は、その一〇万円に私の手持ちを加えて五〇万円とし、これを持って、米沢工業高校に出向き、校長にこれを差し出したのだった。            
 校長が不審げに理由を聞くので、                
「私は、この高校の前身の米沢工業学校在校中、貧乏だったため、三年間授業料を免除して頂いて通学しました。私が今日あるのは、学校のお蔭です。戦地から生きて帰れたのも、学校を出て、幹部になれたからですので、この御恩をお返ししないまま死ぬことはできません。僅かですが、是非こちらで、後輩生徒さんの教育に役立てて下さい。」    
とお願いしたのだった。                     
 まよ姉は、兄達親子を相手に大きな商売をして、結果的には元金の数十倍の利益を上げた筈であるから、この姉に大変世話になった私としても、姉の商売熱心と努力には大いに見習うべきものがあると肝に銘じているのである。                         


二七 世田谷区議高橋政見氏との関係               
 近隣の神社、ボロ市通り沿いの天祖神社の東隣に、高橋政見区議が住んでおられた。この人は、福島県出身で、私の世田谷での生活には、忘れることのできない恩人である。そして、この人と私との関係の道を付けてくれたのも、前に述べた加藤万だった。加藤万の友達で、大蔵病院近くに住んでいた人が、高橋区議の秘書役でいつも先生宅に出入りしていた。そして、加藤万と私が先生宅に行ったとき、同県人のよしみですっかり先生に見込まれて、その後出入りするようになったのだ。   

 弦巻の佐野屋敷(鉄鋼社社長)の先に高橋区議所有の工場があり、その前の敷地を真弓豆腐屋の店舗用地に借りる話を加藤万が決めていた。この真弓君も福島県出身の若者で、豪徳寺駅前で小さな豆腐店を開業していたが、借店のため、自分の店を持ちたいと望んでいた。私が加藤万の仲介で、その建築をすることになったのだが、加藤万は、真弓君に金がないというのに、                    「小池さんが何とかしてくれる。大丈夫だ。」           
と例の旨い口で前金五万円を貸し付け、後は上棟時、完成後月賦と勝手に自分だけで計算して、話を進めたのだ。上棟時に真弓君は金策がつかず、私に本当の話をしてただ謝るばかりである。
 私はこれを聞いて、 
「よし、分かった。又、加藤万の手に引っかかってしまったか。だが、工事に着手した以上、完成させねばならないから、完成して開店後は日払いで払ってほしい。それで良い。」             と、同県人のよしみで了承し、工事を急いで開店にこぎ着けたのだった。開店祝いの宴席には、高橋区議も呼んで盛大な酒宴となった。    
 ところが、この土地は、弦巻から用賀に向かう大山通り沿いの一〇坪くらいの空き地で、実は、既に道路拡張の計画線が入っていて、建築許可が下りない筈の場所だった。私は、未だ買収未了で所有権は地主にある以上、所有権の行使は国民の権利だから、地主が承知であれば、建築は可能な筈だと解釈して建築を強行したのだった。宴席の最中、高橋区議が私に聞いてきた。                      
「この土地は家が建てられないと皆が言っていたが、誰が許可したのかね。」                             
一呼吸して、私はきっぱり言った。                
「それは小池が許可しました。小池です。」            
これには、高橋さんも、ぐっと息をのんで、            
「小池さんか。それは良かった。それなら大丈夫だ。」       
と、私の意を酌んで、さらには言及せず、後は雑談に花が咲いたのだった。                              
 このようにして、私は、この大山通りに次々と商店を建て、私の姉の家の前の空地も、通りの並びの六軒と共に全部商店にしたのだった。数年後には、この通りは一〇軒ほどの商店が並ぶ商店街となっていたから、昭和四〇年ころ、遂に道路拡張計画は変更されて、拡張中止となり、松が丘小学校の前の通りがこれに代わって拡張されることになったのだった。この新たに拡張された通りが現在の弦巻商店街で、今では町内最盛の通りとなっている。                      
 その後、この大山通りの豆腐屋の裏の二〇〇坪ほどを、加藤万の話で、私が測量して、中川建具の住宅兼工場として建てたり、丸山パーマの新築工事等も請け負い完成させたりした。又、栄楽の隣家の坂入さんのための貸家を建て、残余の土地に小屋を建てて、尾沢大工を住まわせもしたのだった。
 その後一〇年ほど経たころ、これらの土地は全部が高橋区議のものではなく、一部は借地で、地主は私の前の榎本源吾氏だったこと、それに、工場や真弓君の所、鈴木食料品店(私が建てた)は「鈴の湯」の主人の土地ということが判明し、鈴の湯関係は解決したが、榎本さんの方は裁判となって、区議が敗訴してしまった。私は、借地人代表ということで区議と交渉し、地主との正式賃貸契約金一万円の内区議に五〇〇〇円を負担願うこととして、無事解決したのだった。高橋さんからこのとき 私に労いと感謝の言葉があって、その後、高橋さんから民生委員の任を勧められたのだった。                  


二八 鳶の頭綾部氏との関係及び町内事情等            
 私が世田谷に移って間もなくから、すぐ近所に住む鳶の頭、綾部さんとの交際が始まった。彼は、元々この土地の人ではなかったが、奥さんが烏山の大農の娘とかで、地域の鳶の頭として羽振りを利かせていた。彼は、近辺の農家や遊び人を手下に使って建築の鳶土工の工事を引き受けていた。彼は、技術面では余り優秀とは言い難いものがあったが、ただ、無類の策士で、巧妙な手口で近隣の地主筋を掴み、建築工事関係でも大工達の差配、仲介等にまで関係して、口銭を取るなどしていたから、相当金回りも良いようだった。私は、初めの内、彼に対する支払いも滞ったりしたため、夜中の一二時ころに来ては玄関口で酒を請求したりする彼に、余り親しみを感じなかったが、私の業績が次第に伸び、大きい工事が続くようになると、彼の対応も自然に変わってきたのだった。

 私が、成城の怪我の後、退院して間もなくのある日、赤坂溜池の鳶頭から私に呼出しがかかった。
当時、私は、上町駅から南へ坂を登った先の八百屋「八百彦」の手前下に住む中沢君の世話で、溜池の、華道師範安達家の次男から依頼を受けて、溜池で安達事務所の工事にかかり、その最中だった。                         
「地元に無断で足場かけ工事をしたのはけしからん。何分の挨拶をせよ。」とのことであった。私は、鳶のことは鳶が当たるべきと綾部さんに頼むのだが、彼は気が弱く、尻込みして、               
「それは困る。私はそういうことは不得手なんだ。小池さん頼むから行ってくれ。」                          
と小さくなっている。私は、以前、紀尾井町の建築現場で地元の鳶に渡りをつけずに上棟式をしたため、当日一〇人以上の連中に押し掛けを食って、全部に祝儀と酒を振る舞うという思わぬ散財をしたことがあった。だが、それ以後この頭に他の現場などでは色々世話して貰って、随分親しく付き合うようになっていたから、私は意を決して、溜池の頭宅に向かうことにした。私はこのとき、顔に大きな包帯をして、足は雪駄履きだった。まず、青山一丁目で降りて、一丁目交番で巡査に聞いた。  
「この辺に鳶の頭の家があるそうだ。溜池通りを差配している頭だが。」私の問いに巡査は一歩外に出て、指先で道順を丁寧に教えてくれた。私は教えられた門を入り、ずっと奥の玄関口で仁義を切ったが、私は任侠道に通じていないから、まず、名刺を出して、           
「私は、世田谷の請負の小池と申します。」            
と名乗り、                           
「この度、溜池の華道宗家安達家の工事では、世田谷の鳶に足場掛けさせまして、こちら様にご挨拶を欠き、失礼致しました。私が怪我で入院中の不手際で、申し訳ありません。お許し下さい。」        
と一升瓶を出したのだった。暫くして、組の若い衆が板の間に丁重に頭を下げ、
「お頭から、申しつかりました。宜しく申し上げるようにとのことです。又、この件はこれで結構とのことでした。」            
これで、一件落着となったのだが、この安達家の工事はまだまだ問題が込み入って、難しいことになるのだった。             
 足場も外し私の工事も完了して、請求書を提出したとき、安達家の次男が、                             
「小池さん、申し訳ないが未だ支払いができないのだ。しばらく待って貰いたい。」                          
と言う。その後、私も困って中沢君にも相談したが、全然埒が明かない。どうも、安達家の家族関係の綾が絡んでのものらしかった。私が偶々溜池の安達事務所を訪れたとき、鋼製の机戸棚などを一式納入した商店の老店主が、するどい剣幕で彼に迫っていた。            
「お金が頂けなければ、納めた品、全部、持って帰ります。」    
と決然と言うと、安達家次男は平然と、              
「これは私が買った物、今は私の物だ。すぐには駄目だが、いつかは払う。もし、持ち出すというなら警察を呼ぶ。」           
と言い切った。気迫に負けて店主はすごすご帰ったが、次男は私に、 
「小池さん。あいつには絶対払わないよ。」            
と言うのだった。                        
 それから間もなく、安達家本家から、霞山会館にて債権者会議を開きたいから集結されたいとの通知が届いた。元の華族会館のことらしいその霞山会館に出席すると、安達本家の家令が袴をはき大きな黒鞄を抱えて出てきた。そして、一同に、                  
「この度はまことに失礼して、申し訳なく思います。何分にも無計画な家族の者の失態でありまして、これについては当本家で弁償したいと思いますが、当家も予想外のことで全額の支払いは不可能です。今、ここで半額の支払いでご承知頂きたく、用意して参りました。ご了承の方から順にお入り願います。」                    
と深々と頭を下げた。他の人は、全然駄目と諦めていたのを、半額でも貰えれば結構と、次々に家令の部屋で支払いを受けて帰っていった。しかし、私はそうはいかない。家令の前に立って、言った。      
「私は世田谷、弦巻の建築屋です。私の請求は皆殆ど大工・鳶らの手間賃です。払って頂かないと彼らが困ります。半額などとは論外です。もし駄目なら、私は彼らと世田谷の町中を旗を立てて廻ります。安達家はそれでも良いですか。」                      
これには、家令も困り切った顔で暫く考えていたが、        
「それでは、勿論一度にはできませんので、毎月一万円宛分割とさせて下さい。そうして頂ければ、全額お支払いできます。」       
と言う。私は、この申出を承諾し、その場で初めの一万円を貰って、一か月後に世田谷の安達家で一万円をまた受領する約束で帰ってきたのだった。私の請求は二〇万円ほどだったので、その後一九回、私は安達家で、娘の瞳子さんが玄関先に三つ指ついて一万円を差し出すのを受け取ったのだった。                         
 また、綾部さんの紹介で請け負った深川砂町のタクシー会社の「新築」工事には、大変苦労したものだ。彼は、契約時に自分の取り分として工事代金の五パーセントを先取りしておきながら、          
工事中は職人をたった一人手配してきたのみだった。そのため私は、大峰嬢のパーマ屋工事の際に知り合った沖縄の学生アルバイトを集めに、度々狛江の寮まで車を走らさねばならなかったのだ。加えて、新築との触れ込みが、日立市からの「移築」と変更になったため、私は日立に犬竹大工と泊まりがけで出かけるという、思わぬ苦労もしなければならなかった。
 だが、そのお蔭で、日立の建設会社にいた米沢の同級生渡辺良造君に再会することができた。彼は満州引揚げ時、大変苦労したそうで、途中、長男を病死させた話などは、涙なくしては聞けないものだった。また、この際に、ソロモンの戦友鈴木吉作氏の居宅も訪ねることができて、一別以来の懐旧の一時を過ごしたのだった。             
 この間に、綾部組の登戸の若衆が小田急の多摩川に架かる橋の上で列車に轢かれて轢死したのは、悲しい思い出である。         
 そうする内、昭和四〇年ころのある日、綾部頭の娘さんが拙宅に突如駆け込んで来て、頭の急死を知らせてくれ、これによって世田谷での彼のめざましい活躍も幕を閉じたのだった。


二九 我が子洋吉の英語家庭教師                 
 私の息子洋吉は、私が毎日建築仕事に夢中・汗だくになって暮らす内に、いつの間にか成長し、中学生となって、世田谷区立弦巻中学校に通っていた。小学校は、一年が弦巻小、二年から桜小と転校したりしたが、五、六年ころから次第に学業成績が向上し、中学では優秀の部類に入っていた。その頃の中学でのクラス担任であった竹内先生は、殊のほか洋吉を評価してくれていたようだった。そして、ある日、その竹内先生が来られ、                              
「お子さんを見れば、自然とお父さんの人柄もよく分かります。」  
と言われて、私にご自宅の改造工事の依頼をされたのだった。先生の家は、同じ弦巻の一丁目という近さなので、私なりの誠意を込めてその工事をさせて貰ったが、先生がその後駒沢中学校の教務主任となられたときには、同校の工事関係も先生を通してだいぶ依頼を受けたのだった。息子の誠実さに親の人柄を見るなど、さすがは先生と思い、私は感心もし、親としての責任も感じるのだった。竹内先生はその後、都の教育局の方に回られたようで、将来が嘱望される人だった。        
 この頃、郡山のまよ姉から、古い知己とかいう紹介で、竹中工務店の重役の千葉さん宅に出入りするようになった。そして、千葉さんの息子の英語の先生であった大島好道氏が、東北大から東京の専修大学に転勤してくるということで、その移住先の土地を購入し、そこに住宅を建築することを依頼された。そこで、私は、豪徳寺の東、都立明正高校脇に土地を見つけ、そこに先生の住宅を新築することとなるのだが、工事が進んで、いざ完成となったときに、大島先生は、          
「金がありません。まことに済まないが、残金を月賦にして下さい。」
と言う。これには私も、千葉さんの手前、否やも言えず、月賦を承知したのだった。                          
 その上で、先生は、                      
「お宅の息子さんの英語の家庭教師にしてくれませんか。私は英語の教師で、教え方の本を著したほどですから、教え方は誰にも負けません。」
と自分を吹聴するのだった。                   
 これも先生の押しつけだが、仕事の延長が息子の英語教育の助けになるのならばと思い、家内とも相談のうえ承諾することとして、以後、息子の大学受験までの約五年間ずっと英語の家庭教師をお願いしたのだった。息子がその後成長して、大学受験に際しては、先生のお蔭の英語力が早稲田入学につながり、さらに、それが将来の司法試験へのステップになろうとなどとは、当時の私の知る由もないことだった。    

三〇 松が丘小PTAの会計係となる               
 成城での怪我が全治して退院の運びとなり、無事家に帰ってくると、予期しない仕事が待っていた。娘眞理子は、その年の四月に、桜小から、弦巻に新設された松が丘小に転校となっていたのだが、その松が丘小の新PTAの会計係に私が決まっていると言われたのだ。私は未だ顔面に大きい包帯をしていて、とても適任ではないと固く断ったのだが、既に決まっているので代わりはないから、一年だけでも受けてくれと言われて、やむなく引き受けたのだった。私は常時建築現場に出ていて不在がちなので、とても会計の実際の事務には当たれないから、家内が小切手を預かり、会長の指示で支払小切手を書いて渡すという具合にやるほかなかった。新設校のPTAの担わされる役割は大変なもので、校庭の砂撒きから窓硝子の修理まで、やることは沢山あるのに、新設校のため区の予算が取れないものだから、PTAが支払わねばならないのだ。学期末の総会の時の会計報告が、私にとって一つの難関だった。若い教育ママ達の鋭い目の集まる壇上に立ったときは、一寸たじろいだが、私は極度に緊張すると不思議に度胸が据わるたちで、結局報告を何の淀みもなく終わることができ、ほっとしたのだった。初めて経験した大役を、無事果たし得たそのときの大きな安堵感は、今でも思い出なのである。そして、丸一年が経って、約束により交代を申し出たのに、松田校長が、
「新設校で会計係が代わられるとまことに不都合なんです。申し訳ないが、あと一年続けて頂きたい。お願いします。」          
と言われて、また渋々承知してしまったのだった。PTA会長は大きな工場を持つ「大久保歯車」の社長で、教頭は赤津先生だった。そして、岡先生が、転校前の桜小での娘の担任であり、娘が良い子だったからとのことで、私を推薦したらしいのだが、親にとっては有難いやら迷惑やらと言うところであった。                    
 赤津教頭は評判の飲み助で、私は会議後の私的な宴席にも付き合い、その経費を被ったりして、この役は出費の嵩むことも事実であった。だが、二年目の約束の期間もどうやら無事乗り切って、後任も見つかり、交代して、私にとっての大役を何とか果たし終わったのだった。後任は町内の建築士だったが、この人は余りに大張り切りして、支払いの度に学校事務員に小言を並べて説教するので、校長も閉口してしまったらしい。一年だけで御退任願う仕儀となったらしいが、娘もその頃には無事昭和女子大附属中学に合格できていたので、私には既に無縁のこととなったのだった。                         

三一 母の死亡と我が家の改築・会社設立             
 昭和三二年に入ると、私の母は老衰症状を呈し、歩行も困難となってきた。自宅の風呂は木の桶風呂だが、筋力が弱って、時々縁の上で中に入れなくて困っていることがあり、家内と二人で手助けして入れたりした。母が夜中に便所に立つ際、部屋を同じくしていた洋吉がずっとお供をしてくれていたのを知り、それからは私たちが同じ部屋に寝ることにしたのだった。はずれの六畳に入っていた林さん一家は、その春に三本杉の方に土地を借り、私が工事を施工して引っ越して行った。三畳の若夫婦は子供を儲けて三人家族となっていたが、母の様子を話して出て貰い、畳を新しくして母の病室としたのだった。          
 私は母が次第に弱っていくのが悲しかった。母が元気な内はベランダに南瓜を植え、パーゴラの上から屋根一面に南瓜が這い広がって、黄色の鮮やかな花の後、大きな南瓜を十個も収穫したこともあり、庭には無花果が黒い実を沢山つけていた。母が植えた桃の木にも大きな実がなって、皆で食べたものだったが、翌年は枯れて駄目だったことなど思い出される。とにかく、私は何としても母の病気を治したかったのだが、同じ弦巻の交番近くに開業する小池先生は、             
「これは老衰だから、薬はないのだ。」              
と言われるばかりだった。                    
 私はこの母に宝物のように育てられ、姉たちには申し訳ないほど偏愛された。母には、女の子等は我が子とは思わぬと言わんばかりの風があった。だが、戦後の私は親不孝で、この家に来るまでは、安住の家もなく転々として、いつも家財に縄を掛けたまま、次の引っ越しに備えるという具合だったのだ。だから、この家ができたのを喜んでくれ、   
「父ちゃん。世田谷は良い所だ。もうどこにも動くんじゃないよ。」 
と言った母の言葉が身に沁みて、それをしっかり胸に納めた私は、この家を離れないぞと、今でも心に決めているのである。
 母の病状は日に日に悪化した。私は、この母なくして生きて行く自信がなく、気は滅入るばかりだった。この頃、幡豆のきの姉は、幡豆の義兄が妾宅に行きっきりで、家庭が思わしくないため、上京して尾久の義雄兄の家の近くに家を買い、私が造作して、住込みで小料理屋を開業したが、甥の鉄郎にぶんどられた形となってしまい、身の危険まで感じたようで、弦巻のまよ姉の店にいたのだった。きの姉は、母とは血は続いていないが、母ととても気が合っていたから、先妻の子の内この姉にだけは、私も実の姉のような親しみを感じて、甘えたりしていたのだ。母の最期の時は、このきの姉と横須賀のかよ姉たちに見守られて、昭和三二年七月二一日の午後に、七四歳で永眠したのだった。       
 通夜、葬儀は世田谷通りの越後屋の片山さんが親子総掛かりで世話してくれた。借間人に予め出て貰って控え室に使える小部屋が沢山あったから、ここは親戚、ここは戦友、そこは営業関係の人と、区分して入って貰えたし、お寺は郡山の姉の世話で名刹の豪徳寺と定めることが出来、私には予想できなかったほど盛大に葬式をあげることが出来たのだった。
 丁度、通夜の日の早朝だった。狛江の建具屋木島氏が来て、    
「小池さん、何とか二〇万円ばかり都合してくれ。」        
と言う。何分にも当方も大変なときだから、            
「俺も、母が死んで今晩が通夜だ。身動きとれないので、葬儀が済んだら何とかするから、それまで待て。」
と言って帰したのだったが、彼は、待てずにその晩夜逃げして、一家は散り散りになったらしかった。そして、これがその後、意外な方に発展した。                             
 彼が農協から借りた手形が、昭和信用金庫経堂支店の私の口座に取立てに回り、私が落とさねばならないと言うのだ。どういうことなのか狐に鼻をつままれたような感じだった。しかし、その直後支店長宛に木島氏の書状が届き、これにより、ことは、彼が私名義で手形を改竄したことに発したことが判明して、私には責任なしとの決済が得られ、事なきを得たのだった。彼は、「何でも解決してやる」調の新聞広告に飛びついて、事件屋に騙され、 家屋敷は乗っ取られるは、車両・商品等の金目の物は持ち去られるはで、すべてを失い、着の身着のまま東北の奥地に逃れて、隠れていたのだ。その上、手形偽造等の罪で逮捕され、身体の自由までも失った彼の余りのみじめさに、私はじっとしておれず、自ら発起人となって、彼を救うべく、債権者の人達の嘆願書を集めて、これを官憲に提出し、彼の罪一等を減じて頂いたのだった。その後、彼の友人から、元々彼は、狛江に来る前にも負債を抱えて夜逃げして、それで狛江に来たのだとの話を聞いて、人間逃げ癖がつくと逃げを繰り返すことになるということを、実感をもって教えられた気がしたのだった。人生においては、やはり「逃げるは負け」なのだ。          

 私は母の葬儀の後、意を決して会社設立を決行した。有限会社は最小規模の経営の私にも可能な会社形態だった。社名を決めるには馬喰町の亀崎先生の審断を頂いた。「有限会社睦工業」はかくして昭和三二年九月一八日登記されたのである。
 私は、この会社設立と同時に我が家の改築をも計画し、その設計に当たっても我なりに色々思案工夫をした。北側大通りに面して貸店舗の建築を考えたのだ。私の建築業は、内情はいつも四苦八苦なもので、客に出す料理にも、手元に金がなくて困ることが再々なのだった。そこで、私は、八百屋、魚屋、肉屋の三店舗を敷地内に持っておれば、いつでも食材を都合でき、料理も容易に出せると考え、この三種の店舗を造ることに決めたのだった。下を店舗とし、二階に四畳半と三畳の二部屋を造り、便所は未だ当時は汲み取り式だったので、敷地奥の別棟とすれば、食品店でも差支えない。私宅は、通りに面した八畳を睦工業事務所とし(台所、風呂等はその並び)、階下奥に六畳二間、二階に六畳と四畳半のほか三畳の子供部屋を設計したのだった。               
 まず貸店舗を建てることとし、店舗の予約を決めて金を集め、これを自宅事務所の工事資金とするというのが私の作戦だった。店舗の上棟式の翌日に、新聞広告で借店主を募ると、応募が殺到した。そして、即日八百屋、魚屋が決まり、二日遅れて肉屋も決定したのだった。    
 この建築の初め、基礎工事の綾部頭は、             
「小池さん、寝ぼけるんじゃないよ。こんな狸の出るような所に店舗とは笑わせるよ。」                        
と独特の苦みのある口調で言って笑ったものだが、私は確信に満ちて、
「黙って見てろよ。余計な心配すると頭が禿げるぞ。俺の言う通りに工事を進めてくれれば良いんだ。」                 
と言ったのだった。だから、全店予約が決まって、さすがの綾部頭もグーの音もなかった。工事は着々進行したが、年末の大晦日に粗壁をつけるという日程になったため、筵で開口部を覆った土間で焚き火をして、凍害に備えるという一苦労もあった。三月ころに貸店舗が開店となり、開店祝いの花輪の中、買物客が群れ集まった。そして、私は次の日から、夕方になると、近所の商店街と私の所を見比べては一喜一憂し、建築業はそっち除けと言う有様の毎日が続いたのだった。         
 だが、この私の三店舗セットの食品街は大ヒットと言って良い感じの盛況を呈し、これが刺激となったのか、地域の各所に同じ様な店舗が次々に開店していったから、私の作戦はこの地域の商業のいわば起爆剤になったとも言えるかも知れない。まず、私の食品街の筋向かいに二軒の貸店舗ができたし、ずっと東の、ボロ市からの通りとの交差点角の浜川さんの所に同様の三店舗、弦巻三丁目の角にも三店舗がまるで私を真似たように相次いでできたのだった。私の方は、急の客に家内が困らないようにと思って造ったのに、できてみると、家内が前の店から食材を借りるという予想した事態も起こらなかったのは、嬉しい誤算だった。 
 家の前も、店に面した道路が舗装されて、渋谷行きのバスまで通るようになり、私の思い切ったことの連続に、幸運の神もお恵みを授けてくれたような感さえあった。私は母にもこの活況を見せたかったと残念に思ったが、それもこれも母が地下から手を貸してくれ支えてくれたお蔭だと信じ、感謝するのだった。                  
 母が、生前まだ元気なとき、従前の上段の部屋から、建て増しした下段の方に降りてきた際に、                    
「おばあちゃん、どこから来たの。」               
と聞かれて、                          
「今二階から降りてきたんだよ。」                
と真顔で答えたのを、当時良く思いだしたものである。私が時々家を二階屋に改築したいと言っていたのを、既に出来上がったように錯覚していたらしいのだ。その二階家が今度こそ出来たのを、見せたかったものだとつくづく思ったのだった。私の家がすっかり出来たとき、尾久の義雄兄が祝いに来て、                       
「勉、よくやった。お前はもうこれで十分だ、これ以上を望むんじゃないぞ。」                            
と私に言った。しかし、私には、その言葉には何かしら棘があるように感じられた。私は、その妬むような口ぶりに「勝ったんだ」と内心快哉を叫んだのだった。                       

三二 穂刈・長沢ご両人の縁談と私の仲人談            
 家内と穂刈みち江さんとの関係は、学生時代の親友ということであるが、終戦後東京に入ってから、旧交が温まって交際が密になっていた。そして、昭和三〇年ころ、荻窪に彼女の住宅を建てる相談を受け、金融公庫の申込みをしたところ、運良く当選したのだった。そして、当時、公庫住宅は独身女性では入居資格なしとのことだったので、彼女の婚約者を仮に選んで、借入手続きをするのに何度も下北沢の昭和信用金庫に通ったりした。そして、書類も通り、犬竹大工と尾沢大工が工事して、無事建築工事が完了したのだった。住宅完成後の昭和三三年ころ、穂刈さんの母親から、                        
「私はもう年を取ったので、娘の結婚だけが最後の願いなのです。この娘を結婚させることが出来なければ、私は死んでも死に切れません。」
と私に嘆願されたのだった。みち江さんは、なかなか頭が良く、当時八幡製鉄の社長秘書をしていたから、大勢の優秀な男性社員を見ても、どれも皆気に入らず、つい婚期を逸し掛けていたのだった。
 私は随分考えた末、遂に、この人を満足させ得る男を身近に一人発見した。それは、海軍時代からずっと交際が続いていた長沢利男君だった。彼こそは、頭脳明晰にして誠実無比、そのうえ眉目秀麗とくるから、穂刈さんの相手として申し分なしと思われた。だが、一つだけ、彼は、みち江さんより三歳年下であることが問題ではあった。私は、これを男の方さえ承知してくれれば、縁談可能と判断した訳である。しかし、彼はなかなか強気の男であるから、年上の女性の家に婿養子に入るなどということに気が向く筈がないとも思われた。
 私は、彼が例の百合ちゃんとの失恋以来、現在少し自棄気味で、横須賀の実家にも帰らず、東京で設計事務など自由な生活をしていたので、彼を先ず私の手元に引き取ることから考えた。
 そして、前記の会社設立と自宅再建に際して彼を我が社の社員として招いたのだった。こうして、彼は、私の家の二階に住んで、有限会社睦工業における工事全般の設計監督の任に就くことになった。そうする内に、ある日、穂刈さんが来訪したから、偶然の形で、長沢君とお茶を飲みながらの雑談となり、翌日彼に、                
「実はあの人は家内の学友で、未婚なのだが、君はどう思うか。」  
と話しかけた。彼は、                      
「良さそうな人だね。」                     
と言うので、暫く経ってから穂刈さんにその旨を伝えたところ、彼女も気に入ったとのことだったので、私から、長沢君とのこれまでの付き合いから、彼の兄弟の様子など細々と話をしたのだった。そして、家内から聞いていた彼女の話も彼にして、二人の交際が始まり、次第に意気投合していったようだった。ところが、婚約寸前という段階になった時期に、彼女が私に、迷う風を見せて、こう言ったのだ。        
「実は、易断の書物で相性が悪いと書いてあったから・・・」    
即座に私は、                          
「そう、それなら駄目だね。この話はなかったことにして、彼にきっぱり断りなさい。」                        
と言い切ったのだった。彼女は吃驚したように、私の顔を見上げて呆然としていたが、その後、私はこの件について、私からは一言も発言しなかった。数日後、穂刈さんが家内に平謝りの返事をしてきた。    
「まことに申し訳ありませんでした。彼と再度相談して、結婚の約束を固く結び、養子縁組の話も決まって、穂刈の姓を守ってくれるとのことですので、早速挙式の手配をお願いします。」           
こうして、「雨降って地固まる」の諺通りに、めでたく縁談相整い、無事挙式を終わって、私ら夫婦の戦後の仲人第一号のカップルが完成したのだった。                           
 穂刈さんの建築に手を貸してくれた尾沢大工は、栄楽の隣家の住人坂入さんが、借家で入る家を、弦巻五丁目の真弓豆腐の裏に、我が社の工事で建て終わった後、その前の空地に造った小屋に当時住まっていた。昭和三三年の夏、家内が眞理子と二人で、幡豆のきの姉宅に遊びに行っていた最中、我が家前の道路でこの尾沢君がオートバイで衝突事故を起こし、意識不明となってしまった。私は病院と工事の板挟みで困ってしまい、すぐ家内に電話して急ぎ幡豆から戻らせたのだった。衝突の相手は、近所の松本米屋の主で、相手はヤマハの大型、尾沢君は五〇CCのバイクだったが、尾沢君は一〇日間意識不明で、命も危ない状態だった。ボロ市通りの中央病院では、非常に親切に扱ってくれ、米屋の主人の病室を無理に空けて、尾沢君を入れてくれたりして、私は恐縮したのだった。下職の人達も大変心配してくれ、大寿美水道の社長が代表で五万円の見舞いを差し出してくれたときには、思わず熱いものがこみ上げたのだった。                            
 尾沢君は、穂刈さんの工事で当直をさせたとき、         
「小池さん、俺、寝ていて、女に襲われるような、とても変なことがあった、俺、もしかして気が変になったかも知れない。」       
などと言ったりし、言動におかしな点もあったから、彼を長野の実家に静養のため一時帰省させたのだが、その実家では、彼の次兄が乱心して家屋に放火し、ために長兄も仮住まいとのことで、彼は居所がなくてすぐに引き返してきたのだった。その彼が、当時飯坂さんの台所工事で当社に寄った帰り、事故に遭って一〇日後に意識が回復したときには、すっかり正気に戻って、元気になったのには我ながら驚き、これこそ、いわゆる衝撃療法というものなのかと感じ入った次第である。
 だが、次に彼は、看護をしてくれた女性がとても良い人だったからと、この女性と結婚したいと私に言い出したのである。彼は、それまで、私たちの勧めを全く受け付けず、給金を貯めては女郎買いに走って、これこそが一番だ、女房なんぞは不要と言い放っていたから、私は、この急な変心に、これも病気が治った証なのかと思ったのだった。だが、この女性には別の男性がいるとのことで、間もなくその男性と結ばれてしまった。そこで、傷心の尾沢君には別の女性を探して、結婚させることとし、その結果、加藤万の秋田の親戚という娘が見つかった。そして、見合いの後、二人は結婚へと進んで、これが私ら夫婦の仲人第二号のカップルとなったのである。                     
 私の仲人歴はその後不思議に重なっていくのだった。現在までに二一回となり、これで私の仲人は打ち切りを宣したいところだが、どうなることか、神のみぞ知ると言うところだろうか。           
 次の仲人第三号は、栄楽の隣家に、坂入さんの出た後、美容院を造った沖縄の女性大嶺さんと川田さんのカップルである。私が四月に大怪我で入院した際、美容院の工事を大嶺さんに依頼され、一か月後退院した時に、正式にこの工事を引き受けることになって、渋谷の大家言わせ仕度に承諾を貰いに行った。大家さんは前回の時とは打って変わって、 
「小池さん。坂入さんは、栄楽の前の住人だった岩城とは違って、とても律儀な人で、今まで一度も家賃の滞りはないし、親父は参議院の門衛で、馬鹿固い人。だから、彼らの良いように計らって下さい。彼らさえ承知ならば、大家は異存ありません。」              
と私に一任したのだった。私は坂入さんの希望を満たすため、弦巻五丁目に貸家を建て、家賃を三千円と決めたのだったが、それは安過ぎで、当時の最低相場は五千円だったのだ。大嶺さんが、毎月二千円を負担することを申し出るのを、私ははじめ拒んだが、大嶺さんの是非にとの申入れで、有難く承諾したのだった。この美容室がめでたく開店となって、今度は、彼女から結婚したいから相手を探してくれと頼まれたのである。周囲を見回して、私の白羽の矢が一人の男に立てられた。斉藤瓦屋に勤めていた川田政夫君だった。                   
 この斉藤瓦屋の主人は、まことに強欲非道な、映画に出てくる悪役そのもののような人物で、大学生を一週間使い回し、給金は千円ばかりの、当時の相場で一日分にも満たない額しか出さないのだった。それは、彼を一週間ボロボロの貸間に泊めて、その宿泊料、手袋代、昼食のそば代等を差し引いた結果だと聞いて、その学生は、           
「そんな馬鹿なことがあるか、糞ったれ。ニ度と来るもんか。学校中に張り紙して、うちの学校からは、一人も来させないから。」     
と唾を吐いて帰ったのだった。だから、ここの社員は普通の人では絶対に務まらない。大抵一か月、長くて二か月で暇をとるのだった。だが、川田君は、勤めて何と一年余りにもなるのに辞める気配がないから、私は驚いていたのだ。彼と話し合ってみると、その人物は確かなもので、田舎も埼玉の深谷で瓦の産地ということだった。若いときの発病で、婚期を逸しかかっていたが、未だ三五、六だから、決して遅くはなかった。私が大嶺さんの話をしたら、大乗気で、話は一直線に決定した。この二人の結婚はまことに良縁で、結婚後すぐに男児出産となり、子供は一人と夫婦で決めて、その子が中国及び米国に留学して、資格を得て鍼灸医となり、栄楽の隣に鉄筋四階建て(元の美容院の土地と家を買い取ってあった)のビルを建てて、盛大に営業している。            
 私の仲人歴は書き出せばきりがないから、これをもって以下割愛としたい。                             
 私の退院後は、色々出費が嵩み、業績も停滞気味となって、折角手に入れた複数の不動産も処分のやむなきに至り、三本杉の住宅、五丁目の坂入さんの貸家を相次いで売却せねばならなかった。        
 又、工事は調布、府中方面まで広がって、東府中に建売を建てたのたが、これは結局、郡山の姉の所有として、人に貸すこととなった。この貸家に、加藤万から山下商事を引き継いだ尾形氏の世話で、元海軍航空隊士官と自称する人を住まわせたのだが、この人に騙され五十万円の不渡り手形を掴まされて、結局、家賃も払わない彼を私のトラックで移転させて、この家を売却し、代わりに祖師谷の建売を姉に買って貰うという一幕もあったのだった。                    

三三 会社設立後の激動と昭和三五年の変               
 会社設立前後の三、四年は、私にとっての戦後の激動期とも言うべき時期で、その間、私の体験中での最盛期を見、次に混乱期を経て絶壁に至り、再起不能の惨敗の縁を見たというのがその顛末であるが、その後、何とか困難を乗り切り得たのは、私自身よりも家内の内助と先輩・友人の協力・援助のお蔭であったことを思うと、顧みて唯々感謝の他ないのである。                             
 その頃、日本中が「いざなぎ景気」とか「岩戸景気」と言われて、戦後経済の急上昇期にあり、工事も多かったが、資材の高騰が甚だしくこれに対する手立てと言っても、私の貧弱な経済知識では、どうにも打ちようがないのだった。
 加うるに、私は当時、長沢君の後に社員を急増させていた。それは人情にもろく経済に疎い私の性格に原因するわけだが、岡野大工の世話で岡野谷君を入れた後、学校の後輩の稲葉君を入れ、さらには、大平さんの頼みで会計係の老人、はたまた、運転手や雑役(栄楽の姉の兄貴)、渡辺とか言う測量士(とは自称であって、実は無能のいかさま師)等々余り役に立たない者まで、次々と人を増やしてしまっていた。工事は、桜新町の池田もやし、永福町の千田邸、横須賀の姉の磯村邸等々多数あって、多忙を極め、私は設計、交渉と身体を休める暇もなかった。下職も大勢揃うようになり、大工だけでも、四、五組、二十数人となったのだが、時には工事の都合上彼らの手が空いてしまうこともあり、手を空けぬように建売に手を出すのだが、資金不足のため完成を見ないうちに安く売却して、経費倒れとなってしまうという具合であった。
 金持ちの知人ができ、金はいくらでも必要なだけ融通すると言ってくれ、四、五人がいわゆる金主になった。茨城県知事の奥さん、大平さん、片山さん、岩本さん、こういった人達がいつでも資金を融通してくれるのだった。金利は月五分で当時としては低利の方だったのだが、次第に借金返済のために借金する状況となって、金利が業績を食っていった。
 大嶺パーマの親の経堂の工事は土地の購入に大変な苦労をして、アパートの完成を見たのだが、隣の親戚の家まで工事することとなって、土地の取得、建物の完成に並々ならぬ苦労を重ねた。
 戦友の林さんは、住宅建築後、友人と試薬品の製造業を始め、私はその工場新設に伴う建物の増改築に奮闘した。       
 小関君のことでは、新宿の清野長太郎氏の話で、岡本建設からの私への入社要請を断る代わりに、彼を入社させるべく連絡した。だが、彼が薫建設社長と北海道で苦心中で、岡本建設入社は半年後のことになった。同社の社長の奥さんは米沢の上杉伯爵の娘とのことで、私は特に関心を持っていたのだった。この岡本建設で、小関君は鉄筋工事等本格的な建築の勉強が出来たわけである。                  
 稲葉君は、半年ばかりで、勤務状況がおかしくなり、弁当を公園で食べて会社に出ないような日が続いたため、奥さんを呼んで退社して貰ったのだった。栄楽の姉の兄は、我が社の雑役夫となって一年ほどしたとき、突然脳卒中で倒れそのまま死亡するという悲劇に見舞われた。  
 また、烏山のニコニコストアーの工事は、最初からトラブル含みで、結局、大事件となった。工事の発端は高橋政見宅から起こった。高橋さんは自民党の世田谷支部長役のような立場の人だったから、高橋邸には連日のように党友、書生、策士等様々な人物が出入りしていた。そして、その中の一人、烏山の福永なる男が、私に高橋さんとは相談済みだからと言って、ある工事の話を持ってきたのだった。          
 それは、                           
「烏山に五〇店舗のマーケットを建てる。計画全般を自民党の春秋会の佐野弁護士が管理している。既に出店申込みが数倍来ているので、前渡金はないが、上棟時には工事金の半額を支払い、完成時の全額払いは確約できる。私は方位学を勉強しているが、この工事人としては小池さんの方角が最良との卦が出ている。」
と、まことしやかに話してきたのだ。私は、彼を信用したわけでないが、高橋さんも承知の男なら、私を騙すわけもあるまいと、早速手配にかかって、鳶は西永福の山田頭、大工は磯谷正春を決め、工事に着手したのだった。そして、昭和三二年の暮れ間際の二七日に上棟を完了して、私は福永氏に工事金の請求をした。                 
 ところが、彼はなんと、                    
「まことに申し訳ない。不動産屋に騙されて、約束が実行できない羽目になった。」                          
と言うのだった。駅前の不動産屋が自分だけの腹づもりの予測を言っていたのが、その予想が完全に外れて、申込人は皆無という結果となり、彼は夜逃げして所在不明となったとのことだった。経営者は女主人で、彼女も私の前で青い顔で小さくなっていた。
 だが、私は、彼らのように、「騙されました。金は貰えなかった」と、下職に謝って済ますというわけにはいかない。何としても金が必要なのだ。このときの請求額は約四〇〇万円で、私の開業以来の高額であった。
 私の眼には、真っ先に鳶の山田頭(かしら)の顔が浮かんだ。彼は今までの職方ではなく、方南町の真田棟梁の取りなしで祖師谷の建売現場から我が社の鳶方に来て貰った頭であり、西永福では名高い副組頭だったのだ。だから、この人にはこの年末、何としても支払わねばならない。それは、請負師の名誉にかけて果たさねばならない仁義だと思った。私は、女主人に必死の顔で迫った。   
「それは困る。この年末に来ては、私の金策も立たない。第一は鳶方の頭に顔が立たない。私一人では対処できそうもない。貴女一緒に頭に会ってくれませんか。」
 私の真剣な顔に彼女も意を決したらしい。そして、彼女を伴って西永福の頭の玄関に入ったのだった。頭の前に頭を下げた私は、      
「山田さん。まことに申し訳ないが、今日、建前時の支払いが出来ないことになった。不動産屋が約束したのが嘘で、彼は夜逃げしたそうだ。年が改まったら何とかする。店長も一緒に来た。勘弁してくれ。」
と熱誠を込めて発言したのだった。そして、店長も、無言で深々と頭を下げた。しばらくは三人無言のまま、沈痛な時間が流れた。そして、この静寂を破って、山田頭が立ち上がった。彼は自室から手に紙包みを持って現れ、私の前にそれを拡げた。見ると、それは分厚い札束だった。
「小池さん。これを使ってくれ。ここに百万円ある。俺のところは、年始のガサの仕事で何とか食い繋ぎは出来る。だが、あんたは他の職方、職人の払いに困るんだろう。困ったときはお互い様だ。俺がまた困るときもあるんだ。一つ頑張ってくれ。」               
頭はそう言って、札束を私の前に差し出したのだ。私は感極まって涙がこみ上げた。この頭は、未だ付き合いも浅いこの私を、信じて疑わず、身銭を切って助けてくれると言うのだ。なんとも、見上げた男。男の中の男だ。これぞ真の侠客と言うべきか。私の近所の綾部頭など足下にも寄れない、月とすっぽんの違いとはこのことである。そして、私が男泣きに泣いて礼を言うのを見て、今度は女社長が動かされた。
「私もこうしては居られない。何とかせなぁ申し訳ない。」   
と言って、二日ばかり過ぎた三〇日、彼女は私に九〇万円を差し出して、来年こそは心機一転、努力するので、工事の完成を期してほしいと言ったのだった。                          
 その後、この工事は完成し、全店に防火シヤッターを設備した新店舗は、そのシャッター屋の自慢となって、彼の会社の広告写真が、麗々しくマーケットの全容を触れ回ったのだ。このときの佐野弁護士が、後に世田谷区長を長期勤めることになるが、その佐野さんが、高橋さんと一緒の宴席でお会いした際、いとも丁重に握手してくれたのが私の思い出である。                            
 話が少し前後するが、私は、成城の病院を退院した直後、方南町の真田棟梁の話で、祖師ヶ谷大蔵に二棟の建売住宅を建てた。そして、道路沿いの一二坪ほどが先に売れて、奥に建てた二〇坪ばかりがなかなか売れずに残っていた。私は例の加藤万にこの売れ残りの売却方を依頼した。そして、彼の事務所で恰幅の良い奥様然とした女性に会った。彼女も不動産屋とのことで、早速祖師谷の図面を手渡したところ、彼女が「ある人に頼まれているので、すぐに見せるようにする」と約束してくれた。
 この出逢いが、その後一〇年以上彼女と互いに協力し合って、祖師谷方面で私が進展するきっかけとなったのだった。思えば、不思議な御縁である。彼女が足立須賀子その人であったのだ。          
 数日後に足立さんが住宅を買う客を連れて祖師谷の現場に来てくれた。そして、私と同年くらいで立派な会社重役タイプの男性に、連れ添う美人の奥さんの顔を見て驚いた。何とその人こそ成城の木下病院で、私の担当だった女医先生だったのだ。                 
「あらぁ! 小池さん久しぶり。本当に驚いた。小池さんの家を買うことになるなんて。」                       
と余りの奇遇にご主人も吃驚されるのだった。だが、このご主人は、 
「私の家にしては、この家は小さすぎる。この前の家も買いたいと思う。そして、借地は気に入らないので、土地も売って貰えないか。」   
と言うのだった。さて、私は困ってしまった。この地主は土地は売らないと聞いていた。何にしても、真田棟梁が懇意の地主だったから、真田さんを通じて当たってみようと思い、客には調べてから返答申し上げる旨答えて別れたのだった。                    
 その夜、真田さんに電話を入れたところ、丁度奥さんが電話に出た。この奥さんは、太った親分肌であり、私は奥さんの方がむしろ懇意な感じであったし、私とは不思議に気が合って、いつでも力になってくれていた。                             
 私の電話に奥さんは、                     
「そう、土地が売れれば、売り家が決まるんだ。それなら、私が掛け合って、きっと、売らせるようにする。私が請け合うから、そのお客に土地は買えると返事をしなさい。値段も安くするようにするから。」  
と、電話では聞こえないが、ドンと胸を叩いたような返事だった。私は早速、先に売れた人に多少詫び料を払って解約して、二軒売ることに決めることが出来た。                       
 こうして、万事丸く納まり、足立さんにもお礼が出来て、本当に有難い結果となったのだった。入院中美人の女医の手を引くようなこともしなかった私の「人徳」のお蔭かなどと言ったら、笑われるだろうが。 
 この女医のご主人は、麻生博さんといい、冨士製鉄の室蘭支店長から新日本製鐵の開発部長にご栄転のための住宅購入と言うことだった。その後、この家に二年くらい住まわれ、欧州事務所長となってドイツに一家で転勤されたが、数年後に帰京されて、以前の建物を全部解体し、新規の設計で私が工事中の夏のことだった。一家で千葉の岩井に海水浴に行かれて遊ぶうち、奥様が、風邪をこじらせて、三日後に急逝されたのだ。新築の家に入居の運びというのに、あの奥様がこの世にないとは、何と人間の命の儚いことかと、私は泣いたのだった。麻生さんには京都の美人が新しく来られたが、私はその後余り訪問しなくなったのだった。
 麻生さんは、若いとき冨士製鉄で苦労して出世された人で、例の穂刈さんの奥さんが、若いときの麻生さんを記憶していたということにも奇縁を思ったのだった。彼は、私と同年で、戦地で豪軍の捕虜になった点も同じだったが、例の「カウラの暴動」の経験者で、彼の仏壇には「カウラの犠牲者」の位牌が供えてある程だから、私のソロモンの話には共感を覚えてくれるようだった。私は、奥様の生前、彼が欧州在任中、留守の奥様の母親には時々訪問して、諸々の修繕手入れ等面倒を見させて頂いたし、奥様の他界後は成増の方の奥様の実家の工事等も頼まれて施工したのだった。                        
 小久保工務店時代の土屋大工とは随分縁が深く、池田もやし工場では鉄筋コンクリート工事、その後はブロック工事等の下職として、長期に亘って関係が続いた。池田もやし工場での工事中に、女工と彼の次男が恋仲となり、私が仲人役を買って出、二人がめでたく結ばれるということもあった。また、彼の手伝い人夫だった軽井沢の下田君に横須賀の姉の長女を嫁がせ、最初からトラブルがあったり、その後下田の父も死亡する等、幾度か変転が続いたが、横須賀の姉は、私と姉弟でも私と違い祖先を大事にしない家風があり、私の意に反することも多く、心痛することが多いのだった。土屋氏も数年前に死亡し、息子からは今でも年賀状だけは届いている。                      
 下職の中には朝鮮の人で日本人も顔負けするような義理堅い人がいた。それは塗装業の山田さんで、弦巻の松が丘小学校通りに西村大工が建てた大きな住宅に住んでいた。私の近所だったので、親交があり、私の資金援助者の一人岩本永泰さん等も山田さんの紹介で交際が始まったのだった。昭和三三年ころに我が社の下職組織ができ、「睦会」と命名したが、山田さんは自費で立派な会旗まで作ってくれた。それは、今でも私の事務所に保管されていて、彼の心の温かさを偲ぶよすがとなっている。昭和三〇年代中ころ北鮮との交流が可能となったとき、彼の老母が北に生存しているとの報を受け、彼は決然と帰国を決めたのだった。彼の奥さんは韓国籍なので、帰国を嫌がったが、彼は「親の生存を知って子として黙ってはおられない。最後の孝養を尽くすのは子の義務なり。」と頑固に帰国を主張、説得して帰国を決めたのだった。彼の住宅は岩本さんが購入することになり、私が地主の実相院の佐々木先生に掛け合って、唯の売買ではなく友情によることでやむを得ず引き受けた由申し開き、権利譲渡の支払金額を減額して貰ったのだった。この彼も、北鮮に帰って粗末な仮設宿舎に入り、政府の指導員となって働いたが、働き過ぎで間もなく他界したと伝え聞いている。神様は惜しい人を救い賜わぬまま召されてしまったのかと、落涙したのだった。           
 岩本さんの三軒茶屋の朝鮮料理店「明月館」の工事では、開店するまで随分苦労をした。岩本さんの希望で朝鮮料理の研究から始め、彼と二人で浅草、新宿、池袋と食べ歩いては研究を重ねて、ようやく開店の運びとなったのだが、開店してみると苦労の甲斐あって大変な繁盛で、三軒茶屋の名物と言っていいほどになっていった。そして、その後も岩本さんの関係で、新宿の朝鮮人のホテルの工事や料理屋の工事を手掛けたのだが、その料理屋の工事代を施主から支払って貰えず、工事代の代わりに朝鮮料理を腹一杯食い、料理台で清算したことなどもあったから、私は、かくしてすっかり朝鮮料理通になってしまったのである。また、岩本さんには最後には資金面でも大変お世話になり、必要の都度資金の融通をお願いしたが、いつでも嫌な顔一つせず、喜んで何百万円でも都合してくれたのである。                     
 また、上野毛の三品先生とは、私が佐藤真の世話をしたことから、佐藤が教えを受けていた先生との交際が始まった。佐藤とは、歯科技工士の石田さんの工事から縁ができ、佐藤の世話でその後の私の民社党との近しい関係も始まって、今もって元民社党(今の新進党)の都議等と親交があるという訳である。三品先生は帝大出と聞くが、一風変わった人で、大きな土地とその上のボロ工場を所有し、それを人に貸しているのだが、家賃収入はどうなっているのか、自分は陋屋で貧乏暮らしに甘んじていた。宗教に凝っていて、人を集めて教えを説いておられたが、それが、仏教のようで、仏教でなく、神道との合体のような、高橋信次先生の宗教に似た教義のようだった。最初、佐藤の話で五万円をお貸ししたが、担保の小切手が不渡りのため貸し倒れとなり、先生と会って話を聞くうち、私はすっかり先生の信者になってしまったのだった。先生は七〇を過ぎたご老人だが、一見若く丈夫そうに見えた。昭和四一年のソロモン戦死者の遺骨の分骨式は、先生の道場に、遠く北海道の遺族にも参集して貰い、先生に導師となって頂いて、執り行うことが出来たのだった。
 前述した世田谷通りの斉藤瓦店とはだいぶ前からの知り合いだった。私の脇の榎本地主の奥さんの話で、地主邸南側の広い畑地六〇坪の土地に二棟の建売住宅を計画して、一棟を犬竹大工用住宅として公庫住宅を建てた(結局犬竹大工の嫁取りの話から、予定変更で、竹内さんが住むことになった家である)話を以前にしたが、他の一棟の屋根を斉藤瓦店にセメント瓦葺きと注文したらいつの間にか立派な日本瓦が葺かれてあり、吃驚して斉藤社長に質すと間違いを素直に認めて早速取り替えてくれたことがあった。そのことから、私はこの斉藤瓦店にかなり出入りするようになり色々と工事の相談やら社長のプライバシーの内密の話まで付き合って、ときに深入りするようにもなったのだった。彼は、無学であっても大変狡猾な男で、戦時中、彼の郷里の中島飛行機関係の仕事で、海軍を騙して暴利を上げ、財をなして世田谷に進出し、この地に壮大な土地と営業の基礎を築いたのだ。政治の野心もあって、区議選挙に再三出馬していたが、その度に落選していた。              
 彼は好色家であったが、まことにみみっちい男で、専ら下賤の女が相手だった。職人の女房や安酒場の婆さんなどが相手で、その後始末に女の住宅を増築してやったり、女との手切れ話の応援などを、内密に私に頼んでくるという具合だった。そして、その頃、ちょっと大きな工事と女の問題が起こって、彼が私にある計画を話してきた。それは、彼一流の狡さと金欲の絡んだ計画だった。彼の所有にかかる古くはあるが立派な建物が近所にあった。それは昔剣道の道場として、世田谷に斉村道場ありと聞こえ、名を江戸に轟かせたと話が残る建物なのだ。彼はその建物を移築して金にしようと図ったのだ。その相手は、用賀方面の買収されかかったある私立高校の校長だった。桜新町に既に移築用地も買収してあり、学校を買収した買主からは明渡しも迫られているというのだった。だが、ここに社長の女の問題が絡んできて行き詰まっていた。この道場に渋谷の酒場の婆さんが一人で住んでいたのだ。社長の不手際で女に居座られ、社長は家族には内密のことで、困却の果てに私に相談してきたのである。この移築工事を私に一切任せるから、女の追出しと手切りとを頼むというのである。私にとっては経験のないことで、誠の難題であったが、私なりに熟慮のうえ、温情とほんの少しの強圧を交えたあらゆる方策を尽くして、ようやく解決し、彼女をその家から立ち退かせることに成功したのだった。                   
 学校の買収相手は東急不動産で、校長の話によると、東急社員は約束を次々に反故にして、ついには強制、恫喝までして、少しでも会社の得になるようにするというので、私は、東急はその社長後藤某が強盗と噂されるとおり、まことに山賊のような会社なのだといたく義憤を感じていたのだった。だから、私はこの剣道場移築工事には最大の技術と細心の注意を注いで進行させたつもりであったが、この建物は大きな骨材で豪壮に建てられてあったので、校長の住宅としては恥ずかしからぬものだったが、何分古くて、解体するまで不明だった腐食箇所ややむを得ない模様変え等もあり、完成時は約一六万円の見積り超過が出た。斉藤社長は私にその明細書を提出させたうえ、後日、           
「校長との話合いで、支払不能と泣きつかれ、それ以上言えなかった。」
と言うことで、私には、                     
「我慢せ。」                          
とか言って詫びて、それで終わりだった。ところが、彼の死後、校長の話によれば、斉藤には私の明細書通りの金額を全て支払済みであると言うではないか。私は彼の本性を見せつけられた思いがし、何たる腹黒の悪人かと憎悪することしきりだったのである。           
 彼の死については、私なりに、神の配剤の適切さに感じ入ったことがあった。彼は糖尿病に罹患した。私の当時の関係者で青木某という老人がやはり糖尿病で歩行不能の重い症状に陥ったが、成城学園の医院の大先生のお蔭で完治したとの話を聞いていた。私が斉藤社長にこの話をしたところ、                           
「自分もそこで診て貰いたいから、教えてくれ。」         
と言うものだから、                       
「それは、社長から青木さんに頼んで、青木さんの紹介で診て貰うのが筋です。」                           
と話したところ、                        
「医者が患者を治すのは医者の義務だろう。それを拒否するのなら罰せられるべきだ。」                        
などと言って、自ら成城警察に電話してその医者を調査させ、連絡して直接行ったらしい。しかし、医者が、まして大先生と言われるお人が、そんな強権づくに屈する筈はなく、適切な処置をする訳もないから、この馬鹿社長は死なねば治らない大馬鹿だったのだ。彼は糖尿病に加え、結核にもかかっていたのだが、結核は栄養をとらねば治らぬ病であり、糖尿病は栄養の軽い食事をせねばならないのだから、この間に挟み撃ちとなり、間もなく死亡したのだった。その直前の区議選には百票ほどしか入らぬという低調さで、散々飲食に盛宴を張った近隣の者も皆投票に際しては彼に入れなかったようで、馬鹿の標本の名声は高くこの地に残るのだった。                          
 この斉藤の店に大平さんという立派な人が会計係として一時勤めていたことがあり、私はこの人に信用され、彼の永福町の自宅に出入りするようになった。彼は満州国の日銀の重役だったとかで、なかなか家柄が高いようであり、奥さんも親切な人だった。そして、彼の住宅の増築、隣家の日本航空の重役の改築等、随分お世話になり、ついには奥さんが私の金融係のようになって行くのだった。私の息子が早稲田大学に行っていた夏休みに、大平さんの親戚の弁護士の所で運転手のアルバイト等もやらせて頂いたりしたのだった。                

 そうこうするうち、昭和三五年一二月一四日、我が社最大の悲運の日が到来した。それは連日の金融作戦の終局とも言うべき倒産であった。 利潤の少ない工事を続けて、資金不足に対する金貸しの金を使い、大勢の社員を抱えて実利を生まない業務内容となるのを、私が操縦する暇がないものだから、悪循環が蓄積されて行き、その結果で来たるべきことが来たという、それだけの事なのだった。その日一〇万円の手形を落とすのに、例の加藤万が約束してくれていたから、頼りにしていたところ、午後彼に電話してみても不在で、方々探し回ったが、遂に三時の銀行締め切りに間に合わず、二度目の「不渡り」を出して、銀行取引停止と相成ったのだった。早速方策を練らなければならなかった。そして、家内と相談して、現在の会社の決算を計上した。帳簿上の負債が約五〇〇万円、その他、帳簿未済の金貸し数人からのものが三〇〇万円あった。
会社資産は経堂の古店舗一棟と私の住宅、この経堂の店舗は元酒屋だったのを買収、改造して、売却予定で、これを担保に既に方南町の友末さんの奥さんから借金していた。                  
 私は、家内に家財一切を捨てて裸になろうと言って、最後の決心をした。そして、最後の助言をと上野毛の三品先生の所に行ったのだった。三品先生は、静かに頭を垂れて考えていたが、           
「小池さん。これは大変なことになりましたね。今、私がよくよく考えたが、この決済には十年かかる。だが、必ず解決する。」      
と言われたのだった。                      
 私が、多額の借金の内、                    
「私に金を貸してくれた人達にはどのようにしたら良いでしょう。」 
と尋ねると、先生は、                      
「それは貴方の誠意次第だ。貴方はその人達に今まで以上に接触を密にして、身近に訪問して本当のことを言いなさい。」         
と言われたのだった。
 私は家に帰って、下職の支払関係では、睦会会長の大寿美さんを訪ねて実情を話し、私が発行した手形を一切引き取って頂くことと、私の財産一切を処分して未払金に充てるよう頼んだのだった。数日後、大寿美会長から挨拶があった。            
「私たちとしては、これまで一〇数年間、我が侭一杯に工事をさせていただき、有難く思っております。ですから、この度の会社の悲運に際しては、私達は社長の財産の唯の一片たりとも、それを売却したという金で支払いを受けることはできません。我々への未払いは無期限の支払延期として下さい。また、工事があれば、すぐにやらせて頂きます。」 
 私は、有難さに感無量だったが、大寿美さんはさらに言葉を続けた。
「経堂の店舗は売却せずに、貸店舗として残し、その家賃でも積み立てて、下職の支払いに向けるなど、社長の思うようにして下さい。」  
と、まことに懇切な話で、私は素直にその提案に従うことに決意したのだった。                            
 また、金を貸して頂いた人達には、三品先生の言に従って、早速一人一人に面接して実情を申し上げた。そして、皆殆ど同様にこう言ってくれたのだった。                         
「私は小池さんを信用して金を融通しました。返して貰わねば困るような金ではありません。どんなに遅れても、どんな方法でも貴方の自由にしなさい。勿論金利は今後一切不要です。また、お金が必要ならいつでも申し出て下さい。必ず用立てます。」              
 これはしたり、私は三品先生の言葉通りになったことに本当に吃驚したのだった。これ程までに信用されていた自分が今更ながら恐ろしくなり、死んでも足りないことになったと感極まって身の置き所を失う思いだった。果たして、私にこの人達に報いる力があるだろうかと思うと、唯々天と神を拝み、見上げるだけの私だったのである。


三四 会社再興に孤軍奮闘 (油槽所新設とトヨエース)         
 昭和三六年の念頭は、失意のどん底からの出発となったが、私は、佐藤真(通称さとうマコ)の誘いを受けて、西伊豆の大瀬崎に気張らし旅行をすることにし、かの地で、遙かに霊峰富士を仰ぎ碧い海を見て、「これまで幾度も難関を突破してきたのだ、これ位のことで屈してたまるか、奮起一番の死力を尽くしてでも前進しよう」と決意を固めたのだった。       

 大瀬崎で固めた決意を胸に、一月一五日の朝、私は社員一同の前でこう述べた。     
「皆さん。この度、私の不手際により、我が社は銀行取引停止という事態となり、今後の会社運営は殆ど不可能となりました。まことに申し訳ないが、皆さんには会社を退いて頂くほかありません。今月末まで勤務して貰っても、私には一か月の給料を払う力さえ残っていません。今日退職して頂けば、半月分の給料を払うことができます。そのような状況で、申し訳ないが退職金は一銭も払うことが出来ません。どうでしょうか。」                             
一同顔を見合わせて、暫く無言であったが、やがて、年長の会計の老人がこれに答えた。                        
「私たちに全く異存ありません。今まで色々ご心配頂き有難うございました。社長が再起され、我々が必要となりましたら、私達はどこにいようとすぐに飛んで参ります。社長どうか頑張って下さい。」     
 私はこの話に感涙し、この人達を呼び戻せるよう頑張りたいと思ったのだった。今まで私のために働いてくれたこの人達に半月分だけの給料で追放処分のような扱いをしなければならない私の苦衷はまことに苦い者だった。                            だが、私はさらに大瀬崎での決意を実行せねばならなかった。数台あった自動車も古いトヨエース一台きりを残してすべて処分した。そのうえ、運転手も失った私は、このトラックをその年の八月まで無免許で乗り回すという無茶な冒険までやってのけたことを告白せねばならない。
 そして、その頃、横浜の飯野さんから工事依頼の話が入ってきたのだった。それは、彼が今勤めている横浜の佐藤組が受注した、日立市での亜細亜石油の油槽所新設工事の下請けであった。日立なら私が馴染んでいた勝田や水戸のすぐ先で、何とかなると思われたし、また、この際この工事を会社再建のための初仕事にしようと考え、私は張切って承諾した。設計図を貰って私は水戸に向かって出発した。水戸で第一番に小沼技手に相談することを決めていたのだ。戦後の昭和二一年に一度訪問している水府町の彼の家で、私は図面を拡げて相談した。小沼さんはそれを暫く見ていたが、                        
「よし。これは出来ると思う。すぐに業者を呼んで話してみよう。」 
と、早速電話のダイヤルを回してくれたのである。このとき、小沼技手は水戸市の土木課に勤務して要職にあったので、市内の業者には相当の権力者だったのだろう。私のためにはまたとない力添えをして貰えたのだった。                            
 間もなく、一人の業者が来て、名刺を差し出して私と挨拶を交わした。「志賀野工務店」の社長ということであった。           
小沼さんは、                          
「こちらは私の戦友の小池さんです。絶対に信用できる人だから、彼のことは私が保証する。間違いのない男だ。」            
と太鼓判を押してくれるのだった。社長はあらましを聞き、私の出した図面を見て、                          
「私にこれをやらせて下さい。小沼さんの話なら安心です。大丈夫です。前渡金は一銭も要りません。」                  
と言い切ってくれたのだった。かくして話はまとまり、私は小沼さんに礼を言って退去し、日立市の現場の様子を見てから、東京に帰り、次に、飯野さんを佐藤組に訪ねて、工事受注の正式手続きをした。     
 こうして、本格的に工事受注が決定し、家内に今後の進行の予定を話し、相談のうえ私は時々茨城に出張する生活となった。       
あるとき、仮設材その他の資材をトラックに積んで横浜から日立の現場に運搬することになった。私が運転して出発し、水戸街道も無事通過して、水戸を経て日立に向かっていた。水戸の小沼さんのいる水府町を通り、川を渡って、道はいつしか日立に入る手前の山道にかかっていた。ここまでは大体平坦な道ばかりで運転は順調だったのだが、この山道はかなりの登り坂となっていて、私の車は徐々に速力を落とすと、遂に坂の途中でストップしてしまった。このくらいの坂を登れない筈はないと、再度エンジンを吹かして突進したのだが、やはり駄目で、さらに少し時間をおいて挑戦してみても、どうしても駄目だった。この車は既に八万キロを走行して廃車寸前だったのだ。               
 だが、私には何としてもこれを日立に届けねばならない任務がある。
「こんなときこそ頭を絞らねば。」                
私は必死にない頭を絞り、脳味噌をかき回して考えた。そして、閃いたのだ。「自動車のエンジンはバックの力が最強だと言うではないか。この坂をバックで登れないものか。」                
と。私は早速これを実行した。坂を下り、車の尻を坂に向けて、ギヤはバックで発進し、徐々に後進徐行を開始した。さすがにバックの威力は絶大だた。何の苦もなく頂上に達してしまったのである。私は意気揚々とその山道を越え、日立の町に向かって下りて行った。       
 その帰途は、愛車も、荷のない空車となって、往きは難所だったこの坂も難なく越え、水戸街道の畑の中の平坦な田舎道に入って、私が鼻歌交じりの気楽な旅を期待した矢先、このボロ車は、またしても私を裏切り、何の予告もなしに突然エンジンストップとなってしまったのだ。 
 私とこのボロ車とは馴染みが深く、この車の欠点は百も承知、二百も合点、というところで、大抵のことは理解できるつもりだった。この田舎道では近所に商店も皆無で、時刻も夕暮れ近くとなり、私は少し焦り気味になってきた。だが、今は自力で修理するほか処置無しなのだ。私は意を決して調べてみた。燃料はオーケー。キャブは正常。そして、次は電流へと進んで、ライトを点けたら、これが点かない。これは電流だと、バッテリーから電流系統を調査していった。そして、私は初めてヒューズボックスなるものに行き当たった。自動車のこの装置は私は初めて見るものだった。なるほど、自動車も電気の力で動くからには、その安全のための装置があってしかるべきだったのだ。そして、一個のヒューズの断線を発見した。商店があれば、ヒューズを一個買って来れば済む問題だが、今はそれが絶望だった。それで、私の頭がまた七転八倒して苦しんだのだ。そして、また解決の閃きが沸いた。それは、私の手帳の小さい鉛筆の鞘だった。その当時この鞘は真鍮製だった。勿論、電導性がある。私はこれを代用にできるのではと思ったのだ。私はその鞘を歯で噛んでヒューズの太さにし、ボックスに差し込んで、期待と不安を胸にエンジンのスィッチを回してみた。すると「ブルン」と音を上げエンジンが始動して、この車はようやく再生したのだった。こうして、どうにか無事東京に帰って、私はこの愛車とも離縁の時が迫っていることを痛感したのだった。                      
 だが、世の中そう易々思い通りに進むものではなく、この愛車とは、まだ御縁を重ねなければならなかった。飯野さんから新たに結城市の油槽所新設工事の発注を受けたのである。結城は日立と同じ水戸隣接の都市であり、私には馴れた油槽所工事であるから、喜んでこれを引き受け、志賀野さんの友人の信田工業を紹介されて、工事に着手したのだった。飯野さんと結城に行き、信田工業社長に会って、話が進み、戦友の林(喜)技手をよくご存じとのことで、一層意を強くし、安心したのだった。小沼さんと林さん、二人もの戦友が、私の再起のこの様なときに、かくも身近にいてくれたとは、有難い幸運の連続と思われてならなかった。                              
 暫く経って、結城の工事もだいぶ進行した頃、私は愛車を駆って日立から水戸を経て、結城への道を一人急いでいた。それは夏の夜中一〇時過ぎの頃合いだった。田圃の真ん中の真っ暗な道で、またしても愛車はごねて、エンストを起こしたのである。私はこのとき、頭の中であれこれ考え、デストリビューターのポイントの汚れが原因だと感じた。ポイントにカーボンが付いて発火できないのだろうと、しかし、そのとき私は不用意にも懐中電灯を持ち合わせなかった。煙草は吸わないので、マッチの用意もない。手探りで紙ヤスリを取り出し、真っ暗闇の中でデストリビューターのポイントを磨き上げて、エンジンキーを回したら、嬉しいことに一度で始動して無事結城に着くことができたのだった。そして、東京に帰って、今度こそ、この車を廃車にして、ダブルキャブのトヨエースと交代させたのだった。                 
 結城の工事も殆ど完了した頃、私は洋吉を連れ二代目トヨエースで東京から出発しようとして、松陰神社前で交通事故を起こしてしまった。私はそのときは既に運転免許を取っていたので、警察の立会いを受けることに気後れはなかったが、何分にも急いでいたし、車は双方運転可能であったので、話合いでその場を打ち切り、後日の打合せ日を約して出発したのだった。こうして結城からゼットプレートを車に満載して横浜の佐藤組に届けたのだったが、このトヨエースも中古車だった。私もその頃には、中古車は前歴が不明で不吉だという感を持つようになり、この車も早坂大工に無償で譲って、新車に買い換えたのだった。   
 昭和三五年に事業が挫折した後の、後始末について少し述べたいと思う。金貸しの方達とは、数回の話合いで、いずれも会社帳簿上借入れが無記載であったため、そのままでは会社としての支払いが不能なので、少額に分割して、会社の借入金を起こし、その度に返済をしていくようにして、三年くらいで完済できたのだった。一部の人からは、土地等の購入については十分説明して追加の借金をお願いし、それによって建売住宅を建てて、以前の借金と共に返済するようにして、全くの新規の借金はしないという健全財政の方針を守ったのだった。           
 そして、経堂の店舗を改修して大和生命に賃貸し、毎年一月に新年会を兼ねて睦会を開いて、その賃貸料を各下請業者に配分することを重ね、数年で下職・資材関係の債務を完済できたのだった。とりわけ、その中で堀川木材には、その債務額につき特別の配慮を頂き、その取計らいに努力してくれた同木材の早瀬専務は、私の終生の恩人となったのだった。彼は、私の会社の未払金の内、一二〇余万円を取立て不能として、税務署と打合せの末、減額を決定してくれたのだ。これは堀川への未払金の約三分の一にも達するもので、税務署に対する彼の努力の証とも言える高額なものであった。と言うのは、この話を聞いた他の業者が税務署に掛け合ってくれたが、不調だったとの話も聞いたことがあるからである。この余人のなし得ない特別の処置は、私に対する当時としては最高の援助だった。彼がガダルカナルの引揚げ陸軍士官だったことが私への配慮に繋がったとも思われず、純粋に私に対する彼の温情の表れと思って感謝している次第である。                     
 挫折三年後に、五〇〇〇円の残金を久我山の電気業者に持参したとき、先方が、                            
「小池さん。それは頂けません。ご誠意だけで結構です。」     
と言うのに、私が、                       
「これを受け取って頂かないと、私の会社の帳面が決まらないのです。」是非受け取って下さい。」                    
と嘆願して受け取って頂いたこともあった。            
「建築屋が未払いを何年もかけて完済したなんて、聞いたこともない初めての経験ですよ。」                     
等と言われて、私は面はゆい思いに赤面したのだった。       
 こうして、私は昭和四二年頃までには借金を完済し終わって、民生委員や戦友会等、仕事以外の活動にも踏み出して行ったのだった。   

三五 民生委員活動に力を注ぐ                
 昭和三三年に、私は、高橋政見区議の推薦を受けて、民生委員に任命された。初めての重責で、余り自信もなかったが、やってできないことはないと勇を奮って拝命したのだった。当時、世田谷第四出張所管内の民生委員の総務には、ボロ市通りの石田木材の社長が就いていたが、私は彼に、建築の仕事上の間柄を超え、何事も忠実かつ全力で働いて、任務を遂行しようと決意した。
 民生委員には高齢者が多く、会合にも欠席が多かったから、私は、欠席者に資料を配ったり必要な連絡等の役目を務めて、動き回らねばならなかった。また、貧困者対策には、自分の貧しかった経験に照らし、その実施には自分なりの配慮に努め、年末の厚生資金貸付等は細かく見回って指導し、申請書類を提出させる等したのだった。一念発起して、生活の合理化に懸命に努力した結果、自力更生ができたからと、資金をそのまま返却した家庭もあり、私の指導が効があったかと喜んだのだった。
 その内に、私の下職の一人から民生委員としての私に生活資金の申込みがあって、正式に申請したところ、その借入れが叶ったことから、私は深みに入っていくことになった。               
 彼は、有能な技術屋で、建築工事中の重要な部門で業績を上げていたが、家族の員数が多いため、生計は貧困を極めていた。住居を訪ねると小さな借間に八人の子供がいた。奥さんは良家の娘で、教養もあり、立派な女なのだが、産児制限ができないらしい。案の定、資金の返済は殆ど停滞ということになった。そして、数か月後に問題が起こった。彼が私の事務所に来て言うには、                   
「小池さん。困ったことになりました。私が交通事故で相手に怪我をさせてしまい、賠償ができないため、起訴されて刑事裁判になりました。今度がその最終公判で、次回には判決が下りるのです。私が収監されれば、家族は崩壊です。」                     
これには私も呆然として暫くは言葉も出ず、考え込んでしまった。そして、私が、                           
「もっと早く知らせてくれれば、何とでも動けたが、困ったことになった。とにかく、明日の最後の公判とやらに出廷して証言してみよう。」
こうして、私は、翌日東京地裁の法廷に立ち、彼の家庭状況と日頃の生活態度の誠実さなどを述べて、裁判官に刑の軽減を願ったのだった。しかし、それまでの裁判で、彼の事故後の対応のまずさは歴然だった。相手は、未婚の美容師であり、怪我のため歩行困難で座ることもできなかったから、女性の身にその前途の不幸は計り知れないほどだったのだ。それなのに、彼はこういう事態に一切弁償努力をせず、誠意を示すことなく放置したままで今日の裁判に臨んだというのだ。        
 判決は有罪、懲役八か月だった。閉廷後、私は弁護士と裁判所近くの喫茶店で会合して対策を協議した。弁護士が言うには、       
「私は国選弁護人です。しかし、このまま収監ということではいかんでしょうから、控訴するべきだと思います。国選ですが、できるだけのことはしましょう。それで、小池さんにもお願いがあります。それは、被害弁償に向けて努力して、被害者に誠意を理解して貰い、示談書を交わしたうえで控訴審に臨めるようにしてほしいのです。」       
とのこと。この弁護士は、年はまだ五〇前の人であったが、被告人のためにこれまで随分努力してくれたらしく、私にも「何とか被告人を救ってくれ」との気持ちを強く表して頼んできて、コーヒー代も彼が払うほどであったから、私には彼が誠意の化身のように思われた。私は被告人の彼と奥さんに対してこの話を伝え、彼らの親類縁者でこの際助力を仰げる人の有無を尋ねたところ、彼は、           
「私の兄は、伊豆の河津で旅館を経営していて、資産家ですが、私は、今まで幾度もこの兄から融資を受けて、一度も返済したことがありません。ですから、私からはどうしても金の工面を頼むことはできません。家内の実家も同様で、この方は資産もありませんから、見込みはありません。さんざんに考えた末、万策尽きてしまったのです。」     
と語るのだった。                        
 私は次に、とにかく被害者側に会わねばならないと思い、被害者の美容院を訪ねて、その店主と会ったのだった。店主は中年の男性であったが、今までの被告人の誠意のなさを非難して、会った当初から不機嫌であったから、私は先ず、被害者はまことに気の毒なので、賠償のため誠意を尽くして努力してみたいと、私の心情を述べて感情の融和を図ることから始めねばならなかった。すると、次第に彼も私の誠意を認めてくれたらしく話の本題に入ることができて、賠償額は最低でも百万円であり、これは絶対に譲れないと言い、私はこれを了承して美容院を後にしたのだった。                          
 また、その後、被害者本人の怪我の治療について被害者の女性に尋ねたところ、現在の治療に不安があるとのことなので、彼女と相談のうえ私の戦友の軍医に診て貰おうということになり、高羽軍医長の現在の勤務病院に彼女を連れて行ったのだった。彼女を診察して貰った後に、高羽さんの家で彼女を交えて雑談中に、彼女の郷里が米沢近辺の長井であり、高羽さんの奥さんと郷里が同じということが分かって、吃驚したのだった。高羽先生は台湾出身の人で、日本の高級官吏の子だったから、私も奥さんが山形県人であるとは露知らず、初めて聞く話だった。私の同級生の平新吉君の話をしたら、彼は美男だったので、当時女学生のアイドルで、奥さんも彼を的に動いたことがあるなどと気さくに話してくれたりして、良い雰囲気で話ができ、先生も怪我の全治を確約してくれたのだった。かの状況に、彼女の態度がそれまでと一遍に変わって、私に対する気持ちが好転したようだったから、私には、これぞ天の助けかと、本当に有難く思われたのだった。               
 そこで、私は、次の行動に入ることとし、家内を連れて彼の兄との直談判に臨むため、家内を助手席に乗せ、当時の小型乗用車パブリカを駆って伊豆の河津へと向かった。さて、そこで彼の兄が言うには、   
「私は世田谷の連中にはさんざん騙されて、何度も金を貸し、皆踏み倒されてしまっています。だが、今度はわざわざお出かけ頂いた小池さんのためにも、何とかしたいとは思いますが、それができないのです。実は、昨年末にホテルを売却して、我が家の家業を蜜柑栽培に切り替えることにしたのです。そのため、全財産をはたいて密柑山を買い求め、家中で山の手入れに精出しているところなのです。」         
とのことである。私は、突然のことではあり、勿論すぐには結論も出ないことと察して、                        
「明日、再度参りますので、熟考のうえ何分ともに最後のご助力をお願いします。」                          
と家内と二人、近所の宿に移ったのだった。翌日、正午過ぎに再び兄様宅を訪ねると、彼は、                      
「まことに済みませんが、これだけが私共のできる最大限です。小池さん、どうか弟を助けてやって下さい。」              
と言って、二〇万円の金包みを差し出したのだった。私はそれを有難く受け取り、最善の努力を約して河津を後に、帰京したのである。
 かくして、美容院で、「現金二〇万円、残金八〇万円は月賦で返済する」との合意ができ、これで示談書を作成して、私も保証人として署名捺印し、これを控訴審に提出できる運びとなったのである。     
ところが、これだけの努力をしたものの、控訴審の国選弁護人となった弁護士は、実刑を免れることは不可能であろうと言うのだった。丁度その頃、世田谷区役所で民生委員大会が開催されることとなり、福祉課の勧めもあって、私のこのケースの今後について対策を質問してみた。約二〇〇人いた出席の民生委員方は、私の対応に関心を表してくれたものの、適切な助言をしてくれる人は誰一人いなかったから私は行き詰まってしまった。                         
 勿論、彼に対する刑の執行を猶予してくれる判決が出ることが望ましいが、それが叶わない場合にはどうしたらよいのか。        
 私は、そこで、最高裁に上告してみて、もしそれが受理されれば、それが審理される期間、約一年くらいは執行を先延ばしでき、その間に彼及び彼の家族の、受刑中、受刑後の生活上の対策も立てられるのではないかと考えた。だが、弁護士はそれは不可能だと断言し、       
「上告というのは、高裁判決が憲法違反か、量刑が甚だしく不当である場合でなければ受理されません。すぐに却下されるのが落ちですから、その目的は達せられる筈ありませんよ。」
「私は、上告趣意書を書くつもりはありません。」                       
と言うのだった。そして、高裁の判決言渡しの日が来た。果たせるかな、それは「被告人を懲役六月に処する。」という実刑判決だった。私の努力の甲斐もなく、刑が二か月短縮されただけで、彼は収監されてしまうのか。弁護士は良くやってくれたのだ。少額の国選弁護料での奮闘は感謝の他ないと言うべきだろう。しかし、彼の一家、彼の妻子は、悲嘆の余り一家で自殺ということにもなりかねないではないか。私は弁護士に感謝の弁を述べて別れた後、深夜まで必死に考えていた。そして、思いついたのだ。                          
「そうだ、こんな事態を日本国憲法が傍観し、放置する筈がないのだ。これは正に憲法違反、憲法二五条違反だ。それこそを上告理由にすべきなのだ。」                           
 かくして、私は憲法の下の一国民として、また国民の生活の最低限を保証する職責を持つ民生委員として、法律の素人ではあるが、血を吐く思いで必死に上告趣意書作成に取り組んだのだった。趣意書を書き終わったのは、薄明のことであったが、これを二日後に来宅した被告人に、
「私が上告趣意書を書いた。素人の書面では通用しないかも知れないが、これをもって最高裁の受付の書記官に頼んでみなさい。」      
と言って手渡したのである。彼は即日これを最高裁に持参し、帰って私に報告するには、                          
「最高裁の書記官にあれを見せたら、『これでいい。大丈夫です。』と言って、清書してくれ、私が署名捺印して出してきました。」     
と言うではないか。一心岩をも通すと言うが、私の熱い心情が報いられ、彼のために本当に喜んだのだった。                
 そして、私は、「これで約一年間の時間ができた。これだけあれば、後は私の腕の見せ所だ。」と思い、張り切る気持ちにもなったのだった。先ず、私は区の福祉課に報告し、そこから保健所に出向いて彼らの産児制限対策を依頼した。折角つくった準備の時間に、また出産でもあれば、大変だと思ったからである。それから電話局に電話の開設方を依頼した。当時、電話は高額の買取り以外は申し込んで半年以上待たないと開設できなかった。彼が受刑を終えて帰っても、電話がなくては工事受注もままならぬだろうし、そうなれば被害弁償も捗らないだろうと考えたためだった。また、彼が受刑中の間隙で仕事が断絶しないように手配することも考えねばならなかった。私の建築業の友人知人をフルに活用して、彼を同業者に紹介し、十分な得意先の予約を得ることができたのだった。
 こうして、約一年の間に受刑準備を整え、いよいよ上告審の判決が出ることとなった。それは予期したとおり「上告棄却」であった。その上、判決は検事の執行指揮により直ちに執行されると言うことだった。  
 私は、これを彼に知らせて用意させるべく、彼の家を訪ねて、茫然自失した。彼の奥さんは、また妊娠して、既に臨月だと言うでないか。彼がすぐに収監されては、奥さんの出産と幼児の保育に区の対応を仰がねばならない。何としても執行を待って貰わねばならない。こんなことのないよう保健所まで手配して十分な手を尽くしたつもりであったが、奥さんの話によると、何度も保健婦が来て、コンドーム等も多数頂いたが、主人が嫌うのでつい使わなかったと言うことだった。できてしまったことは仕方がない。生まれる子供にもそれなりの権利があるのだと、自分に言い聞かせて、私は、検察庁に急いだ。そして、検事に強談判で粘り続けた。                            
「このまま収監されては、一家の死活問題で、本当に死人が出ることになります。民生委員として、私は承服できません。私が全責任を取りますから、一か月だけ刑の執行指揮を待ってやって下さい。」     
と言う私の言葉に、さすがの検事も音を揚げたらしく、一か月の猶予を貰えることになったのだった。すぐに福祉課に彼の家族の生活保護の手続きを依頼し、保健所に出産のための手配を頼んで、一か月後の収監に備えたのだった。                        
 こうして、奥さんは無事出産し、彼は不安なく収監されていった。彼は受刑中模範囚で、満期一か月前に仮出獄を貰えることとなって出所し、倍旧の工事を受注して、張り切って働いた。途中、被害者への月賦金の滞りがあったが、彼の電話は被害者には伏せてあったから、全部私が受けて、私から言い訳し、猶予を願ったりしたのだった。そして、これも遂に完済に漕ぎ着けることができたのである。           
 こうして、この一件は落着した。私が、民生委員をやらせて貰ったご縁で、刑事裁判の経験をさせて貰い、裁判関係の知識を得られただけでなく、私の人生勉強に貴重な一つを加えさせて貰ったという点において、またとない経験であったし、途中の苦労はあったものの、結果においても私なりの満足のゆくものだったと感じている。          
 私は、その後も民生員の仕事には熱を入れて従事し、高橋区議の名を汚すまいと努力した。                      
 地区内の上位に位置するようになり、私は総務の役に就いていた。そして、区の第四、五、六地区の代表総務も務め、拝命以来一三年目の昭和四六年一二月、私は再任を拒絶して退任したのだった。それは、委員の上位に立つと区議選等で政治方面の圧力が委員の中に生じ、私の最も嫌いな政治関係で煩わされることも出てきて、民生委員に嫌気が差したのと、明年ソロモン諸島へ慰霊巡拝に出発する予定が決まったので、 
「私は、外国に行って、ひょっとすると帰国できないことが予測されるので、公職は無理です。」                    
と述べて、無理矢理退いたのだった。私のいた間、第四地区は区内でも有数の実績を上げていたから、出張所長などは、私の退任を残念がってくれたのだった。                        

三六 油槽所工事後の土木工事と飯野さん             
 日立と結城の油槽所工事では、大変な苦労を重ねて完成させたが、最終的には下請業者を完全に満足させることができなかった。水戸の志賀野工務店に対しては要求通りには支払いできず残念だったが、結城の信田工業に対しては、せめてもの償いにと、次の工事を考えていたとき、岩井市に工事が始まることになった。それは、石田歯科技工士の紹介にかかる、石井医師邸住宅新築工事だった。岩井の町立病院の院長に就任した石井新一先生は、クリスチャンで、誠実であること神の如き人格者だった。私も全力を傾注して設計及び工事に従事し、信田の息子には技術面の不満もあったが、私の努力でこれを補うべく苦心して完成させたのだった。敷地が百坪余りあったので、私がアパートの建築を勧めて、住宅と別棟にこれも完成した。ところが、先生が間もなく精神病の発病で、遂に死亡され、奥さんが子供を連れての生活にこのアパートが役に立ったことは、私として、先生に対するせめてもの報恩ができたと思ったのだった。本当にこの世に必要な立派な先生を神様は何故早くあの世にお連れになるかと訴えたく思うばかりだった。          
 このような遠隔地での工事が終わったとき、加藤万から川碕柿生の奥の王禅寺に五千坪ほどの宅地造成工事を依頼された。これは土木工事なので、早速飯野さんに相談した。彼は、佐藤組でも余り優遇されていない状態らしく、その工事は全部俺が引き受けるからと、受注するよう言って、大乗気だった。私から加藤万に工事の発注者の様子を問いただし、その全容がほぼ掴めた。それは、ある不動産業者の計画によるもので、王禅寺の西側の山を買収して、住宅希望者を集め、工事するため、設計のうえ認可も受け、着工するまでに進んでいたのだ。少額の買収費で済んだため造成工事費は十分あるようだったので、私は飯野さんと相談のうえ、受注することに決めた。現場近くの神社の空き倉庫を飯場に借り受け、土方十名余りの飯場を張って、造成着工となった。そして、工事は着々と進行したが、私は、都内の建築工事に単身奮闘していたので、この現場は飯野さんに任せきりの格好となった。          
 そして、この年の七月の末、集中豪雨が来襲した。夕方、雨は一層激しさを増した。私は心配になって、トラックを出して現場に行くことを決意し、洋吉を連れて雨の中を現場に急行した。飯場に行ったが、全員不在だった。丁度、最下段の石積みが完了して石工が引き揚げた後、土工との入替わりのため、飯場が空いていたのだ。私は、状況を豪雨の中で調べた。全山にわたり整地に着工していて、排水溝のトラフを埋設する段取中であり、一部は未だ掘りっ放しで、側溝トラフが設置未了だった。そこに大量の雨水が流れ、溢れて、それが下方に行くほど勢いを強めていた。溢れる雨水が土だけとなった山を崩して大崩壊する危険も予想される状況だった。私は、洋吉と共に、スコップを振るい、水路を整理して、水流を山下の川に誘導するべく、ついには腰まで水に浸かって奮闘した。その結果、最下段の石積みが完成していたこともあって、山の崩壊は防げそうに思われたが、その下の水田は、山からの泥水を被って、全滅状態だった。私は、これはもう人力をもってしては防ぎ得ないと思い、呆然と立ち尽くす他なかった。             
 数日後、川崎市役所から、この水害に対する工事責任について聴聞会を開くから出頭せよとの呼出状が届いた。加藤万は当然工事人たる当社の対応を求めた。私は、直接の監督者で専門職の飯野さんに出頭を頼んだ。だが、彼は、                        
「その件は、社長たる小池君の出頭が当然だ。私は、現在は佐藤組在勤中の身分だから困るんだ。」                   
と言う。ここに至って、私の出頭は決定的となった。        
 当日、市役所の公聴会場に出て、私は吃驚した。大会議場は、対策局長をはじめずらりと居並ぶ人達で、会場を囲むテーブルが満席であり、そこに私一人が立たされて、まるで罪人を見据える検事ら然として、厳しい目を集中してきたのだ。そして、局長が、           
「この度の豪雨による水田の被害は、宅地造成工事人の当局に対する無届け着工という条例違反と、対応策の不始末によって発生したものであり、農民に対する賠償責任はすべて業者に帰一することは明白である。業者側の責任の実施についての対策を質問するものであります。」  
私は、このときただ黙って考えるほかなかった。だが、私も男だ。ここでただ頭を下げて謝る訳にはいかない。私は必死に考えた。そして、そのとき、突然光明が見えた。そうだ、この条例が出来たのは最近のことで、私の記憶では確か六月だと聞いた。私は、意を決して発言した。 
「私の会社による工事中に、この度の豪雨で農家の水田に多大の被害があったことは、残念なことと思っております。今、局長のお話では、当社の条例違反と申されましたが、私は、本条例は、当年六月一日をもって発効した新条例と理解しております。しかし、私はこの工事を今年の四月に受注着工しております。ですので、この条例には何ら抵触していないものと確信しております。しかし、農民の被害に関しては、当社としてでき得る限りの対応を考え、最大限に善処したいと思っておりますので、何分ご了承頂きたくお願い申し上げるものであります。」   
私の確信ある言葉が終わって頭を下げたとき満場粛然として声なく、暫くして局長は閉会を宣言したのだった。             
 このようにして、工事は再開されて、竣工までには幾度か問題もあり、設計変更による工事金の増額等に相談のため、委員長の高校教師に面会して、発注者の事情を詳細に知ることができた。この宅地(山)を発売した業者の巧妙さはまるで詐欺まがいで、参集者に夕闇の迫る時刻に契約書での契約を迫り、もし契約しなければ帰りのバスの便乗を拒否すると言って、有無言わさず捺印させ、三百円を払わせて成約に至ったという。そして、後日解約を申し出た者からは全額の三分の一を強要する手段等まで用いて利得を図ったもので、購買者の中には生活保護受給者が二人もいる有様であるというのだ。私は、委員長の苦労を思うと、こちらの要求がしぼんでいってしまうのを感じたのだった。         
 この工事完了後、私は、土木工事は自然現象で大損害を受けることがあり、保険対策を思うとき、小資本の会社には難しい業種だと思い知らされたのだった。だが、事態は、私の思うようにだけ進む訳ではなかった。
 私は二年くらい以前から三田の米国人イルマン邸に出入りしていた。それは、加藤万の友人で柿沼某という土工の親方と知り合い、彼の依頼でイルマン邸の山崩れ防止の工事をやったのがきっかけだった。彼が、当方の仕事ぶりに好意を持ってくれ、それが大工事へと進展していったのだった。それは、横浜の保土ケ谷区の宅地造成工事で、総坪数一万五千坪余りという大工事だった。しかも、その工事は、三年前から大きな土木会社が設計から関係していて、このとき着工となっていたのだ。イルマンは、この会社の副社長で、資金の全部を握り、運営方として元銀行重役の日本人を社長にしていたらしい。彼は私に、        
「この工事を全面的にやってくれ。」               
と言うのだった。私は、勿論即答できないので考えてみますと返事して、飯野さんに相談した。彼はすぐに飛びついた。           
「小池君、是非受注しろよ、俺が引き受ける。大丈夫だ。佐藤組など吹っ飛ばしても良い。」                      
だが、私は考えた。                       
「同業者として、三年も設計申請等と苦労を重ねて、着工に漕ぎ着けた業者を切り捨てることは、私にはできない。」           
そして、私は、全体を二分して受注することを決め、工事の進行については、先の業者に任せることにして受注したのだった。        
 私は、現場事務所と飯場用にプレハブの倉庫一棟を購入して、現場に設置し、着工したのだった。私は、この間、横浜の飯野さんの住宅に訪問する回数が多くなっていた。彼の二号さんのお竹さんはまめまめしくよく働き、奥さんとしてまことに申し分ないもので、その生活振りは、冨士のキャンプでの貧乏暮らしを思うと夢のような裕福なものとなっていた。彼と佐藤組に行ったとき、副社長に対する彼の態度は、上下の階級が逆転している感じで、傍らで見ている私には彼の無礼さにはハラハラする思いだった。                       
 私は、以前米沢の同級生青木松三郎君の来訪を受け、東京に就職依頼を受けて困惑し、飯野さんに相談してこの佐藤組に就職できたとき、この副社長には随分親切にして貰って、感謝していたのだ。だが、飯野さんはまるで敵を前にしたような口振りで、             
「良いですよ。副社長が私の意見を容れないのなら、辞めさせて頂きます。」                             
と言って、ポケットから辞職願を出すのだった。副社長は、笑顔で、 
「いやいや、そう言わずに、頼むよ。私の方で考えるから君の好きなようにして下さいよ。」                      
と下手に出て話を終わったのだった。私は、それを見て、飯野さんの強気に感服して、                         
「この男は、大した男だ。だが、このまま一生通せるものなのか。」 としきりに思ったのだった。                   
 私は、横浜の現場の進行状況を見て、何か変な感じがし、そのため悶々と夜眠れない日が続いた。このままでは、王禅寺の二の舞になると思ったのだ。この工事には山の土量等の計算の結果によって、全体設計ができているのだから、それによれば、下部から設計通り宅地が造成できている筈だったが、現場では、連日十数台のブルドーザーで山を取り崩しているだけで、造成に着手できていない。もし、集中豪雨に遭えばひとたまりもないだろう。私は、意を決して徹夜で私の考えを手紙に綿々書き連ね。便箋八枚余りに書き上げて、速達で社長宛に出したのだった。数日して社長が私を呼び出して、                 
「小池さん。本当に有り難う。よく言ってくれた。設計の連中と話して、皆で感心した。全く良い点を指摘してくれ、助かった。」      
と言われたとき、素人の私の意見がよく通ったものだと思ったのだった。そして、私を動かしたのは、工事人としての熱意であって、工事人は、仕事に熱意をもって全力投入してこそ、工事の完成を見ることができると痛感したのだった。                      
 工事の支払いは半分現金半分手形で、私は、この手形を越後屋の片山さんに頼んで割って貰った。勿論、利子をつけての割引だが、前の借金を完済した後は、私は一切借金をしない決心で実行してきていたので、片山さんはこの割引を喜んでやってくれた。そして、ついには、この社長から手形の割引を依頼されたが、私は、自分にその力のないことを説明して辞退したのだった。                    
 その頃になって、飯野さんが現場に顔を見せなくなっていた。彼は、ぱりっとした身拵えで、新しい靴を履き、財布にはいつも新札を十万円くらい入れて、身体を汚さぬようにしていた。そして、その月の月末、土工達への支払時期になっても姿を見せず、土工頭から私に、    
「これでは困ります。小池社長と今後のことについて重大な相談をしたいので、今度の何日に社長宅をお訪ねします。」          
と真っ青な顔で厳しく私に告げてきたのだった。私も内心この結果は予感していたが、まさかこのような最悪の事態は予測しかねていた。だが、私は社長で、全責任は私にあり、飯野さん故の言い訳はできないのだ。私は、彼に約束して会談日を決め、対策を考えなければならない羽目となった。
 当時、私の元の広い事務所は、家内と相談して昨年から美容院に、裏の一室、二階の二室と共に貸家にし、家計を助ける方策としていた。そして、元事務所の南隣の四畳半を新たな事務所に改修した。これに伴う改造工事で、風呂場・便所及び二階の増築等も行った。二階の模様替えでは、子供部屋は、六畳中央に上下の二段ベットを作って、これに東側から上に、西側から下に入る形で、洋吉を東、眞理子を西に分け、狭いけれども二室の子供部屋としていた。                    
 洋吉は、早稲田の法科に進んでいたが、私は、今度の土工、近田組親分との会談を重視し、その記録の方策を立てた。事務所のすぐ隣に録音機を一台設置し、洋吉と家内とを待機させて、会談の内容を全部テープに収めること、もし事態が悪化して刃傷沙汰になったら、すぐに警察に電話するように指示したのだった。                
 やがて、近田が来訪し、会談となった。私が今回の工事の受注経過と飯野さんと私の今までの交際について、事細かに説明して、その深い関係を話し、現在の近田君に対する支払い状態の詳細を質問した。彼も、今までの飯野さんとの交際を開陳し、さらに彼から、今月に入って手間賃が未払いである件と、今後の工事の予定、完成までの予算等細部の説明も聞くことができた。私は、近田君にこの工事の完成まで全責任を私が負うこと、そして、今日限り飯野さんを現場から外すことを約束し、近田君も、全面的に了解して、工事完成まで全力で従事することを約束してくれた。                          
 こうして、会談は無事終了し、私は、その晩飯野さんに対し、手紙を認めた。その中で、私は、私の心情をありのまま率直に吐露して、戦時中の私の家族への配慮を感謝し、友情の不変なることを表明した。ただ、飯野さんの金銭感覚の私との不一致は、修正不可能と思われるので、今後は金銭に関わる関係を一切打ち切りたい旨を誠意を尽くして述べて、今後とも心と心の交友の無限であることを約し、家内に複写を取らせ、清書して送付したのだった。                   
 これをもって、私と飯野さんとは事実上完全に絶縁したのだった。まことに長い交際の間、彼の良い点悪い点を私は殆ど知り尽くしたようなもので、惜しい人だが、経済面ではとても交際できないところに来ていた。絶縁はやむを得ないことと諦めるほかない結末だったと思う。だが、これを書いている今は、彼と笑って一杯飲みたいと思うのだ。
 この工事の最中にイルマンとは支払交渉で熱論を戦わせることもあったりして、米国人の日頃の交友を忘れるような仕事熱心な面も知ることができ、私は大いに勉強になった。                
 工事完了後は、彼の東京夫人は離別されて、三田の鉄筋ビルが彼女の手に残されたが、彼女は生計のためその住宅を貸家とし、彼女の住宅を、新たにその屋上に軽量鉄骨で増築することとなった。そして、私が工事を請け負うことになったから、私は、早坂大工の鉄工部に、今までの物干し、手摺り等の小物工事はもとより、建築工事の本格工法まで手ほどきして、指導し、この工事を完成させた。結果 それが、早坂大工に今日の鉄骨大建築工事人への道を開いたと言えるかと思う。       
 この住宅が完成してから、本宅を借りるのがドイツ人の学者と決まり、借り人が引っ越してきたのが暮れの二八日だった。イルマンの指示で、本宅の暖房装置を私が請けて施工させたのだが、夜、気温が零下に下がるのに暖房が不調で、点火しなかった。イルマンはなかなかの経済家で、ボイラーは彼が自分で購入したものを、設置するについて私が請け、工事は祖師谷の水道屋が施工したのだった。だが、この日、年末で職人達が休暇を取ってしまい、他には全然職人がいないという悪条件となっていた。二号夫人は青くなって心配するし、ドイツ人は今晩中に点火しなければホテルに引き揚げると言って怒り出すという、実に絶体絶命の立場に私は立たされてしまった。                  
 そこで、私は、最早これまでと思い、ボイラーに関する何の知識もなく、殆ど絶望的だったが、その点検を自身でやろうと決意した。これまで、必死の場合の集中力が幾度となく成果をもたらしてくれたことのみを頼りに、私はこれに挑んだのだった。燃料、電流と調べていくが、原因解明は遅々として進まず、時間は深更に入って、冷気はひとしおだった。しかし、努力はついに報われた。電流の経路を辿るうち、ヒューズの断線を発見したのだ。早速自動車の予備のヒューズを挿入して、発火できたときには思わず万歳を叫んでいた。そして、二号夫人の喜ぶ顔と、ドイツ人の髭の笑顔を見たときには、私は唯々神に感謝したのだった。だが、燃料が不足気味だった。私はその翌日の搬入、補給を約束して、翌朝我が社の使うスタンドからドラム缶で運搬、補給し、こうして、このボイラー作戦を完了したのだった。                 
 その後もこの二号婦人と数年の交際があったが、やがて私の交際圏からは無縁の人となっていったのだった。              


三七 戦友会活動に熱中                     
 戦後の私の生活は、それまでの海軍内だけでの生活から全く未知の世界に飛び出して、生きるために無我夢中でがむしゃらに進んで来たのだが、この頃になって、なんとか借金も返済し終わって一息ついた感じとなっていた。そんな昭和三七年のある日の夕刊に、戦友石塚氏が事故で負傷したとの記事を発見したのだった。早速、私は林さん宅に飛んで彼にこの事を報告した。
新聞では年齢が違っていたので、別人かとの話も出たが、私は、                     
「いや、これは欣ちゃんだ。彼に違いない。」           
と断じ、林さんと相談の上、新聞記事に入院先とあった大蔵病院に私の車で二人して直行した。受付で聞いて病室に入り、石塚技手のベットの前に立ったときには、彼の方が先ず驚いた。私が新聞で見て飛んで来た旨を話し、彼の奥さんに初対面の挨拶を交わしたのだった。     
 彼とは一〇年ほど前に東京都庁に林さんと共に面会に行ったことがあり、それ以来の対面だった。彼の事故は、小田急の踏切で彼の水道局の小型トラックが列車と衝突したという事故であったから、一命を取り留めたのは奇跡の幸運だったが、内臓の手術で絶対安静という大負傷だったのである。その為、負傷者に長話もできず、奥さんに看病をお願いして別れたのだった。その後の経過は、順調に進んで約二か月後には退院することができ、その時は、私が車で国立の都営アパートまで彼を運んだのだった。私と林さんは、今まで一緒だったので、戦友達とも少しずつ交際が始まり、昭和二八年ころ七、八名の戦友と会合する機会があったが、昭和三七年のこの時から石塚さんが加わって私達一二一設(海軍第百二十一設営隊)の戦友会も会らしい行動に進展する発端が生まれたのだった。昭和三八年の第一回後、第四回の四一年には三一名、第五回(四二年)は七二名の参加を得て、慰霊祭を挙行し、靖国神社で祭文奏上、由利技手の祭詞奉読等厳粛な慰霊祭を行うことができたのだった。         
 昭和三九年五月に鎌井衛という若者がソロモンに父の遺骨を求めに行く話が新聞、テレビ等で報じられ、私は深い関心をもって聴くことになった。調査の結果それは、熊本県主催の民間遺骨収集団に遺族として参加するという話だと分かった。                  
 彼は、陸軍の父がブーゲンビル島 ルルアイ河で戦死し、海軍の叔父もソロモンでの前線輸送を行った第一輸送隊で戦死したため、参加を決意したようだった。私は、海軍のラバウル会には幹事会に度々出席していたので、その会合で今度の陸軍の遺骨収集への協力を発案したところ、同会の草鹿会長は、海軍関係は、政府の行った政府派遣の収集団による昭和三〇年の収集をもって遺骨収集を終了しているとの見解を述べられ、今回の協力は不可能とのことだった。私は、やむなく我が隊独自の協力を考え、一応第一根拠地隊司令官武田少将に伺うことにして、横浜水先案内事務所に電話を入れた。私の質問に元司令官は、         
「海軍は戦友会組織ができていないので、無理と思う。」      
と言われるので、私が、                     
それでは、我が隊だけで協力するのはいかがでしょう。」     
と聞くと、                           
「それは大いにやって下さって結構です。」            
と話されたのだった。このように話が進んだとき、高羽軍医長から
「小池君。これから部隊として行動する場合は、岡本部隊長の承諾を取って動いた方が良いと思う。」                  
と言われ、私が隊長の連絡法がない旨話すと、           
「岡本隊長の奥さんの手術を私がやったことがある。隊長は千葉におられる。」                           
とのこと。電話番号を聞いて、私は早速電話をしたのだった。    
 岡本隊長は、私の話を了承し、その週の土曜日に、上野毛の隊長の娘の婚家で会うこととなった。当日、林書記、軍医長、大輝主計長の四人で隊長に会うことを取り決めたのだったが、軍医長と主計長は都合が悪く、私と林さんとだけの会合になった。岡本隊長の娘の家は、上野毛の三品先生の目の前五十メートルくらいの所で、これも不思議な縁と思われるのだった。当日、林さんと二人で岡本隊長に会ったのだが、この人は昔のままの軍人で、少しも新しい時代を感じ取れない、旧態依然の無理解な悪軍人だった。遺骨収集団の話については、         
「それでは佐藤君に手紙を書くから君等で交渉して結果を知らせよ。」
と昔のままの高慢な口ぶりで、                  
「佐藤は海兵同期だから、俺の言うことは何でも通るのだ。」    
と威張っていた。そして、                    
「我が部隊ほど兵隊と軍属がうまくやっていた部隊はないだろう。」 
と言うのには驚いた。警戒隊と施設隊はまるで敵味方の関係で米軍より兵隊が憎いと軍属は思っていたのだ。               
 この隊長の言葉に、私はこの人の頭はどうかなっていると思うばかりなのに、さらに彼は、                      
「今、米軍がベトナムで苦戦しているが、僕はじれったく思っている。私が請け負って戦場に行って手柄を立ててみたい。」        
と言ったのには、私は、この人は先の戦争で自分がどうだったか、何も分かっていないことを知り、幾多の戦死した戦友が一層哀れに思われるのだった。彼は次に、                      
「私は、少し腹具合が悪いので、明後日軍医長に診て貰うつもりなんだ。」と言うのだった。月曜日に関東中央病院で高羽先生の手術を受け、隊長は千葉に帰り、火曜日に私が高羽さんに会ったとき、先生は、    
「隊長の腹を開いたら、胃癌が悪化して諸処に転移し、手の付けられぬ状態なので、すぐに縫合してしまった。隊長には、悪いところは全部取ったから心配ありません、と言っておいた。」           
と語り、余命の短いことを告げるのだった。私は、隊長の手紙を次のラバウル会の幹事会で佐藤さんに渡し、返事はラバウル会長よりするとのことで、会で林さんとそれを開いたのだった。草鹿会長はこの件については、                             
「今頃ブーゲンビルのジャングルに入って遺骨を探すなどは到底不可能なことで、考える必要なし。私は、今教育勅語の本を書いているので、多忙のためこの件には手が及ばない。」              
と簡単に拒絶されたのだった。                  
 私は、やむなく陸軍の戦友会である全国ソロモン会の浜崎積三氏の所に行って、海軍の実情を話し、一二一設単独で協力したい旨申し入れ、鎌井君の参加について最大限の協力を約束したのだった。我が隊としてもこの際遺族の協力を得たいと思い、その対策を林、石塚両氏と相談して万全を期すこととした。先ず遺族に対して戦没者の戦死の位置を地図で明示することを思い付いた。林さんが人事係書記として必死の思いで確保して持ち帰った全隊員の戦没者名簿によって、戦没者の病名、死亡場所、死亡時刻等を調べ上げ、地図を作って場所を明示し、全戦没者一三〇〇名の遺族に送付し、募金への協力を願ったのだった。遺族は初めて戦場の地図と戦没者の詳細に接して感激したようで、次々とお礼の手紙と募金が集まった。又、鎌井君には、現地に建立する慰霊碑の地下に埋葬される戦没者名簿を、林さんに清書して貰い、私がガラス屋に頼んで密封したプラスチック円筒に入れて、永久保存の用意をして渡したのだった。この品々を持って鎌井君がテレビに出演し、これを見て、我が家では家族一同大いに感動したのだった。また、戦友遺族の人達の尊い義援金は、一二一設戦友会として遺骨収集団の竹原団長にお渡しすることができたのだった。                           

三八 岡本隊長逝く                       
 この遺骨収集団は、昭和三九年七月一二日に晴海埠頭を出発し、同年八月二六日帰還した。そして、全国ソロモン会の浜崎事務局長の計らいで、我が隊に遺骨ひと箱の分骨を受け、九月一八日には上野毛の三品先生の互念会道場で遺族に対する盛大な分骨式を挙行した。遠く北海道からのご遺族も参集され、各位 二六名分に分骨された御骨を故郷へ持ち帰られたのだった。また、希望者には現地の砂の送付もする等、思え幅戦友会の大活躍の時代だったのだ。我々の活動の話を聞いて、一通戦友会の幹部で文句を言う人もいたが、これに対して私は、             
「我々の行動は、我々が第一根拠地隊司令官の認可を得て協力したが故の、全国ソロモン会の指示によるものであるから、恥ずべき点は無く、苦言を呈するものこそ不当である。」               
と弁じたところ、これにはその人も一言もなく、田中さん等は分骨式にも出席して下さった。                      
 岡本隊長は、昭和三九年八月二五日にソロモンより遺骨が団員達に抱かれて東京湾に入港した時期に病状が悪化して、再入院された。最初の退院の時、私に、                        
「この度は、君達に会うべく上京し、高羽君の診察を受け、手術も受けられて、有り難かった。これでまた生き延びたことになるから、君達は命の恩人となる訳だ。」                    
と言って、喜んでいたが、再入院となって、やはりそうかと、高羽先生の話が納得できたのだった。そして、分骨された英霊が、隊長の入院した病院から僅か二キロの地に安置されたことを思うと、私には、隊長に殺されたに等しい施設隊員の怨霊が、隊長を呼び寄せたのではないかとも感じられたのだった。九月一日、分骨を上野毛に迎えた日に隊長の病状悪化を告げられ、急いで見舞ったとき、隊長は、         
「悪い奴がいる。風邪を引いて見舞いに来た奴にうつされて苦しんでいる。」                             
と見舞いに来た人を恨んでいたのだった。何でも他人のせいにして反省のない隊長の悪い性格を見て、この人は救い難い人だと思ったのだった。九月七日、隊長は世田谷にある関東中央病院であの世に旅立った。告別式は瀬田の教会とのことで、林書記と二人で参列した。死の一週間前に入信したというキリスト教の葬儀は簡素なものだった。旧軍関係者は佐薙参謀と私達の三人だけだった。親戚も余り多くなく、総勢二〇人ほどの寂しい葬儀で、私と隊長の縁は、これをもって永遠に切れたのだった。思えば、この人は、部下を利用して我意を通すばかりで、上官として部下を愛し、他人の面倒を見ることなどは皆無の人だった。前回退院した直後に私に電話で、                         
「君は世田谷区で顔が広いらしいから、頼みがある。私の息子が出版社に勤め、三軒茶屋に事務所を開きたいので、探してくれ。また、百科事典を売ってくれ。」                      
と言うので、何とか考えますと返事したら、翌朝九時には隊長の息子が私の事務所に押し掛け、私は、不動産屋に緊急手配して、その日の内に事務所を探してやったのだった。また、事典の方も、その販売斡旋方を民社党の本島百合子先生に頼んであげて、数人の客を得たようだったが、隊長宅からは礼の電話一本も無かった。              
 私宅の近くに二年前、世田谷区が中央図書館を開設した。岡本隊長が五・一五事件に関係した経歴があり、そのために満州の警察隊長に左遷されたとの噂を聞き及んでいたから、一日図書館に行って同事件の文書類を詳細に調べてみたが、彼の名前はとうとう発見できなかった。彼は、この事件の関係者のような国を思う熱情など毛ほどもない人だったように思う。                            
 このときの鎌井君は、結婚して子供もできて幸福そうだったが、二年前急病で他界された。気丈の母親の嘆きを思い、お悔やみの手紙を涙のうちに書いたのだったが、人間の幸 不幸も、神のみが動かし得る運命の水車によって、自分の意志とは関係なく、次の水に押されてくるくる回って行くように思われた。
 戦友会の活動も石塚さんの活躍で、文書の面で発展に向かい、昭和四二年八月には会報の第二号発刊を達成した。また、秋田での総会は、盛大に開催されて、高羽先生の医務隊工員等も多数出席を見た。遠藤技手や舟山技手とも交際があり、遠藤さんの横浜の住宅の補修や舟山さんの娘の結婚の話などに、私はつい深入りしてしまうのだった。市川技手、由利技手の葬儀には、私の車で林さんと伺い、参列して誠意を尽くすことができた。                         

 昭和四一年の遺骨収集は、熊本県の主催で計画されたが、浜崎さんは鹿児島連隊なので、同じ六師団でも派が違っていた。熊本と鹿児島は西南戦争の昔から敵対意識が強く、遺骨収集についても、鹿児島が熊本に負けるものかとばかりに主張して、神田元中将を会長に頂き、浜崎さんが幹事長となって、全国ソロモン会の組織を作って、着々と行動を起こし始めた。そして、浜崎さんは、自分でブーゲンビル島に渡航して調査を進め、次期遺骨収集団を陸海軍合同の戦友会で実施すべく計画を練り始めていた。                          
 戦後の陸軍と海軍の間には、戦時中からの対立感情が強烈に残されていて、なかなか融合できない状況があった。
ことにソロモン方面では、海軍の八艦隊の先任参謀池上厳中佐が戦友会の頭分で、彼と浜崎積三中佐とは事ごとに対立反目して相容れず、相談も交渉も一歩も進まない状態だった。私は熊本六師団による前回の収集団の時から浜崎さんと意気投合して交際を始め、当分私が海軍代表の理事役を務めることになり、海軍側の戦友会の幹部も自然にそれを黙認した形になっていた。浜崎さんの意向で海陸の合同収集団を結成するとの話を池上さんに伝え、渋谷の東郷神社で海軍の第一回幹事会が開催されたのだった。                          
 私は、林さんと二人でこの幹事会に出席し、海軍の人達の殆どがソロモンの密林での遺骨収集は不可能である、陸軍主導の決断は不快である、などとして合同結成に否定的となったとき、発言して、       
「今までに浜崎氏は、豪州政府と交渉を重ねてその了承を得、厚生省等とも交渉の末、了解を積み上げて今回の計画に至ったもので、誠意をもって真剣に取り組んでいる。そして、このことは、私達生還者の英霊に対する当然の義務であって、成果の有無を言うべきではない。私達のやらねばならない一つの通過儀礼なのであって、セレモニーなのだ。海軍だけでこのことを実施するには一〇年以上先になると思うので、是非ともこの機を逃すべきでない。」                  
旨を力説したのだった。
 私の熱をこめた弁が海軍の幹事達の戦友愛に点火した形となり、やがて、池上さんも合同結成に同意せざるを得ない格好となった。こうして、会議は成功して、陸海合同による遺骨収集団の結成が海軍側においても決定され、そのための交渉委員も決まって、いよいよ発進することとなったのだった。                         

三九 昭和四三年陸海合同遺骨収集団発進
 そして、陸軍と海軍の合同会議が開かれ、団員の選定等に入り、海軍側の代表に前田茂弁護士が選任されたのだった。前田さんは、海兵出身で、トリボイルの八二警の士官で、戦後東大で法律を学んだ有力弁護士だった。この人がなかなか人望があり、戦後間もなく戦友を集め、ボ島会という会を作って、二、三〇人の組織の長となっていたので、最適任の役だった。池上さんは、戦後自衛隊に入り一時は陸幕と海幕を兼任する重責を担い、若者を凌ぐ元気で、馬力のある 昔と変わらぬ強硬士官ぶりだった。海軍として未だ戦友会組織が完成していなかったので、募金活動等は各隊毎の戦友会をもって当たることになり、我が一二一設は、その点他隊の先頭に立っており戦友各位の熱意によって行動力は群を抜いた形となっていた。我が隊も直ちに幹事会で募金趣意書を作成し、林さんと私の事務所の謄写版で印刷して配送したのだった。着々と人選が決まっていったが、医者の同行が絶対必要なのに、陸軍の軍医の予定者が次々参加不能となり、浜崎さんは断念の他なしと語りだした。私は、
「それはまずい。下手をするとミイラ取りがミイラになる危険がある。」と医者の同行は絶対的に必要と主張し、もし経費不足の場合は、私達理事が街頭募金してでも、医者の同行を求めると強硬に述べて、海軍軍医の選出を申し出た。そして、ついにバラレ島在任だった堀口軍医を発見し、前田先生の了承も受けて、これが決定されたのだった。募金もなかなか集まらず、一人八〇万円の予算のため、海軍の参加人員は金額的に三名をもって限度とされ、堀口軍医の派遣費は、これと別枠の本部負担となったのだった。
 当初、浜崎さんが慰霊碑の建立を計画したところ、この度の収集団用に運輸省の航海練習船大成丸の協力が得られることとなったから、資材の輸送には同船が当たることに決められたのだった。ところが、私が設計して資材を集め、世田谷の天祖神社脇の書道の先生服部政之助元工兵第六連隊長に依頼して銘板まで準備したのに、資金不足のため次回に譲ることになりかけた。そこで、私は、               
「私の自力でこれを負担するから、是非とも建立を実現させてほしい。」
と願い出て、慰霊碑建立計画は確定となった。私は建立の責任者となり、現地での工事進行を考えて、堰板鉄筋等すべてこちらで加工して、現地ではボルト締めだけで組立てができるようにした。セメントは、骨材には現地のリーフを使用し、白セメントを使えば白色の碑ができると思い、高価だったが、白セメント六〇俵を必要な用具等と共に用意した。そして、これらを早朝からトラックに満載し、二トン半の車に三トン以上積んで、洋吉と二人で晴海埠頭に運んだのだった。      
 団員の努力によって、この慰霊碑は、ショートランド島の旧海軍第二航空基地近くの丘に出来上がり、帰国した団員からの写真が今も私の部屋に掲げてあるが、これを見ると当時の苦心を思い出し感無量である。浜崎さんの話で、当初この碑には設計者である私の名は一切残らない筈だったが、海軍の団員がこの碑の完成に感動して、団員の名と私の名を線書きして、碑の裏面に残したとの話であるから、今も彼の地にそれが残っていることと思うが、目下現地は内乱状態となっているため、渡航不能で確かめる手立てもないのである。               
 先年、海軍ソロモン会から私に感謝状と記念の時計が贈られることになり、前田先生宅で家内と共に拝受したのだった。私の生命の記念碑であるように思え、碑の残存を願ってやまない。             
 堀口先生は、その後大蔵省造幣局病院の院長になって、遺骨収集団の出発の度毎に、マラリヤの予防薬を配慮いただき、娘の夫酒井康彦君の病気には東大病院の先生の診察や、娘の出産時の助言等、親身のお世話をいただいたが、癌を病まれて急逝され、惜しい人を失って残念でたまらなかった。                          
 この昭和四三年の遺骨収集団の実施は、実に陸軍海軍の戦友会に例を見ない大行事であったから、戦後史を飾る戦友愛の象徴として新聞テレビに大きく報道されたのだった。

四〇 我が人生最大の汚点事件                  
 翌昭和四四年の四月二八日、戦友会に関する行事の一環に、私にとっては重大な汚点が付く事件が待っていた。遺骨収集団の報道写真班撮影にかかる映画が、熱心な新聞班によって完成し、大好評を得て、各方面から映写依頼が殺到した。自衛隊の士官の奥さん達の「美鳩会」からの希望で市ヶ谷の会館でも映写会があり、浜崎団長と私が出席したのだった。夫人達が涙を流しながら映画を見てくれ、盛大な拍手のうちに閉会したのだった。                         
 だが、その時刻に都内は騒然たる状態となっていた。この日は、沖縄デーと呼ばれて、都内は厳しい警戒が行われていた。この日、その辺りは、大学生を主力に反政府暴動のような様相となって、国電はすべて止まり、各輸送機関が停滞して、都内は交通麻痺に陥って、混乱状態となっていた。                           
 私と浜崎さんは、会館の食堂で酒を飲んでいたが、情勢が不穏だったので、私の車を車庫に残して市ヶ谷駅まで歩き、国電の運転再開を待ったが、回復の見込みなく、駅前の中華料理店に入った。そして、また酒を飲み出し、二人とも相当に飲んだようだった。路上に出て、タクシーを呼んでも全然停車せず、ついに、帰宅の途が断たれた状況となった。
 私は、事ここに至っては詮方なく、私の車で帰宅すべく、市ヶ谷会館のガレージに行って、自分の車を引き出し、帰途に着いた。だが、私自身腰の立たない程の酩酊で、運転は危険極まるもだったが、運転する私は、初めての酩酊運転の快感でまことに好調であったように記憶している。飯田橋を経て、大曲に向かう道で、後続の軽トラが私を追い抜き大曲の交番に飛び込んで注進したらしい。警戒中の警官隊が私のことを大手を広げて停車させた。顎紐をかけて武装したその警官が、運転席に顔を突き込み、                          
「こ奴、酔っている。降りろ。」                 
と命じた。そして、私の住所氏名を糺してきたが、私も酔っているから、元気がよい。                          
「世田谷の弦巻町だ。弓偏に玄だ。武田信玄の玄だ。貴様信玄を知らないのか。貴様ら大体職務怠慢ではないか。たかだか学生くらいがうろちょろしたのに日本の警察がこのざまは何だ。貴様らのような奴を月給泥棒というんだ。こら泥棒。返答はどうだ。何とか言ってみろ。貴様らがだらしないために善良な市民が酔って運転する羽目になるのだ。こら月給泥棒何とか抜かせ!」                     
これには流石の警官も返答できず、                
「こりゃあ、駄目だ、本署だ!本署に連れて行け!」        
となって、私はそこで寝入ってしまった。
 その後、私は、寝ていて床の具合が少し固くて、「家内の奴、いくら酔っ払いだからと言って、板の間はひどいじゃないか。」と思い、不満の気持ちで目を覚まして、目の前の金網を見て驚いた。そして、先刻のことが目に浮かんで、                      
「ああそうだ、俺は酔って車を運転して、警察に捕まったのだ。これがかねて聞いていた留置所なるところだ。これはしまった。容易でないぞ。」と、私にとっては一生の不覚、並大抵の考案では脱出不能の、絶体絶命事態となったことを悟ったのだった。               
 そのうち、この八畳ほどの板の間に私一人という優遇?は取り消されることになった。学生達の逮捕者が三人入ってきたのだ。ちなみに当時は、全国で大学紛争が続発して、学生が荒れ狂い、東大での機動隊との「安田砦の攻防」がこの年の一月のことである。学生達は、先輩の私に「失礼します。」と挨拶して入室した。廊下を隔てた前の房にも、五人くらいの学生が押し込まれた。彼らは、ここが留置所であることなどは少しも気にしないように、賑やかに話し合い、時にはふざけて笑い合ったりして、楽しげだった。廊下では、鍵束をじゃらつかせて、番人の警官が学生等を怒鳴り散らしていた。                
「こら、ぐうたら学生! おとなしくせんかい。あの先生を見ろ。あの人は優等生だ。貴様らもあの先生を見習ってきちんとするのだ。」  
と、まるで彼らの指導者に見立てて、訓示の教材に利用するのだった。次の日、別室で刑事の尋問があった。私の経歴や現在の役職等を聞いて、刑事は、                            
「そうですか。私は海軍の下士官でしたが、貴方のような偉い人が昨夜のような失態は、気を付けて頂きたいですね。まあ暫くはここで頭を冷やして、考えて頂くことになるでしょう。」            
と言った。私は、今回の失敗を痛恨の極みと感じ、彼の忠告を素直に拝聴したのだった。ここの食事は、聞きしにまさる酷いもので、麦飯にたくわん二切れ、お茶はなく、白湯一杯、昼のパンは薄い二切れにジャムは鼻を付けて初めてそれらしい匂いのする程度のもので、私には尊い経験だった。ところが、食事の用意は、学生達が全部整えてくれて、彼らは私に、                            
「食事の用意ができました。どうぞ召し上がって下さい。」     
と丁寧に頭を下げて、差し出してくれる。その礼儀正しさに、私は「日本はまだまだ大丈夫」の感を深くしたのだった。彼らは、相当裕福な家庭の子息達らしく、昼には上等な寿司の大鉢が差し入れられ、    
「どうぞお上がり下さい。」                   
と私にまで勧めてくれた。そして、寿司が半分以上残ったとき、   
「あとはどうしましょう。」                   
と私に聞くので、                        
「後は警官達にやればよい。」                  
と言ってやったから、警官達は大喜びで思わぬご馳走に舌鼓を打つのだった。                             
 午後三時頃になり、金ぴかの肩章を付けた副署長が私の房の前に立ち、
「小池さん、おいででしょうか。」                
と言う。                            
「私が小池ですが。」                      
と答えると、彼は丁寧に敬礼して、                
「まことに失礼しました。今暫くお待ち頂いて、ここを出て頂きますので、どうぞお待ち願います。」                  
と言うのだった。若い警官が、                  
「副署長、それは困ります。書類ができていませんし、色々手続きが未済なのです。」                       
と言うと、副署長は、                      
「上部からの指令で即刻出所と決定したのだ。他の事は全部 処置後回しとして、急げ。」                      
と厳命したのだった。                      
 三〇分ほどして、私は、地下の警官達が敬礼して見送る列の前を通り、明るい路上に出て、娘眞理子が運転し、家内が後部座席で迎える車の車上の人となって、帰途に着いたのだった。             
 車中での家内の話から、事の次第が分かってきた。戦友林さんが、昨日、家内からの急報にすぐ対策を考えてくれたらしい。そして、彼の頭に閃いたのは、警察の当時の最高幹部ともいうべき、高松主計長のことだった。彼は、前年の二月、テレビ、新聞の報道で、全国民の耳目を一点に集めた金嬉老事件の立役者、静岡県警察本部長その人だったのである。彼は、ソロモン戦で、第一輸送隊主計長を務め、終戦後はピエズ島の第一二地区主計長であった人で、林書記とは直接の主従関係者として親交あり、在京時には、私が林さんと共に彼の自宅を訪問したこともあったのだ。そして、今は大阪府警察本部長に栄転されていた。林さんが大阪に電話して、四月二九日の天長節で官舎に在宅だった高松さんに、私の事態を報告し、救済方を頼んだところ、            
「なに、小池さんが、それは大変だ。早速手配しよう。」      
と言って、直ちに手立てを講じてくれたらしい。そして、先ず警視総監に連絡して、私の即時解放を発令させたとのことだった。大塚警察署長は、                              
「本件は、飲酒量二五パーセントとの調査にて、留置相当」と返答したが、「現在酩酊がなければ釈放せよ」との厳命を受けたとのことで、私は、かくして、放免されたのだった。これは一重に林さんの適切敏速な対処のお蔭で、感謝の他ないのである。さりながら、また、戦地での私のことを上官が記憶してくれていたことの結果でもあることを思えば、やはり、戦地以来いつも私を助けて下さる神様に一層感謝の念を深めたのだった。                        
 このとき、息子洋吉は、早稲田大学を卒業して、彼が最後に挑んだ第三回目の司法試験のその年だったので、私があのままの状態で汚名が世間に知られれば、息子の合格は危うかったかも知れない。娘眞理子もこの年結婚が決定したのだが、やはり私の失敗がこれに不都合であったことは分かり切ったことで、すべて皆救われたのだった。浜崎団長も、国会議員や政界有力者に私の救助を頼んだのだが、警察もこのときは興奮の極にあって効を奏することがなかったらしい。警察は左翼のものを警戒していたらしいが、私が左翼でなく右翼側のような経歴を見て悪意のないことは承知していたらしい。この件の処罰は罰金と免停だったが、罰金納入後品川免許事務所に出頭して、都知事その他の賞状があれば持参せよとのことに、民生委員の感謝状数枚と深川時代の消防署長からの火事早期発見消火の賞状があったので、受付の役人に、       
「こんなものは何か役に立ちますか?」              
と、おずおず差し出したところ、                 
「これは立派なものです。この度は三枚だけで結構です。今日、学科試験があり、合格すれば、すぐ免許証をお返しします。」       
と、私の証書にゴム印を押して受付を完了したのだ。試験は、百点満点で、免許証を受領して帰ることができた。             
 トノレイ会の幹事長がこの度の恩人高松さんだったので、彼が存命中は、私のトノレイ会出席は皆勤の結果となっている。四年前、彼は癌のため他界したが、まことに国家のためにも惜しい人を失い、私も神のお手配を疑う気持ちが起こるのだった。               


四一 全国ソロモン会として乗松文雄君と調査隊出発        
 私の全国ソロモン会の活動は、ますます熱が入り、遺骨収集団も次第に政府派遣の道が開けて、各年毎に出発するようになり、回を重ねた。私は、携行資材の購入、荷造りの一切を引き受け、時には連日浜崎さんの事務所に通って、深夜までこの作業に励むようになった。
 そして、昭和四七年七月、かねての宿願だったソロモン地区の慰霊巡拝に私が出発することになった。それは、数回の遺骨収集団に私はブーゲンビル島における一二一設の詳細な地図で収骨を依頼したが、その度に、                              
「君の部隊はどうしても発見できない。多分その位置は海中に沈んだに違いない。全然消えて無くなっている。」
との返事で、これは私が行って調べる以外道なしと覚悟したのだった。
 浜崎さんを団長に、海軍四名、陸軍四名、遺族二名からなる計一〇名編成の団の結成が決まった。我が隊からも参加者を出すことを熱望したが、その候補が転々して決まらず、ついに静岡県の乗松君の参加が決まってほっとしたのだった。                      
 そして、期間は二三日間とし、ニューギニアからラバウル、ガダルカナルまでの全ソロモン地区の現状調査の他、次期収集団派遣計画ための資料収集、現地政府との協議、ガ島豪軍在郷軍人会が水無川に建立する日軍慰霊碑に日本側銘板を取り付けるに当たっての入魂式等、多方面にわたる計画が予定されて、戦友会としての大切な行動が続くこととなった。
 一二一設戦友会としての行動計画等についても幹事会で協議し、現地の墓地を探索してそこに墓標を建立し、慰霊祭を行うべく、私が檜の四寸角で長さ六尺の墓標を大工に造らせた。そして、遠藤、石塚、林の諸君と千葉の和田町の西福寺住職小美山義栄(旧姓山口)氏を訪ねたのだった。彼が白衣の僧衣に姿を改め、墨痕鮮やかに、          
「嗚呼、設営戦士ここに眠る」                  
と揮毫して、墓標は出来上がったのだ。そして、千倉の相川技手宅を訪問し、相川夫人に挨拶して仏壇に拝礼し、墓地で、敵機からの直撃被弾により幽冥異にして以来二七年ぶりに、戦友との無言の再会をしたのだった。                             
 私が、戦の最中、現地で必死の思いで火葬して、手製の骨箱に納めた御骨は、祖国への輸送船が敵魚雷にやられたのか、遺族に届くことなく、全く違った箱に小石が入れられて遺族に渡されたという話を聞き、口惜しさと悲しさに暗澹たる気持ちになったのだった。
 ところで、私は、今回の出発に際し、現地の墓地を想像して、工員と兵隊が混然と埋葬され、さぞ区別が付け難いであろうことを思えば、戦後二七年を経た現在、兵と軍属の差別はやめて、全隊として慰霊するのが人道に則した真の戦友愛なりと確信していた。そこで、私は、このことを松尾施設隊長と相談とようと計画して、観光旅行に参加の上、金沢の松尾さんと会見した。松尾さんもこの件を快く了承され、警戒隊の戦友会世話役の高田分隊士へ連絡することとなった。こうして、高田分隊士の感激の手紙と戦没兵士の名簿も届き、林、石塚両氏の骨折りで、我が隊の軍人軍属全戦没者一五一五柱の名簿が作成された。この名簿を、般若心経の写経と共にプラスチックの円筒に密封して、これを現地に持参することになった。
 私は、我が隊員乗松文雄君の力強い参加を得て、勇躍、七月二三日に出発した。私は、副団長に任ぜられ、行動の計画実施について関係機関との連絡・通信・会計事務等の一切を処理する大役を担った。それは片言の英語を総動員しての苦心苦闘の連続で、その有様たるや、惨憺たるものだったが、その度に勇猛心に鞭を入れては次々とその任務に立ち向かったのだった。     
 香港、ポートモレスビーと進み、行程最南端のガダルカナルに至れば、さすがに南洋、酷暑の地であり、その炎天の飛行場に降り立ったものの、南方人の漫々的の入国手続きには業を煮やしたのだった。ホニアラのホテルでの歓迎会は大洋漁業の役員が主催という盛大なもので、祖国を遠く離れたこの地での日本人の力強い奮闘を眼前して、一同祖国愛に満たされたのだった。                        
 丸山道入口のボア河畔に、豪軍のガ島在郷軍人が日本軍の奮闘を記念して慰霊碑を建立してくれており、これに全国ソロモン会で制作した銘板の実物大写真を捧げ、豪州人、現地人、日本商社員等の参加も得て、同碑の入魂式を全団員で粛然と挙行したのだった。         
 神田正種全国ソロモン会会長元陸軍中将の感謝の挨拶朗読、記念品贈呈等もあって、まことに盛大なものだった。
 コカンボナの海岸で、この地に戦死した父親の慰霊に参じた息子が、
「お父さん! 迎えに来たよ! 一緒に国に帰ろう!」       
と叫んだときには、頬を落ちる涙を抑えることもできず、一緒に泣いたのだった。                          
 ムンダ飛行場で二名の遺族を残し、八名でブーゲンビル島に向かった。キエタ飛行場に着陸して、ついにボ島に着いたと思うと、感無量で言葉も忘れ、しばし緑のジャングルを見回すばかりだった。
 そして、大教会で全国ソロモン会から今 巡拝団最大の行事である「慰霊平和の鐘」の贈呈式が挙行された。今回全ソロモン地区の一〇か所の教会に贈ることになって、鐘は既に前送されていた。私は、この鐘の制作段階から関わっており、浜崎幹事長と二人で富山の高岡まで出張し、工場で制作現場の視察もして、その際、富山の、我が隊技生であった戦友小川悦弘君が二人を心から接待してくれたことを思い出していた。現地人達の「ミサ」に参列し、教会の神父達の真剣な活動等を見ると、この人達によってこの国が希望を持って生き生きと再生しつつあることが感じられ、明るい気持ちになったのだった。宿舎のダバラホテルは、立派な建物であったが、その冷暖房装置一式が日本の「ダイキン」製だったのには、驚くと共に日本企業の活躍ぶりに感心させられたのだった。 
 キエタ近くのパングナ銅山を見学し、世界最大規模の銅山がこれまた日本の六大企業の資金によって開山できたとの話に感心し、また、日本製の二〇〇屯ショベルが運転され、岸壁には二万四千トンの日豊丸が横着けされて荷を搬入する等の様子は、巨大な規模であるのに、すべてが機械化、自動化され、人影があまり見られないのにはまことに驚いたのだった。                            
 七月三〇日キエタ発の八人乗り小型機でブインに向かい、ブイン山を機上から確認することができた。最近の情報では付近が大洪水で水浸しだとの話だったが、ブイン山脇に道路が見え隠れしていたので、先ずは安心したのだった。                       
 翌三一日には教会、政庁への挨拶回りを終わり、いよいよ一二一設本隊跡の捜索を開始した。ブイン山の前の海から約一キロの地点を自動車運転手の計測で選定し、道路の右側のジャングルに踏み込んだ。ジャングルは湿地帯と化して、背丈ほどの茗荷が密生し、歩行は困難を極めた。その上、直径一メートル余りの大木が倒れて道を塞ぎ、倒木は既に腐食してぶよぶよとなって、乗り越えることも下を潜ることもできない始末だった。それでも、必死に前進していたところ、私の足に固いものが当り、見てみると、それは水道の亜鉛管だと分かったし、付近にはドラム缶三個ほども発見されたので、此処こそ我が一二一設の本隊跡だと判断したのだった。                         
 時刻が夕暮れとなり、ジャングル内の日没となれば道に迷う危険もあるから、捜索を明日に回して帰路に着いたのだが、ジャングルに近々五〇メートルほど入っただけなのに帰途に迷い、大声を出して道路上の団員を呼びながらやっとの思いで道路に戻ったのだった。そして、他の団員達とブインに帰り、ホテルに入ったのだった。          
 ブインと言っても、この町は、昔のトリボイル地区に当たるらしく、
ホテルは、豪州人の若い主人と少し年上の中国夫人が経営する木造二階建てだった。二階の二部屋が客間で、ほかに食堂があり、階下は主人と従業員の部屋だった。私は中国に三年ほどいたので、片言ながら上海語と中国語を使えることから、この女主人とはどうにか言葉が通じて用が足りた。私と乗松団員が一室、海軍の小野塚団員と元防空隊の二人が別室であったが、私は女主人に対し自分の金を渡して頼んでおいたので、ホテルの我々に対する扱いはまことに親切で行き届き、汚れ物など黙っていてもどんどん洗濯してくれたりしたから、同宿者はこのホテルの待遇を喜んで最高の評価をするのだった。
 私達は、翌八月一日、団長の指示で、団員八名現地人三名の総員で、本隊の墓地発掘にかかった。だが、半日の捜索は徒労に終わり、一体の遺骨も発見できなかった。また確たる墓地跡を特定することもできず、浜崎団長も、前例から見て不可解だと頭をひねるばかりだった。午後は、陸軍側は、そこから七六兵站病院跡発掘の計画で出発して行き、海軍の四人だけが、日没後の暗い道路を、飛び交う大蛍を見ながらナカロ十字路を越えて空しくホテルに帰着したのだった。           
 昭和四七年八月二日、小野塚さん、乗松君、私の三人で、今日こそはと意を決して現地に向かった。そして、現在の道路が旧本隊の中央部に位置していると考えて、前日見残した地点をくまなく捜索することにしやがて、水道管、埋設した農場用肥溜めのドラム缶等を発見した。私が穴の中から鎹を発見し、これこそ我が隊の鍛冶工の製品と断定して、鍛冶場の発見を急ぐよう団員に指示した。そして、間もなく、乗松君が鍛冶場らしい箇所を発見したというので、集合して調査したところ、ドラム缶が並べて埋設されていることから、防空壕跡と分かり、続いて、金床、蜂の巣等の鍛冶場の道具が見つかり、モーター、酸素ボンベ等の発見に至って、此処こそ我が隊の鍛冶場なりと特定することができたのである。                             
 やがて、鍛冶場の片隅にリヤカーが、二個のひずんだリームと共に積んであるのが発見された。このリヤカーこそ、終戦間際、骨と皮ばかりになって死んだ戦友の死体を、それと違わないほどに痩せこけた隊員数人が墓場へと運んだそのリヤカーだったのだ。          
 ゴムなくリームだけの車輪を押し、墓場へ運び終わった後、担当の隊員が当直の私に細い手を力無く上げて、敬礼し、           
「中隊長、今日の埋葬を終わりました。私はこれで五人葬りました。次は私の番です。」                       
と言った姿が思い出される。私は、それに対して、         
「元気を出せ。一緒に国に帰るんだ。」              
と甲斐のない励ましを言うのがやっとだったのだ。

     幾百の 戦友 (とも)を送りし野辺路なり
         そのリヤカーの 車体現る 
         
 この場所は、戦後現地人が農園に使っていたことがあるらしい。現地人達は、大体が高地民であり、大きな組織を作って、山地の焼き畑農業を主体として暮らし、あまり転地しないのが普通なのだが、当地にいた部族は、我々の部隊跡が伐木され平坦だったのを利して、一旦これを農園としたものの、その後道路を設ける必要から巾二五メートルを開いて、うち巾八メートルを盛土して路面としたが、排水溝が不備だったために洪水となり、農園も運営不能となって、ついには逃げ出してしまったらしいのだ。                           
 そうであれば、戦時下の我が隊での戦友の埋葬は、地面を掘って埋めるだけの力が隊員には無く、襞状の木の根の間に遺体を置いて枯れ葉をかけるのが精一杯だったから、その後の洪水で遺骨は海へと流されたことも想像され、その発見は見込み無しと断念せざるを得ないのだった。
 私は皆と相談して、防空壕跡の中央に一本の確かな形のドラム缶を埋め、これに土を入れて固定した中に内地から持参した墓標をしっかりと立てた後、周囲の草を払って清掃し、慰霊祭の準備をした。
 そうして、近くから茗荷の白と赤の美しい花を集めて供花とし、内地持参の日本酒と菓子を供え、線香の煙に包まれる中、他の内地からの持参品も地中に埋めて、厳粛に慰霊祭を挙行することができた。

 祭文を奏上した私は、感動のあまり涙滂沱と流れ全身総毛立って、背には万鈞の重みを感じた。その重みが、立っていられない程に思われたのは、亡き戦友らが一時に私に抱きついてきたからのように感じられ、「迎えに来るのが余りにも遅くなってしまった。済まなかった。」 と心の中で唯々彼らに謝るばかりだった。

     今こそは 墓標を建てて弔はむ
          戦友 (とも)よ許せよ 遅きこの日を
       
 やがて、ブインのホテルを去るときが来ると、ホテルの女主人は、私達四人を別の食堂に招待して送別の宴を張ってくれた。私には、我々異国人のために示してくれた彼女の誠意が有り難く、この感謝の念は以後深く心に残ることとなった。                   
 陸軍側団員は、ムグアイ地区で七六兵站病院跡より三百数十体の遺骨を発掘した。この地は、昭和一七年末にガ島撤退をした陸軍が、一時駐屯した場所で、疲労困憊した傷病兵がこの地で多数死亡し、その遺体が一つの穴に数十体という具合に埋葬されて、当時の我が軍の悲惨な敗戦の墓場となったのだった。これこそ嗚呼悲惨々々の極みと言うべく、私は、遺骨の山に深く頭を垂れ合掌したのだった。
 私のホテルのベランダに此処の御遺骨を安置したが、現住民はこれを恐れてか決して近付こうとしなかった。これらの遺骨は大きな部分が形をとどめるのみで、それも内部は海綿状となっていたのを見ると、高地の砂地という好条件下でもこの様相であるから、殆ど湿地という我が隊の条件下では、我が隊の遺骨は流されなかったとしても水に溶けてなくなっていることが考えられ、その収拾不能を改めて思い知らされたのだった。                          
 八月四日、ブイン山の右手の入江でムグアイの遺骨を洗骨して焼骨し内地より持参の骨箱に納め、白布で包んで奉持したのだった。このとき私は、海岸の白い可憐な草花を見つけて、これが死んだ戦友達の化身のように思われるとともに、これが三〇年間毎日北の日本の方角を望郷の思いで見つめていたように感じられて、ぜひこれを日本に持ち帰り我が家で咲かせたいと思い、結実した種を採って、懐に収めたのだった。それが、その後二〇年を経た今も我が家で白い花を咲き継いでいる日々草なのだ。 

      四十年(よそとせ)は 望郷の日々か ソロモンの
        戦友 (とも)偲ばるる 日日草 の花

                           
 その後、我々は、タバコ及びタロキナの各教会での平和の鐘贈呈式や慰霊巡拝等を終え、キエタ、ヌマヌマ方面を回って、ブカ地点ではソハナのホテルでブカ水道を見ながら一泊した。我が隊の犬塚技生は、バラレの戦場から陸軍に応召して、乗船が敵との交戦でこの地ブカ島に上陸し、苦戦の末、この地区で戦死したのだった。この地で終戦を迎えたという団員の小野塚氏に同技生のことを聞いてみたが、何も確認できなかったのは残念なことだった。私は、此処の路上に露草のような縞のある小草を見つけ、この地の記念にと、鉄兜や飯盒、高射砲の薬莢等の遺品と共に荷箱に詰めて持ち帰ったのだった。これが、今でも我が家に見事に生きており、私はこれを「ソロモン露草」と命名したのだった。
 次いで、我々はラバウルに飛んだ。あの当時の活火山・花吹山は、今はもう休火山で、赤裸の禿げ山だった山肌には青々と草木が茂っており、続く母山、姉山とも仲良く並んで、あの松島を浮かべたラバウル湾を見下ろしていた。湾内にはあの当時の軍艦の残骸もなく、すっかり平和な楽園に変貌していて、あの悲惨な戦争は夢だったのかと思われるほどであった。我が隊の資材倉庫の跡には、瀟洒な外人の住宅が建ち並んでおり、子供達が私を見て、不思議そうに見ているので、 「ノウユウ、ジャパニーズネイビー?」 と聞くと、 「ノー、サーベ。」 と現地語で「知らない」と答えたのだった。            
 その後、近くにあったラバウル上陸直後の本隊幕営地跡に立ったとき、私の設計で建てた此処は、既に元の椰子林に戻っていたが、椰子の太い幹には二メートル位の高さの所に鋭い弾痕が残っていた。この椰子の木は、下に身を伏せた我が隊員の代わりに敵弾を受けて、その隊員を助けてくれたのかと思うと、私は思わず姿勢を正し、頭を下げて、礼をしたのだった。懐かしいこの場所には暫く立ち尽くしていたい思いだったが、私達にはその時間もなく、私は、心を残してこの地を去ったのだった。

     大椰子の幹に残れる弾痕は 倒れし兵を 庇ひたるらむ
         思わずに 立ち居 正して 頭こうべ垂れいし
        
 ポートモレスビーでは、遺骨収集団のパプアニューギニア友好協会と東部ニューギニア戦友会一八名の合同で、豪州側要人六〇名を招待してのレセプションが催され、まことに盛大だった。私は、戦後のこのような活動により、かつての激戦地も次第に平和な観光地へと変貌して行くことを感じ、時の大きな流れを痛感したのだった。
 私は、この慰霊巡拝で、悲惨な戦死を遂げた戦友達へのいささかの慰霊ができ、長年の宿願を果たして、これまで背にあった荷を降ろしたように思われると同時に、今後ともこの活動に努めたいとの思いを固めたのだった。私の副団長としての会計任務は、団員一人に約五千円の残金を残して決算し、中島経理理事にこの旨報告して、了承され、無事任務を解かれたのだった。                      

四二 別府にて我隊警戒隊戦友会出席               
 翌昭和四八年には、我が隊警戒隊の戦友会が、別府温泉で催され、私は、高田分隊士の連絡を得て出席した。そして、ソロモン慰霊巡拝の八ミリ映画を上映しての帰還報告をし、旧兵隊達の感謝を受けたのだった。 
 特に、沖縄の新垣兵曹は、私からの情報により彼の大恩人である中村軍医の現住所が判明したことを大変に感謝し、中尉を含む三人での温泉観光を実現してくれ、大いにご馳走になったのだった。新垣兵曹は、戦後台湾方面との取引で大成功したと言って、財布から百万近い札束を覗かせていたが、それもひとえに軍医に一命を助けられたお蔭だと言うのだった。彼は厚生省を通じての数年間に亘る調査によっても軍医の所在は不明のままだったのが、私の一報で判明したとして喜んでくれたのである。 私と高田分隊士は、その後文通が続き、時々ソロモン会の話などもしたが、二年ほど前に病気で他界した。私ら施設隊とは仲違いの兵隊達だったが、技手の中で私一人軍籍に入りピエズ島でも同分隊士とは同室だったので、私とは心の通い合う友人となったのだった。善良な人間で、元兵隊達にとっては大事なリーダーだったので、残念に思われてならなかった。

四三 ベララベラ島の残留日本兵捜索               
 全国ソロモン会は、その後ベララベラ島の残留兵士救出へと活動目的を移していった。それは、昭和四五年ころガダルカナル島在住日本人によってもたらされた情報に始まり、数度の調査隊の捜索等で、その情報の信頼性が高まったとされて、浜崎事務局長の熱意が議会を動かし、参議院では厚生省に対する圧力が強大となった。そして、ついに政府派遣にかかる捜索が決定されたのだった。               
 この政府による派遣の前の捜索隊を派遣する際には、全国ソロモン会理事会が街頭募金を決議すると、私も金属製の募金箱を一〇個作って、私達理事が先頭に立つということで、私も数寄屋橋や新宿駅頭等に立ち、募金のために声を張り上げたのだった。              
 新宿駅頭で、私が募金を呼びかけているとき、中学生くらいの男の子が千円札を出してくれたのには驚いた。私達の熱意がこの少年の心を動かしたのだろう。私は、彼から千円札を受け取って、        
「君は偉い。大人が見て見ぬ振りをする募金に率先して応じてくれ、本当に感心した。しかし、君の千円は、君にとっつては大人の一〇万にも相当するだろう。君からそんなに頂くことはできない。大人の私が恥ずかしい。私はもっと気合いを入れて励むから、君は五〇〇円でよい。」
と言って、五百円札を彼に渡して頭を下げたのだった。       
 このような我々の努力にも拘わらず、遠く離れたソロモンでの捜索は思うように進展しない侭に、政府による捜索隊派遣要望の猛運動へと移行していった結果、ついにこれが実現するところとなって、理事各位は念願叶った喜びに万歳を叫んだのだった。              
 そうするうち、私は、浜崎戦友会団長から特に頼みたいことがあるといって呼び出された。それは、                  
「この度の派遣団からの残留兵士に対する最高の贈り物は、天皇陛下の恩賜の煙草だと思う。君は辰巳将軍宅に出入りしているそうだが、辰巳将軍の息子が侍従官になっていられるらしいから、君からなんとか将軍に頼んでみてくれ。」                      
と言うことだった。                       
 私は、数年前から成城の辰巳さんの家に出入りして建築関係の施工をするようになっていた。将軍一家、ことに辰巳夫人に信用されて家屋の増築、改造等大小細部に至るまで、すべて私に任される形になっていたのだ。将軍は昔の階級等を度外視して私に対しても誠実一途であったから、私も心から将軍に敬服していた。大戦に際しては、英国の駐在武官として、駐英大使当時の吉田茂と共に開戦阻止のため苦労され、帰国した後は、吉田政権下で首相の懐刀、陰の実力者と言われた人だったのだ。将軍の奥様は、天皇の第一皇女照の宮茂子内親王のお乳の方だった人で、今でも皇室とは近い関係らしいと噂されていた。                        
 私は、早速将軍宅に出向いてこの件をお願いしたところ、全国ソロモン会の活動は以前から将軍に報告してあったので、事情を理解して下さり、数日後私を呼んで、一枚の名刺を差し出され、         
「これを持って皇居坂下門から宮内庁に入って、この人に面会するように。君と浜崎君の二人で行き給え。」               
と言われたのだった。                      
 私は浜崎団長は、私の車で坂下門に赴き、受付の警官にこの侍従の名刺を差し出したところ、宮内庁の応接間へと案内された。二階の二〇畳くらいもある大広間のような部屋で待たされたが、テーブル、椅子には真っ白いカバーが施され、全体が整然として威厳に満ちており、初めて通された私は身の引き締まる思いであった。暫くして、侍従職が二人で現れ、我々を座席に着かせると、静かに緩やかに発言された。    
「この度のあなた方のご希望は辰巳さんから承って分かりました。ただ、天皇陛下の恩賜の煙草を不特定の人に賜った前例はございません。何処の誰と相分からなければ賜ることはできないことになっております。まことに残念ですが、このような次第ですので、ご了承下さい。もし、これ以外のことで宮内庁としてできることがございましたら、何なりと申し出て下さい。できる限りお力になりたいと思います。」      
との言葉であった。かくして、我が方の希望した恩師の煙草は遠い彼方へと消え去って、私と浜崎さんは丁寧に挨拶し皇居を去るほかなかったのである。                           
 この結果を将軍宅を訪ねて言上すると、将軍は、         
「あの奴らは何かというと、すぐ前例の話をして少しも進歩がない。仕方のない奴らだ。よし、それでは、わしに少し考えがある。何とかしたいので、暫く待て。」                      
と後日を約して私を帰し、数日後、呼ばれて伺うと、        
「小池君。これを持って行きなさい。」              
と煙草らしい紙包みを差し出され、言葉を継いで、         
「これは、東宮御所よりの拝領ものだ。皇太子殿下の御下賜品だよ。私が特にお願いしたもので、数は少ないが四〇本はある。だが、特に内密の拝領なので、絶対に他言のないように、浜崎さんにも頼んで、残留兵士以外には使わないようにして下さい。」             
 私が初めて見る東宮御下賜の煙草は、包み紙に菊の枝が金で描かれてあり、恩賜の煙草のような菊の紋章ではなく、菊の枝と花の御紋であった。だが、やはり立派な金色の箱に入った煙草で、もし残留兵士が出てきたならば、これを頂いて感泣するのが目に見えるようだった。私は浜崎さんに、将軍の言葉どおりを伝え、くれぐれも間違いのないよう頼んで、これを渡したのだった。                  
 この度の厚生省派遣団の団長本島課長との会議の席での協議を経て、捜索団は出発した。政府派遣となれば、報道班も数組同行して、数日後からはテレビで毎日捜索団の行動が報道され始めた。ところが、報道が始まって二日ばかり後のNHK放送で、海軍側から提供したメガホンでの声高な呼びかけの声を聞いて、私は大ショックを受けた。      
「皆さん。早く出て来て下さい。この度は畏れ多くも天皇陛下から皆さんに恩賜の煙草が下されたのです。早く出て来てこれを頂いて下さい。」
と言うではないか。「あれほど言ったのに、これは何たることか。下手をすると、私は腹を切らねばならない。              
と思ったが、幸い、このことは、辰巳将軍には気付かれなかったようで、一安心したものの、私はなお薄氷を踏む思いで、その後の報道にも神経をとがらせねばならなかった。                  
 この捜索団も、しかし、結局失敗に終わった訳であるが、捜索団の帰還後、浜崎団長の話で、舞台裏の事情を聞き、成り行きが分かって我々戦友会一同は落胆させられたのだった。浜崎団長の話によると、厚生省側団長は、はじめから、残留兵の不存在を証明するべく出発したようだというのである。彼はまず日本兵を発見したと証言した現地の少女を取り崩す策を練ったのだという。そして、この家族に大量の土産品を用意して、会見の前日にそれを与え、家族の歓心を買った上で、会見に臨んだのだ。その上で、会見では彼女をしてこの団長の意に沿うように、返事を誘導していった。                  
「貴方が見た人は肌が黒ずんでいて、はっきり日本人かどうか分からなかったんでしょう。」                      
それには少女は、                        
「そうです。」                         
と答えざるを得ない。                      
さらに、                            
「この辺の人達と日本人では肌の色だって同じようで、すぐにそれが日本人とは見分けが付かないですね。」               
と続いて、発見者の証言内容は益々否定的となってゆき、次なる発見者も同様にこの巧妙な作戦によって切り崩されたというのである。   
 その後、このベララベラ島の残留兵捜索は、政府を相手とせず、戦友会が独自に継続するとの方針で、昭和六〇年ころまで積極的に進められた訳だが、次には、この前後の私の会社と家族のことについて述べたいと思う。

                            
四四 旧友小坂氏との交友                    
 昭和四〇年ころに玉電の車中で南京時代の旧友小坂源吾氏に偶然に会って、彼が私と同じ弦巻町に居住することを知り、奇遇を喜んだのだった。彼は、上海時代の上司三岡書記と共に運建(運輸省建設部)から建設省に入り、現在関東地方建設局に勤務中とのことだった。車中のことで、後日を約して別れたが、私は余暇を見て彼の家を訪問した。彼は、弦巻二丁目の都営住宅群の中に、大学在学中の息子と奥さんとの三人暮らしだった。彼は、南京時代と変わらず気弱い話しぶりで、昔の飯野さんのことなどで話は尽きなかった。彼の家は、木造平屋の小住宅だった。彼の奥さんは、都立病院の看護婦で、随分永続勤務した古顔とのことだった。だが、奥さんには喘息の持病があって、それが、住まいを都心から世田谷に転居後は好転したと言って喜んでいた。  
 その後、三年ほど経ったある日に、彼から至急相談したい事があるので、来てくれと連絡があり、私は早速その夜彼を訪ねた。彼の話によると、                              
 大学を卒業して、地下鉄に就職している彼の息子が、先日、休日に住宅建設の売り地公告に引かれて都外の現地に行ったところ、契約しなければ帰りのバスに乗せないと言われ、五〇〇円を払って契約する羽目となった。言われるまま五〇〇円を払うと、不動産屋は帰りの電車賃を二〇〇円くれたそうで、息子は良心的な業者だなと言っていたが、どっこい、数日後には、不動産屋から「解約するなら全額の三分の一を即金で支払え」と強硬な通知が来たという。小坂君も考え抜いて、先ずは現地を見ようと思い、町外れの田圃の中の売り地を見に行った。だが、その区画は、一見角地の良地に見えたが、敷地の上を高圧線が通っていて、その直下は建築不許可となり、敷地の半分は無駄になる所で、誰も手を付けない売却不能の問題地だったのだ。彼は、早速役所に帰ってその道の専門の役人達に聞いたら、親の代理人としてした息子の契約は有効だから、小坂君に対する不動産屋の要求は合法的である、彼の方の負けだと断言されたと言うのだ。そこで、私に最後の助力を願いたい、と言うのだった。                           
 私は、これを聞いて、たちまち持ち前の正義感が沸き立ち、「何たる悪党ども、これを許してなるものか」と憤怒したのだった。不動産屋は、明日の夕方来訪するとのこと、私は早速その撃退法を練ったのだった。                              
 翌日、夕食後、私は家内を連れて小坂氏宅に向かった。そして、家内に、もし、暴力沙汰にでもなったらすぐに警察を呼ぶよう手配を頼んで、室内に入り、件の不動産屋と対決したのだった。不動産屋は二人の屈強な若者だったが、黒の背広をきちっと着込み、短髪の痩せ身で、まるでテレビ映画に登場する暴力団の殺し屋といったスタイルだった。対する私も、尋常な面構えではない。顔面には生々しい向こう傷が大きく印され、一歩も引かぬ強気の眼差しは、短刀拳銃にもびくともしない迫力だったと自負している。                   
 私は彼らを見据えて、                     
「君達との契約書がここにある。だが、この件について父親は息子に一切委任していない。息子が無断で父親の名前を書いて三文判を押したに過ぎないものだ。 私も一級建築士だから、法律については一通り承知している。だから、自信を持って断言できる。この契約は無効だ。君達は会社に帰って社長に私の名刺を見せて報告し、この契約書に、無効解約の旨を記入して返送するようにしてくれ給え。」          
 私の言に、二人は一言の反論もなく、私の気力に負けたのか、頭を垂れて引き下がったのだった。小坂氏も、隣室で手に汗握って聞き耳を立てていたらしいが、彼らの退散にほっと安堵の胸を撫で下ろしたのだった。家内もあわや乱闘かとハラハラしたらしいが、私の無事な姿を祝ってくれたのだった。                       
 私は、幾度となくこのような場面に遭遇し、いつのまにか、困難なときほど必死の気力と知恵によって、相手を圧倒するほかに道はないことを会得したのだった。                      
 この一件で、小坂氏は私のことを全面的に信頼してくれるようになった。彼の家は都からの居住者払下げが決まり、彼は家持ちとなって、売地を探す必要がなくなり、息子に嫁も決まったので、この家を壊して新築することになった。                      
 私の設計で、犬竹大工が腕を振るった。家が完成し、嫁御にも孫が生まれて、この家庭も安定したのだった。彼は子種がなかったようで、息子は養子だった。彼は真面目で、勤勉であり、立正佼成会の熱心な信者でもあって、その経堂の世田谷支部の青年部役付となり、退官後は、その道一筋に精進していた。                    
 昭和六〇年ころのある夜、小坂君の奥さんが、喘息の発作により救急車で世田谷中央病院に運ばれ、その夜のうちに他界してしまった。彼と偶然に会って間もなく、昔の横須賀の施設部仲間の親睦会があり、三岡書記とも再会できて大喜びしたが、その三岡さんも間もなく横須賀で交通事故にあって死亡されたと聞いて、良い人は早く死ぬものかと残念に思ったのだった。                        

四五 会社、自宅の変遷と旧友との交友              
 その頃、昭和三五年末の会社のどん底から茨城方面への発展、土木工事への転進等を経て、会社は不思議に上向きとなって行くのだった。どん底時代、年末に家内と一年の決算を略算する際にはなかなか減らない借金に、無理矢理気力を奮って来年こそはと二人で励まし合ったものだった。たまたま、藤田小十女さんのところで、我が社のことを聞いたら、「睦工業、これは良い名前だ、この会社は絶対に潰れません。」と言われて、「本当かな」と思っていたが、しかし、その後、事実、会社はその線に沿って立ち直って行くのを感じて、流石は今はやりの占い師だと感心したのだった。                      
 経堂の店舗は、昭和三六年には改修して大和生命世田谷支社として契約することができ、それから、一二年間の長期貸与の後、この支社が駅近くのビルの二階に移転して解約となった。数年間空き店となり、全国ソロモン会の作業所として遺骨収集団、ベラ島捜索隊等の荷造りと資材倉庫に使うことができた。そして、医院にと希望したが、医院の新規開業は暴力沙汰ともなりかねないなどという風聞もあって諦め、二店舗に分割することを計画したのだった。波多野経師屋の釣り仲間の安藤不動産屋が、私宅の道を挟んで斜め向かいに事務所兼住宅を新築した関係で、一三会の仲間となり昵懇の間柄となったことから、その仲介により鰻屋と中華料理店の二店舗への貸し店とすることができて、その後既に一五年を経ている。                         
 私の自宅は、昭和三六年の春、事務所と二階を美容院に貸したのだが、その経営者は、茨城県出身の「林かよ」だった。彼女の、三人の子供を抱えて働く様子は健気で、私もつい甘くなりがちだった。彼女はパーマの技術は良かったようだが、金銭感覚がからしき駄目で、店の美容師からの借金、近所の借金等を踏み倒し、家賃は不払いが通例となって行くのだった。夜は、料金を取って男客の話相手となるステッキガール等までするらしく、韓国人の情夫を追い回して、九州まで頻繁に電話するものだから、電話代が月四万円にも昇ったのを、これまた不払いという具合であるから、私にはとても対応不能の女ということになった。家内と相談して、彼女に立ち退いて貰うことにし、彼女の義兄と相談した際に聞いた話では、彼女は、青山の良家に嫁入りしたものの、亭主に死に別れ、その相続分と、合わせて、婚家の土地が道路改修のため買収となった事による補償金の分配を受けて、それをこの店の開店資金としたのだが、彼女自身には店舗経営の経験が全くなかったというのだから、もともとこの美容院経営はあまり見込みのない話だったのだ。                   
 電話を担保に借金していたので、私が交渉して返済を済ませて、店舗の造作を私が買い取ったことにして、ようやく彼女達を立ち退かせることができたのだった。                      
 その後十数年経って彼女が桜新町でバーを開業して大繁盛との話が噂に上がったが、これも数年の内に廃業となったようで、私には彼女は浪費癖の駄目女としか言いようがないのだ。             
 美容院を解約して、事務所を原形に戻し、階段を外して、台所を改修すると、事務所の奥の我が家は、再び私達一家だけの住宅となった。 
 肉屋は、この頃、前の富田さんの角地を実相院から借り受けて、店舗兼住宅を新築して移ったので、私は、一五〇万円を支払ってその権利・造作を買い取り、その後を一年契約の店舗として、一旦ブティックに、その後現在のおでん屋「びわこ」に貸して、現在へと至っているのである。

四六 吾が娘の事情                       
 昭和四五年三月に娘眞理子が結婚し、一年ほどはアパート暮らしの後、妊娠したというので、我が家の二階の四畳半と三畳に住まわせたのだった。だが、間もなく娘は関東中央病院で死産する悲劇に見舞われた。このときは、高羽先生は私の設計請負で茅ヶ崎に住宅を新築して社宅から転居され、その後病院を退かれていたので、娘の病状について私は造幣局病院長の堀口先生のご指示で対策を練っていた。そして、羊水過多の症状となったのに、暮れの二八日で医師の休暇に当たったため、代理に診てくれた若い医師が頼りなく感じられ、彼の意見であった早産処置の方針を、堀口先生の指示で、延期させたのだった。        
 正月早々、私宅に病院から電話が入り、出産が済んだ、すぐに父親を連れて病院に来いとの話だった。私は、色々出産関係の本を読んで私なりに勉強していたから、羊水過多症には産児の奇形を伴うことが多いことを知っていたので、そのことを家内には話してあった。私が電話の看護婦に「赤ん坊は生きているんですか」と聞いても、彼女は返答をせず、「とにかく、すぐに来て下さい。」と言うだけだった。       
 私は、もし懸念したことが現実となった場合、気が弱く心臓疾患の持病のある眞理子の夫康彦さんには見せられないだろうと家内と話しながら、一緒に病院に急いだ。産室で看護婦の差し出した赤児を見て驚いた。それは既に死亡していたが、無惨な奇形の児であった。未だ顔が出来上がっていない状態で、鼻がなく、落ち込んだその箇所に穴があるだけだった。耳朶がなく手の外皮は堅い厚皮だった。生命がなかったのが、この子には幸せだったのだ。医師の遺体解剖の申出を承諾して、後日の遺骨の通知を待つことにした。                   
 娘の骨盤が狭く、出産には六人の医師が総掛かりで腹を押して出したという。娘は苦痛と産児の死亡に落胆して、見るも無惨な姿であり、私は涙をこらえることができなかった。関東中央病院では、娘の骨盤が狭小で、胎児の頭が通らず、通常分娩は不可能ゆえ、帝王切開しか道がないことに、予め診察できず、方針を誤ったというまことに初歩的な過誤があったようだ。                        
 娘は二年ばかり家にいて、次なる妊娠を望み良医を探すなどして苦心したが、そのうちにあきらめの境地に入り、康彦さんが養子などに気が回ったのを知るや、マンションの購入を決意して、上馬の世田谷通りに見つけたマンションに急ぎ転居した。               
 しかし、この世は不思議なもので、熱望するときは与えられず、諦めたときに恵まれるものなのか、転居後に妊娠を知り一一月には見事男児の誕生を見たのだった。それが俊秀である。俊秀は開腹出産であった。娘の第一子出産の失敗に懲りて産科医の評判を探った結果、世田谷では名医の評価の高い経堂の早川病院に任せて、俊秀誕生を見ることができたのだった。
 俊秀は、その後すくすく育って、やがて、そのうえに長女美希の出生をも見たのだった。                
 だが、これは無事という訳にはいかなかった。前記の経過で、美希の時はすっかり早川病院の医師を信頼し、任せっきりの状態であった。そして、このときも途中羊水過多の兆候があったものの、脱水等で対処しているから安心とのことだった。娘も先生とはすっかり馴染んで、「先生、おなかがちっとも大きくならないけど、未熟児じゃないの」などと言い、それでも、先生は、                    
「大丈夫、二五〇〇は間違いない。任しとけ。」          
と気にかける風もなかった。四月二七日開腹予定と聞いて、私が、  
「それはまずい。四月二七日の「シニナ」では縁起が悪い。一日早めて貰って、四月二六日にして貰ったらいい。」             
と言ったことから、この日が出産日となった訳だが、これがこの子の生死を分ける二四時間ということになろうとは、私もそのときは予想もしなかった。                           
 当日、私が家内と早川病院の分娩待合室で出産を待っていたところ、元気な産声を聞くことのないままに、出産が終わった旨を伝えられて、看護婦が示してくれた赤児は、掌の中に入りそうな小さな、しかし、それでも顔立ちの可愛い未熟児だった。               
 医師が直ちに広尾の日赤病院に連絡を取ってくれて、この子が日赤の未熟児室に収容されたのは、出産から僅か二時間くらいきり経っていなかった。その後数日間、赤児は同室の保育器ケースの中で治療を受け、私達見舞客は、廊下でケースの番号を聞いて仕切りのガラス越しに、遠くからでは判然としないケースの中の赤児を見ては、「ああ可愛い」とか「大分育ったようだ」とか言いつつ、抱き上げたい衝動をこらえたのだった。                            
 数日して病院から、重大な知らせがあった。それは、       
「毎日、新生児を測定して診ていますが、頭囲が増大し、脳室の肥大が認められるので、水頭症の兆候と思われます。このままでは、成長は望めないので、短命は免れないと思われます。早期の手術を要しますから、至急来院して、手術の手続きをして下さい。」           
と言うものだった。私と眞理子が日赤病院に出向いて話を聞くと、赤児は水頭症のうえ、未熟児治療の際の高濃度酸素に起因する未熟網膜症にもかかっていたため、その方の治療も必要で、先ずその目の方の手術を先にしなければならないと聞かされ、娘が書類に捺印して帰宅したのだった。                             
 翌日、また二人で日赤に行き、担当医に面接すると、これがまだ若い二人の医師で、一人は学校を出たばかりのようであり、他の一人も三〇歳くらいの頼りない感じだった。それで、私は思わず、       
「あなた方が手術されるのですか。私は、この病院の村田先生を存じ上げているんですが。」
と言ったのだった。村田先生というのは、栄楽の嫁さん・恵津子さんの父親(板橋の親父さん)の知り合いで、なんでもこの先生の学生時代に板橋の親父さんが命を助けたことがあったという縁からと聞くが、爾来、先生が医者になってこのかた板橋の一家のことは、この先生がすべて診てくれていたそうである。この私の一言で、その晩医師が協議したらしく、美希の手術はこの村田先生が執刀して下さることになったのだった。 
 眼科の手術が終わり、翌日水頭症の手術という日に、私はまた眞理子と二人して日赤に向かった。朝の九時頃、「今から手術にかかります」と告げられた後、娘と二人で廊下の椅子にかけ、祈る気持ちで手術の終わるのを待ったのだった。                    
 そして、正午も過ぎ、午後二時少し過ぎた頃、未熟児室の看護婦が、
「今、手術が終わりました。手術室の前でお待ち下さい。」     
と言う。私は、少し怪訝に思った。手術に行くときには、未熟児室から裏の廊下を通って手術室に入ったのに、帰りが手術室の前ではおかしいではないか、これは手術が失敗して赤児は死んでしまったのだな、そう思って、暗澹たる気持ちで部屋の前に立ったのだった。加えて、そのとき、手術室の入口で事務を執っていた中年の看護婦が、帳面を開いて一箇所に赤線を引くのが見えてしまった。私は「ああ、美希の名前を赤線で消したのだな」と思い、悄然とするのだった。          
 しばらく黙って立っていると、部屋の中の彼方から一台のベッドを押して、青い手術服の看護婦が二人出て来た。それを迎えるように未熟児室の看護婦が二人して別のキャスター付きベッドを押して私達の前で止まり、そこで赤児の受渡しをしようとしたのだが、この受渡しはできなかった。ベッドを覗いた四人が同時に叫んだのだ。         
「駄目、呼吸が止まっている! 早く先生を呼んで!」       
これで辺りは騒然となり、チームの先生の「酸素を急げ」との指示で数人が飛び交い、すぐに村田先生も呼び戻されて、蘇生の手当が施され、ようやく美希は生き還ったらしかった。              
 ベッドが未熟児室に入った後、村田先生が私達に手術の経過を話してくれた。先生は額の汗を拭きながら、               
「いやあ、大変でした。最初手術を始めるとすぐに心臓が止まりました。これは駄目だ、手術は中止とも思ったが、手術しなければ治る筈がない、続行するしかないと自分を励まして続行にかかろうとしたら、自然と再生したのですよ。何分小さな身体なので、執刀は困難でしたし、やっと終わってからが、あの始末です。だが、あの子の生命力には驚きました。二度もあの世に行って戻って来るんだもの。」           
と言われたのだった。                      
 その後、四か月の入院中、私と家内は毎日病医院に通って美希を看病したが、その間ニ度ほど、顔が紫色になり、看護婦の手で命を取り止めたことがあったりしながら、美希が私達の顔を見分けて笑ったときには、その目が見えたことに小躍りして喜んだのだった。         
 だが、水頭症の病状は遅々として好転せず、絶望したり、また気を取り直しては神に祈るという看病が続いたのだった。眞理子は康彦さんに心配させまいと、諦めさせるように、               
「美希は駄目、もうすぐ死ぬ。希望を持たないこと、諦めが肝心。」 
と軽々言って、笑った。                     
 この年、洋吉が網走裁判所の勤務となったので、最北端の地で苦労している嫁・寿恵さんを見舞うべく、予め申し込んでいた北海道周遊ツアーに、美希のことは眞理子に頼んで、家内と二人で出発したのだった。
 女満別空港から網走に入り、洋吉の車で網走湖周辺や原生花園等広大な北海道の景観を楽しみながらのドライブはまことに爽快なものだった。
 次いで、戦友境久見君を常呂町に訪ね、一別以来の彼の成功ぶりに唯々感激し、その大農場と車庫に並ぶ耕運機その他の車両、またその文化住宅にも感嘆しながら、父親と共にしてきた今日までの血の出るような開墾の苦労を語り、ソロモンでの苦闘に耐えて還ったことがその原動力となっていたと回想する彼の話を聞きつつ、美酒に酔って、彼の努力を讃え、戦時の少年当番工員だった頃の彼の小さな姿を想って、感無量の私だった。                           
 また、サロマ湖で美味この上ない貝柱を食したことも記憶に残っている。天売島から帰ったホテルで、東京に電話して、眞理子から、「美希は手術によって脳から腹膜に通したパイプが不調となったため、これを取り外し、再手術を待っているが、脳の蛋白の分泌が多くて手術が延期中」との報告を聞いたのだった。同室のツアーの老人がこの話に同情してくれ、共に心配してくれる人の情けに感涙する私達だった。    
 帰京後、数日を経て、無事美希の手術が完了し、病状も次第に好転して、ようやく退院の運びとなった。                
 美希の退院後数か月して、娘達はにわかに弦巻五丁目のマンション・弦巻ハイツ五一三号室を購入して、転居することになった。東西方向に数区画が並ぶそのマンションの、丁度幸運にも、五階西端の区画を購入でき、一区画分そっくり娘の区画のための広々としたベランダとなっていた。幼い子供のいる娘家族には遊び場付きの最高の区画と思われた。ここに転居するには上馬のマンションを売却せねばならなかったが、娘達の幸運とこのマンションの買手の不運は相反し、買手となった不動産屋は、この上馬のマンションが売れずに一年以上待ったうえ、何百万か損をしてようやく売却できたとの話だった。         
 娘達が移り住んで間もなくした三月末の、ある好天の暖かい日に、家内が美希を長時間歩かせたのが悪かったか、翌朝美希が立てなくなり、すわ一大事と慌てて日赤に駆け込んだ一幕があったが、村田先生はじめ諸先生の診察で全身検査の結果、異常なしとの診断が出て、結局単なる歩き疲れだろうということで決着し、一同胸を撫で下ろして退院したのだった。
 この美希が弦巻保育園に俊秀と二人で世話になり、私達夫婦は二人がかりで孫らの保育に熱中したから、その熱中ぶりが保育園中の名物になったようだった。俊秀が保育園の滑り台の上から転落したときには私の迎えの番だったので、責任感から卒倒するくらい吃驚したが、幸運にも無傷で、ほっとしたのだった。園の運動会では、美希が出場すると、子供達全員が、                          
「ミーミがんばれ。ミーミがんばれ。」              
と大声で声援してくれ、親達もこれに合わせて大合唱となり、これも園長はじめ保母達全員が私共に親切にして下さったお蔭と、感謝の念をさらに深くしたのだった。同保育園には俊秀と美希と合わせて、一〇年間私達夫婦は通い続けたことになる。                
 娘のマンションは子供達の健康を考えて、子供部屋を南の陽当たりの良い部屋に変えるべく、大改装をすることになった。犬竹さんと私の技術とで、近代製品の最高品を利用して、工事が進められ、同マンション中でも刮目の改修となったのだった。               
 ソロモンでの奇遇の延長で米沢の西條徳次君が我が家に来訪されたのはこの頃だったように思う。彼は、米沢の西部小での二年間の級友で、ソロモンでの再会は一五年ぶりだった。彼は、一三一設の警戒隊員で、舞鶴鎮守府所管の海軍下士官だった。ショートランド島に行っていた遠藤技手から、                          
「西條兵曹(さいじょうへいそう)という髭の下士官に大変世話になったが、彼は米沢出身だと聞いた。」                           
との話を聞いても、もしや同郷の知人ではないかとは思ったが、米沢では「にしじょう」と呼んでいたので、そのときは彼とは気付かずにいて、その後一三一設の高木技手に米沢の人は西條君である旨を聞き、ブインでこの人に会って、同級生西條君を直接この目で確認できたのだった。戦地ではこの一回だけで、その後再会できなかったのに、また、東京で会えるとはまことに深い縁と思われて、彼と私は、その日終日語り合い、飲み明かしたのだった。彼は酔うとだんだん声が高くなり、強気の話になって、私とそっくりだと、彼が帰った後、家内は私に言ったものだった。彼はそのときは、北海道の登別温泉のホテルで、客の土産品等の荷造り発送係を永年勤めているとの話で、奇しくも数年前の私達夫婦の北海道ツアーの際に泊まったのがそのホテルだったので、間が良ければ、彼に会えたものをと思い、ますます縁を感じたのだった。昨年、彼の奥さんからもたらされた彼の病死の知らせに、私は香料を送ってこの懐かしい級友の死を悼んだのだった。

    我と共に クラス最短身の君なりき
        甲種合格にて 鍛へたりしとふ

    貧しくて 納豆売りし日々をいひ
        君は幼き頃を語るも

    立派なる 髭の兵曹と言われしに
        捕虜となりし日 剃り落とししとふ

    かの島で 髭の兵曹に救われしと
        吾の部下より 伝え聞きしが

    語りつつ 言葉激しき君を見て
        我によく似ると 妻は驚く 
                     


四七 学友長谷部君の来訪                        
 昭和五〇年ころのある日、私は米沢での学友長谷部君の来訪を受けた。彼と私は米沢の西部小から米工の建築科と、ずっと同級で、親友だった。彼は、成績優秀な偉丈夫で、小学校でも米工でも、学校代表の野球選手だった。米工卒業にあたり私と彼の二人が上京して大林組の就職試験を受け、彼が合格、私は不合格となったことは以前書いたとおりである。彼は、従軍後復員し、再び大林組に復帰して、その後現在に至っている筈だったが、                      
「今は、大林を辞めている。東京で就職したいが、つてはないか。」 
と私に頼み込むではないか。私は、当時建築の仕事には余り関与していなかったし、世田谷の建築業界には大した業者も無しという状況で、私自身は彼の力とはなり得なかった。私の知人で力になれそうな人は、鹿島の重役在任中の海野辰雄君くらいのものだったので、海野君に相談しようと思い、長谷部君には後日を約して帰って貰った。       
 数日後に渋谷の喫茶店で海野君に会って相談した。彼は私に優しい言葉で言うのだった。                       
「小池さん。貴男は余りに人が好すぎる。貴男は人に頼まれると何でも引き受けて、しまいには自分で損を被ることになるのだ。この前の青松(青木松三郎のあだ名)のことだってそうだ。彼は大馬鹿で評判の男だ。長谷部も酒癖が悪くて会社の鼻つまみだったらしい。それで大林を失敗して首になったのだ。だから彼は東京では無理だ。彼は米沢に帰した方が良い。」                             
と私のこの前の青松のことも全部承知して発言する彼の慎重さに、流石大会社の重役と感服したのだった。私は、以前米沢の同級生青木松三郎君の来訪を受け、東京での就職の依頼を受けて困惑し、飯野さんに相談して、彼の勤務する佐藤組の副社長に親切にして貰い、同組に就職することができたのだった。私は、先年米沢工業に校長を訪ねて五〇万円を寄付したとき、級友加藤喜六君に会っていたので、彼と長谷部君のことを相談することにして、海野君と別れたのだった。             

 この長谷部君は身体は立派なものだったが、彼には人には話せない秘密の悩みがあって、子供時代から苦しんでいた。それは、彼の足の指が六本あるということだった。私は、小学校のときからそのことを知っていた。彼は、小学校での組は別だったが、級長だったし、米工でも私に次いでいつも高位の優等生だったが、彼の家は貧乏であったため私と同じ授業料免除だったことを私は知っていた。彼は家の貧乏のため手術の機会を失い、今もってその侭だったので、会社でも人との混浴は絶対に避け、内向性となって、酒に酔っては暴発することが次第に習性となって行くのが、彼の不運への道だったのだ。私の家で座っていても、悪い体臭を放つ彼に、私は今までの彼の苦労が思われて、可哀想で涙をこらえながら、暗然となるのだった。彼の話では、米沢の自分の家には帰りたくないという。それは、成人した息子が父親を嫌い、彼に反抗して暴行を加え、奥さんまでその息子に同調するからだと言う。私は、加藤喜六君にこのことを詳細に電話で相談し、彼を米沢の家に住まわずに済むよう、配慮方を呉々も頼んで加藤君宅に向かうよう決めて彼を帰米させたのだった。                          
 一か月ばかり経って、仙台からの差出しで長谷部君から手紙が届き、同地での就職と会社事務所に泊まっての学校建築の仕事の様子の報告があって、先ずはこの件の落着を見たのだった。級友のためにこのことを一心に世話してくれた加藤君は実に見上げた人物だった。      
 だが、二年ほど経ったある日、加藤君から長谷部君の急死の報があり好事魔多しの言葉の実例を見せられて、またしても人の不運に涙させられたのだった。                          
 このときの鹿島建設の重役海野辰雄君も、数年後に癌によって病死する結果となり、彼の豪宅で奥さんの悲しい顔を前に身を縮め、自分の健全を恥じ入るばかりの私だった。                 
 青松も、その後文通が続いて千葉で奥さんと楽隠居の様子だったが、一昨年、病死したとの報に接し、奥さんに電話でお悔やみを申し上げ、内心で「間もなく私もあちらに参って、寂しがらせませんから」と、思ったのだった。                      

四八 息子洋吉大学から裁判官に進む               
 息子の洋吉は、世田谷区立弦巻中学から都立大学附属高校を経て、大学受験の年になった。都立大附属では学業より部活のテニスに熱中し夢中になっていた。受験の最初の年は、早稲田と東大だけを受験し、当日に体調を崩して失敗して、四谷の駿台予備校に通う浪人となった。我が家の経済は、とても良好とは言えなかったので、次の年は絶対合格するとの決意をさせて、滑り止めに補足も付けて、中大、慶応、早稲田、東大と受験させ、どうにか、最後の東大受験の前の全部に合格していた。だが、今年こそと臨んだ東大の受験には、風邪で発熱のため不合格となり、そのときは早稲田以外は手続期限が徒過していて駄目だったから、早稲田に入学が決まったのだった。彼の今回の入試では英語の成績が良かったのが幸いしていたようだった。早稲田は他校に比して英語の評価が高かったこともあって好成績で入学できたのだった。これも建築費の代わりに英語を教えて下さった大島先生のお蔭、ひいては先生を我が家に結びつけてくれた郡山のまよ姉のお蔭ということに帰する。人の縁のありがたきかな。   
 私は、自分が貧乏のため上級の勉強ができなかったことが口惜しくて、息子には何としても大学を出させたいと決意していた。だから、妻には、
「たとえ借金してでも、洋吉には大学を卒業させる。借金で卒業しても卒業証書は黒い墨で書いてあるはずだ。」
と言って、息子の大学卒業を私の一つの目標にしていたのだった。彼は私の意を体して学業に励み、早稲田の初年度の成績を評価されて二年度は奨学金を得て、学資無料の特典を貰ったのだった。それは学年ただ一人とのことで、我が子の優秀さに夢心地の父親だった。三年目は二人が競争となり、当方の建設会社社長の美名のために相手の勝ちと判定され、失格した。私は、とにかく、彼の卒業までは会社を生き延ばそうと必死で奮励したのだった。
 この頃、息子の高校の学友北原君のところの住宅建築の話があり、杉並区の三菱重工の社宅に彼の家を訪問した。彼の父親は東大出の三菱重工の重役で、母親はお茶の水大学出とのことだったが、この母親が三年前から苦心して書いたという住宅の平面図は、素人離れした確かな設計だった。だが、専門家の眼から見ると、それでも家相学的にやや難があって、どちらかといえば、私達プロの嫌う間取りとなっていた。私は即座にこの平面図を訂正して、その場で方眼紙に母親の希望に沿うような間取図を書いて見せたところ、母親がそれを見て感心してくれたらしく、私に建築方を依頼されたのだった。
 設計図の作成、申請手続等万事順調に進んでいった。横浜の港北区の中山団地の頂上に近い六〇坪ほどの敷地は、角地になっていて、正面道路と裏面道路の地盤差が一メートル半あったから私は裏面道路からの車庫を設計し、それに盛土をして、築山庭園としたのだった。座敷から眺めると、この築山庭園の先に自然の森が茂ってひとつの借景になったから、北原さんは「これは見事だ」と眼を細めて喜んでくれたのだった。
 私も随分苦心をして毎日通って工事監督をした甲斐あって、この家が竣工し、一家が喜んでくれたことに満足したのだった。北原さん一家は熱心なクリスチャンだったが、父親はなかなかの人格者で、私はずっと親交をいただき、数年後には二階の増築等の施工もしたのだったが、二年前奥さんが他界され、私も大病後交際が遠くなっている。息子さんは慶応大学から三菱商事に入社され、中国貿易担当となって、大活躍されているようで、将来が頼もしい人物となっている。
 息子が大学三年の年は都内の大学で紛争の嵐が吹き荒れ、騒然としていた。年を越して、早稲田の大学騒動が収まり、いよいよ四年の就職のための準備に入る時期に息子は司法試験を受けたいと言いだした。彼の所属していた独研(ドイツ語研究会)が司法試験の受験クラブになっていたのだった。合格した先輩が後輩を指導して勉強させる早稲田独特のグループで、金もかからないし、親しい雰囲気が良いと息子はこれに熱中していった。
 四年での試験は瀬踏み覚悟だったので、不合格、二年目も残念の涙をのんで、第三回目の挑戦となった。それが昭和四四年であり、四月末の私の大失態も高松さんの救援で助かり、その後五月から息子の奮闘が始まったのだった。
 この年も、東大、中大が紛争中で、最初の試験場が国士舘大学に決まった。だが、まことに間が悪く、渋谷からの玉電は試験日の一週間前に渋谷発が廃止となったのだった。受験者は、会場までの乗り物を失って、戸惑い、小田急梅ヶ丘駅から徒歩で来た者が多かったらしい。吾が息子は、私が時間の余裕を見て車を運転し、学校の正門前に乗り付けたから、他の受験者に第一歩から差を付けていたのだ。
 この日は短答式だった。息子は独研での学習中も短答式が不得手で、論文試験では好成績がとれ、自信もあるというのだが、最初の短答式で毎回失敗していたのだった。私は前からその話を聞いていたので、前夜来そのことに頭を絞っていた。短答式は全部で六〇問あり、四〇問ができれば合格点とのことだった。私は一晩熟考を重ねて、明け方に閃いたことがあった。
 私は、若い頃、剣の修業でいつも上級者に負けては口惜し涙を繰り返していたが、この試験はやはり剣の試合そっくりだと思った。試験官は上級剣士、受験者は下級剣士なのだ。上級者は最初ポンポンと的確に打ち込んで下級者の機先を制して攻撃し、下級者はこれに度肝を抜かれて怖じ気づき、ついに敗退するのだ。私はこの上級者の最初の攻撃を逸らすことを考えれば良い。その手があることに気が付いた。最初の二〇問を捨て、二一問から入ることだった。その後全部終わってからはじめの二〇問をやればよい。それこそがこの試験を制する最善の方策と覚ったのだった。
 私は、息子に試験場入場の直前に、これを伝授したのだ。こうして試験が開始され、息子の帰宅後に試験の様子を聞いて、私の作戦が見事的中したことを知り、息子共々喜んだのだった。息子の言は、
「お父さんの言葉にしたがって二一問から始めたら、案外易しい問題が多くて、どんどん進んで終わりまで出来、第一問に入ったら難しくて回答不能、これを捨てて先にと進み何とか二〇問までの三分の一を解いて終わった。第一問と第二問は結局分からなかった。」という報告だった。
 論文式の試験場は成城学園だった。これも私達にはホームグランドで地の利において他を離して独走態勢、渋谷の旧オリンピック選手村での口頭試験も、平生どおりの発言が出来て、難しいことはなく、息子はめでたく合格して、来年から司法修習生の身分が決まったのだった。
 私は海軍ソロモン会の事務局長前田弁護士と昵懇の仲だったので、この話をしたところ、彼も非常に喜んでくれ、札幌が実務修習地だと話したら、早速札幌の弁護士会長に紹介状を書いてくれたのだった。洋吉がこの会長に札幌で大変世話になったとの話に、私は友の縁のありがたさを神に感謝したのだった。
 洋吉の札幌での実務修習は、正味一年四か月間だったが、当初の頃、家内は初めて息子との別離生活で、毎日遠隔の地の子供のことが心配でたまらなかったようで、時に涙を流して泣いていた。男の私は洋吉に何の心配もなかったし、彼が離れて毎日の気苦労もなく、むしろ身軽になった感じで、遠隔地のことよりも毎日の業務で奮闘し、常在戦場の緊迫した気分だったから、女は所詮戦場には向いていないと痛感したりするのだった。一度家内と二人して札幌に行ったこともあったが、一年四か月はすぐに過ぎ、東京の研修所での四か月の後期修習もその修了試験を以て終わった後、息子は裁判官となり、最初の任地名古屋に赴くことになった。
 我が子を判事補に就かせて、私も、少し出世できたような良い気分になっていた。授業料も納められない貧乏家から裁判官が生まれるなど思ってもみなかったことで、恵まれた幸運に家内と共に喜ぶのだった。
 息子の名古屋赴任の際は、トラックに息子の生活道具を積んで、二人で東名高速を南下したのだった。名古屋の裁判官の持ち家という棟割りの一軒が、洋吉の借家だった。だが、この家はまことに粗末な古家で、私の手で屋根の雨漏りや建具の建て合わせを調整・修理しなければならなかった。私が運んだ石油ストーブがどうしても点火せず、細かに見てみたところ、このストーブは地震の場合に火が消えるような仕掛けとなっていて、本体が傾くと火が消え、床が傾いていると点火しないことが分かり、ストーブの下にかい物をして、本体を水平にしたら点火したという有様だった。この家の手入れの結果どうにか息子の三年間の使用に耐えてくれたから、お蔭でその間安い家賃で済み、それで吾が方も助かったのだった。名古屋行の帰途、幡豆郡幡豆町の姉の家に挨拶し、一休みさせて貰ったことが、今は懐かしい思い出である。

四九 息子の引越に奮闘す
名古屋地裁での三年が過ぎ、洋吉は次には仙台に転勤することになった。そして、この年何度目かの見合いで、洋吉もついに嫁を迎えることになった。その仲人が、康彦さんの冷暖房工事のお得意様である狛江市の清水さんであった。この我が家にとっての良縁が、眞理子の夫康彦さんによってもたらされたことに、我が家系の幸運を感じ、神に感謝した私だった。
 洋吉の名古屋から仙台への引越しも、私は自らの任務と心得て、古いトラックを新車のトヨエースに買い換え、勇躍発進の意気込みだった。仙台では官舎に入るということで、息子に連絡を取らせたところ、官舎の空くのが遅くなるので、荷物の搬入はしばらくは不能であると知り、竹中工務店の千葉さんの親戚宅の一間を臨時に拝借して、しばらく荷物を置かせてもらうことに決まり、洋吉と二人で荷を積んで仙台に向かった。荷物をそのお宅の一室に収めて、官舎の下見へと向かった。

 これは広瀬川の御霊屋橋の袂の、竹藪の中にある平屋の陋屋で、見るも無惨な家であった。南面の建具は、開閉不能で、釘付けされており、建具は全部テープで目張りしてあって、外して見るとどの建具にも戸車がないという有様であった。これではとても新妻を迎える新居の状況ではない。
 
私は洋吉に、「このままでは嫁は一晩で逃げ出すだろう。俺が修理するから。」
と告げて、次なる正式着任時の来仙の機会に、到着早々この新たな仕事に取り組むことを覚悟したのだった。そして、皇居近くの法曹会館での結婚式も無事に済んで、私の新車に荷物を満載し、花嫁道具は別送と決めて、仙台に向かった。

 仙台の官舎の前列が書記官たち一般職員の官舎で、ここに家内の実家の安田家の従姉妹が高裁事務局次長夫人として住んでいることが分かり、偶然の出会いに吃驚して、互いに奇遇を喜ぶ場面もあった。荷物の搬入には、役所の職員、官舎の家族ら総出の手伝いがあって、道の入口から玄関まで段の多いところを、運び終わることができたのだった。

 私は、東京から資材を積んできていたので、早速、予定の補修工事を開始した。建具の修理から始めて、下框を付け替え、戸車を取り付けて戸・窓の開閉ができるようにし、便所・台所等の小窓に防虫網を張り、湯殿に簀の子も制作して、先ずは生活できるための最低限の機能を復活させた。ベランダのパーゴラが腐食して、危険なので筋交いを入れようと三寸釘を打とうとしたところ、大きな釘が私の指の力でズブズブと押し込めたのには吃驚して、洋吉に、これは危険だから、これだけは役所に言って処置するように告げたのだった。

 家屋の外も、広い庭が草ぼうぼうで荒れ野と化していたので、これを除草して整地したうえ、トラックで市内を走って調達したコンクリートブロックその他の資材を使って花壇を新設し、チューリップやパンジー等の草花も買って植え込んだ。

 こうして、ようやく人の住める家らしくなったのを見渡し、私は、これで嫁をとどめておけそうだと一安心したのだった。

 後日、洋吉から事の次第を聞いて、裁判所の非力を慨嘆し、裁判所職員の不遇は、改善が必要であることを痛感した私だった。それは、この官舎は、役所の帳簿には、既にあまりの古さのため抹消されていて、無籍だというのだ。そこに裁判官を住まわせるのに、修理のための予算は、原体が無籍のため、取りようがなく、そのため役所には手入れ不能の状態だったというのである。役所に、父親が自費補修した現場の視察を依頼した結果、その後、パーゴラは桧の四寸角で、この家には不釣合いといえるほど立派な物に作り替えられたのである。 
 こうして、私の約一週間に及ぶ官舎補修の工事も完了し、私は、今度は単身運転して帰京の途についたのだった。


五〇 石塚技手との関係を深める                 
 前回の石塚さんの負傷事件から彼との交際が始まり、それ以来林さんを含む三人が一二一設戦友会の強力なトリオとなっていったのだった。そして、昭和五十二年に石塚さんが水道局を定年前の肩たたきで退職となった。彼は、退職金による住宅建設を計画し、箱根の先の函南ドリームランドに土地を購入していた。彼は立川市のけやき台団地の都営住宅に居住して、何の不自由もなく暮らしていたから、奥さんは他に移ることを嫌って反対したのに、彼流の我が侭でこれを強行したらしい。           
 彼と共に現地に立ったとき、この土地は只の山で、建物を建てるには最悪の状況だった。谷に向かった急斜面のその土地は、全部が傾斜地であり、更に、別荘地としての環境地区制限で、十平米以上の地ならしが禁止されていたから、建物の基礎は全て傾斜面上に設置することになるのだった。彼は、この地が温泉付き別荘としての分譲であるとの広告に釣られて買ったらしいが、その温泉も、十キロ離れた畑毛温泉からパイプで引き込むというもので、その高額の引込費用の分担金を合わせての支払いで権利を買ったらしい。しかし、彼の、ここに住宅を建てて永住するいう意志は固く、建設の一切を私に頼むのだった。早速、設計図を作成して、彼と相談、決定し、申請等手続も進んで、工事着工となった。基礎からの、床下地盤構造が鉄鋼造となるため、私は、この工事を早坂大工の東京建築工業に下請発注したのだった。私の車を運転しての箱根越えの現場通いが始まった。水盛り遣り方だけでも一日で終わらない難工事だったが、早坂大工の大胆な工法による工事で建物は完成した。大自然の森林の中の建築は、別荘というより山小屋の感じだった。しかし、自然林に囲まれた窓から冨士の霊峰を見るときには、正に別天地に来たようで、石塚欣ちゃん、別称「殿欣ちゃん」は、最高の気分で、本心から殿様になった気分だったに違いない。ここで遠藤、林の両君を招いて新築祝いの酒宴を開いたときは復員後の苦労が一遍に吹き飛んだようで、まことに爽快だった。浴室は自然石を配した雅趣に富んだもので、早坂大工の傑作と言うべく、鏡面に欣ちゃんの名句が銀文字で刻まれ、窓の深緑の影との取合わせ等、正に詠嘆そそられる気分だった。  
 だが、石塚さんの大満悦に奥さんは同調できず、立川と函南とは余りに遠くなり、彼の家庭が少しおかしくなるのを私は心配していた。   
 私は、時に函南に行っては、床下の仮倉庫の工作をしたり川で沢蟹捕りをして遊んだりして、結構楽しい思いをしていた。ところが、この地下に大きな活断層が通っていることが新聞紙上で報じられ、地震の危険性が指摘されて、伊東方面の群発地震が始まったとき、石塚さんはこの別荘を諦めて売却を決心したらしい。彼の友人で役所を退いた人にこれを売り渡して、彼は立川に戻ったのだった。購入した地代と建築費の合計に少額の上乗せをした額で売れたことは、上出来だよと私は彼に言ったのだ。地震の災害が出始めたら、更に下落の心配があり、早期の決断は良策だと思われたのだった。立川の石塚宅を私は度々訪ね、戦友会の話などで彼とは益々深い交際となって、やがて林さんの長男に石塚さん夫婦が仲人で嫁さんが決まったりして、三人の親交は続くのだった。                   
 昭和五十七年には、奥さんと私達三人で中国旅行のツアーを決行したのだった。                           
 この度のこの私の自伝も、その発端は実は、石塚さんから始まったのだ。彼が小河内ダムに勤務していた昭和頃に、彼の戦記、「南の星雲」が出来上がり、数年後に第二号が出来て、彼の戦記は一応完成したのだった。一昨年、私が第二号を読みたいと思い探したが見当たらず、彼への連絡で林さんの手違いから私に不配だったことが判明したのだった。林さんが女の雑誌編集者への原稿譲渡問題から私への配本を忘れたらしい。私が彼から第二号の配送を受けて、読んでみると、戦記が終戦で終わっていたので、その続編のためにと、私の戦後の豪軍作業等を五十枚ほど書いて彼に送ったのだった。彼のそれに対する返事のおだてに乗って書き上げたのが私の「海軍第一二一設営隊戦記」だったが、洋吉から今年、戦記に継いで戦後史を書くよう励まされ、戦後史よりも出生からの全自分史をと決心したのが、この伝記を書くに至った経過である。石塚さんは文筆が達者で、その文章は文学的であり情緒溢れる名文だから、私はいつも感服していたので、彼に倣って少しでも彼の域に近付くべく滑らぬ筆を叱咤しているのである。


五一 波多野さんとの深い交友                  
 私と波多野経師屋との交際は、大変古い時代からのものだった。それは昭和二十五年頃からだと思う。最初は堀川木材での出会いだったようだ。                              
 私は堀川木材とは開店当時からの付合いで、三軒茶屋在住の左官屋のこね屋の男から、「俺、今度は材木屋の手伝いになったよ、小池さん、材木買ってよ」と声をかけられて行ったのが初めだった。そして、そこで大工か建築屋との話で、良い経師屋さんがいると聞いて、波多野さんを紹介され、仕事を頼むようになったのだ。             
 彼の家は、野沢の奥の小路を入ったところで、当時はまだ環七の大通りはなかったが、大通りからずっと入ったところにあって、彼の家には車は入れないのて、荷物を積むには一苦労だったから、私は、彼に言って良い場所を見つけて転居するよう勧めていた。彼は、両親と娘と奥さんの五人家族で、奥さんは病身のようだった。父親は中風病みで、外出することなく、酒好きで、いつも赤い顔をしていた。母親は、なかなかの外交好きで、婦人達の会合の世話役をしたりして、世話好きのお人好しだったので、私の家内もすっかり仲良しになり、新潟県の稲荷神社の講に私と一緒にお参りするほどになっていた。その内、彼の奥さんが病気で亡くなって、彼はしょげかえっていたが、一年後には新しい嫁さんを貰って、少し元気になった。この奥さんは、千葉の岩井の漁師の娘で、全く 丈夫で永持ちの標本のような女だった。下駄のような顔で丈高で、波多野さんよりも大きく見えるのだ。尤も波多野さんが小さ過ぎ、私よりも少し小さかったようで、中国戦線帰りの兵隊であったとは私も思い及ばなかった。昭和三十八年頃に彼の紹介で私の会社に運転手が一人入社した。これは波多野さんの義弟で、つまり今度の新しい奥さんの妹の亭主だったのである。青森の田舎者で、内向性ではっきりしない男だが、私は東北人は使い慣れていたので、毎日よく働いて、だんだん馴れてきたのだった。そして、間もなく波多野さんの住宅建設の話が出来てきた。                     
 それは、彼の懇意にしている釣堀の主人の話で、葛飾の住宅を移築するというものだった。早速、犬竹大工を連れて現場を見に行った。それは大邸宅で、立派な二階建てであり、屋根は入母屋の日本瓦葺き、廊下の庇は全部銅板葺きだった。軸組も堂々たるもので、波多野家本宅として恥じないだけの風格だった。犬竹さんを屋根裏に入れて部材の番付を調べさせたら、この建物は再三建て替えられたらしく、番付が二通りあったので、新しく付け直して移築に備えたのだった。銅板は家主が取り外して再使用することになった。この家は、町の資産家の持ち家だが、道路改正で撤去することになり、波多野さんが買い取ることになったのだ。       
 そして、この家の解体・移築は、技術を要する難工事となるだろうが、私と犬竹大工が組めば、容易いことであろうという自信が私にはあった。何にしても、ここが都心から離れた東の端で、西の世田谷から都心を抜けてさらに行く遠距離は、一日一往復以上不可能だから、輸送には苦心したのだった。喜多見の敷地の方は整地と基礎工事のため、この解体材は、全て私の資材置場に格納することとなった。実相院の先生の許可を得て、積み上げると大変な容積になり、私は腰を低くして先生に挨拶したのだった。土台を据えて、建て方に入って、胴差しの欅材を見て驚いた。それは百年以上の年代物で、大工の話で、昔の旧家は本宅の改築には代々旧宅の要材を一部使って先祖の遺材を残す風習があり、この胴差しがこの家の先祖から伝わった軸材だろうとの話に、この家の時代がかった由緒を思って緊張したのだった。                
 犬竹大工の手腕は大したもので、全部建て終わると木材の不足材はなく、屋根瓦十枚ほどの補足で家は完成した。この建物は昔風の堅固なもので、二階の畳下の板も厚さ八分の立派な松板だった。階下の化粧床は、新材の寄木のフローリングに替えて仕上げた。本宅の外の附属家も解体、輸送したので、大量の残材があり、敷地の余地に二階建ての延べ十三坪ほどの作業場と住宅を作ることもでき、波多野さんは大喜びだった。 
 波多野経師店の喜多見の本宅が完成して一段落した頃、私達一二一設の中島与作君がソロモン遺骨収集団でボ島(ブーゲンビル島)に出発した。それは昭和四十九年で、厚生省派遣の団員だったが、四十七年の私達の収集の際 我が隊跡での収集遺体がゼロだったことから、ソロモン会の要請で、我が隊跡の再度の調査が出来ることになったらしい。中島君は、現在大工職であるが、山形県出身で、横須賀施設部本部当時は木材係だったから、私は随分世話になったのである。戦時ボ島に第二便で来た石塚技手と共に部隊に加わった者で、資材主任だった相川技手の下で、資材倉庫主任の小隊長待遇だったが、誠実な人柄の男だった。戦後は、東京に近かったので、早くから戦友会に出席して私とは親交の間柄であった。
 総員は、政府代表の厚生省石田武雄団長以下十七名で、浜崎事務局長外六名の陸軍と、海軍は定家光夫(呉六特)以下四名で、伊東義親、清水茂夫等の私の知人も参加した。この収集団が全行程二十八日間をかけて収集した遺骨を奉持して帰還し、中島君から詳細な報告書の提出があって、これを小冊子に印刷し、会員、遺族に配布した。私が捜索した我が隊の跡は、やはり一体の遺体の発見もなく、中島君も涙を呑んで残念がるのだった。収集実数である三一〇数体はガ島撤退陸兵の七六兵站病院跡からの収集で、同跡はブル等の機械を導入すればまだまだ遺骨が見つかると浜崎さんは言っていた。中島君は真面目一徹の人間なので、このような行動は余り頑健でない彼にはきつかった筈で、彼はこのため後日発病したのだった。高羽軍医長と私が親交を重ねて、茅ヶ崎に高羽宅の住宅の建設の運びとなった折、設計図、申請が完了した時点で、この工事全てをこの中島君に依頼したのだった。彼は、息子二人と共に働く大工職であり、茅ヶ崎で建設業を営んでいた。私が要点は現場はで監督して、工事は完成したのだった。そして、この中島君の長男幸雄君と波多野さんの長女の結婚が私達夫婦の仲人でめでたく結ばれたのだった。波多野家では後妻との間に次女が生まれていたので、私は長女は結婚することがこの一家にとっては最良の策と思っていたのである。                            
 この新婚家庭はまことに仲の良い夫婦で、中島家の親達は仲が良すぎて困る事態となっていた。中島君の奥さんは後妻で、息子二人は先妻の子供だった。彼は戦時中ブイン本部で宿舎が老朽して倒壊した下敷きとなった際、肋骨を折る負傷をして、復員後米沢市の病院に入院中に今の奥さんと知り合ったらしい。先妻の病死の後、子供らは山形県の新庄で祖母に育てられ、中卒後に再婚した父の家に来て大工修業したらしいので、現在の後妻の母親との間で難しい仲となっていたのだ。二子の内、弟の方は母親に懐いていたが、兄は嫁が来たら母を嫌って嫁とべったりとなり、親とは仲違い状態となったのだった。私もそこまで立ち入っては心配も出来ず、若夫婦の仲の良いのは結構としていたのだが、若夫婦は苦心して別に家を建て、親と別々の生活となった。波多野さんは娘婿が気に入って、彼の家の小修理等は幸雄君が手まめにやるようになり、私の手が省けて助かるのだった。
 波多野さんは無類の釣好きで、千葉の奥さんの実家では奥さんの兄貴が岩井の浜の一本釣師だった。それで、私と犬竹大工、ペンキ屋の野田君らと一緒に行く一泊の海釣りは私のまたとない楽しみで、我が家の台所は、釣りの獲物で大盤振舞いとなるのだった。波多野さんは、釣仲間の世話焼きから会長になり、ついに川のへら鮒釣りに回って行って、私などの手の届かない上級者となってしまい、私の彼との魚釣りの交わりは切れたのだった。しかし、波多野さんとの釣交友から不動産業の安藤さんとの親交が出来て、榎本地主の工事関係を独占するようなことにもなった。安藤さんは実相院と榎本地主の不動産管理を専属で担って、私はお蔭でこの地区の建設会社としての対面を保てることとなったのである。                        
 波多野さんは、日曜日には午前三時ころには車で出て、福島県の奥の方までもへら鮒釣りに出掛けるが、獲物の土産は皆無だった。彼らのクラスになると、魚は釣るだけで、すぐ放してしまい、獲物は持ち帰らないことになっているらしい。彼の奥さんが、彼の身体に障らねば良いがと心配していたのであった。
 昭和三五年末の我が社の挫折時も、彼は私を随分助けてくれ、心の支えともなってくれたから、私とは兄弟のように助け合う仲となったのだった。彼の父親は、喜多見の本宅が出来、二階からの見晴らしに大喜びして、大名気分で暮らすうち、間もなく他界した。母親は、六十年頃、老齢のため亡くなり、私と犬竹さんが葬儀に出て、古い友達だった岡野敬三大工も埼玉県から参列してくれた。              
 そうして、昭和六十二年に、彼は肺癌で入院した。 彼は入院時 大変元気で、すぐ良くなるつもりから「レントゲンで肺が真っ白だそうだが、大丈夫だ。」と言っていた。
 彼は、酒は殆ど飲まなかったが、ヘビースモーカーで、指が真っ黄色だったことが思い出される。面会の度に彼の顔色が悪くなり、奥さんまで目立って細くなるのを見て、慰めの言葉もなく別れる他なす術のない私だった。かくして、彼は、この世を去って行った。
 翌年の九月には、犬竹大工が夜中の発作で急死して、私は深川以来の会社の棟梁を一瞬にして失ってしまい、私にとっては落胆の極みの出来事だった。
 波多野さんの死後、奥さんは経師屋を廃業し、別棟の作業場を貸し住宅に改修して、その家賃で生計を立てるようになり、一人娘はサラリーマンと結婚して、奥さんは孫にも恵まれたのだった。ところが、この婿さんは、立派な会社に勤めていたのに、若者の燃尽き症候群とやらなのか、生気を失って失職し、その後運転手となって経師の材料屋の手伝いをするに至っている。人の行く末は、神のみぞ知ると言うことなのだろうか、この家庭に再び光が差すことを祈らずにはいられない。


五二 私達夫婦の海外旅行

1 ハワイ旅行
 昭和四七年の私のソロモン行から、私達夫婦に海外への風穴が明き、心を世界に向けて幕が開いた感じとなった。かくして、私ら夫婦の海外鴛鴦
オシドリ旅行が始まることとなった。
 栄楽の義兄
(あに)が昭和四二年に脳血栓で倒れ、一時は再起不能かと諦めかけたが、不思議に好転して、義姉(あね)と二人であれば旅行も出来る状態となってくれたことが発端であった。
 義兄は、開店以来店が時流に乗り、中華麺業界発展の波にも乗って、世田谷麺業組合の役員となっていたが、持ち前の世話好きと戦後 旅行案内業を営んだ経験が生かされて、組合の旅行などでは大いに活躍していたから、その組合のハワイ旅行に私達夫婦も義兄夫婦のお守り役で同行することとなったのである。私は、先のソロモン旅行で飛行機の旅は経験済みだったが、酔うといけないからと酔い止め薬などの心配までしたのも杞憂で、無事にオワフ島に着陸できたのだった。
 私は一瞬、昭和一六年一二月八日未明に 米軍港に突入した我が海軍零戦の大軍に逃げ惑う米軍の姿が目に浮かんだ。しかし、ガイドの歌うような名調子の案内が耳に流れてくると、今は観光客なのだと気付かされ、正に今昔の感一入であった。そして、ふと浮かんだ戦時中の苦しみも、夢であったかのように 心の方向転換をして、観光気分にと浸ったのだった。
 離れ島のカウアイ島観光も楽しいものだった。飛行機がオンボロで、窓ガラスは縞模様であり、外界の景色は見えなかったが、蔦の洞窟での結婚式など楽しさ一杯だった。山登りの道の辺で、私がソロモンから持ち帰ったソロモン露草が可憐な紫の小花を付けているのを発見して、ここはやはりソロモンと同緯度なのかと思ったのだった。       
 渡し船の中での合唱の歌声に、やはり南の国の人達は歌が好きなんだと、ソロモンでの土人達の青竹を突きながらの合唱を思い出したのだった。夜のレセプションでも楽しい歌の合唱で、異国の歌声に東京の孫達を思い出していた。                       
 ワイキキの浜辺に遊ぶ人達は、裸の美体を露わに人の目にさらし、こちらが恥ずかしくなるほどだった。食堂では、野鳩が人の足下でもつれ合って食物を漁っており、人間を全然恐れていないのには驚いた。墓地を見学した際は、広大な芝の緑の中に一区画一〇平米くらいの墓が連なり、地面低く据えられた墓石に美しい花を飾って家族が団欒している様は、まことにのんびりした気分であり、狭苦しい日本の墓地より遙かに良い気分で、墓でさえ国によってこんなにも違うものかと、国民性の相違を歴然と理解させられたのだった。               
 この旅行では、家内からの招きで、長野の康彦さんの母親が同行した。この人は、なかなか度胸の据わった人で、余り驚かない。そして、自分の思ったことはどんどん実行する。だが、良家の子女育ち(お寺の娘)だったようで、人には気兼ねしない裏表のない人のようだった。    

2 ヨーロッパの旅
 無事ハワイ観光を終わり、義兄
(あに)は上機嫌ですぐに次の計画を進めるべく心掛けていた。
 欧州旅行がこの麺業組合で計画され、私達夫婦は前回のハワイ同様義兄夫婦と共に参加したのだった。総員二八名で期間は一五日間だったが、初めてのヨーロッパ旅行で、平和島での説明会の時から家内などは栄楽の義姉
(あね)達と浮き足立つ思いだったらしい。私もソロモン以来の八ミリ撮影機で記録を撮るべく張り切るのだった。アンカレジ着陸前にアラスカ上空から見た白皚々たるマッキンレー山脈は忘れ得ぬ思い出となった。初めて見る北極海の神秘さには人を拒む厳しさが感じられたが、そこに苦難を超えて踏み入る探検家達がいたことを思えば、今こうして上空を安全に飛行して見下ろしていられることが、文明の成果のいかに偉大かつ無限であるかの証であると感じ、怖ろしささえ感ずるのだった。だが、この飛行機も操縦者には絶えざる注意と必死の対応を要求するもののようだった。ハンブルク着陸の予定で上空を二回ほど旋回したが、濃霧のため着陸不能との判断でロンドン空港着に進路変更された。このアナウンスは機内放送で説明され、乗客は一時緊張したのだった。
 小雨降るロンドンに着陸して、私はついに北極海を通過し欧州大陸を越えて英国に着いたことを実感したのだった。この国では、煉瓦造りの三階建てくらいの住宅群が建ち並び、その屋根の上には煙突が多く、これが林立しているのには驚かされ、かつ、この国が石炭を焚いて暖をとる寒い国なのだということを直感したのだった。ホテルも古い建物だったが、設備は整っていて、この国の文化生活が永い時代を経て培われ鍛えられていることを感じ、又、そういう面では日本の先輩国なのだとつくづく思われるのだった。                         
 だが、翌日市内を廻って改めて感じたことは、それらの古い建物が全部石炭の煤煙で真っ黒になっていて、まるで「黒い都」と言っていい状況となっていることだった。この国の人達は毎日これを見ているので気が付かないらしいが、これもこの国の気候風土の特色なのだと思った。バッキンガム宮殿等すべてこの国の古い建造物が、都会の真ん中に昔ながらの様式の姿をそのまま残して堂々健在していることに感嘆し、日本の木造文化との相違を痛感するのだった。宮殿の衛兵交替を見物したが、日本の宮城ではその奥で行われることについてまでは一般国民は近寄り難いのに反し、この国では庶民の眼の前でそれが見られることの違いを感じたが、そういう面の国民意識の相違は、多分発生の原点が違うことからくるもので、軽々に同一視するべきことではないのだろうと思った。ロンドン橋からこの国の古い歴史の一端を覗いて感銘を深めたのだった。サザンブトンから乗船することになったが、先の大戦でここから連合軍がフランスへ向け必死の渡洋攻撃を決行して独軍の敗因を作ったことは記憶に新しいことだった。この港では、長時間待って日が暮れて乗船した。家内と二人の船室に入って、私は波の音を聞いて眠ったが、家内は船酔いが出て、苦しんだようだった。そうして、ようやくノルマンディーに上陸したのだ。   
 三〇年前のノルマンディー上陸は、独軍の砲火が待ち受けて決死の連合軍兵士だったが、私達は平穏無事の観光旅行だったので、フランスの港は快く迎えてくれたのだった。農村のポプラ並木の直線道路を経て、パリ市内に入り、そのまま市内観光が続けられた。二台の観光バスは悠々の小人数で、私は最後尾の窓から右左にカメラを回して自由に撮影することができた。                            
 そして先ず、ルーブル博物館に入り、ミロのヴィーナス、モナリザ等の有名な美術品に驚嘆し、コンコルド広場では革命の犠牲者を想い、さらにシャンゼリゼ、エッフェル塔、ノートルダム寺院等の有名観光地を見て廻った。古い墓地では有名人の墓をいくつか見た。モンマルトルの丘では画家達が道路で写生するのを見て、日本の画家達が昔この地で苦心したことを実感したのだった。オペラ座通りでは大阪屋という食堂で日本食を食べ、日本企業の進出に感心したりして、ホテルに帰った。
 翌日ヴェルサイユ宮殿を見物した。この国の建造物には立派な彫刻が施されており、その人間像がまことに写実的で肉体美に輝いており、ギリシャ、ローマ時代以来の伝統を持つこの地で美術が驚くほど発達したことを改めて感じ入らされた。また、それらの作品が昔のまま現存して公共の物として公衆の前にあるのを見て、日本のそれらの事情との違いを思うと芸術に対する理解が東洋人とは異質なのかとも思ったりしたのだった。
 一日の観光を終わり、帰途のバスで写真のフィルム不足を知り、バスを降りて街を見て、三越デパートの支店を発見、日本語で楽に買い物ができ、喜んで街に出て帰ろうと思ったときにまことに困った事態になった。何としても言葉が通じないのだ。私は英語ならソロモン旅行でも片言ながら何とか通用したが、ここパリでは英語は全然通じないのだ。
 私は途方にくれて通行人の中から日本人を探し始めた。そして、間もなく若い日本男性を見つけて話した。「この辺にタクシー乗り場はないでしょうか。」そして、タクシー乗り場でタクシーを止めホテルの名前を示してホテルに帰ったときには、家内と共に生き還った思いで喜び合ったのだった。その夜のムーランルージュでの観劇は、まるで小説の中にいる心境となり、夢見る心地で楽しい一夜だった。
 翌朝、私達一行は列車で旅行することになった。パリ駅では駅舎内に大きなツツジの鉢があって、その赤い花の大きさは今も私の眼底に浮かんでくるようだ。私達が乗ったのはヨーロッパ横断鉄道で、車両には日本では見られぬ個室が廊下沿いにあって、私達のほか公務員風の外人が二人いたが、応接間のような落ち着いた良い部屋だった。車窓から見る景色はまことに広大な農村風景で美しい丘に牛や羊が見え、この国の農業国としての雄大さが実感されるのだった。車中の食事は日本食で、さすが食堂の主人達の組合旅行だと感心し、また、これも役員の配慮によることと感銘したのだった。                            
 途中の駅の駅員達も、その風貌、振舞いたるや悠然としており、 日本人のようなせからしさはなく、その落ち着いた姿を見て、大国フランスの国力の表れを感じたのだった。
 駅前の車の交通も賑わしく活気ある工業都市フランクフルトに着いて、壮大なホリデイインフランクフルトに入った。食事では、ビールの格調ある風味がさすが本場ドイツならではと、歓声を上げ、乾杯を重ねるのだった。ホテルの大庭園では、映画会が開かれ大勢の人達で賑わっていたが、私はビール腹を抱えて早く寝たのだった。                         
 翌朝、バスでハイデルベルクに向かい、古風なハイデルベルク城のテラスからドナウ河を望見して、歌人斎藤茂吉もここでドナウの流れを見たのかと思うと、懐かしく感じたのだった。帰途の街でこの町のアパートの窓にはどの窓にも美しく赤いゼラニュームの鉢が飾ってあり、この国の人達のこの花への愛着はどんな由来によるものか、私は不思議に思うのだった。この町で立派な教会の建築を見て、建築家の必死の表現の熱情に、凄まじいまでの闘魂さえ感じられて感激したのは私の職業意識によるのかも知れないが、その建築家の心が幾百年を経ても燦然と輝いている尊さに感服した私だった。           
 夜に入って、スイスの街々を前進し夜遅くベルンのホテルに着いたのだが、麺業会長が小便の我慢ができず、ビニール袋にこれを下げてホテルに入って一同の笑い声が上がったのだった。           
 翌日は、いよいよ世界の高峰アルプス登山に向かった。老人の多い我々だったが、登山電車で楽々と登山ができたのだった。青い草原の麓の村を見ながら、アプト式の電車はどんどん登って、白皚々たるユングフラウヨッホまで登るのは、初めての経験で、実に爽快な気分だった。途中、頂上近くは酸素不足のため弱い者を残すことになり、家内を残し私は頂上に登って車外で展望したが、突然吹雪となって歩行困難で堪らず屋内に逃げ込んだ。建物の壁に落書きが多く日本語の落書きも多く見られて、私は恥ずかしい思いだった。寒さと酸欠で下のホテルに着いてようやく安心したのだった。アイガー北壁を右手に望見しながら山を下り、ジュネーブで記念に腕時計を求めた。街の商店には日本文字の看板が目立ち日本人が目当てにされていたのであった。
 公園に大きな花時計があり、旅人の心を温めてくれた。レマン湖は広大の感はなかったが、長時間バスの窓にいつも湖面が見えて、周辺の景観は見事であり、さすがスイスが世界に誇るものだけあって感銘した。雄大な国際会議場の建ち並ぶ街を通って、別荘の続く湖畔の周遊もするなど、スイス観光を満喫できて大満足だった。家内はこの国からイタリアに入るのに細かい貨幣を使い切るのだと言って、買物に忙しいようだった。私は湖に映える山や雲を眺めながら異国での心境を楽しんでいた。
 イタリアに入ってミラノでの観光では、私は余り西洋史に興味がなかったので、感激もなく、ただ立派な彫刻と有名な絵など、初めて見る、全世界に知られた芸術品の実物を見て、本当のそれらの価値を思い知らされる不思議さを感じていたのだった。              
 飛行機でのアルプス越えでは、白く尖ったマッターホルンを眼下にし、アルプスの実物の迫力に感激した。                
 ローマに入ってからは、私の八ミリカメラが多忙を極めた。バスの後部の窓から、時には左右の窓を飛び回って、名所の数々を何としても撮り尽くそうとの思いから焦るのだった。コロセウムの大観覧席の遺跡では、観衆の目の前でライオンと死闘する囚人の姿が目に浮かび、人間とは昔から残酷を好む動物だったのだと痛感し、それをいかに表面に出さぬように努めるのが文化というものなのか、などと自分自身で納得したりしたのだった。
 太古の王が出撃の兵の先頭に立つ馬上の勇姿を想いつつ、古い城門を通った。ナポリに向かうアッピア街道には傘松が並んで見え、それは私が子供のとき、米沢でのひわ捕りで「高ばい」をしかけた松と同じだと思って、日本の山を思いつつガイドの説明を聞いていた。ガイドは、先の大戦でハワイの日本人二世部隊がこの辺の攻略にも勇名を馳せたと説明していた。
 火山の爆発で一瞬にして地底に沈んだポンペイの遺跡では、火山国日本でもいつの日かこれと同じような災害があるのではと不安を募らせられた。だが、そのような災害の危険にも拘わらず、この地方の人々は極めて呑気な気風らしく、これを他から「ナポリターナ」と呼ばれて、何事にも心配しない気儘な生活をしているらしい。ここでは、午前に働いて、午後は三時まで休み、夕方ちょっと働いて、一日が終わるというのだから、余り働き者とは言えないのがこの地方の人の性格なのだろうか。街には、窓から竿一杯の洗濯物が干してあり、それが道の両側の建物全部についてそうなのだから、正に満艦飾の賑やかさだった。港の岸壁にちょうど英国の有名な「クイーンエリザベス」が入港していて、白色の巨体を見せていた。                  
 イタリアでは観光客目当ての犯罪が多く、まことに危険だと聞いていた。一寸停車中のバスも忽ち物売りがどんどん乗り込んできて、強制的な感じで売りつけてくる。女の人など、怖くなってつい買ってしまうのだった。殊に日本人に対しては彼らの攻勢が強まるようだった。先ず、財布は固く身につけて絶対に離さないことと心掛ける必要があった。

 そして、ついに私達のヨーロッパ旅行も、帰途に向かうこととなった。パリ・ドゴール空港で最後の検査を受けた際、私は検査官から私のカメラでシャッターの引き金を引かせられた。多分カメラ型の拳銃の疑いを持たれたのだろうが、私はこれに従いスイッチを引いてパスしたのだった。 グリーンランド上空を北極圏を通っての航路は、時間的にも防災上も、有利な航路であり、アンカレッジは既に往路で経験済みなので平気だった。無事東京に着いて日本の有難さ、気安さに安堵したのだった。    
 私達夫婦の海外旅行はこれまでやむを得ない事情で契約した生命保険が満期になったお金が旅費となった訳で、これまで生き延びたのを感謝して旅行をしようと思った次第だったが、当てにしていなかった金を、次々と使う機会に恵まれる形となって、満足しきりの二人だった。

3 東南アジアの旅
 そして、次の旅行は東南アジアということになった。それは、昭和五二年三月、日本はまだ肌寒い頃だったが、南へ向かう旅行は楽しいものだった。このツアーは世田谷信用金庫の主催だったので、中には顔見知りの人もいた。近所の建築金物店の娘も一人で参加していて、心楽しい旅行ができた。
 三十数年前の毎日の戦況ニュースに「シンガポール攻略近し。銀輪部隊の汗の進撃」等と報じられて、私達は、血を沸かしたものだった。戦後の苦難を乗り越え、今楽しく観光ツアーでこの地に来てみて、あの苦しみは何のため、誰のためだったのかと思うと私にも判然とは理解できず、ただ死んでいった戦友の血を忘れることは申し訳のないことだという気持ちと、あの犠牲を無駄だとは思いたくない気持ちとで、何とも複雑な気持ちになるのだった。だが、この一行に加わった以上、見聞を拡げて心の糧にせねばとも思い、身構える心境にもなるのだった。洋蘭の香に咽びつつ暫く夢の国の気分になる私だった。

 この国の案内人は、旧日本兵士で、この地で死力を尽くして戦った勇者だったと自称していたが、なかなかの熱血漢で、中国の詩人の話や、昔からの日本と中国の関係を強く説き、同種同文の両国が反目するのは最悪で、今度こそこの両国の協力が必要だと、話に熱が入るのだった。私は、この人は実に偉いと思った。自分の信念を多くの日本人に説いて、既に幾百人あるいは幾千人に語り終わっているに違いない。一見無駄なようでも、この熱意が必ず効果を現し、両国に心の通じ合う日がいずれ到来するであろうと思うと共に、この国で思ったことを言うこの人の勇気を、私は、実に尊いものと思ったのだった。
 戦争の苦しみを知る私にとって、戦跡を見ることは、戦争の悲惨を思い出させられる苦痛なことだった。デキテマ高地の敵味方の血の跡が残るような赤い岩山、敵将パーシバルと山下奉文大将の最後の会見場の遺跡等私の心を深くえぐるものだった。ジョホール水道の向こう岸が遠く見えるところでは、この河を日本兵は銃を持ったまま武装して渡河した話を聞いて涙を堪え得なかった。
 ツアー仲間の佐藤某氏は、この地で三年戦ったそうで、昨夜は感激の余り倒れてしまい、今日から数日は休養を取るとのことだった。私も、ソロモンで自分の部隊跡に立ったときには全身総毛立って歩行困難の状態となったから、この人もさぞかしと同氏の思いを推測できたのだった。 別れ際に、熱血案内人の陳氏は、「愛国の次は愛族」として、同じ東洋民族として今後手を取り合って協力しようと語ったのだった。

 次には、タイ国のバンコックに廻ったが、その際の案内人は、良く気の回る中年の日本女性であった。私達はその点では嬉しくなり、国に帰ったような気分で安堵したのだが、この国は、まるで、二〇年前の東京のようだった。つまり、国中騒然とごった返しており、活気と言うよりも殺気立った様相を呈し、生活のための必死のせめぎ合いがまるで修羅場のようであった。クリークを客船で観光するのだが、物売りの舟は相争い、相競って、必死の形相だったし、子供は泣き喚く、大人たちは怒鳴り合うという、てんやわんやの大騒ぎだった。
 各戸の入口には皆仏か神かの社が祭られているが、その生活は、汚い河の水で炊事洗濯全てを間に合わせている。この国全体が仏教国なのだが、仏のお恵みが行き渡っているようにはとても見えなかった。夜、キックボクシングを見物したが、それは娯楽の競技ではなく、正に死闘だった。選手の親兄弟一家中が、選手一人を当てにして生活しているので、今夜の勝負に一家の浮沈がかかっているため、一撃毎に家族の声援が殺気立って恐ろしいほどだった。

 バンコックから飛行機で香港に向かう機上では、女達は買物の話で賑やかだった。何ドルだから円ではいくら、高い、安い、と喧々諤々血相変えての激論もあった。私は、眼下の、海から陸地の畑へと変わるパノラマのような景色に見とれ、その中で実際は人間が苦しんだり泣いたりしているであろうのに、そのようなことなど何事もないかの様なその美しさに浸っていた。                   
 私は、香港はこれで三回目くらいなので、さして珍しくもなかったが、それでも家内との二人旅となるとまた楽しいものだった。ここの案内人は、王という香港人で、早口の職業馴れした、ときに冗談を飛ばしては笑わせてくれる面白い人だった。                 
 百万ドルの夜景も見たし、船上酒宴も盛大に痛飲し、大満足したのだった。翌日の周遊では、レパルス湾で外人の婦人と子供の裸体美を見たり、別荘群を見渡しての王さんの説明にどっと歓声を上げたりしたのだった。私は、大戦の当初に歌った英国軍艦レパルス号の歌を思い出していた。「滅びたり滅びたり敵東洋艦隊は、マレー半島クワンタン沖に今ぞ潰え去りぬ。沈むレパルス、沈むプリンスオブウエールズ」あの歌が流行した勝ち戦の気分も、たちまち潰え去って、ガ島(ガダルカナル島)敗戦の悲報に泣き、私達のブーゲンビル島での死闘が迫るとは、当時の私には夢にも思わないことだった。          
 九龍山の難民キャンプの話等を聞きながら、私はソロモン慰霊の帰途の香港で、九龍の無法地帯に紛れ込み命の危険に曝されたことなどを思い出し、そのときの恐ろしさを回想してゾッとしたのだった。私と家内は、東京に残した孫の俊秀の土産にとダンプカーの玩具を買いながら、心はもう東京に帰っていたのだった。羽田の税関では最後の関門とばかりに必死となって汗みどろだったが、解放されて出迎えの車に乗ったときには、日本ほど良い所は世界中にあるものかと大声を上げたい気分だった。

4 アフリカの旅
 そして 私達夫婦は、「また、何たる物好き」と他人から言われるかも知れないなどと思いつつ、次に、アフリカはケニアの、サファリ旅行に行くことになった。それは、昭和五六年の三月末のことだった。タイのバンコックに着陸し、給油の後、インドのニューデリー経由でアフリカケニアはナイロビ空港に着陸したのだが、ここは、酷熱のアフリカと思いきや、さっぱりとした感じであった。広大な飛行場にはアフリカらしい植物も見られて、初めてのアフリカ大陸に遙けくも来たものだなあ、と実感したのだった。                    
 ケニアの首都ナイロビは、首都に相応しい実に堂々たる近代都市で、世界に恥じない民族の自信と風格を表しているように思われた。案内されたホテルも実に立派なもので、夕食の食事は、私が経験したどの国の料理よりも私の口に合っていると感じるほど、洋風なのに違和感のない美味なものだった。この夕食に私は大満足したのだった。     
 翌朝は、六名単位のサファリカーに分乗しての出発だった。サバンナの原野では鹿類の草食動物が多く見られ、図鑑で名を覚えた動物達を見つけては、「あれはトムソンガゼル、あればインパラ」などと歓声を上げたのだった。                         
 やがて、車は最初の観光宿泊地の密林の中に入って行った。それは、森の中深く入った所に設備されたホテルだったが、施設を囲む森の中に最高の技術と最新の安全性を考慮して、自然を損なうことのないよう吊り橋型の桟橋を渡るようになっていた。宿泊設備も完備され、密林の一画に自然の湿地を囲んで、展望台が動物たちの神経を損なわないように大きなガラス張りでできていて、夜は点灯のない所から観察できるようになっていた。私はここで真夜中の長時間観察したが、大変面白く、初めてのアフリカの夜を満喫したのだった。野生の動物達がまるで映画のように次々と役者が変わって出演するようで、見飽きることがなかった。水牛、いぼ猪、インパラ、カナダガン等が見えた。そのうち、話に聞く「四不像」とかいう変な動物が出て来たのには吃驚した。牛のようで牛でなく、馬のようで馬でなく、鹿のようで鹿でない、驢馬にして驢馬にあらず、本当に変てこな動物だった。別に正式な名前があるらしいのだが、浅学の私には、知る由もなく、私はすっかり魅了されて凝視していたのだった。                            
 翌朝、ホテルの中で頭上の木の枝に奇妙な猿を発見し、カメラを連写した。これは説明によると、絶滅に近い珍種だそうで、長い毛がふさふさし、白と黒の色分けが見事なものだった。アフリカ観光中に動物の孤児院で飼育されていた一匹を見た外、よそでは見ることができなかったこの動物の三匹の家族の写真は貴重なものとなった。       
 私達の行った季節は、途中の道路が大雨で通れなくなるほどの雨期に入っていたので、草食動物は既に大移動してしまっており、肉食獣もこれを追って移動して、サファリでは典型的な野獣を見ることができない時期ということらしかった。                   
 湿地帯を行く道路の中で、車が前進不能となり、総員で車を押して進んだりした苦労もあった。このときは、黒人、白人達と黄色人種の私達が一緒になって車を押しながら、人種の差別など感じない友情の通う温かい気持ちになれ、私の海外旅行の中で世界の人々が友達になれると感じた貴重な機会を得たのだった。                 
 この平原では宿泊はロッジ風のゆったりした建物で気分は満点だった。どのロッジでも料理はいつも大満足で、ビールで満腹し、翌日のサファリを思って楽しい夢を見て眠るのだった。             
 湿原で一頭の雄ライオンを見た時は吃驚した。これこそ立派な題材と思い、カメラのシャッターを何度も切ったが、誰もが命懸けで、車への逃げ道を考えながらの接近を試みるのだ。だが、彼は悠然とポーズを取って、頭の向きを変えたりし、さながら飼育されているライオンを思わせるようだった。しかし、ここは正しくアフリカのサバンナで、彼は野生なのだから、いつか新聞で、カメラを向けた女性が襲われて死んだという記事を読んだことを思い出しつつ、油断は禁物と身を引き締めて警戒を怠ることなく車に戻ったのだった。               
 野生の象の大集団の移動するのを見た時には感動の余り声も出なかった。岩の多い山の中腹を大集団が列をなして移動するが、先頭には指揮を執る象がいるのか、隊列は迷うことなくどんどん進んで行く。中には小さな子象もいるようだ。これらの象の体が赤に近い土色であるのも驚きだったが、それはこの辺りの土の色と同じなのだ。子象を含む集団にとっては自ずから保護色となっているようで、自然の偉大さを知らされたようだった。                        
 また、大平原で象の死骸の白骨を見て、彼らも生老病死を乗り越え、太古から今日まで生きてきていることを実感させられ、一層象達の尊さを思わされた。                         
 サバンナの所々に大きなバオバブの木を見たが、中には幹の地上三メートルくらいまで丸裸に皮をむかれて枯れ木になってしまっていたのがあった。これは干天下、水を求める象達に水代わりに皮を剥ぎ取られ食べられて枯れたものらしい。動物が生きるために木が死んだというもので、弱肉強食?の食物連鎖が厳粛に行われていることを目の当たりにした思いだった。                           
 ロッジでの真夜中、インパラの群れが残飯を貪るのを見たが、野生が人間の生活の隙を狙っている様を見て、人間と野生動物の共存の変形を見る思いだった。
また、帰り際に見た機織り鳥達は、一本の樹に数え切れない程沢山の巣を鈎なりにぶら下げ、その囀りで人の話が聞き取れないほどだった。また、色鮮やかな茶色の蜥蜴を見て、写真に収めることもあった。
 マサイ族地区の見学には、美男子の添乗員は、槍で武装したマサイの男達を恐れて遁走し、私達は現地人の案内でマサイ部落に入った。
 野獣の襲撃を防ぐための高い木の枝の防柵の中に、牛の糞で固めた家が並んで、家の中もこの糞の悪臭芬芬たる彼らの生活は、私達には到底馴染めるものではないが、彼らにとっては楽しい家庭なのである。子供達の楽しげな笑顔には明るい毎日が窺われた。男達は痩身の丈高で、槍を常に持ち歩き、鋭い眼光に出会うと、私達は恐ろしく感じることを正直否定できない。女性は、黒い顔に真っ白な歯を見せて笑うところなどは女らしいところもあるのだが、一寸不気味であった。
 だが、彼らは誠実で温和な種族で、争乱などの事件は余り聞かず、平和に暮らしているようだった。
 一夜、ナイロビの劇場でのレセプションでは、この国の民族衣装の人達の盛大な舞踊等もあり、面白かった。彼らの主立った者は、皆白黒猿の毛皮で飾った被り物を着て踊っていた。このためにあの猿が狩り捕られ絶滅に追い込まれてゆくのだと思う私だった。
 四月五日の帰途のため空港に集合したが、これが大問題となったのだった。インド航空のチャーター便は、思わざる故障で搭乗不能となった。 それは、この時期のインドの仏教行事で、全世界からインド人が帰国することとなり、全インド航空はこのためインド人以外の搭乗者を拒否したのだ。                           
 日本の添乗員が血相変えて事務所の中で激論し、乱闘寸前までの緊迫状態が続いて、談判はいつ果てるとも予想がつかなかった。兎に角、今日の出発は見送りとし、一日、近辺のマサイ観光村の見学とサファリを行うことに決着、我々は一日分だけ無料で観光ができることになって、近辺のサバンナに出発した。大平原で私が最初に野生のサイを発見して皆に知らせ、二頭のサイをカメラに収めることもできた。      
 航空便の話は、インド航空からパキスタン航空に変更して搭乗することとなり、無事ナイロビを離れて、ケニヤ国に別れを告げ、次の空港、アラブ首長国連邦ドバイ空港に向かった。             
 だが、機が発進して間もなく、機内で大声が発せられた。「ママタニー!、ママタニー!」と何度も叫ぶのだ。そして、ドバイ空港に着陸したら、機内が騒然として、不穏な形勢になった。機内アナウンスで全員機外に出るようにとの指示なのだ。搭乗員の説明によると、なんでも「人が一人、不明となった。また、荷物が一個不明のため、全員の人員調査と荷物調査のため降りることになった。」と言う。私達は、皆不安な気持ちで機から降りて、機外で唯呆然と待つばかりだった。彼らは日本人のように何事もてきぱき順序良く処理することができず、やることが手のろくて処理能力が劣るように思われた。機外で待つこと一時間を過ぎても、なかなか事態は判然としなかった。二時間ばかりで荷物と人間の点検が終わり、我々も機内に戻ることができたのだった。このドバイという所は、砂埃のため視界はおぼろで、蒸し暑く、嫌な気分となって、一刻も早くこの地を去りたい気分だった。             
 飛行機はパキスタンの首都カラチに着陸した。これは給油のためらしいが私達は機内で待機して発進を待った。外の空気が機内に入ってきて、私が感じたのは何とも言えぬ悪臭だった。それは、動物の臭いだと直感した。そして、それが牛の糞の臭いだと気が付いたとき、インド、パキスタンは牛の自由国であることを思い出した。この二国は、国内が牛で充満しているらしい。その糞の臭いがこの機内にまで達する程とは驚いたことで、私はこのとき決してインドには来たくないと思ってしまったのだった。この機は、タイのバンコックに寄港する予定だったが、タイで政変があり、クーデター騒ぎで不安であるためフィリピンのマニラに飛ぶとのアナウンスがあり、カラチを後にしてマニラ空港に向かって飛行することになった。                      
 ドバイの事故といい、タイの政変まであって、私達は無事日本へ帰ることができるのか不安な気持ちは誰の胸にもあった筈だが、外見は皆平気を装って平然としているのだった。マニラでも数時間待たされたが、我々はもう待つことくらいは誰も文句なしの心境となっていた。   
 そして、無事羽田空港に着陸して、日本の土を踏んだとき、この土こそ自分の生きてきた土であり、私には一番安心して頼れる土なのだと痛感したのだった。                        

5 中国の旅
 その後私達は、次の旅行も計画することとなり、旅行地は中国と決めて計画を練った。昭和十四年に、佐世保から輸送船に乗って中国に向かったときの私はまだ純真な青年だった。戦時下の中国での三年間の勤務で、私は精神的にも肉体的にも随分成長したようだった。あのときから四十年経った今、再び中国に旅する私は既に老年に入っていたが、今回の旅行はまことに意義深いもので、ひしひしと心中に迫るものを感ずるのだった。
 今回の周遊コースが四十年前私が進んだ戦場の順路そのままとなっていることが分かり、私の最も望むコースとなったことに、私は唯々神に感謝するばかりだった。それに重ねて私にはもう一つの幸運が割り当てられた。それは、私達のツアー参加者の中に老人の元将校らしい人を見かけたことから始まった。私がその人に、「貴方は陸軍士官であられたのですか。」と問いかけたとき、「そうです。私は楊州にいた鈴木部隊の副官だった者です。」と言うではないか。四十年前の二月に、私が命懸けで作戦に出て、危ない生命を助けられたのがその楊州の鈴木部隊だったことは私の記憶に確然銘記されていたことだった。私は出発に際してのこの幸運が旅行の幸先を占うかのように思われ、また、この旅行が只の旅行ではなく、神が指示された道を行動させられているような不思議な感覚にもとらわれて、勇躍出発したのだった。
 この旅行に私は戦友石塚さんを誘ったのだったが、彼は中国は未だ危険だと思っているようで辞退し、彼の奥さんが同調して一緒に行くことになった。奥さんは戦争前に上海に在住したことがあり、私と話が合っていたので、同行できることに大喜びだった。           
 私達の飛行機が上海上空に差し掛かり、眼下に農村地帯の整然たる耕地が見え始めると、生気溢れる人間の生活が想われ、中国は戦後生まれ変わったのだと実感して、旅行の前途が明るく思われるのだった。機内のアナウンスで当地の現時刻の気温、摂氏八度と告げられた。上海空港は目立った建物もなく、少し淋しい感じだったが、降り立った私は清々しい空気を吸って良い気分だった。見回すと建物には人工的着色もなく、整然と生真面目に建っており、この国では今、真剣に発展に向かって国中の心が集中されていることを私は体感していた。空港の施設等も未だ未完成で、簡素な公社員が緊張した顔で立ち働いていたが、人流の整理法も遅々として、能率が悪くなかなか進まなかったが、私はもうこの国の気風に馴染んだ気持ちで、「漫々的天好
(マンマンデーテンホー)」の大らかな気持ちで焦ることはなかった。                              
 「初めまして」と自己紹介する北京政府派遣の公社員の女性は、三十歳前後のキリッとした感じの女性で、兵士然とした口調で挨拶する姿が、毅然としており、我々日本人に対する的確な指導を北京から厳達されているのを感じた。そして、彼女が私達を上海市内観光へと案内してくれたのである。                          
 やがて、私達は旧上海競馬場跡に案内された。広い観覧席の屋根には、戦時中の跡がそのまま残されていて、弾痕が満天の星のように見え、激戦の様が私の脳裏に強烈に浮かんで、敵味方の数千の人達の血が飛び散ったことが思われ、暗然としたのだった。脇の建物は現在、人員委員会の木の看板が下がって、若い衛兵が銃を立て、屹然と立っていた。日暮れのときの広場は、子供達の遊び場となり、大勢の男児、女児らの蜂の巣を突いたような賑わいで、何処の国でも子供は無邪気で、遊ぶことに夢中なものだと思い、東京の孫達の顔が私の頭をよぎるのだった。
 上海展覧会は立派な建物で、玄関には衛兵が立っていた。中は国中の物産の展示即売会場となっており、大変有意義だと思ったが、時間がないので余りゆっくり見て回ることは出来なかった。端渓の硯を展べて説明していた若い学生風の男が、「私は今、日本の夏目漱石の本を勉強しています。」と日本語で話すのを聞いて、中国こそ最も近い隣国であるとの感を深めたのだった。
 市内の建設現場の前で、公社案内人は、この建物は中国最高層の近代ホテルになるのだと説明した。高層ビルの足場は、太い竹で組み立てられてあり、その結束にも竹を割った細い竹紐を使って結わえてあって、私はその天然材の利用に感心させられた。
 私達のホテルは、黃浦江のバンド
(上海河岸地区)近くの戦前の租界地帯にあって、建物も英国風であった。設備は一応整っていたが旧式で、照明の電灯は節電のためか薄暗かった。ホテルの窓から街の通りを見下ろして、私は、ここからの上海の顔を興味深く飽かず眺めたのだった。
 道の向かい側には大変な人だかりが出来ていたが、私はそれが日本の精工舎のからくり人形だと昼間見て知っていた。私には興味も湧かない子供だましのようなものだったが、この国ではそれがあのように大勢の人達の興味をそそるとは驚きだったし、それはこの国の娯楽施設の貧困を思わせるものと言えた。この国では今、一人っ子政策とかで、人口の増加を食い止めようと必死であるらしい。それ故、各家庭ではその一人の子供をまるで王子様か王女様のように大事に育て、その成長に夫婦の全力を傾注しているのだ。親達は粗末な衣服を着ているのに、その子供は満艦飾で、極上の晴れ着を纏っているというのが、街では珍しいことではなかった。子供を大事に育て、立派に教育して成人させたら、この国は更に発展するだろうと思うと、この国の二十年後は大発展をして世界を驚かすことになりはしないか、それに比べて日本の現状は如何にと思うのは少し考えすぎかと思う私だった。
 夕暮れに植木の小鉢を買って自転車で嬉しげに笑いながら帰る若者を見て、私は、家には可愛い奥さんが待っているのだと想像し、彼の楽しい家庭の幸運を祈るのだった。私は、最近始めた短歌の詠草を想いながら街を見物し、夜の二時頃までこの日の記憶を手繰って、二、三十首の作詠に苦吟したのだった。遙かに船の霧笛が夜のしじまを破って三声流れた。黃浦江を下る汽船が小さいサンパンを除けながら港に着いたらしい。私も詠歌を終わって、眠りに就いたのだった。

    夕暮れの 市に植木の小鉢買ふ
        若き工人の 笑顔明るき


 翌朝早く表の街を見下ろしたところ、小雨の降る中、一人の老人が歩道で太極拳を悠然と舞っていた。それは一面、舞踊を見るようでいて、実は精神と健康のための動きであるというから、この国には無駄なことはないのだと感心する私だった。この老人を邪魔することなく、若いカップルがジョギングする姿が見え、また別の老年の勤め人がゆっくりとした歩調で脇を通るのが見えた。案内公社員は、私達に今日の観光の説明をするのだったが、彼女の幼げな日本語にも懸命の努力が偲ばれて涙ぐましかった。
 王仏寺に参拝して、その仏像が生きた人のような肌色をし、笑顔が優しくて、これ正に生き仏なりと感銘したのだった。境内には書と硯、筆等の売場があり、全部国営とのことで、本当に安くなっていて、私は娘への土産にと硯を一つ買ったのだった。そして、青年の新しい公社員から、北京よりの指令なりとして、本日の蘇州観光を中止し、上海泊まりとなることが告げられた。私達は、上海の街路の観光に廻った。街路の標示板は漢字と英語が併記してあり、国際都市を思わせるのだった。思い出多い街、「夢の四馬路
すまろ」を通って、四十年前軍服姿の目立った街が今は青服の中国人で混み合っていた。私は上海設営部のあった東ゆうはん路の辺りが思い出され、今のあの場所に行きたい衝動を感じたが、今回はそれは叶わないことと諦めたのだった。

    王仏寺の 仏は まさに生けるがに
        笑顔和めり 肌色なして
              
 虹口
ほんきゅう公園に魯迅の墓を訪ね学童達の嬉々として列ぶのを見て、何処の国も子供は同じだなと感じたのだった。「魯迅先生」の表札は、毛主席の墨痕も鮮やかに、凜として気品に富んだものだった。思い出多いガーデンブリッジを渡って、河畔の食堂で昼食になった。四十年前、仏租界の先の龍華ろんほー飛行場の整備工事を視察する際、この橋で英国兵のスカート姿に驚異の眼を輝かせた思い出が眼底に顕ったのだった。食堂の給仕をする中国女性達が、まめまめしく立ち働いて、私達日本からの旅行者に懸命にサービスする姿は、北京の指令によるとは思いつつも、彼女らのまじめで自発的な心の表れだと、ほほえましく感じたのだった。
 
バスの運転士も誠実な人で、言葉を交わすことはなかったが、笑顔を絶やさず親切で、国の違う人とは思われない親密感があった。 この国の国民をこのように教育した中共は、どのような方法でこれを成し遂げたのかと思う時、この国の指導者の偉大さを思い知らされるのだった。                            

 私達は南京行きの列車に乗るべく上海駅に向かった。待合室にツツジの大鉢が満開となり、ツツジの花が春の先駆けの顔で私達を迎えた。列車に乗車して驚いた。この列車は広軌で、車内装飾もゆったりとサロン風にしつらえられ、窓には美しいカーテンが吊られて、接待役の女性達が、真っ白いエプロンも晴れやかに笑顔でお茶を差し出すなど、混雑した日本の列車とは段違いの乗り心地だった。車窓から望見する田園風景もまことに広々とした新緑の大地で、戦時中の貧しく荒廃した農村の姿は夢の彼方に消えてしまっていた。 

 ついに私は南京に来た。昭和十四年から二年半の間この地にいて、その隅々まで熟知した私には、故郷に戻ったような懐かしさで、胸に迫るものがあった。 南京駅の位置は、昔の下関
しゃかんからは大分離れて孫文をまつる中山陵の中山門に近いような感じだった。
   大平路たーぴんろを通って宿舎への道を行くとき、昔の大通りはそのままだったが、あの時代道路並木の鈴掛の木は腕くらいの太さだったが、四十年の歳月はそれを二十センチ近い大木に成長させ、六列の並木が互いに枝を組み合わせるように繁っていた。現在は落葉して裸だったが、これが夏の頃には緑のトンネルとなって、さぞ涼しいことだろう。   
 南京が一名緑の都と呼ばれているのも、さぞやと思われ、夏の南京に来てみたいと思ったり、昔を思ってみたりの、楽しいひとときを過ごしたのだった。                             
 南京の旧来の公共建築は殆ど残存していて、旧支那方面軍総司令官畑大将の司令部公館も瓦葺きの厳しい姿を市民委員会の大看板を下げて残存し、私が出入りした南京憲兵隊舎も大平路の大通りに銀行として昔の姿を保っていた。
                        
 そして、南京での数日を過ごす公営宿舎に案内された。それは、プレハブ式の二階建て、木造建築であったが、内部はルームクーラー等の設備が一応整い、全体は総面積数千坪の広大な敷地に十数棟が整然と配置され、目下三棟ばかりが建築中であった。食事もすべて中国料理だが、日本人好みに調整されて、私達には上等であったから、待遇に不足はなかった。
                        

 翌日は、南京城を中山門から出て、中山陵を観光すべくバスで宿舎を出発した。私は戦時中、南京で、上海と漢口からの設営隊幹部の南京観光の案内役を引き受けて、それが広く海軍全体の案内役ともなってしまい、中山陵は、その案内の中で外すことの出来ない場所だった。だから、この道は私の熟知するところであったが、今回私は、家内から昔のことを語るのは禁句とされていたので、旅の会員にも南京知識を口に出すことは絶対に控えたのだった。
      

 だが、同行の石塚夫人だけには、時折耳打ちして、昔の話を小声で語った。あの時代、中山陵は、蒋介石が孫文のため禿げ山に植林して山容を整えたばかりで、松やその他の樹木は未だ若木であり、淋しい疎林だったが、今見るこの山は全山鬱蒼とした大密林となり、青磁の瓦の陵墓の建物は一段と風格を増して、荘厳さを漂わせていた。
       

 塵一つない長い石段を大勢の学童達が一心に清掃しているのが見られた。私が昔、海軍の将官級の人達を案内したときに、初めて見た最奥密所の孫文の石棺の間に、今回は入ることが許されて、北京政府の日本旅行団に対する敬意とサービスに気付いたのだった。私達がいた頃は荒れ果てていた明の皇陵、無梁殿のアーチ、宋美令の別荘等が、今は立派に復元されて、酒館として残っていた。     
 明の皇陵では、道の両側の石の動物像が、昔のままの姿で私を迎えてくれ、昔、桜の満開の時に馬上兵士の姿をカメラに収めた記憶が思い出された。玄武湖を観光した時、昔飯野さんの女友達と一緒に船で遊んだのがついこの間のように思い出されたが、あれから四十年の年月が経っていることが夢のようだった。若い夫婦が子供を連れて遊んでいて、父親が自分の子供を写してくれと、私の前で大喜びで子供にポーズを取らせたりしたときは、日本人とは対人感情に差異があることを感じたのだった。

 早咲きの桜の並木が開花していて、案内公社員は、これは日本から贈られた桜ですと説明してくれ、日本と中国との心の結びつきが深まって行くことを喜ぶのだった。

 次には、揚子江の南京長江大橋を見学した。全長十キロにも及ぶ長大な橋で、この工事には、ソ連との関係悪化によりソ連技術者全員の引揚げという苦境を乗り越え、中国人独自の技術と国民の努力を結集して完成したとの説明であった。橋は、二層になっていて、鉄道が下層を走り、上層を車道として、大河揚子江を跨ぐ巨大建造物で、その袂の塔には、労働者人民の群像があって、凱歌を声高に歌う勇ましい姿が刻まれていた。九年に亘る大工事での犠牲者は唯の二人だったと公社員は誇らしげに説明していた。           
 その夜、中山路にある学校を会場として、技芸団の演技を見学した。小さな子供が真剣に演技するその妙技は、まことに高度なもので、欧米人も混じるその会場からは大喝采が起きたのだった。粗末な会場だったが、大盛会であった。
                                  

 この日、長江大橋見学の帰りの車上から、挹江門ゆうこうもんの手前でその門の隣地に、小高い丘が見えた時、私は思わず「あの小さな山は獅子山でしょうか」と公社員王建明さんに尋ねてしまった。「そうです。貴男はよくご存じですね。」との彼の答えに、私は、「しまった。昔の話は禁句だった。」と思い、その後は宿舎まで無言を通したのだった。
 宿舎に帰って、色々考え合わせたところ、この地が挹江門に隣接していると言って良いくらいの位置関係にあることが分かった。そうなると、明朝何とかしてここを抜け出し、挹江門に出て、旧海軍設営部南京班の現状を写真に収めたいという熱望が私の中で抑え難い衝動となっていったのだった。 

 私は、翌朝四時頃に起床し、カメラを持って宿舎を離れた。玄関には、不寝番が二人徹夜で警戒していた。「挹江門、那辺まー。」と私が聞くと、「スーデ。」と答えたので、私がその方角に急ぐとそのままとなった。だが、方角は正しかったのだが、それは大変無鉄砲な試みで、やがて道路は消え、草原となって、急な山を降りて登って見晴らして見ると、そこからは挹江門が高さ三メートルの煉瓦塀の向こう側となっていた。とてもこれを突破することは出来ない。
 早、三十分が経過していた。焦った私は、すぐに宿舎の正門側に廻った。軍服の衛兵に挙手の礼をして通過し、大通りを北方に急いだ。方角に違いはない筈だが、朝霧が濃くなって視界が何処が何処やら判然としない。私は一人の通行人に「ニデミンパイマ、ユーコーメン?」と聞いたところ、彼が「那辺。」と指さしたのに助けられ、ようやく挹江門前に立つことが出来た。
 城門は、昔は門上の楼閣が戦火で焼失して柱だけだったのが、立派な瓦葺き楼閣に復元され、朝靄の中に厳然と周囲を圧していた。挹江門のすぐ内側に、煉瓦造り二階建ての私達の部隊宿舎が四棟あった筈で、右端の一棟が事務所兼幹部宿舎だったのだ。私が顔をそこに回すと、右端の棟だけが昔の姿のまま残っていた。四十年前の私の宿舎がまだあったのだ。私は急いでシャッターを切り、前面の石垣の文字はと見た時、そこは六階建てのアパート群が先の視界を塞いでいた。その建物の間から懐かしいあの「忠孝仁愛信義和平」の八文字が見えた。これを私は右端から順に六枚の写真に収め、私の決死の冒険を切り上げて、駆け足で宿舎に戻ったのだった。
 宿舎では朝食の最中で、私は家内に怒鳴られながら食物を丸呑みしてバスの出発に危うくセーフし、胸を撫で下ろしたのだった。
 帰京してこの写真を現像したところ、必死の撮影は大成功だった。写真はバッチリ撮れていて、私が四十年前のネガから再現した写真とピッタリ符合し、あの八文字中、建物の間から「信」の文字が画然と現れていたのだ。私は、これでこの度の中国旅行の成果の七〇%を納めたと判定して、満足したのだった。
 この日は、大平路近くの鼓楼見学から始まった。この建物は、日本軍の南京占領にも砲撃を免れて、高台の上に、六百年の歴史を今に残す古風な瓦屋根が見えていた。この楼上から眺めた南京市内の展望は、整然として古都の風格を漂わせ、私には懐かしい思いだった。この日参観する予定だった故宮博物館が休館となっていたため、同行の中で入場不能に激しく抗議する老人もいた。しかし、我々の行動も全て北京からの指令によっている現状では諦めるほかなく、この国の民主化も未だしの感で、些か残念な思いだった。                 
 その代わりに莫愁湖を見ることにすると王建明君は説明するのだった。私達は次に、中華門に向かった。ここは、南京城の南の正門で、南京では唯一、二重の城壁を古代形式のままに残す門だった。城門を通行できるのは、観光団のみとの標示があり、この国の観光による外貨獲得策を垣間見た観があった。私は城門の高い所から光華門の方角を望んだのだが、霧に霞んで光華門が見えなかったのは正に失望だった。四十年前、私は光華門のすぐ近くの大光新村で南京班が初動したことを思い出していた。高みから西方に望見されたのが今日これから見学する雨花台の白い群像だった。私は、四十年前に雨花台を訪れ、高台中央に聳え立つ忠霊塔に参拝したことを思い出していた。今回、私達が案内されて雨花台の中央に立った時、そこには忠霊塔は見当たらず、その場所に「革命烈士の墓碑」が、毛主席の力強い筆跡で標され、建てられていた。王建明君からはこれについての説明はなかった。尤も、未だ彼の生まれていない昔の話なのだから、無理もないかも知れない。この記念碑に至る巾二メートル位の敷石は、日本軍の施工したままのように思われた。この雨花台の由来の説明も、千年以上昔の話によるとの説明で、それは、国中戦乱を極めた時代にこの地が幾万の軍民の血で染まり、そのためこの山の樹花が血の色に染まって咲いたことからだと語られ、日本軍に帰する話は少しも語られなかった。露店では「雨花石」なる四糎くらいの石英の玉石を売っていたが、水の中に入れると血の色が出て来るとの話で、見物人は喜んでこれを買っていた。私もその一袋を記念に買ったのだった。                            
 帰途に見た秦淮地区の建物は、百年以前の昔の侭の姿を残し、その間に粗衣の民衆が溢れて混雑を極める様に、私は、四十年前の孔子廟の街を思い出して、感慨一入だった。                 
 莫愁湖は、うら淋しい湖面に、その名の残る哀れな乙女が悲恋の果てに入水したという愁いを秘めて、音もなく私達を迎えた。

 南京を離れる私達を見送って王建明君の述べた別れの挨拶は、私の心に深く刻まれて、いつまでも残るものだった。「皆さん、私の拙い案内に我慢して頂いて、本当に有り難うございました。私の国は、今、発展途上にあり、まだまだ未熟ですが、私達は一生懸命に努力して良くしたいと思っています。皆様が又お出かけ下さるときには、もっと良い中国をご覧頂けるようにしたいと思っています。皆様のこの先のご旅行の成功を心からお祈り致します。」これに対して私はこちらから有り難うとお礼を言いたかった。彼のお陰で、私は四十年前の南京駅での苦力頭との別れの時と同じく、この南京を温かい愛情と思慕の思いで去ることが出来たのだった。                        

 南京を後に、私達は次の観光地、揚州に向かうバス旅行に出発した。それは、南京長江大橋で揚子江を渡り、陸路楊州を指して行くもので、私の中国作戦中も通ったことのない経路だった。昔は、都市を離れた農村は、見渡す限り土饅頭の連続で作物の育つ余地もないほどだった。だが、今はその土饅頭は全く見当たらず完全に整地されて、整然たる耕地が展望された。そして、その耕地には、一直線に水路が設けられていた。このように全中国が開発されたならば、この国の生産力と活力は眼を見張るばかりであろうと、中共の改革の偉大さに敬服したのだった。だが、日本の機械化農業に比べて、まだまだ人力に頼るところが多く、人民の汗の労働がこの国を動かしていた。竹ざるに天秤棒の女工達が、真剣な顔を汗みずくにして働く様を見て、彼女達の足の逞しさと頑健に驚嘆したのだった。                          
 人民公社の農村住宅は赤煉瓦造りで、まことに粗末なものだったが、住民達は生活のため協力し合って、温かい雰囲気が漂っていた。放し飼いの豚が真っ黒で毛が長く、耳の垂れた野生のような姿に、品種改良はまだまだだと感じられた。また、白と黒の羽根を見せて飛び交う鳥はかささぎで、それによって、私は、今、中国大陸の真只中にいることを実感したのだった。                        
 四十年前の私は、南京から楊州を経て高郵までの資材輸送命令を受けて、貨物船で南京から鎮江
ちんきゃんに下り、陸軍の曳舟で六玕ろっかんに渡ってから、必死の交渉でトラック部隊の応援を頼んで揚州にようやく着いたのに、今回のバス旅では、南京を朝出発して午後三時頃には揚州に入ることが出来たのだった。
 楊州の街に入るバスの車窓には、住宅団地の建設現場で働く工人達の汗の臭いが入って来て、ここにも活気の漲った空気があった。また、有名な古都らしく、寺院建築の反り屋根が多く見られ、それに沿う柳の並木が既に新芽を芽吹かせて、一層風情を添えてくれていた。
 楊州の案内人の季君は、四十歳くらいの年配であったが、日本語も流暢で違和感がなく、話しやすい人だった。
 宿舎は、鉄筋四階建てで、設備も整っていた。
 市内観光では、先ず、漆工場を見学した。若い活発な工場主任は、鳥打帽の姿で隙が無い感じだった。
 緻密な螺鈿細工は、工人技の極致とも思われ、二千年の歴史を今に伝えるものだった。工人は、女性が八割くらいで、か弱い乙女達が、熱心に作業に励む姿は私達を感心させたのだった。工場が増築中で、輸出増強の国策によるとの説明だった。昔は、只人ばかりが蠢く感じだった国が、今は近代化を急ピッチで進めている姿に、この国の顔が変わりつつあることを実感したのだった。
 痩西湖を見学して、釣魚台や古風な五亭橋を見て、かような遺跡が戦禍を免れて残されたことは本当に良かったと思うばかりだった。この楊州は、映画「天平の甍」の主人公、鑑真和上の人気で一躍有名になったのだが、この映画の中国ロケの際、日中両国の通訳を務めたことを公社ガイド季さんが誇らしげに語っていた。そして、私達は鑑真和上が住職を務めた大明寺の山門を入っていった。千七百年も前、鑑真和上は、幾度難破しても必死の思いから日本に渡り、仏教を伝えたという伝記を思い出し、私達は、何の苦労もなく一時間くらいの飛行でこの国に渡来できることを何たる幸運と思うと共に、神と今の世に感謝したのだった。日中友好の功労者である田中角栄氏の記念額が飾られてあったが、今は不幸な事件でこの額の価値が堕ちてしまったのが残念であった。この楊州の花を見るために、時の皇帝が北京から杭州まで中国を南北に貫く大運河
(京杭大運河)を開いたとの話があり、時の皇帝の欲のために民衆の血と汗の苦労が動員され、反乱などもあったという物語を思い浮かべていた。          
 四十年前、私はこの大運河の上流、高郵県にあった海軍陸戦隊基地に設営資材を輸送する途上、鎮江の対岸
(揚子江北岸)、六玕で途方に暮れ、ここ楊州の鈴木部隊の救援トラック十台の助けで無事楊州に入ることが出来たのだった。陸路をさらに北の高郵に行くための陸軍の援助は、兵力不足で不能となり、私の独断で、高郵陸戦隊員十名と土工十名とで死地に血路を開く覚悟で、いざ出発となった際に、急遽、また鈴木部隊の協力が得られて、貨物船による曳航で高郵まで運河を遡上することが出来、私は危うく命の危険を免れて、無事目的を達することができたのだった。                       
 その鈴木部隊の副官宮川氏が私の今ツアーの一員であったのだ。何たる幸運、私は、この宮川氏が部隊戦友会代表として大明寺住職に記念品贈呈をする式に参加し、その記念写真を撮影した。帰京後、それを現像したところ、私としては珍しく良い出来映えであったから、早速ネガを宮川氏に送ったのだった。彼はそれを大判に引き伸ばし、戦友全員に送ったとして、私に礼状が届いた。                 
 揚州の観光を重ねて、最後に楊州一の名塔、文峰塔の見える所で季さんは私の撮影のためバスを停車してくれたのだった。六玕の道路は、今は直線のアスファルト道路で、昔のような砂塵は立たなかった。港から、バスは乗客をそのままに、フェリーに乗り、出発した。この際、ツアー客総員から季さんに、別れの拍手が湧いたのだった。

 鎮江の高台にお寺が見えてきた。あれが名にし負う金山寺なのだと私は思った。    
 南京の宿舎と同じ造りの宿舎群が列んでいた。豪州から来た老婦の笑顔が優しかったので、私がスナップ写真を撮り、写真ができたら送りますと言うと、大変嬉しそうだった。帰京後早速私は豪州にできた写真を発送したのだった。鎮江のガイドは、黒眼鏡をかけた男性で、日本語はたどたどしかった。   
 先ず、天下第一景の焦山
しょうざんに向かう渡し船に乗ったとき、中国人が同席して和やかな気分だった。この山は全山大理石から成るとかで、千年前の碑が残っていた。山頂から見ると、眼下の寺院が整然と建ち並んで、歴史を語るようだった。参道の柳並木は、若芽が風に揺れて、春を告げていた。       金山寺の石段を登るとき、この国の学童達も一緒だったが、彼らの元気で活発なことは、どの国も同じで、頼もしい感じがした。金山寺味噌は、この寺が元祖と言われ、千年前のことと聞いて驚くのだった。書の大祖王羲之の書碑があり、楷書の元祖とのことで、日本の文字もこれが手本かと私はしみじみ見上げたのだった。松並木の登り坂を登った先の甘露寺は、高い山の上にあり、この寺の九層の鉄塔は、現在四層だけを残し、二千年の歴史を無言で示しつつ屹立していた。三国志の劉備玄徳は、ここで宿敵孫権の妹孫尚香と婚儀を挙げたとの話が残り、私はその楼上で揚子江を望見した。この楼を天下第一楼と名付けた劉備も孫権の将、陸遜の火計に敗れ、白帝城で病没したという。

 私達は、次に水の都蘇州に入ったのだった。           
 私は、四十年前は蘇州には足を入れていなかったから、この度は、初めての蘇州をしっかり見ておこうと張り切っていた。ここの公社ガイドは、申君という青年で、挨拶もてきぱきした好人物だった。四階建ての住宅団地が建築中で、街中は活気に満ちていた。先ず、目当ての観光は、虎丘寺(雲岩寺)だった。空を衝いて聳える石塔は、少し傾いていることから、ピサの斜塔に対抗して名が高いという。ここには色々な伝説が残り、塔の前の広い庭は、千人石と呼ばれていた。ここでは王様の墓を造った職人達を墓の秘密を守るためにこの石の庭で皆殺しにし、その数は千人に上ったという。その墓は、青く水をたたえる池の底にあるらしいが、昔の職人は、時の為政者によって虫けらのように簡単に殺されていたのだ。後世の遺跡となる為政者の建造物が、そのような職人達によって造られたと思うと、余りの理不尽に怒りを感じるのだった。この寺は、昔の広大な寺域が戦火のため狭められ、現在に至っている由だった。この寺は古寒山寺と呼ばれることもあり、新寒山寺は日本の青梅にあるようだった。
 かの有名な「月落烏啼霜満天(つきおちからすないてしもてんにみつ)」の碑の前に立って私は感銘深く碑面に接しのだった。だが、この碑は永年の石刷りのために摩滅して、現在は二代目とのことだった。私が昭和十五年に買ったその拓本は初代のものだったかと思ったが、現在その巻物は我が家に見当たらず、何とか探さねばと思うのだった。日本から贈られた鐘がここにあり、金沢の池田市とは姉妹都市になっているとの話で、日本との絆の深いことを思うのだった。粗衣を着たこの寺の僧が掛け軸を売っていたが、その字は実に見事なもので、土産には極上の逸品だった。中国は書の元祖国だけあり、まして、僧侶の字は格別に素晴らしいものだった。
 蘇州から列車で上海に戻った。その列車の蒸気汽缶車は、前面に金文字で、「周恩来号」と記したプレートを掲げて、堂々と四囲を圧していた。                              
 上海の公社ガイドは、前回の彼女で、数日見ないうちに大分馴れたのか笑顔が美しかった。上海で、余園という公園の見学となり、明朝の大蔵大臣が贅を尽くして造ったとかで、何処の国でも為政者の悪業が語られるものだと、我が国のこと等も思い出させられたのだった。ここで樹齢三百年という老松の盆栽を見て、私はその鉢を前に息を呑んだのだった。街に出て、川向こうの昔からの百貨店を見て廻り、四十年前、テロに怯えながら入った新々公司、栄安公司等が今は国営となって、大繁盛していたのには、今昔の感を深めたのだった。           
 公社員は、遊覧船を交渉したが、不調とのことで、午後は自由行動となった。バンド脇の公園を石塚夫人と四人で散歩していたときに、日本語を話す六十歳くらいの老人に話しかけられた。彼は、昔日本の大阪に住んでいたが、戦争で中国に帰国し、今でも日本人が懐かしく、毎日ここに来て日本人と話すのを第一の楽しみにしているとのことだった。「文化大革命の頃は酷かった。」と語り、「その頃は、日本語を話すとすぐに官憲に追われる始末だったから、絶対に日本語を口にせず、小さくなって生きていた。その後の改革で四人組が処罰されて、やっと生き還った思いだ。」と話していた。
 そうして、彼は「上海中何処でも知っていますから、案内しましょう。」と言ったのだ。それで私は、
「それなら、私は昔の日本海軍の上海陸戦隊跡が見たいのだが。」
と彼に話した。彼は即座に、
「そこは、ここからは一寸遠いので、自動車でないと案内できません。私が急いでタクシーを探してきますから、暫くお待ち下さい。」
と言って、急いで街中に消えて行った。石塚夫人が彼と虹口
ほんきゅうマーケット前で待つ旨の約束をしてくれ、彼が戻るまで私達はマーケットを見物した。石塚夫人は、戦時中 上海に居住して、毎日この虹口マーケットに来ていたとのことで、昔懐かしい地に立って故郷に帰ったようだと喜んでいた。石塚技手が一緒なら良かったのにと思ったが、それは無駄なことだった。そして、一時間近く経ったとき石塚夫人は、
「今、来ないのでは、駄目なのかもね。上海は今タクシー不足なので、あの老人の力では探し出せないのでしょう。諦めて帰りましょう。」 
と言うのだった。だが、私は、四十年前の南京駅頭での苦力頭のことが頭にあって、こう言ったのだ。 
「いや、中国人は約束を守る。絶対に来るから、待ちましょう。」
私の強い言葉に、一同は仕方なく待つことにしたのだった。そして、二十分ほど経った時、あの老人が汗みずくの体で息せき切って帰って来た。そして、彼の後にタクシーが一台従いて来ていたのだ。私は、彼に何度も頭を下げて、その労をねぎらった。こうして一同は、そのタクシーに乗って目的地に向かい、ややあって旧陸戦隊跡に到着した。それは、四十年前に私が見たコンクリートの四角い建物で、現在は、中国海軍の司令部となっており、丁度改装中で、建物全体が足場の竹で囲まれていた。私が急いでカメラを構えた時、運転手が顔色を変え、「プシン、ブシン。」と言うではないか。そして、かの老人も真剣に、
「ここは、今、中国海軍の機密の建物で、絶対に写真を撮ることができない。もし、違反するとすぐ官憲に逮捕される。どうか、止めて下さい。」
と言う。それで、私は諦めて撮影を中止したのだった。       
かくして、帰途に着いのだが、陸戦隊跡の道路を挟んだ向かいの上海神社も、今は鳥居を外されて、一般住宅となり、中国人が住んでいるようだった。ホテルの前でタクシー代を払い、老人にお礼を渡そうとしたが、絶対に受け取らない。その固持ぶりには参ってしまったが、石塚夫人が出したウィスキーをようやく受け取って貰い、感謝して別れたのだった。石塚夫人は、帰京後、この老人、唐明吉さんと文通して、親交があったようだ。ところで、このタクシー騒ぎの次の日に、私達は偶々観光バスで陸戦隊前を通りかかったので、私は、その車窓から数枚の写真を撮ることができ、無事目的を果たせたのだった。この唐さんは、夫婦で定年後の恩給によって気楽に暮らしているとのことで、中国も老人恩給を支給できるようになって、大変な成長をしたものだと、私は大いに感心したのだった。
た 市内鞍山路の住宅団地を訪ね、その一家族の家庭内に入って、中国人の生活を詳しく見ることができた。鉄筋四階建ての棟が並んでいて、この団地だけで五万人が居住するとのことである。元公務員らしい奥さんは、キリッとして日本語で説明をした。夫は八十六歳だそうで、少し惚け気味な感じで私に挙手の礼をし、室内の案内をしてくれた。家具等は、質素ではあるが、暖かみがあり鳥籠には雲雀が飼われていた。団地内にデパートの売場があって、品物は豊富のようだった。この家族も年金暮らしで、孫を一人預かっているとのことであった。         
 山陰路にある魯迅先生の旧居を見学したが、棟割長屋の三階建てで、質素な煉瓦造りの住宅は、先生在世の頃をそのままに保存されているようだった。                            
 上海空港で、バスの運転手に笑顔で見送られ、私の中国旅行は無事終わったのだった。

6 豪州・ニュージーランドの旅
 昭和六十年三月、私達夫婦はオーストラリア及びニュージーランドの旅に向かうこととなった。高速道路を娘婿康彦さんの車で箱崎ターミナルに向かっていたとき、孫の美希が一緒にいて、私達の旅行について来たくなったようで、                  
「ミーミもトランクに隠れて一緒に行きたいな。」         
と言った。私は胸がしめられる思いであったが、叶わぬことなので、 
「お土産を沢山買って来るから、待っててね。」          
と言ってなだめたのだった。

    トランクに隠れてミーミも行きたいなあ
        淋しげな顔 まなうらに顕つ

 搭乗手続等は、この頃は大分馴れてまごつかなくなり、スムーズに機上の人となることができた。スチュワーデスは皆、国の玄関番のように第一級の女性が配された感があり、乗客の気分を損ねることなく振舞って快適であった。機内食には寿司が出て、食器も黒瀬戸で倉敷の備前焼のようであり、日本人に対する気の使いようは、こちらが痛み入るほどだった。添乗員は音無美紀子に似た美人だったが、健気で優しく、ツアー全員に気配りして呉れていた。長身の髭のパーサーも笑顔を絶やすことなく、客席を飛び回っていた。
 成田を発って十時間ばかりで着陸した所は、ニュージーランド北島のオークランド空港だった。限りなく広がる緑の大地と清浄な空気が、ここにも人間は安住の地を見い出し、楽園としていたのだと感じさせてくれた。あけびの歌友が詠んだ空と大地の青の秀歌を思い出したが、私の未熟な力ではこの感じを詠むことはとてもできないと思ったのだった。エアポートを行き来する客の顔の色は、多様であったが、日本人が半数を占めるほどだったのには驚いた。白人の紳士は悠然として、決して急ぐ様子がないのには、アングロサクソンの威厳と誇りが感じられた。この国を白人が占めてからの幾百年の年月を思い、原住民の姿が殆ど見当たらないのには、民族の強弱による結末とは言え、哀れにも思う私だった。辺りの外人が、夏シャツにゴム草履姿で行き来するのには、この国の人間模様が垣間見えるようで、見飽きることがなかった。ツアーは、ここからシドニー行きの飛行機に乗り換えて、オーストラリアに向かうのだった。

 シドニー着陸と同時に消毒液のスプレーを全身にかけられ、この国の防疫対策の万全さに日本もこのくらいは真似ても良いことだと思った。
 我々を迎えたガイドは日本女性で、諸事をてきぱきと素早く捌くその手際は胸のすく思いがし、その親切さにも感心したのだった。迎えのバスに乗って市内を走っているとき、この国の首都シドニーの悠々として大らかな感じと自然に融け込んだ美しさとに見とれて、これは東京より遙かに優れたものだと感じたのだった。そして、オペラハウスの真っ白い、蓮の花のような建物が碧い海に映え、これがベイブリッジの力強い鉄骨と組み合わされて、正に絶景であった。丁度この日が日曜日だったので何かの行事があったらしく、民族衣装の女性が多く見られて、お祭りのような賑わいだった。海水浴の人が集まっている砂浜近くの丘一帯の赤い砂岩を見て、この国は鉄分の多い岩の国なのだと感じたのだった。                             
 シドニー動物園に入場して、異国の動物たちを目の当りにしたのは面白かった。
駝鳥に似たエミューの脚が、獣のそれのようで恐ろしく感じ、水槽の中をせわしく泳ぎ回っているカモノハシが、鳥ではなく、獣だと聞いて驚くばかりだった。薄暗いジャングルに似せた檻の中にクスクスがいた。私は、ソロモンでこれを追い回して、捕まえて食うことで自らの命を保ったことを思い出していた。
 観客最大の人気はコアラで、その動作を見ていると、無性に可愛さが募って、この獣舎を離れ難くなるのだった。その仕草は幼い子供のようで、木を登る格好もよちよちと遅いので、声を出して応援したくなるほどだった。そして、私は、孫の美希を思い出していた。一緒に行きたいと言っていた淋しげな顔が目に浮かんで、胸が痛くなるのだった。
 翌朝の食事はコーンフレークとミルクという異国ならではのメニューだった。次の観光地キャンベラ行きの搭乗券を配りながら、女性ガイドは笑顔で私達に別れを告げた。お迎えは頼んでありますからと、旅先の無事を祈ってくれたのだった。
 私達の乗った七二七機(セブンツーセブン)は、身軽にシドニー湾を眼下に見下ろして飛んだ。先の大戦で、海軍の潜航艇がこの湾に決死の突入をしたことを思い出し、当時、私を含めて全海軍が豪州めがけての必死攻撃の方針を取っていたことが、まことに無謀であったと思い、人心のうつろいの不思議を突きつけられた感がした。
 キャンベラの新首都建設工事のクレーンが林立する風景を山の上から見たとき、山肌一面が焼け野原と化しているのには驚いた。ガイドの説明によると、これは山火事の跡で、一度発火すると火勢は猛烈を極め、時速四十キロの速さで進んで、大規模な山火事となってしまう。人は只逃げるばかりで、消火など到底不可能なのだという。だが、火事が終われば、数か月で、木々は新芽を出して蘇生し、山は元に戻るのだという。現に黒く焦げた木には青い新芽が芽吹いているのが見えるのだった。
 首都の中心圏を形造る建設は、大きな湖を公共建築群で囲むまことに壮大なもので、年月を超えた遠大な計画の下に焦らず進めている姿は、さすが大英帝国の領邦としての威厳に満ちたものだった。その建設は、着工以来数年を経ているが、完成は十年くらい先になるらしく、我々日本人には思い至らぬことであった。
 新首都建設の熱気に酔ったままの気分でバスに乗った私達は、次の見学地、草原の大牧場に向かった。牧場の大きな木柵を押し開けて牧場に入って行くと、大羊群を従えた農夫が私達を迎えた。羊の群を一匹の牧羊犬が駆け廻って見事に統率しているのには感心させられた。農夫は、これは未だ子供だが、もう十分役に立ちますと眼を細めて言うのだった。農夫は、牧舎に入って、羊の毛を刈る実演も私達に見せてくれた。手慣れた、素早い動作で羊の毛をまるで着物を脱がせるように上手に刈っていき、一匹の羊の毛が衣類のように一枚の形となって刈り終わるのだ。この毛の刈り方一つで、毛の値段が違ってくるそうで、お互いの技術を練って、競争するのだと説明してくれた。羊は、まことに従順で、この作業中、農夫にされる侭になって、決して反抗することはなかった。幾千年も前から、羊は人間の家畜として、おとなしく犠牲となる代表のような存在だったのだ。牧舎の中で、農夫の奥さんが羊の毛を紡いで、毛糸を作る仕事をしていた。足踏みの糸車を操作して、上手に毛糸が生まれてくるのを見て、太古の昔から変わらないこの作業で全世界の人間が命を繋いできたことを思うと、人間は羊に対して感謝の気持ちが足りないように思われてならなかった。この牧場の夫婦の健康で仲睦まじい姿を見て、ここは楽園だなぁと痛感したのだった。
 牧場の木立には白い鳥の群れが見え、それが白オウムだと分かって、ソロモンでもここと同じに、この鳥が群れていたことを思い出した。また、この辺には白黒烏がよく見られ、それがかち烏
(かささぎ)ではなく、嘴の太い本当の烏なのだが、羽根は白と黒の二色になっているのだ。この鳥は、この地の烏として固定したものなのだろうから、所変わればなんとやら、で日本烏が黒一色なのも、何に起因するのか調べてみると面白いと思ったのだった。                     
間もなく、近くにビール飲み放題の焼き肉料理店があるとの話が出て、私達もそこへ押し掛けることになっていた。酒、ビールが飲み放題とのことで、上戸も下戸も手を打って喜び、行って見ると、店は肉を焼く煙で先が見えないほどで、客がごった返し、大賑わいであった。店長も上機嫌で、客をもてなしながらバイオリンを抱えて大声で歌い出した。その歌は、豪州人の十八番、「ワルチング・マチルダ」で、店はその大合唱となり、日本人もこれに合わせて手拍子を打ち、唱和するのだった。肉はとても固くて、私の入れ歯は戦なかばにして降参し、噛むのを止めて丸呑みしたのだった。満腹となり、私達はこの店に続いて営業する売店で、思い思いの土産物を買い漁るのだった。            
 次いで、バスは新首都建設地域を見下ろす丘に立つオーストラリア戦争記念館の参観に廻った。建物の廊下壁面には、銅板に刻まれて戦没勇士の名前が連なり、続く中央の広い吹抜けのドームに立つ兵士像が天に昇る英霊を見送る姿で立っていた。場内のパノラマには、ブーゲンビル島の戦場が暗いジャングルの様相でジオラマ化されてあり、私は本当にそこに立っているように感じて慄然としたのだった。また、シドニー湾に突入した特殊潜航艇の実物が展示してあり、私は戦闘の状況を思い、それを凝視することができなかった。               
 次に訪れた最高裁判所の庭の芝生でインコの群を見たが、雄が雌より色鮮やかで美しいのが、私には幼い頃のひわ取りの思い出と重なって、なるほどと思われたのだった。                  

 そして私達はキャンベラを離れ、雨のシドニーの朝に、オペラハウスとベイブリッジを後にし、豪州を離れて、次の観光地ニュージーランド南島に向かったのだった。                    
 クライストチャーチ空港に着いたのは、すっかり日の暮れた九時頃だった。出迎えてくれたガイドは、落ち着いた中年の貫禄十分な日本婦人で、温かい、母親に会ったような感じのする人だった。空港の建物内には分厚い絨毯が敷き詰められ、ここが寒い国であることを思わせた。私には、「寒い北国」とするのが自然なのだが、ここは赤道を越えた南半球なので、「寒い南国」なのである。この日は、ソ連のスケートダンス劇団が来島したので、夜中まで車の往来が盛んであるとの話だった。 
 この街は、その名の如くチャーチの街で、大きな教会の建ち並ぶその辺りは、深夜の静寂の中にも威厳ある雰囲気に包まれていた。夕食が夜食となり、私達は中華料理店に案内された。白人の青年から笑顔で「こんばんは」と挨拶されて吃驚し、この国も日本人に好意を持ってくれているのだと感じたのだった。明朝は早起きだとのことで、床に入ったが、ロッジ風のこの宿で、ふっとアフリカのケニアの旅を思いつつ寝入ったのだった。                           
 翌朝目を覚まして朝の空気を大きく吸うと、回りは新緑が視界に大きく開けていて、清々しい気分だった。今日こそはマウントクックの登山なりと張り切って朝食を済ませ、飛行場に向かった。飛行機は七二七
(セブンツーセブン)なので、小型であり、離陸は素早かった。すぐに空中の人となると、眼下の街に続く田園の鳥瞰図を見て驚いた。それは、区画の整然とした、設計図を引き着色した絵のようで、円弧あり、半円あり、楕円あり、又、矩形ありの各図形が、全部一分の違いもなく組み合わされ、実に美しかった。これは白人達の頭脳の性格を表現したものだと私は直感したのだった。       
 河辺に来たときに、流れに沿って流線をなす砂州と、緑の木々の線の流れに、緑の小山が配されて、盆景を見るようで楽しかった。それを見ながら、一点の設計漏れもなく国土を作り上げるこの国の国民の合理性を見たような気がした。祖国を離れて、この国に渡ってきた人々は、理想の国を求めて合理的に協力し合って開発に励んだことが推察された。
 やがて機は、山岳部に入り、一木一草許さぬ死の山の如き白皚々たる山々が見えてきた。これこそマウントクックと思った時、機は急降下の態勢を取って、やがて着陸した。私は、急な降下に「すわ事故か。」と思ったが、そこが大河の砂州に造られた飛行場だったのである。この河原飛行場には既に友機も着陸していて、男女の客で賑わっていた。私はついにマウントクックの麓に来たのだ。                
 この山岳探検の飛行機は、八人乗りのセスナで、大氷河を見て、山上の飛行場に着陸するもので、三機のセスナ機が往復していた。片や百三十人乗りほどの七二七等が三機も来ているので、セスナには一時間半も待たされてようやく搭乗できたのだった。だが、今日は天候に恵まれて、セスナ機は休みなしに運行されていた。そして、機上の人となり、セスナは軽快に急上昇して、忽ち山腹の白雪が手の届くほど近くなると、操縦士が指さして、「あれがマウントクックです。」と言い、やがて、白一色の中に既に着陸しているセスナが蟻の一点のように見えた後、それが大きくなったと思う内に我が機は激動して雪上を辷っていた。この機は陸上、雪上の両面着陸が可能なのだ。白雪はさくさくとして、ここの寒気の厳しさを示していた。
 雪上では見物の対象もなく、操縦士がカメラで全員の記念撮影をして再び機に乗ったのだった。今度は前面に山を見ながら激突するかと思う直前に急上昇して、もう一つの山を超えて急降下すると大氷河の上空に出たのだった。千古の昔からの大氷河は、万年雪の中に皚々と横たわり、水は氷の数メートル下を少しずつ溶けて流れて行くらしい。遙か彼方にこの氷河の終点の大湖水の青い水面が見えていた。こうして私達のここでの観光は終わり、元の河原飛行場に着陸したのだった。そして、旅客機に乗ったときにはマウントクック山での記念写真が一同に配られて、その手際の良さに感心し、今日の観光の成功を喜び合ったのだった。

 クライストチャーチに戻って、ホテルで一泊した翌朝の目覚めは、すっかり旅慣れして気軽な気分になっていた。
 私達の案内人は、この地に住んで二十年になると語り、しんみりと、
「二十年も住むと、私もすっかりキウイになりました。」

と言う。何のことかと、不審な気持ちで続く言葉に耳傾けると、

「この国の珍鳥キウイには、面白い習性があります。雌は大きな卵を産むだけで、それを温めることはしません。温めるのは、何ヶ月間も全て雄がやります。私がキウイということは、亭主関白の反対のかかあ天下になってしまったということなんです。」   と言って、ニッと笑ったのだった。日本でも次第にキウイ夫婦が増えているという話題にもなって談笑に花が咲いたのだった。       

 この国の人口は三百五十万人で、羊の数は七千万頭というから、この国は正に羊の国と言って良いのだ。一八五〇年に英国から四隻の帆船で海岸に着いた人々が、山を越えてこの地に入り、ここでの入植を始めたが、以来、街造りに励み、決して急ぐことなく賢明に歩を進めて、街の中心の大聖堂も何十年という歳月をかけて、竣工したとのこと。しかし、未だステンドグラスの三分の二は未完成で、普通のガラス張りとなっているという。                          

 だが、この町は、どの家も人知を集めた豪邸ばかりで、庭園の素晴らしさは見事なものだった。樹木が茂り、池あり、小山ありのところ、平地は花の絨毯だから、まるで夢の国に来たようだった。市営の公園となっている豪邸には、大きな池に野生の鴨の群が集っていて、私達に餌を求めて寄って来るのだった。この国にすっかり馴染んでしまった私には、異国に来た感じがなくなって、日本国内の山奥の古都にいるような気分だったから、何度でも来てみたい所だと思ったのだった。      

 そして、私達は「寒い南島」の観光を終わって、再び北島のオークランドに向かう機上の人となった。途中ウエリントン空港に停機した後、緑の濃さが目に沁みるオークランド空港に着陸した。南島に比べこの島は、未だ真夏のようで、視界は活気に満ちていた。 ゆったりした大食堂で、食事して。そのステーキが、私にとっては初めての柔らかさで、味も日本人向けに調理されていたことは嬉しかった。    
 そして、私達は、次にハミルトンに向かって、緑の大平原の中を進んだのだった。人家のある村に入ったら、ワイカト川が森の中を流れているのが見えた。欧州のドナウを偲ばせる大河で、そこにかかる古風な鉄橋も欧州の匂いがする感じがして、詩情をそそるのだった。     

 平屋建てのグレンビーホテルが今日の宿だった。緑の庭園に包まれたホテルは、静寂そのもので、音といえば、まれに遠くかすかに自動車の音が聞こえるくらいだった。                 

 翌日、私達はハミルトンの街を、ワイトモ鍾乳洞観光に向かって走り出た。今日の観光の目当ては、土ボタルとのことだ。鍾乳洞の洞内深く住む土ボタルは共食いをして成長するとの話に、私は無気味な感じがしたが、それでも一見に値すると思い、気がせくのだった。やがて、私達は八人くらいずつ小舟に乗って、暗い洞内に入って行った。案内人は、坊主頭の大男で、面白い人だった。彼は、自分を大仏様と自己紹介して、次々と可笑しな話に及び、皆を笑わせた。彼の話は、勿論英語なので、私には理解できなかったが、彼の話の区切りごとに笑いの大歓声が湧き、彼こそ一流漫才師だと思ったのだった。       洞内の真っ暗な闇の中で青白い蛍の光が見えだした。そして、それは天井から糸で吊り下がっているようで、無気味だったが、蛍のようには点滅しない。大仏様は小さな声で、「音と光は駄目だ。蛍が怖がって逃げてしまう。カメラと話は厳禁だ。」と説明するのだった。私は、これは蛍ではなく、発光虫で、この洞窟だけに住むため珍重されているのだろうと思った。だが、これは余り研究せず謎の侭が良いと感じたのだった。洞窟の真暗い天井にも無数の蛍の光が満天の星のように散らばって、私はロマンチックな瞑想にふけるのだった。            

 そして、大仏様は別れの挨拶に又一同を笑わせ、私は、ここの見物には彼が絶対必要で、もし彼がいなかったら、暗闇に足もすくみ、気弱い者は恐怖から命にも関わりかねないと思って、彼に感謝したのだった。

 次に車は、この国の一番の珍鳥キウイを見せるというロトルアの施設めざして進んで行った。そこは、緑の大牧場を通って山に入り、傘状の葉が広がる木性シダの生い茂る暗いトンネルを潜った所にあった。この木性シダの名は「ヘゴ」というが、私は、ソロモンでこのヘゴの幹中の白い肉を食ったことを思い出していた。それは何の栄養価もない物だが、飢餓状態の兵達はこれを満腹感を得るだけの窮余の策で食っていたのだ。「レインボースプリング」というこの園に入ると、年若い女店員が恋人に逢ったように大喜びで迎えてくれたのだった。紅鱒の池では、鱒と野鴨が一緒に餌を漁っていて面白かった。私達の目的のキウイは何処?と皆が女店員に聞くと、彼女は「この鳥は小心者で、昼は隠れていて表に出てこないのです。」と言って、自身で大きな鳥かごの藁の中から一羽の鳥を抱えて来て一同に見せたのだった。それは、飛ぶ翼を持たない茶色の、チャボくらいの鳥で、彼女が手から放すと、急いで藁の中に潜って行くのだった。売店の中でキウイの玩具が売られていたが、家内は「キウイは絶滅一歩手前というから哀れで困る」と言って、買うのを止めたのだった。                         
 昼食は、この地で中華料理とは驚いたが、満腹になるほど頂いた。 
 そして、私達は羊ショウの大会場に入った。十八種の羊達が次々と舞台に並んで顔見せをし、羊の種類の多さに驚いたのだった。そして、牧羊犬の賢さには目を見張って驚き、これを教育した牧夫達の苦心はさぞやと想像して、彼らの努力に敬服したのだった。この犬達はセッターのような毛の長い小型犬だが、敏捷な動作で主人の命令に絶対服従する姿には哀れさも感じる私だった。                  
 マオリ族の部落の様子を展示する文化センターでは、彼らの手彫りの手芸品が列べられ、若者達が実演を見せてくれていたが、この民族の彫刻技術は大したもので、マオリ族の苦しみの歴史と共に大切に保存していくべきだと思った。                      
 ロトルアには白煙けぶる間欠泉があり、マオリ族の老媼が、第六感で分かるのか、「噴くぞう!」と叫ぶと、すぐ眼前に湯柱が立ち上がり、十メートル以上も噴き上がって暫く続くのだ。売店で美希の土産にと私がマオリ人形を指さしたら、家内は、「マオリは、黒色で悲しそうで駄目。」と言って、買おうとはしなかった。そう言われてみればそうだなと思い、私も諦めたのだった。                  
 ロトルアの宿に着いた。この町は、商店も多く賑やかだった。食堂に入り、マオリ族はなかなか信心深く、食事の前には丁寧に頭を下げて、神を拝むのだというので、私達も彼らを真似たのだった。マオリ族の踊りが始まり、彼らの汗みずくの熱演は一時間以上も続いて、その間に叫ばれる彼らの言葉が分かれば一層面白かったのにと口惜しく思ったのだった。                             
 旅の終わりにオークランドに戻り、海辺のレストランで食事した後に、金髪の若い女性が、日本が大好きと言って笑った姿が美しかったので、強く記憶に残った。そして、そのとき、彼女に目の前に見える山がランギトト山だと教えられたのだった。                
 デエン山という百九十九メートルの小高い丘に向かう車の中で、ガイドのシャロンさんが、この山はマオリ人の所有だったのを白人が買い取ったのだが、その代価として払ったのは服一着と時計だったという話をしてくれた。それが今は大博物館と公園になって、市民に憩いの場を提供しているのだ。マオリ族の歴史を語る器物が展示されていて、その保存の熱意に感心したのだった。シャロンさんの日本語はまことに幼稚であったが、苦心して伝えてくれたのは、マオリ族の家族思いの心で、家族のためには一身を投げ出すのだと言うことであった。       
 そして、戦争記念館では、先の大戦はこの国にとっての最大の衝撃であったようで、生々しい戦跡や武器類が多数展示されていた。中でも私が驚いたのは、我が海軍の零戦一機が完全な姿でそこにあったことだった。かつて第二〇一航空隊の戦友から聞いた話が思い出された。それは、司令部の命令で残存部品を全島から拾い集めて零戦一機を組立することとなり、隊員が必死の作業でこれを成し遂げ、武装を省いて飛行可能な一機が完成した時に終戦となったと言うのだ。やがて敵のブーゲンビル占領時に敵将がこれを発見し、飛行は可能かとの質問に二〇一航空隊司令の確信ある「飛行可能」の返答で、零戦はラバウルに転送されたと聞いた。その零戦が今ここにあるのだ。私は感激の余り暫し言葉もなく、この零戦にまつわる二〇一隊員の労苦を思って落涙するばかりだった。
 そして、かのガダルカナルの設営隊軍属達が捕虜となってこの地に収容され、今は「ニュージーランド戦友会南星会」を作って、東京での戦友会の会合時に、その名簿を私も受領していたことを思い出し、この国と私との縁を思ったのだった。                  
 オークランドのローズパークホテルでの最後の食事が、シャロン達ガイドさんとの別れとなった。夜空に見上げる南十字星は、一つの赤色星を囲んで最後の別れを惜しんでいるようだった。          
 そして、私達は故国日本の成田空港への一路を真一文字に進んだのだった。                             
 私は、この飛行機がソロモン諸島の上空を飛ぶらしいと聞いて、機内に入る際、あの音無美紀子似の優しい添乗員に、島の写真を撮りたいので是非窓際の席を頼む旨懇願した。それで、左端のAの席を割当てて貰え、感謝したのだった。ソロモン上空は午後一時頃に通過するとの機内アナウンスに、私はカメラの点検等をして、胸躍らせて待機した。やがて機はニューカレドニアの細長い島を眼下にしたので、ソロモン近しと思い、上空に雲のかからぬことだけを神に祈るのだった。暫くして、機内映画のため窓の閉鎖をされたいとのアナウンスがあり、窓なしでは撮影できないので、私は自分の背広を被って機内への光を遮りつつ眼下を凝視する策をとった。機内は温かく上着を被った私は暑さに汗まみれとなったが、必死の思いでカメラを握っていた。時間は正に午後一時となり、眼下の大環礁がソロモンの一部なりと思った私はシャッターを切り、続いてガダルカナル島の島影が見えた時からは無二無三にシャッターを切り続けた。このソロモン上空だけが私の一念からか雲が晴れたが、その一瞬後には眼前白雲ばかりとなって、私の撮影は終わったのだった。

    ソロモンの地下なる戦友
ともよ眠れよと           
        祈りて飛べり永久の別れと


7 桂林の旅
 昭和六十三年三月、私は家内から切望されて、中国は桂林へと旅行することになった。そして、この度は、孫の酒井俊秀を連れての旅としたのだ。それは、彼が受験勉強に大奮闘して、見事慶応中等部に入学を果たしたそのご褒美と彼の教育を兼ねてのものだった。        
 実はつい先月、中国の上海近くの鉄道事故で数十名の日本人旅行者が死亡したことが新聞、テレビで大々的に報じられ、中国旅行の危険性が叫ばれていたが、私は、この事故によって、関係機関の緊張が高まり、再発防止の取組によって早急に安全は確かなものとなるだろうと推測して、旅行を計画通り実行することを決心したのだった。       
 大人並みに成長した俊秀は、空港でもてきぱき動いて頼もしかった。そうして夕暮れ時刻に成田空港を離陸したジャンボ機は、四時間後には香港空港に着陸していた。                    
 私は、ここは四度目で、馴れきっていたが、今回は孫を連れていたので、彼のため海外の見聞を広める機会になればとも思い、気を引き締めていた。私達夫婦の前回の東南アジア旅行からは十年以上経っていたので、香港の様子もすっかり変わっていた。高層ビルが林立する街は、近代都市としての顔が完成しようとしていた。アパート群も全て三十階建てとなっていたから、私は唯呆然と見上げるばかりだった。    
 香港から列車に乗って広州に向かった。特急列車の内装は、車窓のカーテンもあって、客間のようであり、乗客へのサービスは満点と言ってよかった。車窓から見る農村風景は、戦前の日本を見るような感があった。水牛を連れた少年は牛に草を食わせながら田圃道を歩き、緑濃い苗代では農夫が水牛による鋤返しに余念がなかった。小高い丘は畑地にして整然と耕作されていた。農家の庭先にはバナナの大きな葉が風になびいて、日本とはまた違う南国の風景だった。                 
 広州駅周辺は大変な賑わいで、群衆がごった返していた。添乗員が駆け廻って、広州のガイドを探すのだが、なかなか埒が明かず、私達はなす術もなく只待ち呆けるばかりだった。その内に、添乗員と若者の喧嘩が始まって、乱闘騒ぎとなった。それは、広州ガイドが、香港添乗員のとった冷たい態度が気に入らないと怒り出したことに始まったらしい。香港人は、やはり、都会人ぶって広州人を田舎者扱いするところがあるらしい。広州人も面子にかけても負けていないから、喧嘩となるのだ。ようやく話がついて、ガイドから夕方の飛行便によって桂林に向かうことが告げられたのだった。私は先日の列車事故のこと等を思いながらこの先の旅が不安になったが、東京で娘が俊秀のことを心配しているであろう事を思い、俊秀だけは絶対に守らねばと心に決めたのだった。
 広州飛行場の待合室が又大変だった。只待つばかりで、飛行便の状況説明も予定時刻の表示も一切なく、一時間毎にウーロン茶が一缶配られるのみである。私達はこの缶を二缶飲んで、なお待ったのだった。 そして、夜中の十一時過ぎになってようやく搭乗できたのだった。中国は全てが「漫々的没法子
まんまんでーめいふぁーず」なのだ。
 桂林のホテルは鉄筋四階建ての洋館で、別に不足はなく、接客の待遇も良好だった。町の周辺は、桂林名物の土柱のような山が郡立して正に壮観だった。                          
 バスで漓江
(りこう)の川下り船着場に降り立った。そして、我々は異様な人達に囲まれてしまった。老若男女の村民達が土産物を手に持って私達に買わせようと大声で叫びながら争って前に出て騒ぐのだ。十歳くらいの少女も負けじと叫んでいた。「これ千円! 安い、千円!」と、帽子、筆箱等を振り上げるのだった。彼らを必死で押しのけて、ようやく乗船すると、今度は竹の筏に乗った少年が、船の回りを執拗に近付いて買ってくれと迫るのだ。添乗員はこれら物売りの品物は全部偽物だから絶対に買わないように、買う所は私が案内する、と言っていたが、彼らの必死の形相と真剣さに負けて帽子や日傘を買わされた人も数人いたようだ。買う方にとっては只のはした金かも知れないが、彼らにとっては正に大金なので、真剣になるのが当然なのだ。この現場を中共の政治家達は視察する必要があると思う私だった。漓江下りは、このように始まったから私には朗らかなものではなく、一寸悲しい発進ではあったのである。
 孫の俊秀は、ビデオカメラを持って来ていたので、愈々本番だと張り切ってカメラを構え、要点を捉えての撮影をし、その姿勢はなかな堂に入ったものだった。見回す視界は桂林ならではの眼を見張る奇景ばかりで、尖った山が地中から育ったように高々と聳え、その山々には松その他の樹木が茂っているという、庭師が丹精込めた盆栽のような絶景が限りなく続くのだ。乗客はその絶景に度々声を上げて感嘆するのだった。家内は、もう感極まって、                    
「これが私の夢見ていた景色だ!。もうこれで本当に望みが叶ったわ。こうして目の前にこの景色を見ながら川を下れるなんて、唯々有り難いわ。」                             
と言って絶句したのだった。                 
 私か船の下るままに見ていると、この川の中州に住宅があり、そこに老人と子供の姿を見つけて、ここの浮き世離れした生活を羨ましく思ったのだった。だが、実際に村から離れてここに住む人達は、やはり、村の人達を恋しく思うに違いない。川の他に道はなく、全てを船に頼る生活は、一度外との連絡が絶たれたときはさぞ心細く、子供なら何故自分はこの生活を余儀なくされるのかと親を恨んだりしないのか、世は様々だなぁ、等と思ったのだった。二時間もの奇山奇景の連続には、些か疲れを覚えてホテルに帰り着いたのだった。 
 翌朝ホテルの窓を開けたら、霧雨が降っており、空は暗かった。遠く奇山の見える景色を撮ろうと思ってカメラのシャッターを切ったが、余りの暗さにシャッターは下りなかった。桂林地方は雨期に入っていたのだ。                              
 聳え立つ葦笛岩
(レッドフルートロック)という山を登るとき、この山は全山大理石でできているとのガイドの説明があった。私は足の弱い家内に手を貸して庇いながら登らねばならなかった。そして、次には鍾乳洞への道を急いだ。鍾乳洞は、悪魔の悪戯のような奇怪な岩があちこちから私達を脅すように現れたが、岩には声がないから、それが唯一の救いだった。石柱、石筍あり、「獅子乙女」まであって、それらが電光で次々演出されていた。やがて大パノラマの場所に来て、湖水に写る‘冨士山‘の景色には一同嘆声を上げて喜んだのだった。           
 この辺一帯は、石灰石の地質なので、雨水に年月かけて削られて、奇山が聳え、又、鍾乳洞も穿たれるのだ。文化が発展すれば、大セメント工場が現出したりするのだろうが、今のまま文化はこの地に不要であって欲しいと思ったのだった。                   
 動物園でパンダを見たが、彼は昼寝中で、私達に尻を見せての挨拶に、見物での満悦は諦めるほかなかった。               
 昼食を摂った大酒家は広大な洞の中にあった。中華料理は油を薄くして、日本人向きに調理され、皆、その味を褒めつつビールを楽しんだ。
 私は売店で一枚の墨絵を買ったが、家内は店側の言い値のまま買った私を責めるので参ったのだった。                 
 かくして、桂林に別れを告げることとなり、空港に向かった。広州まで汽車で十七時間かかる道のりを、飛行機によって僅か四十五分で飛んで広州空港に着陸したのだった。                 
 広州での出迎えガイドは若い美人だった。この人が、この地は楊貴妃の出生地なので「広州美人」で知られるとの一席を弁じたから、説得力ありだった。そして、広州は、食よし、物よし、婦人よし、と話すガイドの賛辞を聞きながら、雨の中を車中の人となっていた。この日の宿は立派なホテルで申し分がなかった。                
 広州駅での出国手続は、やはり気の抜けない関門だった。中国の官憲はなかなか厳しくて、決して急ぐことなく、時間をかけるのだ。順々に審査されて、私の前の人は不勿
(ブス)の判定であったので、私は神妙な態度で書類を差し出し、無事許されて、ほっとしたのだった。孫の俊秀は、一人前の堂々たる態度ですぐに関門を出て、笑っていたので頼もしく感じたのだった。                         
 列車に乗ったところ、今日の客車は往路の時より更に高級のようで、「軟座車」の標記があった。一般市民も一緒で、独りで乗った婦人は上流の人らしく、悠然と席に座っていた。国境近くの町、深圳は、近年急速に発展した商工業都市で、窓外の街の様子は往来する車の騒音と行き交う人々で賑わい、大変活動的であった。

 国境を越えれば、即ち英国領の香港で、整然たる文化都市は、慌てず騒がずの悠然たるものだった。
 香港では、女達は唯もう買物欲ばかりとなり、孫は何だか不機嫌となった。家内は心配して、私に孫を連れて気晴らしに外出するよう勧めた。私もこの孫が私達の世話を良くしてくれ、食堂に入れば三人分の席を確保して案内してくれる気遣いに、その成長ぶりを見て感心していたので、家内の言に従って二人で宵の街を散歩したのだった。          
 翌日、次の観スポット、雨のレパルスベイに下りたとき、少し問題が起きた。それは、私のトランクが一個紛失していたのだ。私達は、旅行荷物は自分では運ばず、全部添乗員が手配して、ホテルからバスに積んでくれるので、紛失については全然気付かなかった。紛失となれば重大なことだが、私としてもなす術がない。困り果てたが、成り行きに任せるほかなかった。だが、車内電話で、ホテルから不明だったトランクが転送されて届いたとの連絡が入り、またしても私は神に感謝したのだった。  
 俊秀も機嫌を直して、一心にビデオカメラを回し、記録係の任務に余念がなかった。レパルスベイの別荘地を望観し、「アグネス・チャン」の別荘をガイドが指さして説明していた。夕方となり、海辺の満艦飾食堂での大酒宴は盛大で愉快なものだった。                    
 山上から眺めた夜の香港は、晴れれば百万ドルの夜景だったが、今夜は雨で 十万ドルくらいかと思っていたところ、幸運にも、そのうちに雨が止み、赤や青の電灯やイルミネーションが宝石をちりばめたように煌めいて正に百万ドルだと一同嘆声を上げたのだった。俊秀もビデオ撮りに夢中だったので、私は車を降りて、その孫の姿をカメラに収めたのだった。 
 この旅行で孫俊秀は、実によく働いて、立派に私達祖父母の世話役を務めてくれ、もう何処に出しても心配ない一人前の男性になった。帰京して、私は娘夫婦に、このことを話し、今回の旅行は彼のため又とない良い社会勉強になったであろうと伝えたのだった。

五三 洋吉転勤に際し荷輸送の苦心                
 息子洋吉は、判事補としての名古屋地裁での三年間の勤務を終わり、仙台地裁へ転勤との決定のあった昭和五十年の三月に結婚して、仙台に新居を構えた。それが老朽官舎で、私がその補修に一役果たしたが、ここでの三年も既に経過して、次の任地は北海道の網走地裁と決まったとき、嫁の寿恵さんは泣いたそうだ。息子は嫁の悲嘆に閉口したらしいが、それも若い二人で乗り越えて、奮起一番新任地へと出発したのだった。荷物の輸送は海を渡ることなので、私の手には負えず、仙台からの業者輸送で全部済んで、一戸建ての官舎に入居できたとの通知があって安堵したのだった。                         
 私達夫婦は、その年の初夏に、利尻礼文回りのツアーに参加して、女満別空港で洋吉の出迎えを受け、一緒に網走湖、サロマ湖等のドライブをして別れたのだった。仙台にいる時に先ず一番の気掛かりは懐妊のことだった。そして、三年経った時は、それが不安ともなっていた。そして、私達夫婦の旧婚旅行のツアーで島根の大山神社に参拝した時、そこの境内に大きな牛の像が据えられてあり、願い事をすれば叶うとあったので、私は一心に嫁の懐妊を願ったのだった。家内も何事かを願っていたので、山を降りてから私が聞いたら、家内の願いも私と同じだった。そして、その二か月程後に、洋吉から見事懐妊の知らせが届いたのだった。この大山神社の御神力には唯々有り難いばかりで、私達二人は、早速大山にお礼参りの旅支度を急いだのだった。はるばる電車を乗り継いで参拝を無事終わった時には、まことに良い気持ちがして、私達の熱い願いが神様の御心に届いて、困った時の神頼みの言葉のとおり、人間の力では及ばないことを神様は聞き届けて下さる有り難さを痛感したのだった。無事の女児出産に、「一姫二太郎」の言葉通りの理想的な子作りになるぞと喜んだのだった。川越での出産を済ませて、網走の生活に馴染んだ頃、網走での勤務二年で転勤時期が来て、次は、東京家裁と任地が決まり、漸く往来可能な任地となることを寿恵さんの実家、川越の松田家と共に大いに喜んだのだった。官舎は金沢文庫とのことで、翌五十五年三月の引越作戦が私の出番となったのである。        
 我が社の車両トヨエースは、洋吉の結婚直前に新車に入れ替えたので、未だ健在だったが、我が社の運転手下山君は退社していたので、建築資材等は下請達が自業関係は自車で運ぶこととしていたから、トヨエースは使うことが少なく、殆ど戦友会の輸送車となっていた。洋吉の話で、大きな荷は全部運送業者に頼んだが、その荷を金沢文庫官舎で待つ間の数日間に必要な生活道具だけは私のトヨエースで運んで貰いたいとのことで、それを私が引き受けることになった。            
 そこで私は、晴海の埠頭から釧路行きのフェリーで北海道に向かうことに決めたのだった。唯独り晴海埠頭から乗船し、食堂で一杯飲んでの船旅は実に愉快なもので、この先決死の苦闘が待ち受けることなど予想すべくもなく、気楽な船旅であった。              
 釧路港に入港し、トラックと共に船を降りて街道に出たのは寒い早朝だった。阿寒の山越えの道は初めてだったが、敵の攻撃がある訳でもなく、一本道なので、私は気楽な気分で出発したのだった。釧路市内は濡れた雪道だったが、山間に入ったときには、道路は固く凍っていた。私は洋吉と打ち合わせた時刻まで余り時間がなかったので、他のトラックがチェーンを巻かないで走って行くのを見て、走れる所までは行こうと思い、道を急いだのだった。そして暫く進んで行くと、フロントガラスが曇ってきた。湿原が近かったので、霧で曇ったかと思い、停車して布で拭いてみて驚いた。それは霧ではなく、寒さでフロント一面に氷が張っていたのだ。これを取るには相当の力が必要で、漸く透明にして運転を再開したが、また忽ち前方が見えなくなる。これは堪らない。何度もガラスを拭いていたのでは、午後一時半の約束の時間に間に合わなくなる。ガラスを割る他に手はないかと思い詰めたりしたが、車が山地を登り始めるとガラスが曇らなくなった。やはり、湿原地帯を来るときは、湿気でガラスが凍ったが、山登りになって湿気が減って助かったのだろう。ガラスを割らなくて良かった。割っていたら私は凍死していたかも知れない。                           
 しかし、さらに行くうちに、今度はハンドルがおかしくなった。車がふらふらと酔ったようになるのだ。道路が凍り付いて辷るためだった。私は、坂道の手前で停車し、チェーン装着にかかった。車外に出て、我が車の様相を見て驚いた。私の車は荷台からの雫が凍って氷柱となり、それが汚れて黒い毛のように見えて、丁度ヒマラヤのヤクの毛が垂れているようだった。このような姿は私の初めて見るものだった。チェーンの装着は、一々タイヤを外して装着の上、またボルトを締める作業なので、二輪の装着には一時間近くかかった。トヨエースの後輪にチェーンを着け終わり、これで一先ず心配なしと発進した私だったが、時間を思ってスピードを速めたら、前輪が辷ってハンドルを取られてしまうのだ。他の車は皆、前後輪にチェーンを巻いて走っていたが、私は後輪分しか用意がなかった。もし辷って谷に落ちたらヒグマの襲撃に遭うかも知れないから、絶対に転落は避けなければならない。私は、景色を眺める余裕どころでなく、阿寒湖、美幌の観光スポットも上の空で、スピードを抑え、ハンドルを必死に握って進んだのだった。網走の官舎に着いたのは約束の時間より二十分くらいの遅刻ですんだが、役所の人達の手伝いがあって、荷を積むのは予定通りに済んだようだった。
 トラックへの荷積みを終わって、手伝いに来ていた川越のお母さんと私と洋吉一家は、ひとまず、裁判所脇の海を見下ろす旅館に一泊することになった。                          
 そして移動経路を、女達と子供は明朝網走駅からのリムジンバスで女満別空港に向かい、私と洋吉は、トラックと乗用車で釧路港に出ることになった。翌朝目を覚まして宿の窓から網走港を望見すると、静かな海面は波一つなく晴れ渡り、良い眺めだった。だが、見ていると、船が少しも動かないので、未だ眠っているのかと思ったら、それは海が全部凍っていて、一面の氷海だったのだ。今年は、流氷が異常で未だこの海に漂着していなかったので、凍った海面が私には見分けがつかなかったのだ。                              
 洋吉は乗用車に乗り、私はトラックで、快晴の網走を出発したのだが、洋吉が先行し、私は後続して、網走市街を出る所で、私の車は前輪が辷って、街道の真ん中でぐるぐる廻ってしまった。洋吉が暫くして戻って来て、吃驚して、二人相談の結果、決してスピードを出さないこと、急ハンドルは切らないことと確認の上、厳重に用心して走ることとしたのだった。当日のラジオで、釧路市内のスリップ事故で死者が出たと洋吉が話していたし、私達は死ぬ訳にはいかないので、大事を取ることを互いに肝に銘じたのだった。それからは、スピードを落とし、後続の車からブーブー鳴らされても、節を曲げずに進んだのだった。私がチェーンを装着した三叉路で洋吉が、右に行くべきところを左の方に直進して行ってしまい、私が停車して待っていたら、戻って来たので、「右が釧路で、左は根室だ。俺はここでチェーンを着けたから覚えがある。」と言って進路を正したこともあった。私の車の燃料が不足して、補給のためスタンドを探しても見当たらず、ようやく雑貨屋で分けて貰って済ましたり、チェーンの異常に気付いて停車したら、チェーンが切れていたこともあった。丁度、雪道が終わったところだったので、チェーンを外して釧路港に入ったという具合であった。
 洋吉は、裁判所に挨拶があると言って、出航時間を確認し、船出には間に合わせると約して出掛けた。私は先に乗船し、乗用車一台の予約をして待ったが、なかなか来ないのでやきもきしたのだった。洋吉は最後の出港五分前になってようやく着いて、急いで乗船したのだった。  
 乗船すれば後は船任せの呑気な旅だった。晴海で上陸し、世田谷に無事帰着することができた。
 金沢文庫は、私が戦後に三浦技手と務めた運建の降車駅金沢八景の隣で、周囲はホームグランドのようなものだから、懐かしいばかりだった。官舎は鉄筋五階建ての最上階だった。五階まで上げるのは大変だったが、私のトラックの積荷は、私達でなんとか処理できた。しかし、業者に頼んだ荷物は大物があり、随分心配したが、流石本職の腕は大したもので、易々と完了したので、やはり餅は餅屋だなぁと感心したのだった。
 その後嫁の第二子懐妊で、官舎を五階から一階に変更して貰った後、私がクーラーを取り付ける作業に赴いた。ここは海辺近くの、環境の良い所で、人工の渚もあり、又、近辺には金沢八景の名所や寺院もあって、洋吉一家には最高の任地であったが、良い所の勤務は短期の三年で、次の任地は又しても東北の秋田となったのだった。           

 昭和五十八年四月、秋田への引越しは私のトラックで一車分運ぶこととなり、今度は家内を連れて、東北道を行くことにした。環七から赤羽を経て入った東北道は早春の候で、桜の花も見え、気分は爽快だった。高速道路の通行はまことに愉快だったが、高速を下りて一般道路に入ってからが一苦労だった。街の中を行くのは未だ良いのだが、山間に入ってからは、道順は地図があるから迷わなくとも、何分遠距離なので、大体予定通りに走っているかどうかにさえ、初めてなので神経が要るのだ。また、山道の登り坂等は危険極まるもので、一歩間違えれば千尋の谷底に転落するから、私は必死の思いでハンドルを握っていた。下りてくる車は馴れたものらしく、猛スピードですれ違うが、登る私はこれを避けて谷側に寄ることになるので、冷や汗をかき神に祈りながらの運転だった。途中の長いトンネルも暗い上に、勾配の登り下りがあるので、必死の思いだった。       
 田沢湖近くの街に出た時にはようやくほっとして、湖畔で休憩をしたのだった。もうここまで来れば一安心と家内に言って、洋吉達と会えることを楽しみに前進した。秋田の街に入って、一寸まごついたが、停車してニ度程通行人に道を尋ねて、ついに裁判所官舎に着いたのだった。
 官舎は三階建ての鉄筋コンクリのアパートで、洋吉の部屋は二階だったが、広い階段で、荷を上げるには何の苦もなかった。一別以来の孫達の元気な様子に喜び、団欒の食事をしたのだった。         
 翌日は休養とし、私はこの際横須賀工廠で一緒だった旧友の加賀屋養蔵君に会いたいと思い、家内と共に出かけたのだった。加賀屋君とは横須賀で二十二年前に一回会っただけなので、郷里秋田にいるところを訪ねたいと思ったのだ。彼の住居を訪ねて、戦前の楠ヶ浦の話や戦地の話等、二人で話し出せば語り尽きなかった。彼の奥さんは楠ヶ浦勤務だった菊池工員の妹で、彼らの恋愛は現場事務所中の話題になっていたのだ。この奥さんが昔のままの笑顔で迎えてくれた時は、懐かしさで感激したのだった。加賀屋君は現在、秋田での会社勤務で、子供もいて安泰な生活の様子だったので安心し、できれば又の再会をと約束して別れたのだった。                             
 私と家内は翌日宮城県の白石にホテルを予約していたので、早朝に秋田を出発したのだった。                     
 国道十三号線の上りは一本道で、私は車のスピードを上げて進んだ。途中は観光も無しにして、目的地に向かったが、山形を過ぎ上山に入った時は、既に予定時刻に一時間も遅れていた。この町には斎藤茂吉旧居記念館がある筈だが、今はそれどころではなかった。私は、小用が我慢の極に達していたので、停車して済ませる時間も惜しんで、また車に飛び乗ったのだった。車は山間の小暗い所に入り、道も険しくなった。こんな悪路が県道なのかと訝りながら、時間を気にして進むうち、山を出て空の見える街に出た。既に日は暮れていたが、ホテルの在りかを人に尋ねて、一時間遅れでやっと着いたときは、ほっと胸を撫で下ろしたのだった。予約の時間に遅れたことを詫びて、入室したときには、家内と二人で、車での移動は予定が立て難いことを話し合ったのだった。
 翌朝、ホテルを出発して東北道を快適な気分で走り出したのだったが、その先にはやがて最悪の事態が待っていた。

 那須を過ぎた辺りから車の調子がおかしくなっていた。矢板の手前でついに愛車は停止して、エンジンのメタルが駄目になったことを知ったのだった。家内を説得して車を断念し、矢板インターから下りて、インター事務所に車を頼み、家内と電車で帰京したのだった。この車も買って八年経っていたので、寿命が来たと思うほかなかった。迫自動車に依頼して、車の転送と修理をして貰い、そして、新車と交替としたのだ。

 その年
(昭和五八年)の夏、私と家内は飛行機で秋田に飛び、五泊六日の予定で旅行を楽しんだのだった。秋田の洋吉宅に泊まるのは嫁に苦労をかけるから、行った日と帰りの日の二泊だけ泊めて貰って、あとは旅行先で宿屋に泊まることにした。私が三年乗って、洋吉に譲ったスバルの普通ギア車を借りてのドライブ旅行だった。私は、既にノーギアの車に乗っていたので、昔に戻ったようだったが、自分の馴らした車なので、すぐに不自由を感じなくなって、気楽に観光ドライブと洒落込んだのだった。                 
 男鹿半島を廻って、大館を過ぎ、碇ヶ関の健保センターが今日の宿だった。この宿は、二泊取ってあったので、翌日は十和田湖に向かい、湖畔を半周して、帰途は青森の街を通り、宿に帰った。静かな田舎町で、休養には最適だった。そして、次の日は八幡平見物としたので、長距離ドライブとなり、山頂からの展望、深い森林の道を下っての湖面の風景等見飽きることのない絶景ばかりだった。               
 次の日は、田沢湖方面に回り、乳頭温泉郷の最奥地、黒湯温泉の秘境への道も忘れることのできないものだった。            
 また、洋吉が勧めてくれた「抱返り渓谷」は道が細いので、人と人は抱き合って交差する外ないとの意味で、それ程自然の侭の深い谷川は、私には返りたくない程に見応えある景色だった。          
 洋吉の家で一泊し、八月二十五日に私達二人は、また機上の人となって帰京したのだった。だが、これが一生の別れとなりかねない事態が二日後の八月二十七日に待っていようとは神ならぬ身の知る由もなかった。

五四 戦友会活動その後(神田会長の死)
 全国ソロモン会の幹事としての活動は、私にとって本業の建築よりも重きをなした形となっていた。会長の神田正種元陸軍中将の米寿の祝賀会が伊豆稲取の料亭で挙行され、海軍からは池上厳、前田茂両氏が出席した。私も、ボ島
(ブーゲンビル島)の種で咲かせた日々草の鉢を贈呈して喜んで頂いたのだった。ベララベラ島政府派遣捜索団の後は、政府への期待を捨て、戦友会だけで決着を付けようと浜崎積三氏が幹事を励ましたのだった。浜崎さんが陸上自衛隊との緊密な連絡の必要性を説いて、陸自から有線電話の供与を受けることができた。私がそれをトラックで、雨の中、西伊豆の港まで運んで大洋漁業の船に積んだこともあった。      
 昭和五十八年一月十五日に神田閣下急逝の報に接した時には、早速浜崎さんと共に伊豆稲取の閣下宅に参上した。この住宅は部下の軍医が閣下のために温泉付きの建物をお世話したと聞いたが、六畳と四畳半だけのまことにこじんまりした平屋で、その六畳の間に床が敷かれてあった。私達二人が座ると客の座る場所が二人分くらいで、私はずっとそこに座りきりだった。                           
 閣下の娘婿が中国戦線の勇将松井石根大将の息子であったので、彼が遺族として葬儀等の手配一切を仕切っていた。彼の話では、「義父は葬儀一切は不要とかねて遺言していたので、行いません。」とのことだったが、浜崎さんは、「いや、私は閣下と何度か話をして、閣下の葬儀は全国ソロモン会で執り行うことが決まっていたのです。」と強調し、女婿と相談の上、まず当地の寺で家族親戚だけの密葬を行い、次いで東京で全国ソロモン会の会葬を行うことが決定されたのだった。
 私はお寺での葬儀に参列の後、東京に帰り、そして、ソロモン会幹事による葬儀の期日と場所の協議が行われた。期日は一月二十四日と決まったのだが、場所を決めるのに難渋した。閣下の宗派からは芝増上寺が最適だったが、ここは会場費だけでも百五十万円かかるとのこと、一切の葬儀費が計五、六百万円となって、当会としては無い袖は振れなかった。幹事達それぞれの関係する寺の何れも会場費等で百万を下ることは不可能だった。その内一二一設の仲間で戦友会でも親交のあった中島与作君から信濃町の千日谷会堂はどうかとの話があり、早速電話で問い合わせたところ、会場費三十万円で、式場の飾り、駐車場共一式供与しますとの返事があり、会場は千日谷会堂に決定したのだった。各部隊が各々手分けして会葬通知を発し、戦友会全員に流して、できるだけ多額の香料をとの望みを託し会葬を募ったのだった。海軍関係は私が担当して発進した。浜崎さんは声を高めて、「皆は通報に際しては、「分相応」をモットーに、そして、何としても多額の金が集まるよう、頼む。」と幹事一同に檄を飛ばしたのだった。               
 当日、晴天下の千日谷会堂は、多数の花輪が三列に並び、会場は旧十七軍司令官の葬儀に相応しい荘厳な場となって、参集する陸海軍の旧軍人遺族で埋まったのだった。浄土宗導師の厳粛な読経で葬儀が進み、参列者一同の焼香で一切は終了した。                
 神田閣下の法名浩徳院殿法誉智眞正種大居士という立派な位牌を拝して、私達はこの葬儀を無事挙行できたことに安堵したのだった。私は、海軍の、病弱となられた老将達を送り迎えするのに駆け廻り、疲れ果てたのだった。今回、神田閣下の逝去に当り、天皇陛下から祭粢料が下賜されたことが後日知らされ、感激したのだった。

 昭和五十八年七月から全国ソロモン会によるベララベラ島の日本兵捜索隊計画が始まり、隊員三名による約三か月間の捜索計画が立てられ、私はそのための資材調達の任を担うこととなって、その作業に着手した。今回は全国からの助言や提言に基づき、種々の新考案も採り入れていたから、その資材の調達は必ずしも容易ではなかった。私は、八月十九日から秋田の洋吉宅に夫婦で出掛ける予定があったが、それ迄に資材購入を完了し、荷造りを残すだけとなっていた。その折に、神田会長の後を継いだ浜崎新会長から私に依頼があった。             
「小池君。今度漸く私達の念願が叶ってソロモンに本式の慰霊碑が建てられることになった。君に設計一切を任せる。是非頼む。」     
と言うのだった。私は早速設計に取り掛かることにした。会長はサイパン島に建った慰霊塔の写真を参考にと手渡してくれた。その塔は長く伸びた腕を合わせる形であったが、現地でそれを工作する工事は難しかったろうと思われた。現地ではキリスト教が受け容れられており、仏教様式のものは余りそぐわないであろうし、また、陸海軍を象徴する様式のものも避けた方が無難であると思われた。あれを思い、之を思うとなかなか妙案も浮かばず、これと決めることが難しかった。私は白紙を前に夜を徹して考えて、未明には寝込んでいた。            
 そして、目を覚ましたときに、はっと閃いたのが、両手を合掌する形だった。「合掌! これこそは万国共通の祈りの姿だ。そうだ、これだ!」と、ついに私の考えが定まった。そして、この形を図案化すべく、指の線は省き、合掌の下の空間を祭壇として整えて、大体の図形が決まった。私はこれを内地での鉄製型枠造りとし、現地で鉄筋を組んで、型をボルト締めし、コンクリート打ちすれば完成できると考えた。この工法で、丈高三メートル半として、設計図と見積書、それに十分の一の模型を作製して、八月十八日に浜崎会長に提出したのだ。会長は、白色に塗装した木製の模型を見て、                       
「これは良い。これに決定だ。」                 
と納得し、その上で、これの実施計画を相談する段となって、    
「君は是非来年現地に行って工事してくれ。」と私に言うのだった。 
 私は、これを受けて、                     
「大工一人と鳶一人の同行がどうしても必要となります。」     
と言ったのだが、会長は、                    
「君は現地に行った経験があるから、分かると思うが、人一人連れて行くには二百五十万は掛かる、二人で五百万だが、それは到底駄目だ。金が出来ない。君は言葉も出来るし、現地人も使える。君一人で行っても君なら何でも出来るよ。」
と、工事には私の参加だけを望んだのだった。私は現地の様子は熟知している。彼らは一日二時間きり働かない。私一人が行くとなれば、私自身がコンクリート打ちをやる覚悟が必要だった。四十度、五十度の炎天下で七十近い私がその労働をとなれば、私は命を失うに違いない。だが、八割が死んだソロモンの戦友達を思う時、私は生きて還ってこれまで内地で楽しく過ごせたのだから、ソロモンの慰霊碑建立のためにこの命を捧げても何も惜しくはない。そうだ、それこそが私の務めであり、戦友達に報いる良い機会だと思い、私は会長に単独工事を承諾したのだった。家内には「設計者の任務として、最初の一基だけは立ち会わなければならない。」と言って、現地行きを説得する他はないと心に決め、そして、私は家内と共に秋田へと出発したのだった。

五五 脳梗塞による緊急入院の顛末
 昭和五十八年八月二十五日に、私と家内は秋田から帰京し、山間を駆け巡った旅の疲れも多少残ったが、思う存分気分転換もできたから、また頑張るかという心境だった。二十六日は、弦巻センターの創立記念の展示があるというので、家内と展示を見に行き、「あけび」会から出品された私の短歌の短冊を見てきた。そして、その後、私の貸店舗に入っていた「魚万」
(小野万次)が夫婦で挨拶に来て、「今月末をもって転居することにしました。」と言ってきた。彼は、二十五年前からの借家人で、最初から続いて店を営んできたのは彼だけだった。四、五年前まで、この辺では高級魚で知られて、弦巻五丁目の井上靖宅にも出入りし、又遠く用賀の方まで魚を届ける等、多くの屋敷の注文を受けて大繁盛だったが、その頃から町内にスーパーの出店が相次ぎ、一般小売りが急激に衰退する大波に抗することは出来なかったのだ。彼は廃業に追い込まれ、ハイヤー運転手に転業したのだった。彼は、奥沢の大きな魚屋の息子で、我が家の店舗契約の時には私もその家に行ったことがあるので、その店主である彼の兄にも会っていた。兄貴は代々の店を継ぐ堂々たる好人物で、その弟であれば間違いなしと、私は踏んだのだった。彼は、嫁さんを貰っての新婚船出の開店だった。二人の娘も出来、彼の母親が同居したこともあったが、その母親は溺愛タイプの人で、彼を我侭者にしてしまったようだ。悪気はなさそうなのだが、いたずらっ気があり、無法者の気配を漂わせていた。彼は営業を辞めてから暫くして、「この家を住宅に改造したいと思うのですが。」と言ってきた。私は、「それは許しません。ここは最初から食品関係の店舗と決めているので、街のためにも住宅には出来ません。」私は言葉を継いで、「私は縁あって貴方の大家となった。大家と言えば親も同然と昔から言うとおりだから、大家として貴方のためにならないことは望まない。貴方が適当な家が見つかる迄は待ちますから、改造は止めて下さい。転居の時には預かった権利金二十五万円を百万円にしてお返しします。」と約束したのだった。
 その後、この辺にいたずら事件が続発して大変な騒ぎとなった。深夜に店の前の理髪店や並びの店舗に投石があり、被害が続いた。警察も事件を重視して捜査を始めた。そして、深夜の張込みが隠密裡に進められ、ついに犯人が逮捕されたのだった。彼は数日間留置された後、微罪として説諭釈放となったが、それからは行跡が治まり、問題を起こすこともなくなったようだった。私としては彼らが転居することを待つ気持ちが時が経つ程に強くなっていたのだ。
 そして、今日の終幕となった訳であるから、私は大歓声を上げたい気持ちであった。丁度栄楽の孫娘が結婚した相手の九州熊本の田尻君の土産に貰った球磨焼酎が残っていたのを思い出し、家内に言って、それを出させて飲み始めた。私はウイスキーでも焼酎でも水割りは嫌いで、生のまま飲むのが好きだったので、生で飲んで是好しと喜んでいた。家内はテレビに夢中で、私のことはお構いなしだった。私は上機嫌で何時の間にか四合瓶一本を空にして、深い眠りに入っていた。
 だが、その眠りは底知れぬ深さで、あの世に通じていたのだ。十一時過ぎの頃、家内は私の鼾が止んでいるのに気が付いて、私を呼び起こしたが何の反応もなく、顔面が紫色になって呼吸も止まっているのに吃驚したと言う。これは駄目だと思ったが、動転して次の行動ができず、咄嗟に眞理子に電話をかけたという。眞理子がバイクで飛んで来て、  
「これは救急車だ! もう呼んだの?」                 
と言うのに、未だだというので、急いで一一九番したのだった。十分程して救急車が到着したが、私はすぐに乗車できる状態ではなく、意識不明の上、嘔吐と下痢で汚れて、着衣を替えるのに大騒ぎだったという。病院も隊員が先ず電話した中央病院は当直医が外科のため不可とのことで、他を当たるのだが、なかなか決まらなかった。そして漸く受入先が決まって出発した時には、到着から四十分近くが経っていた。

 救急車は深沢の長谷川救急病院に到着した。当直医が当院院長で、看護婦を従えて待機していた、直ちに手当に着手した。だが、私は全然反応がなく、院長は首をひねって考えるばかり、そして、私の心臓が未だ動いているのを確認して家内に告げたのだった。         
「これはまことに重大で難しいことになった。私は最後の手段で処置しますが、再生の見込みは難しい。恐らく今晩この人は終わりになると思うので、親族の方には来て貰うように。」             
そうして、太い点滴の瓶を取り付けて、応急処置を完了した。家内は、早速、秋田の洋吉に電話して、私が倒れた旨を告げ、明朝の一番機で、喪服持参で来るように連絡し、又、栄楽にもすぐ来てほしい旨告げたのだった。間もなく、栄楽から全員が駆けつけたが、私は意識不明で手の付けようもなく、絶望的な状況を前に、皆は、突然のことで呆然と立ち尽くすばかりだった。途中、点滴が三時間で終わって、次の瓶に替え、それを続ける以外に手はなかった。                
 翌朝、四時半ころ、私は夢の中で、意識が戻ったようだった。私は、自分が碇ヶ関のホテルに寝ているつもりだった。そして、自分がベッドに寝ていることに気付いて、このホテルは病室まで設備されているのか、大したものだ、と感心していた。だが、だんだんと意識が戻ってきて、私が酔って発病し、病院にいるということが分かり、次いで、喉の渇きに襲われた。すぐ脇に家内がいるのに気付いて、          
「おい、ビールを呉れ。喉が渇いて何とも堪らないんだよ。」    
と言った。家内は傍らに立っていた看護婦の方を見、視線が合った看護婦はすぐに院長の所に跳んで行った。院長は、私の病状から夜中に臨終で起こされることを予期して白衣のまま仮眠していたが、すぐ駆けつけて来て私を見、吃驚して言った。                    
「この人はどうなっているのかな。頭を割って調べたいほどだ。何とも不思議な人だな。」                        
そして、私は院長に聞いた。                   
「私はやはり脳をやられたんでしょうか?」            
院長は、                            
「そうです。脳梗塞で、一時は脳死だった。だが、最後の薬が効いたのだ。こんなことは珍しいんです。」                
と言うから、私は、                             
「もう何ともありません。頭はすっきりして良い気分です。もう治ったのですから、帰って良いでしょうか。」              
と聞いたが、院長は、                      
「いやいや、とんでもない。今日は日曜で、技師が休みだから、明日厳密に検査して、調べなければならない。今日の退院は駄目です。」   
ときっぱり言うのだった。喉の渇きには、茶碗に半分程のお茶を貰ったのだった。私は家内に秋田には何と言ったか聞いたが、喪服持参で来いと言ったと聞いて、すぐ上京不要と告げさせたのだった。      
 やがて昼食の時間となり、私が空腹で困ると言ったら、院長はかけうどん一杯なら良し、と許してくれた。これが私には最高のご馳走となり、旨いことこの上なかったから、汁一滴まで飲み干したのだった。美希達も見舞いに来てくれ、皆、私の回復を心から喜んでくれて、私は、安堵と共に、又しても、あの世からの生還が叶って、神の御技の不思議を身に沁みて感じていた。家内がこの際歌でも作るよう言うので、用紙を買わせて短歌を十首ほど詠み、来月の提出歌が出来たことを喜んだのだった。                              
 翌日午後から三時間ほど病院中の検査機の間を総廻りするように色々な検査を受けた。心電図からレントゲン、血液検査等と廻ったが、何処でも悪い状況にあるとは出なかったようだ。最後に院長が判定を下す際、彼は書類に目を通し、首をかしげて、言った。           
「これだけでは病気判定の下しようがない。少し血糖が高いようだから、酒を止めて、糖尿病に注意した食事を摂るようにし、退院したら暫くは寝ているように。そして、通院して下さい。」           
 かくして私は退院し、家内は、全国ソロモン会の資材購入や慰霊碑設計による過労が原因と判断して、早速、浜崎会長に電話し、     
「主人は、過労で倒れ、入院しました。これからは、そちらの仕事が出来なくなりましたので、一切手を引かせます。」          
と強く言ったのだった。会長は、
「それは気の毒をした。大事にするように。病人を働かせる訳にはいかない。」旨言ってくれたと言う。
 そして、数日後に中島さんと村上さんが私の家に見舞いに来て、私の元気な姿を目にして喜んでくれた。私は、今回のことで会の手伝いが出来なくなったことを詫び、ベララベラ島捜索隊の資材と書類を彼らに引き継いだのだった。その後、同捜索隊はこの荷物と共に無事出発した。

     白髪の裸の兵を見しといふ
        南の島に急げ 隊員
 昭和五十八年十月二十四日の靖国神社慰霊祭には私も出席した。そして、参集した会員の中に海軍一三一設の山崎三郎君がいたので、私は、
「この間、八月末に私は脳梗塞で倒れ、救急車で入院して、一時脳死の後に再生という騒ぎだったが、家内の意見で、今後当会から手を引くことになってしまった。慰霊碑の設計はしたものの、現地には行けないことになったので、誰かに後を頼みたいのだが。」          
と話したところ。彼は即座に、                  
「それは私が引き受けます。私に任せて下さい。私が責任を持って完成させますから、小池さんはすぐにゆっくり休まれて下さい。」    
と、心強く言ってくれたのだった。私は、彼の戦記を読んでいたので、彼の実力は十分信頼できるものであり、彼をこそとかねがね思っていたので、彼の応諾に欣喜し、早速、その旨を浜崎会長に伝えたところ、会長もこれを了承したのだった。こうして、私の長い戦友会活動からの退席が首尾良く整ったのだった。 
 私の家の作戦は、魚万への百万円の支払いが済み、魚万退去後の家屋の改装も犬竹大工と共に着々と進んで、次の借家人を迎える準備が完了した。幸いにも、不動産関係は筋向かいの安藤不動産が格別に取り計らってくれて、次の借家人が決まった。足利に本店がある京呉服の「ことぶきや」を営む中島さんが、長男に東京店を持たせて開店するというのだ。                              
 ソロモン会の山崎後任幹事は、私より五歳くらい若く、事に当たっては主体的・積極的な、なかなかの好人物だった。慰霊碑の工事計画も、現地の事情を考慮して、実効性あるものに改めた。現地で型枠を組んだ上でコンクリートを打つのは難度が高いことから、内地でブロックを制作し、現地では全体で十数個のブロックを主筋を軸に組み立てる工法にしたのだった。                     
 全国ソロモン会では、翌昭和五九年、新年早々に募金活動が必要とされていたから、会長、副会長連名の趣意書の作成を急ぐ必要があった。会長の浜崎積三さんは陸軍戦友会の代表であったから、事実上海軍代表として動いていた私に、海軍代表としての副会長を誰にするか決定を急ぐようかねて指示があった。私は、前田茂さんとも相談し、候補の筆頭と言うべき池上厳さんが嫌だと言うので諦め、色々物色した結果、横七特の福山さんが最適と二人で決めて、去年の内に福山さんの了解も取ってあったが、年が明けてその福山さんからやはり駄目だとの連絡を受けたのだった。浜崎会長も困り果て、ついに私に、                     
「小池君、すまんが、君の名前を貸してくれ。君以外には誰もいない。」と言うのだ。海軍の士官連中は未だに旧軍の階級制度から離れることが出来ず、皆、池上さんに遠慮して手を挙げようとしないのだった。私は階級など二の次で、誠意こそが先だと思っているし、今までその一念で会務も押し切ってきた。私の誠意は海軍の人達も十分理解してくれているとの自信もあった。私は会長に承知する旨を伝え、募金趣意書に副会長小池勉と記入して発送の運びとなったのだった。
 この事務だけは家内も理解して手伝ってくれて、我が隊戦友会、その他宛ての発送を済ませたのだった。                
 総額四千万円の募金は容易なものではなかったが、昭和五十九年六月には予定額の七割の額が達成されて、これを以て計画の実行が決定され、浜崎会長に福地、山崎両君を加えた計三名が、計画通り三か月の予定で勇躍出発するのを私は見送ったのだった。この五十九年にブーゲンビル島に四基の慰霊碑が完成し、ブカ島にも六十一年に一基完成して、計五基の建立が成って、奇しくも私の設計になる白色の慰霊碑が、山崎君の奮闘によりブーゲンビル各所で慰霊の合掌をしているのだ。私はこうした山崎君の誠実にして熱意溢れる労苦に感激している次第である。        
 私が昭和四十七年の慰霊の旅でブイン海岸から持ち帰った種から咲いた日々草は、毎年真っ白い花を私の庭に咲かせていたが、昭和五十九年にはその中に赤い花が咲くようになり、驚いている。これはソロモンの英霊が慰霊碑の建立を喜んでくれた証かとも思い、私は感激を一層深めているのである。

      四十年(よそとせ)は 望郷の日々か ソロモンの
          戦友 (とも)偲ばるる 日日草 の花
  
                        
 ソロモン会幹事であった中島久雄さんが昭和六十一年六月に急逝された。僅か三日間伏せっただけの急逝は、まことに驚愕で言葉もなかった。私はこの人の住宅の増築改造等色々携わらせて頂き、頑健な上、健康には細心の注意を払っておられたから、その人が急逝し、私のような者がどうして何度も危機を脱し得るのか、神の御配慮も何か空恐ろしく思えてくるのだった。
 考えてみると、私の脳梗塞による死一歩手前からの生還には、複雑に重なった何重もの幸運が仕組まれていたことの不思議さを思わずにはいられない。
 第一には救急車による搬送先の病院に恵まれたことがあるように思う。はじめに断られた世田谷中央病院では、かねて運び込まれた病人の死亡例を多く聞いていたから、冥途の第一関門を逃れて深沢に行ったことが幸運の始まりだったのだ。そして、第二に深沢の長谷川病院では院長が当直に当たっていたことだ。院長が「最後の手段」と言って使ってくれた点滴薬は、普通医者が使わない薬だと聞いた。あの薬は脳動脈が詰まったからといって、安易に使うと血液が一挙に流入して脳溢血を起こし死に至る危険が高いそうだ。だから、あの時、院長は死に際だった私を救うため使用の大決断をしてくれたもので、院長が当直でなければ私の命はなかっただろう。私の脳は丈夫にできているらしく、戦地でのマラリア罹患による死の淵からの脱出もそのお蔭だったと思う。この点は丈夫な身体を与えてくれた両親に感謝しなければならない。また、私は煙草を一切吸わないから、これも病気に対しては条件が良いのだと思う。今回もこのことが幸いしたのではないだろうか。酒の方は、今回の発病で二十日間余り酒断ちとなったが、私はこれなしでは食べ物の味がせず、生きる張り合いもないと先生に話したら、少量ならよろしい、一日、銚子一本か、ビール一本なら良し、と言われたので、それ以上は絶対飲まないことにしている。以来、それが習慣となり、今や、私の体調を保つのに最も良い条件となってしまっている。

五六 我が社の最終工事と犬竹大工の死
 その頃私は、積極的には工事を取るようなことはせず、頼まれたことを請けるだけにしていた。それは、大工の不足で手が足りない状況にあって、我が社の大工の犬竹さんも年をとって来たので無理をさせられないからだった。昭和六十二年の初夏、私の下職である岡本硝子の社長から改造工事の依頼があった。それは、彼が所有する上北沢の二階建てアパートを、彼自身の本宅に改造するというものだった。彼は私より四、五歳年上で、私とは三十年来親しく付き合ってきた間柄だ。経堂辺りでは顔役の方で、町内の信望も厚いようだった。私の設計でアパート階下のガレージを住まいに改造することとなった。彼は別の場所にある店舗での営業を二十年来の使用人に一任して、自らは隠居するとのことだった。そして、私の設計も終わって着工したが、岡本さんとの契約は、私の一式請負ではなく、材木は彼が買い入れ、当方に対する支払いは半月払いの実費精算という比較的気楽な関係の工事だった。犬竹さんの大工仕事は、彼が無理をしないよう気配りして私も一緒に手伝って進めていた。
 だが、それがある日、急転して難題が持ち上がったのだ。建物の敷地が借地であったため、地主に無断で着工したとして、地主から工事中止の申入れが来たのだ。岡本老人は、自分は交渉力が皆無であるからと、私に交渉一切を頼むと言う。相手には、近所の格式ある家の息子が代理人となって付いており、彼こそが地主をたきつけて問題の発端を作ったようだった。彼はやがて私に対し、物事を荒立てたくない、悪い話を好転させるのが私達の役目の筈などと、笑いながら話を持ちかけてきた。この際、岡本さんに全体二百坪の内望みの一部を譲るから、残りを地主に返して欲しいと言うのだ。私は岡本さんと相談し、本当は公道に面した土地が欲しいところを、作戦上反対側を望む如くに見せかけて、私の測量で分割線を入れ、交渉に臨んだ。そして、何度目かの交渉の末、ついに岡本さんの目的通りの土地を有利な条件で確保することができ、工事は再開されることとなったのだ。                
 この分割計画で、最初の設計を一寸手直しする必要はあったが、私には交渉の報酬として、十万円の支払いがあった。私はこの交渉に十日以上とられたから、かなりの労であったが、不十分とは言えないから、有り難く頂戴したのだった。                    
 犬竹さんには損のないように気遣いして、毎日機嫌良く働いて貰っていた。九月末の土曜日に、彼が今日は午前中で現場を退かせてほしいと言ってきた。私はこれを了承し、岡本さんにもその旨伝えて承知して貰った。犬竹さんは、彼が手掛けた瀬田の大邸宅の台所の手入れを、そのお宅の奥さんから頼まれて、この日はそのためにその様に段取りしたらしかった。そして、その日の夜十時頃に、犬竹さんの隣家の親父さんから犬竹さんが亡くなったと知らされたのだった。          
 私は、その親父さんをよく知っていたから、思わず「それは嘘だろう!」と叫んでしまった。だが、彼が、そんな嘘をつく筈も、ある訳がなく、「奥さんは、今は大蔵病院です。」と言うのに、「私もすぐ行きます。」と応じて電話を切ったのだった。              
 私は、夜の街を急いで大蔵病院に向かった。病院の受付でその病人の関係は地下室だとのことで、地下の霊安室に行った。霊安室は、広くがらんとした淋しい所で、犬竹さんはベッドの上に横たわっていた。彼は顔色も良く、生きているままの姿であったから、思わず顔に手を当てたが、やはり冷たいのだった。
 彼は、若いときから、私の家では、役者の森繁久弥に似ていると言っていた。今ベッドにガウンを着て寝ている姿も森繁そっくりだった。若い時よりも今の方が似てきた様だった。その顔は少し白い髭があって、それに白い顎髭を付ければ本当に森繁そのものと言え、にこっと笑い出しそうだった。だが、それは私の幻覚で、そこにあるのは犬竹さんの死顔だった。                           
奥さんもそこに居たが、未だ彼の死が信じられない様に呆然として、悲しみや絶望の深刻な顔ではなく、驚きの後の気が狂った様な、正気を失った様な顔だった。                      
 奥さんに様子を聞いて、余りにも突然の出来事に、私も、事の重大さより、これは何かの間違いだ、何とか元に戻って彼が立ち上がるのではないかと錯覚しそうで、頭が変になりそうだった。
 奥さんの話では、夕方遅く現場から帰って、少し疲れ気味だったが、何時もと変わりなく、夕食の卓に着き、定量の酒も飲んで、九時半ころ二階の寝床に入ったと言う。そして、間もなく、瀬田のお屋敷の奥さんから電話があって、「今日遅くまで世話になり、台所をすっかり良くして貰って、夫婦して大変喜んでいる。犬竹さんには宜しく伝えて欲しい。」旨礼を言われたのを犬竹さんの奥さんが受けて、電話を終わり、犬竹さんに報告すべく二階に上がったところ、彼は寝床に半身を起こして、報告を聞き、「あぁ、そう。」と言った時、突然胸を押さえて、「うっ!」と叫んで突っ伏したと言うのだ。                 
 奥さんの他には誰も居なかったので、急いで隣家の主人に、「大変です。お父さんが倒れました。」と伝え、隣家の人達がすぐ救急車を呼んだとのこと、だが、大蔵病院に着く途中で、車内での応急処置の甲斐もなく絶命して、病院に着いたが、死者に対しては無情にも医師は手が下せないと、この霊安室に運ばれたとのことだった。私が着いて間もなくの十一時過ぎに、成城署から警官が二名来て、死体検案後に奥さんに質問した第一問は、「保険は幾ら入っていましたか?」だった。私はその、まるでテレビのドラマ仕立ての様な質問に吃驚した。そして、これから自宅の方で死亡状況を確認するため、現場検証を行うので、御同行をと、奥さんを連れて出発した。私は気分を悪くしてそのまま病院から帰宅した。事もあろうに奥さんを疑うとは、警官の無情にも程があると腹が立ち、警官が悪漢の様に思われ、奥さんの気持ちを察する人間味は彼らには無いのかと、彼らに対する職業教育の未熟を痛感したのだった。私は、四十年も前の昭和二十二年頃から犬竹大工と共に生きてきて、私の一番信頼し、私の身体の一部の様に思って頼りにしてきた彼を失った事に大打撃を受けて、私の事業もこれで終わるのかと思った。

 今度の岡本さんの工事が一因で彼が発病したのだろうかとも思ったが、私は、彼がここ二、三年来血圧が高く、大蔵病院にかかって、毎日薬を服用していることを承知していたから、仕事の手配に当たっては彼に些かも苦労をかけないように配慮してきたつもりだった。彼は他に病気はなく、一見頑健で、妻帯して一男一女があり、男の子は既に大学を出て就職し、結婚していたし、娘も最近良縁を得て、結婚していた。検死は日曜だったが、検察医が彼の着衣を脱いで胸を開き赤斑を見て、心筋梗塞と即断され、三時頃に完了した。これによって、通夜・葬儀の日取りを決める運びとなったが、私は、彼を失った衝撃に落胆して、悲しみに堪えず、弔歌を詠みたい思いに駆られて、十数首を書き留めた。そして、それを娘眞理子に清書して貰い、お通夜の席に奥さんに差し上げたのだった。奥さんはこれに感激してくれて、その一首ずつを書道の先生に頼んで色紙に仕上げ、毎日これを日替わりで下げて見てくれていると言う。それ程して頂いて、私は自分の歌の拙さを思い、もっと吟味して献上すれば良かったと恥じ入るばかりなのである。      
 岡本さんの工事現場は、犬竹さんの一の子分で、九州出身の友成君が、「犬竹さんの為ならどんな事でもします。私を使って下さい。」と進み出てくれて、彼の友達も連れてきて一緒に工事に励み、一層進捗して、完成に漕ぎつけることができた。                 
 堀川木材の田口君の話から、犬竹さんの最後の日の仕事の様子が分かった。彼は、数日前にこの工事の用材を堀川木材に頼みに来て、当日は予定通り作業が出来たらしい。そして、夕方、何時もより遅い時間に堀川に立ち寄り、
「今ようやく終わった。予定より骨が折れたが、終わってほっとした。」と言って帰ったらしい。犬竹さんは責任感の強い人で、人に頼まれた事はできる限り誠実に完成し、又、私の仕事に支障の出ないよう細心の注意を払ってくれていた。そして、月曜から又私の仕事に精を出すつもりだったのだ。                          
 犬竹さんの死後、私は時々夢の中で、工事現場にいる自分の前に犬竹さんと波多野さんが出てくることを不思議に思っていた。自分では彼らが亡くなっていることは分かっているのだが、折角出て来てくれたのだから、付き合いなのだから、続けようという様な展開で夢が続くのだ。
 犬竹さんが亡くなって、四十九日の法事のことで奥さんから相談があった。伺ったところ、仏壇を買い替えるので、襖を含め部屋の改造をしたいとの事だった。私は友成大工と経師屋の衛藤君を呼んで工事の打合せをした。                         
 この衛藤君は、波多野さんの下職で、十年以上も私が使っていた。彼の事は、波多野さんから、生前、嫁の世話を頼まれていたのだが、なかなか適当な女性が見つからず、遂に衛藤君は四十歳となり、波多野さんの生前には約束を果たせずに終わっていたのだった。丁度この友成大工も良縁を得て、美人の嫁を貰い、長男は既に中学生になっていたので、お茶の時間に二人を座らせて、この話を友成大工にして、               
「どうだ、友成君、君の奥さんにでも頼んで何とか嫁さんを探してくれよ。私は、波多野さんとの約束があるから困っているんだ。頼むよ。」と彼に頭を下げたのだった。すると彼が、                 
「分かりました。早速女房に話してみます。」           
と約束してくれたのだった。                   
 そして、この話が見事に実って、友成君の奥さんの紹介で衛藤君の嫁さんが見つかった。その女性は、建材屋に勤める人で、見合いを承知したとのこと。早速の見合いの席も無事に過ぎ、翌年早々の結婚式に漕ぎ着けたのだった。そして、私は、二十一番目の仲人の大任を果たすことができ、これをもって、私は仲人役からの退任を宣言したのだった。
 私は、このことは犬竹さんと波多野さんの二人があの世から導いてくれたものと痛感し、彼ら二人に、あの世からまで私を助けてくれることの有り難さを思い、深く感謝せずにはいられないのだ。

 次に、私は、私と同じく大塚さんの世話で「あけび」の会に入会された、私の歌の友人、元教員の八ッ橋先生からの依頼で、上北沢のマンションの改装工事を始めることになった。この時は、堀川木材の田口さんの世話で、堀川に出入りする古株の棟梁の、配下の大工達によって工事は順調に進むかに見えたが、進むにつれ手不足が響いてきて仕事が緊迫化し、ついには、彼らを棟梁の下に戻し、私一人が奮闘することとなった。私は、若い頃の見習等を経て、大工を監督してきた長い経験から、速度は遅いが、仕事自体は、内容的に本職に負けるものではなかった。だが、七十を過ぎた老年ともなれば、一日の労働を終えた時にはぐったり疲れるのは仕方ないことだった。それでも、生来気が強い質
たちだから、負けて堪るかとばかり頑張ったのだ。
 その後、私は、我が社最後の工事となった深大寺手前にある安田眞三宅の増築工事に着手した。それは、昭和六十二年の秋で、上北沢の八ッ橋さんのマンション工事の直後だった。眞三さんは、家内の母方実家の従弟に当たり、二十年前に方南町の真田棟梁の世話で土地を購入し、私が設計施工した住宅だった。その時、隣地を私の郡山の姉、まよ姉の義妹中井はるさんが買って、やはり私が工事して貸家を建て、貸していた家を、この度はるさんが売りに出したのを眞三さんが買って、そこに自分の住宅を増築することとなったのだ。大工は友成君が主体となり、堀川からも増援大工を借りて進めたが、この安田の眞ちゃんは、なかなか頭脳派の人で、彼の造作に関する要求は微細に渡ったから、私も共に知恵を絞ってこれに応じ、造作は凝ったものに仕上がった。鳶工の手不足で、鳶工事は、丸太だけは頭
かしらから出させ、工事の全ては私自身が担ったのだった。庭の植木の植え方や門柱の立て方からタイル張りまで、全部合わせれば大変な重労働だったから、私はへとへとになったが、頑張ってやったものだ。最後に足場丸太を私の車に積んで頭宅に運んだ時は、頭は鳶工事の代金は頂けませんと返してきた。だが、私は自分の老化防止に働かせて貰ったのだからと、多少強引だったが支払わせて貰った。
 かくして、昭和六十二年の工事が終わり、翌昭和六十三年六月には息子洋吉の嫁の父松田孝二さんが病死して、その葬式で、公務で手が離せない息子に代わり私が立ち回って、無事役目を果たせたことに安堵したのだった。だが、この六十二年から六十三年にかけての私の活動が私の最後の舞台となったのである。

五七 私の「あけび」歌会 入会と歌集「日日草」の出版
 私は、昭和四七年にかねて熱望していたソロモン諸島への慰霊巡拝が叶った際、同行した元海軍の小野塚吾作氏が詠んだ短歌に刺激されて、私も感情の赴くままに短歌を作った。私も作歌は好きだったが、今までそのような機会がなかったところ、この時は感激して止めることのできない感情が自然発生的に歌となったものだったから、本当の歌人ならもっと良い歌ができたものをと、自分の不勉強を口惜しく思ったのだった。その時の歌三十数首を手帳に書き記したものを大塚さんに見て貰った。大塚さんは、長野の人で私のまよ姉の弦巻四丁目アパートに数年来入居している亜細亜航空の図面トレーサーだが、なかなかの勉強家で私が引かれて交際が続き、娘眞理子の仲人にもなってくれた人である。大塚さんは、その後上町のマンションを購入され、その際私がソロモンの日々草の苗を差し上げたのだが、私の日々草が後に全滅したため、大塚さんのを分けて貰って今に育て継いでいるのだ。大塚さんの長男は早大を卒業して長野の公民館長の職に就き、将来を楽しみにしていた矢先に、突然の発病で数日後に他界したため、絶望の淵に立たされた大塚さんは、その時の悲しみを歌に詠んで朝日歌壇に投稿され、以来「あけび」歌会に入会して作歌を続け、十年を経ておられた。         
 私の歌を見て、大塚さんは、                  
「これは立派な歌です。是非これを林光雄先生に見て頂いて下さい。」と強く勧めてくれ、私も心が動いて、歌会主幹であられる林先生の弦巻一丁目のお邸
やしきに伺ったのだった。                
 初めてお会いする林光雄先生は立派な老先生で、私は恐縮するばかりだったが、先生は私の歌をご覧になり、              
「これは歌ですよ。立派な歌です。是非あけびに入会して勉強すると良い。」                             
と私に言われ、私もついおだてに乗らせて頂いた形となり、「あけび歌会」への入会をお願いしたのだった。それが私の「あけび」入会のきっかけで、昭和五十二年二月頃のことである。

 その年の三月のあけび歌会は、調布市の深大寺での吟行が予定されていたので、私は、大塚さんと一緒に参加すべく出発した。深大寺の新築成った立派な社務所の講堂で行われた歌会には、林先生はじめ諸先輩の面々が居並び、私は末席に座って、恐縮の体で一座の人々を見回した。そして、全く予期しない美人の姿を見出して吃驚した。そこにいた婦人こそは私の頭に強い印象を残していた若林の高橋夫人だった。高橋博夫さん宅は私が昭和二十八年頃に住宅改造工事で伺ったお宅で、奥さんは当時から輝くような美人であったのだ。この人があけびでは古い先輩であることを知って、私はますます入会できたことを喜んだのだった。
 また、実は、不思議なことに私は、今日の場面をそっくり前夜の夢で見てしまっていた。そして、紀伊元孝吉さんと仲宗根さんの二人が既に私の頭に残っていた顔と同じだったのだ。そのため紀伊元さんを初対面の人とは思えず、既知の間柄のように気楽に話すことできた。その紀伊元さんは面白い人で、                      
「この座敷は余り景色が良くないな。見渡せばいずれを見てもうば桜、見る程のこともない故、外へ参ろう。外の良い景色を見ないと歌はできないよ。」                           
と男達を笑わせて、一同外に出かけたのだった。歌はどうだったか覚えていないが、私のあけび日の第一回歌会は実に楽しいものだった。

 それから、このあけび吟行の会場として、高尾山、六義園、後楽園、浜離宮、国分寺、豪徳寺、勝光院、実相院等を巡ったのだが、豪徳寺と実相院での吟行には、私が色々手配をして参考資料等も用意させてもらい、参加者に喜んで頂くことができた。実相院の佐々木先生からは、林光雄先生の歌の揮毫が欲しいと頼まれ、林先生から揮毫を頂いて、それを表装し私から佐々木先生に届けたのだった。           
 その内にこの歌会の会場が林先生の御高齢のことも考慮してお邸から近い弦巻センターに定着するようになり、回数も一年に一回くらいになっていった。林先生のお邸は壮大なもので、その建築年代は昭和三十年頃であると思われ、所々に故障が出始めていた。その修繕は、私が先生の依頼で細かい工事を行わせて頂いていたが、先生はやはり大人物らしく、決して建物の破損箇所を見逃すことなく、的確に指摘してその工事を依頼されるのだった。見えない屋根の瓦の破損も見逃すことはなかった。                              
 お邸の門扉は幅四メートル程で、桧材の豪壮なものだったが、経年の劣化で既に腐食が進み、補修は困難だった。私は、早坂鉄工にこれをアングルと鉄材で補強させ、数年だけでも寿命を延ばす策とした。この門は、昨年、邸内での子供達のための住宅新築の大工事の際に、立派な近代的な門に一新されたので、私は一安心できたのだった。        
 樋の付け替えも大がかりで、総額七十万円を超すものだったし、昨年は屋根の修理も本職の瓦屋が施工して、当分心配のないまでになった。
 ここ数年で、お邸内に先生の息子達の住宅工事が数億円規模で行われたから、お邸の細かな修繕工事を担ってきた私の役目は終わったものと思って良いと、安堵している次第である。

 昭和六十一年の暮れ近くから、私は自分が満七十歳になった記念として、歌集を出版したいと考えていた。そして、林先生に相談したところ、快く賛成して頂き、                       
「原稿が揃えば、私が校正し、手配するから、私に任せなさい。」  
とまで仰って頂いたので、この言葉に励まされて、自分の歌を原稿にまとめ、翌年一月十五日には先生にこれを提出したのだった。     
私の歌は下手な上に誠に初歩的なミスがあったりするため、先生が校正するに当たっては大変なご苦労があったものと推察するが、加えて、先生は、この年、眼科の手術を受けられたから、私の歌集も正に生みの苦しみを経たのだった。
 昭和六十二年七月十五日が、南高円寺の短歌新聞社での同社石黒社長に対する林光雄先生と私からの発刊依頼の為の面談の日だった。石黒社長は、大変乗り気で、ゲラ刷りを急ぐ旨約束をしてくれた。そして、ゲラ刷りもできて、私が最後の校正を終え、本番の印刷に入った。本の装幀等は石黒社長に一任し、本の名前は「日日草」と決まった。私がソロモンから持ち帰った種子から育て、大塚さんのお蔭で、我が家に咲き継いでいる日々草から付けたものだ。私の短歌は、ソロモンの回顧から始まって、東南アジア、中国、オーストラリア、ニュージーランドを巡った旅での歌が続く。私は、これに多摩川の歌も一緒に載せたいと思ったのだが、林先生がそれは次の歌集に回した方が良いと仰ったのだった。同年十二月には歌集が出来上がり、私は歌友や友人、親戚に配った。五百部の製本だったが、息子洋吉から百冊くらいは残してほしいと言われたので、大体そのつもりで配本を終えた。                       
 恥ずかしい歌ばかりだったので、私は余り発表したくなく思っていたが、意外に好評のようだった。戦友達からは初めてのソロモンの歌集だと喜ばれた。あけび会員からは私の未熟さを呆れられると覚悟していたが、林先生の序文のお蔭で一応は喜んで祝ってくれた。そして、私の発刊に先輩の人達が触発されたように次々と歌集の出版が続き、大盛況となっていった。一月九日のあけび新年歌会は、私の歌集出版記念会を兼ね、学士会館で盛大に行われ、私は初めて記念の花束を贈られて感激したのだった。短歌新聞紙上では、有名な大歌人大屋正吉先生の論評で好評を頂き、林先生から、この様なことは珍しいことだと言われて、恐縮し、大屋先生に感謝の手紙を差し上げたのだった。あけび五月号は、私の歌集の鑑賞号として組んで頂き、白鳥游、加藤秋子、吉田美代、大津留温の諸氏と林先生の賞賛の文を頂戴して、先生のご配慮に感極まって感涙したのだった。僅か十年の歌歴で、歌集出版というのはあけび会でも例を見ないことで、私の幸運は不思議の外なかったが、私はこの時以外に機会がなかったことを思うと、神様は、すべてお見通しで、スケジュールに従って着々とことを進められて行くようだった。          
 私の後から続々と先輩達の歌集が出来、殊に女性の方々の歌集はなかなか立派なもので、私の歌集は影をひそめる感があったが、私は六十三年には心筋梗塞で入院することとなったから、六十二年の出版は可能な期限のぎりぎりでのことだったと思う。               
 その入院により、私のあけびへの歌の投稿も叶わぬことかと思ったが、又 私は生き還って、今度は工事から一切手を引いていたので、作歌に全力を傾注することができ、ますます歌に精進することとなった。   
 あけび会員が次第に高齢となり、林先生も九十歳を超えられて、私の勧誘した会員も死亡する者が出始めた。そこで、会員増の大号令が発せられたが、私の非力では新規会員の入会に助勢することは不可能なのが現状である。                          
 この度の私のこの自分史を書き進める中で、短歌の効用をしみじみと知ることとなった。私は、ソロモン諸島をはじめ、中国、東南アジア、オーストラリア、ニュージーランドのそれぞれの旅で一日二、三十首の短歌を詠んでいたので、その順で文章を書くことができた。短歌は、少ない字数で感情の要点を詠んでいるので、これをベースに文章にすることができ、又、歌に詠んでいない情景も思い出されて、文に内容の厚みを持たせることができる。短歌が、文章化には大変な手助けとなるのだ。もっと早くこの道に入っていれば、それ自体が歌集となり、記録となっていたと思うと、残念だったが、それでは私の人生はなかったかも知れず、私は、今まで生きた通りのことが私にとっては最善の道だったと確信して良いと思う。                         
 昭和六十三年十月には、私達あけび会員の募金により、林光雄先生とみち子夫人の比翼の歌碑が先生の郷里である坂井市三国の東尋坊に完成して、私は病後なので残念ながら欠席したが、盛大な除幕式が執り行われた。そして、それに次いで、先生の新歌集「帰去来」と、夫人の「詠而帰」を拝受したのだった。

五八 川越松田家の葬儀                     
 洋吉は、嫁寿恵さんの実家の父孝二氏が病気だったので、秋田からの転勤については、その看病を理由に希望書を出していた。昭和六十二年にその希望が叶って、浦和地裁に転じることができ、我が家からも日帰りで往復できるのて、便利になった。病気は糖尿病で、休んでいるだけで急変のない限り大丈夫のようであった。浦和の官舎は三階建ての五室もあるアパートで、子供達も皆元気であり、秋田のように冬の寒さもないから楽だし、街も自然が十分残されていて、楽しく暮らせるとのことだった。私は、最初の年はストーブの取付等で、二、三日赴いただけで、大して苦労することはなかった。
 次の年の昭和六十三年には、千葉の九十九里に近い飯岡海水浴場に家内と車で出かけ、洋吉一家と楽しく過ごしたのだった。だが、その出発の前に、実相院敷地内に許しを得て設けていた下小屋と駐車場を、お寺の都合で撤去することになり、犬竹大工に一日手伝って貰った後、私一人で小屋の解体のすべてをやり、トラック一杯に荷を積んで縄掛けする作業中に転落する等、孤軍奮闘の大変な苦労だった。実相院の先生も感心してくれて、私が茶菓の接待を受けるという気の使いようだった。そして、最後は地均しして整然と原状を回復してお返ししたのだった。
 この土地三十坪は、私が化粧品商の社長から頼まれて、実相院から駐車場用に借り受けてやった土地を、その会社の倒産で空いた後、我が社の下小屋兼駐車場として借り受けた土地だった。契約には富田金枝さんが立会人となり毎年一年ごとの期間とし、寺の都合で何時でも解約可との条件を承知しての借地だったのだ。私は年間の借地代として月二万円程度の支払いを続けて既に三十年になるところだった。それ故、この度寺北側の借地人の関係で駐車場の転換話が出て、この土地が必要となり、契約通り私がお返しすることとなったのだ。私が即座に無償で完全撤去を実行したことに寺の佐々木先生は私への信頼を増してくれたらしい。
 そして、私に、隣接する土地の大駐車場整備の工事を依頼し、合わせて、その一画を組立倉庫の設置と二台分の駐車場用に格安賃料で貸してくれたのだった。北側の大通りに面した三十台余り分の駐車場の、舗装から線引きまで一切の工事も私が請けることになり、これを無事に完成させた。尤も、私が使っていた三十坪も含めた三百坪の土地は、富田金枝さんの祖母が戦前から畑として耕していて、お寺では取り上げることができずにいたのだ。だが、私と富田さんの親交から私の発言でこの土地全部がお寺に返り、金枝さんはその代償に駐車場番人として番小屋に居住していた。私が新しく借り受けた土地がこの番小屋の跡地だったのだ。富田さんは、鳶の綾部組の下職だったが、綾部さんの死後も私との親交は一層深まっていたのだった。
 人間の信頼関係は、一朝一夕には出来るものではなく、永年のお互いの気持ちがそれを築き上げ、それは親から子へ伝えられるものだった。
 この年の六月下旬、川越の松田さんが入院して、病状は日増しに悪化していった。そして、愈々駄目らしいと洋吉から電話があって、私と家内は電車で川越駅前の病院に急行したのだった。          
 病床の孝二さんは、既に意識はなく、肝臓、心臓共に弱ってきて、今晩が危ないと医者の言だった。私と家内は一晩洋吉宅に泊まることにして、彼らに急の場合は報告を頼んで病院を離れたのだった。夜中に病状急変し、深夜に最後となったらしい。               
 翌朝、私達は葬儀の相談に入った。洋吉は、当日裁判所で判決を下す裁判があり、役所に出ない訳にいかないと、私に代行を頼むのだった。私は、この際、松田家の長女の婿洋吉の代理として、一切の仕切りを負う羽目となったのであった。                   
 松田家の実家は山形の寒河江市だったが、長男ではないので、お寺は当家で新しく頼むとのことだった。唯、宗派だけは、実家の曹洞宗の寺にしたいという奥さんの希望だった。病院の紹介で葬儀屋の中年の社長が挨拶に来た。私は、彼に曹洞宗のお寺を探して貰うことから着手した。そして、明日の通夜までに松田家の現場で相談することにした。松田家で奥さんと大体の話で予算の大略を決め、葬儀屋との相談となった。これが一番難しいことで、私は偶々世田谷の片山葬儀屋とは親交があり、その娘と息子の仲人もしていたので、大体のことは分かっていたが、金額のことは全く無知だった。私は、唯 天を頼む気持ちで真剣に考えていた。
 葬儀屋との相談の中で、松田家は、旧家であり、寒河江藩では家老職にあったので、お寺には院居士の戒名をお願いしたいとのことだった。私は、院号は世田谷辺では百万以上の金が要ると聞いていたが、ここはそれよりは田舎だから安いかと思って迷った。だが、私は思い切って、「お寺は一切で五十万。」と言い切った。葬儀屋さんの分は、「八十でどうか。」と言ったのだった。彼は、それを両方共、「それで何とか計らいます。」と言ってくれた。                    
 その他に雑費として三十万ばかりで一切の費用は足りることになった。当日の祭壇の位置について、庭の植木等の関係で家族や隣家の人は玄関脇の六畳にする外ないとのことだったが、私は、そこは狭すぎて駄目だ、真ん中の八畳の洋間が最適と言った。庭の植木は、私一人でも片付けると主張した。翌日早朝に、私は一人で植木を片付け、ブロック等を取り除いて整地にかかった。他の人達も見かねて手伝ってくれ、一時間足らずで整地は完了し、式場周りの仕度は出来た。
 また、駐車場は、隣家の人が前面の地主に掛け合って、パチンコ店の駐車場から十二台分の駐車スペースを空けてくれ、大丈夫となった。人員の配置も、私が全部割り当てて、洋吉の役所と嫁の妹婿の会社からもそれぞれ一名ずつの手伝いをお願いし、棺を担ぐ人数まですべて決めたのだった。料理の関係は、奥さんと近所の女の人達が担当してくれた。
 通夜の晩から雨となり、私は夜中にこの雨の対策を考えねばならなかった。祭壇の前の焼香台が、全体はテントが張られて人は濡れないが、丁度焼香台の所だけ家とテントの間となって雨が落ちるのだ。私は、ここに雨樋を掛ける以外に手がないと思い、翌朝早々に商店街に出て建材屋を探し、エスロンの茶色半月樋と針金を買ってきて取り付けた。これによって、焼香時に人が濡れることは防げたのだった。庭の通路には葬儀屋が敷物を敷いてくれたので助かった。
 当日は、駐車場も十分に間に合った。それは、松田家が川越の霞ヶ関駅から五分程の近さだったので、車で来る人が少なかったからだと思う。出棺前には洋吉も帰ってきて、家族代表の挨拶は彼が無事済ませたのだった。                             
 寒河江の弟は、私より十歳位若く、旧陸軍の特攻隊の士官とかで、なかなか気が強い人のようだった。私の手配が気に入らないらしく、最後の引出物の件で文句を付け、山形式に本式の返礼として高価な物を出すよう主張した。だが、葬儀屋は頑として宣言し、これを拒否した。「郷に入れば郷に従えと言います。ここで山形の話をされても困るのです。川越には川越のしきたりがあります。当方の計らいに従って頂きます。」これには、流石の特攻隊も一言もなく、それ以後、彼は私にも頭を低くしたのだった。戒名も立派な院号の「宝秀院義岳孝正居士」となり、坊さんも二人で来てくれて、私の面目は保たれたのだった。
 葬儀の後始末もすっかり出来、洋吉達と食堂で会食した後、私達夫婦は四泊五日のこの葬儀行を完了したのだった。

五九 私の緊急入院           
 そして、その約一か月半後の七月二十一日に、私は、自身の発病の日を迎えることとなってしまった。                 
 当日、私は早朝三時頃に起床していた。私は朝目が覚めると寝ているのが嫌ですぐ起きることが通例であった。そして、私は玄関の事務所で植木に霧吹きを始めた。この小さな霧吹きは、もう十五年も使っていた古い物だった。その内これがパンという音がして、役に立たなくなった。私は、これを分解して小さなスプリングが折れているのを発見した。私はこれを少し伸ばして使用すれば、まだまだ霧吹きの役には立つと思い、台所のガス台に点火し、スプリングを赤く熱して、これを引き伸ばし、十分と見て再び加熱の上冷水で急冷して、焼き入れをした。これを霧吹きに戻して組み立て、これによって立派に霧が吹けることを確認できて喜んだのだった。そして、四時半ころ、私は胸の圧迫痛を感じたのだった。私は、この痛みに対し、頭痛薬のノーシンかケロリンを用いることが習慣となっていた。それは大体十年間くらい続いていた。十年くらい前に、私はこの痛みを感じて、私の家庭医だった長谷川医院に行き、先生に十分な検査をお願いしたのだった。心電図、レントゲン、血液検査と、先生の出来るだけの器具を使っての検査によっても病因は不明であった。そして先生は、今度は痛んだときにすぐ来てくれ、と言うばかりだった。その内、私はこの痛みの時にノーシンを二服飲んだら忽ち鎮痛されたことがあったから、何時もノーシンを懐中にしてこの痛みに対処してきたのだった。この時も、私は早速家内に頼んで薬を飲んでみた。だが、駄目で、痛みは増すばかりだった。遂には顔面に冷や汗が吹き出し、痛みは圧迫感にいたたまれない程になった。「これは駄目だ。何時もと違う。これは救急車だな。」と家内に一一九番電話をかけさせたのだった。私はこの時パジャマ姿だったが、シャツとズボンに着替えて救急車を待った。それが遅いので、私は靴を履いて表に出て、前の通りの東の方を見ながら待っていた。五分程で救急車が近付き、私が手を上げたので、私の前に停車して、「どなたですか、患者さんは?」となった。「私です。」と答えると、「それは大変、すぐ乗って下さい。」と私を車に乗せ、直ちに酸素吸入を始めてくれた。それで、私は随分楽になって、もう大丈夫と安心できたのだった。隊員は電話で、先ず世田谷中央病院を呼んでいた。しかし、そこが駄目だと分かり、次の病院に電話して、そこに決まったらしく、出発となった。勿論、家内も同乗したが、彼女は、私の前回の脳梗塞の時と違って私がしっかりしているのを見て、大して心配していない様だった。私は、車中で静かにベッドに寝ているだけだった。車は徐行していて、速度が遅かった。私は頭の中で距離を推測して、これは大分遠くに来た様だ、目黒区を過ぎて大田区に入ったかと思っていた。ベッドの脇に付いていた隊員は、「もう大丈夫ですよ。もう心配ありません。すぐに病院に着きます。」と私を安心させるべく親切に話してくれていた。病院に着いて、長い廊下をベッドに寝たまま進み、診察室に入った。そして診察を始めた医者に、「ここは何処でしょう?」と聞いたとき、「第二国立です。」と返されたので、駒沢公園の前だと思い、近い所なのに、私の身体を気遣って徐行して来たのだと察したのだった。この集中治療室には六人くらいの医者と十人くらいの看護婦が駆け廻りながら必死の作業が続いて、私はこの仰々しい騒ぎに自分の病状の容易でないことを感じ、些か緊張したのだった。家内の電話で、浦和の洋吉がすぐに電車で飛んで来ていた。
 約四時間程の集中治療を終了して、主治医が、家内と洋吉に病状を説明するのでと、二人を別室に呼んだ。そして、洋吉が私にゆっくりとした口調で説明した。要は、                    
「心筋梗塞の発作であること、今、集中治療は終わったが、今後、四十八時間が最も重大な時間で、この時間内に再発すると命が危ないこと、だから、それまでは絶対安静が必要であること、絶対に身体を動かさず、小水も導入し、言葉を発することも禁止であること。」       
と厳しい話だった。点滴のパイプが二本装着され、眼前には心臓の動作を示す電気が点滅し、他にも色々な計器があり、物々しい重病人の待遇だった。                            
 私も今までの気楽さから一転重病人の心境になり、負けるものかと勇猛心に鞭打つ気持ちで、闘病戦の始まりを思ったのだった。     
 毎日唯寝るばかりの日が続いていたとき、私は左の胸に手を当てて、一心に祈りを込めて手当の効用を願った。そして、不思議な現象を感じていた。それは、心臓計器の画像曲線が変化していくことだった。曲線が一旦上がった後、下りに入って行く際に現れていた不規則な乱れが、次第に正常な曲線となり、三日ほどで殆ど正常になったのだ。私はそのことから、病気は気からと言う諺どおり、気持ちこそが大切だと思い付き、心を正して勇気を持つことが大事だと毎日心掛けるようにした。そして、その後四十八時間も無事に経過して、異常なく順調なので、家内に頼んだ便箋と鉛筆で短歌の作歌を試みた。頭は全く平常で、作歌も出来るようだったから、忽ち十首ばかり詠むことが出来て喜んだのだった。そして、十日ほどで一人部屋から二人部屋に移ることができた。この部屋の相手は、近所の古い魚屋の主人で、家内と奥さんとは町内で知り合いだった。この奥さんは、こまめに立ち働き、主人のために忠実に看病していて、気の良い人だった。私も次第に元気になり、歩行のリハビリが始められていた。一日に六歩だけ歩いて良いとの指示であった。そして、次の日、私がリハビリでない時に、部屋の隅の洗面所に五歩ばかり歩いて行って手を洗っていたら、ドアの外から看護婦がそれを見て飛び込んできた。そして、大声で叫んで、                  
「いけません。勝手に歩いてはいけないと言ったのに。小池さん、絶対に勝手な行動は許しません。」                  
と叱るのだ。この病気は病後の養生が大事なことをつくづく思い知らされた一瞬だった。                        
 十五日ほどで私は二十五号室の六人部屋に移ることになった。   
 私と同日に入院した人に山田勉さんがいた。私と同名だったので特に印象に残っていた。彼は私より三つくらい若く、太った嫁さんが面白い人で、家内などは気軽に話し合っていた。私よりも少し遅れて退院したが、半年ほどして死亡されたと聞いて驚き、あの嫁さんの悲しみの姿を思うと、気の毒この上なかったが、私が生き残ったことに感謝を深めたのだった。二人部屋で同室だった渡辺魚屋さんも四年後に死亡されたと聞いたのだった。
 六人部屋の二十五号室は、当時五人が入院していて、同室者はそれぞれ違った病状だったが、循環器科だったので、皆、心臓の悪い人だった。私の隣が空きベッドで、その先に佐藤さんという若い人がいた。こんな頑健そうな若い人が病気であるとは思いもよらなかったが、意識不明で担ぎ込まれたとかで、殆ど元気で冗談を飛ばし、皆を笑わせる面白い人だった。四、五日経って、私はすっかり彼と親しくなり、気易く話すようになっていた。私の話がだんだん戦争の話題に移って、ソロモンでの話に熱が入り出した頃だった。日曜の外泊で、彼が彼の三軒茶屋の家から帰った時、彼が私に、                       
「母の話で、母の弟の、私の叔父は米沢工業の出身だそうだ。」   
「叔父の名は、佐藤進、年は貴方よりも上かも。」
と言う。私は、すぐに思い当たった。佐藤進君は、私の一年あとの建築科の後輩だった。私と同じ西部小学校卒業で、高等小学校から米工入学となり、年上だが、一年後輩となっていたのだ。彼の同級だった登坂君と吉田君が海軍工廠に就職し、私の家に一年ばかり下宿していた時、佐藤進君が訪ねて来て、同窓生達で歓迎会をした時の記念写真を私は今でも持っていたのだ。本当に奇遇とはこのことと、私は益々彼との親交を深めたのだった。彼は私の入室の時は、まことに親切で窓の開け方や、戸棚の扱い等丁寧に教えてくれて初回から親友の様だった。他の同室者も、それぞれ家族達とも親しくなり、同病相憐れむとの諺のとおり、旧来の親友の様に相手の病状を気遣いながら助け合うのだった。    
 私は、この入院生活で大いに人生勉強が出来たことを感謝して、四十五日後に退院したのだった。だが、これは全治ではなく、治療の一過程の終了なので、次には現状の検査のためのカテーテルの手術が待っていた。それは、なかなか重大な手術で、医師も多数を要し、前約もあって、日程の都合上、半月後くらいとなるため、一旦退院をするということなのだ。そして、十五日後、主治医石川先生の指揮によるそのカテーテルの日となった。手術は医師五人ほどで進められ、私は補聴器を外されて周りが一旦静かになり、そして、代わりに若い髭の先生が、一々大声で私に状況を伝達し、助言をするのだった。この先生は剽軽な人で、佐藤君とは大の仲良しであり、何時も冗談ばかり言って人を笑わせていた。だが、今日この場では真剣そのもので、その大声には必死さが込められていた。「大丈夫ですからね。心配要りませんよ。楽な気持ちでいて下さい。」                             
と励ましの言葉が続いていた。                  
 局部麻酔で股間から太い針を入れて心臓までパイプを通し、造影剤を注入して心臓の活動を見る手術だった。モニターの小さい映像が上部に映っていたが、私には判然としなかった。             
「順調に検査が進んでいます。楽に呼吸をしてゆったりして下さい。」
と髭の先生が大声で言った。そんな大声は必要ないとも思ったが、私はそれが彼の誠意だと思い無言で聞いていた。あと三十分ほどで終わるらしかった。そして、                       
「もうすぐ終わりますからね。心配ありません。大丈夫ですからね。もう一寸の辛抱ですよ。」                     
となって、彼の任務は終わったのだった。手術を終わって、石川先生から私と家内は別室で今日のカテーテルの映像を見ながら、説明を受けた。画面には私の心臓が生き物のように規則正しく動いていた。先生は、要所要所を次々と拡大して説明してくれる。そして、冠状動脈の箇所で弁を指し示して、                         
「ここが大事な所です。ここで管が細くなっています。この侭だと何時かここが詰まって血が止まり、そうなれば、命の危険に陥ります。それで、ここをバイパスで補強したい。そして、同じ様な所が他にもあります。」                             
と、映像を送って、他の箇所の欠陥のくびれを見せてくれたのだった。
「それで、私は、三本のバイパスを実施したいと思っています。手術は安全で心配ありません。」
と仰るのだった。
 それで、私は、覚悟をし、バイパス手術を承知するつもりとなったが、家内がそれに同意しなかった。家内は、              
「先生、誠に申し訳ありませんが、老いの身での手術は、却って病人の短命となり、一年以内に死ぬ人の話もあるので、私は心配です。」  
と言うのだった。石川先生は頭をひねって考えていた。家内は言葉を続けて、                             
「もし手術を止めたら、主人はすぐ駄目になりますか?」      
と、真剣な表情で聞いた。先生は暫く考えて、ゆっくり話し出した。 
「もし手術をしないとすれば、お仕事は一切やめて、病院にいるときと同じ様に、静かに過ごし、毎日きちんと薬を飲み、病状に注意した食事をして、大事に生活する。それが出来れば、手術をしたのと同じ年月は生き続けられるかも知れません。」                
 私は、先生がカテーテルの映写中に言われた言葉を反芻して考えていた。先生は、                          
「私は、このカテーテルを行う前までは、この心臓の底部は既に血管が切れて、動いていないと思っていた。ところが、この通りちゃんと動いています。だから、貴方の心臓は、意外にも回復されているということです。」                            
この言葉で、私は、あの発病直後の私の掌での手当の効果か、神のお恵みかによって、有難い事に救われたのではないかと思った。

六〇 退院・隠居     
 かくして、私は、同室者に挨拶して退院することが出来、それ以後、毎月一回、この病院の診察を受けて、現在まで五年を経過した。何時も懐中には「ニトロ」を必携している。この薬も、以後ただの一回使用しただけなのは、同病者の中では珍しいそうで、病後の経過はまことに順調だ。尤も、私は、先生の言葉を十分に守り、養生に努めている。  
 毎日飲む水の量と尿量の記録をとり、五日毎の血圧も必ず記入していた。この記録を診察のときに先生に診て頂くと、先生は、これによって病状の推測がつくと機嫌よく仰るのだ。佐藤君にも三年ほどは毎回一緒になって、昔の、彼の叔父さんと私との写真を複写して、プレゼントしたりして旧交を温めていた。その後、彼の仕事の都合で、診察日が違ったため、逢うことが出来ていない。時折顔見知りの看護婦に聞いたところでは、元気でいる様なので安心している。            
 私は、この病気のお蔭ですっかり仕事から放免され、現在は、隠居の身分だ。会社の方は、営業科目の内、建築・設計・施工・請負は休業し、残りの不動産賃貸業だけを営業中である。事務・会計は家内が続行してくれて、心配なく、私は、殆ど無役の社長ではあるが、社長の給料を貰うことが出来、会社は存続できているから、まことに有り難い話である。

六一 自分史のあとがき                     
 私はここで、私の拙い筆が遂に自分史を書き終えたことの喜びに浸っている。思えば、この記録はすべて、息子洋吉の発想によって進められたことが追想されるのだ。                    
 一昨年、平成三年の十月に、息子に言われるままに戦記を書き始めたのが始まりだった。この戦記は、私が時折語る戦争談に息子が、「是非、戦記に纏めた方が良い。自分も何度も聞いて覚えてはいるが、何時か忘れることを思うと心配だ。子供達にも大変ためになる事が多く、是非本にして残したい。原稿は鉛筆で乱暴書きで良い。私がワープロで活字にするから。」と言うのに気を良くして、やおら書き始めたのだった。戦争の苦労は、私の身体に沁み込んでいたので、思い出して書くこと自体は難しいことではなかった。だが、書いている内に、当時の事が思い出され、当時と同じ苦しみを感じ、又、再び戦場にいる気持ちに戻って、悲しみが身体中に溢れ、悶え苦しむ様な状況にもなった。これを書いている間の二か月間は、私にとって実に苦しい時間であった。毎晩、眠れない夜が続いた。夜中に、あの箇所は一寸まずい、あそこはあれを書き忘れた、と思い出して、突然起きては書き直すこともあり、不眠の夜が続くのだっだ。                          
 病院の診察の日に先生から睡眠薬を頂いて飲むこともあった。戦記は三百枚ばかりだったが、自分で読み返して校正する気力もなくなり、この事を洋吉に電話したら、「それは、全部私がやる。そのままで良いから、送ってくれ。」との言葉に助けられて、早速息子の所に原稿と参考資料の一切を送りつけて安堵したのだった。そして、年ごとに送られてくる息子からのワープロの仕上がりを貰って、活字になった私の文章に眼を見張った。息子が大方直したものらしく、立派に戦記として格好が付いたのが嬉しく、喜んだのだった。そうして、息子が言うには、「戦記はぼつぼつワープロで仕上げるが、私はあれをやる事が少しも苦ではなく、却って心の勉強になり、役所の仕事の気分転換には絶好の材料になる。」と話しながら、「是非、戦後の事も書いてくれ。戦後の苦心も私や子供達にとって又とない教訓になるので、是非頼む。」と私をけしかけるのだ。私も、外にやることもなく、短歌も碁も時間の空白を満たすには不足であったから、発心を考えてみた。            
 そして、私は、戦後を書くのであれば、戦前の事も合わせて書きたいと思うに至り、一大決心をして、私の生まれた時からの自分史を書き始めたのだった。しかし、始めてみると、それは容易ならぬ難事であるとも思え、体力が持つのかどうか不安にもなった。しかし、決心したからには止められないと自らを励ましつつ進めていると、次第に油紙に火が点いた様に、ずんずん筆が進む様になり、百枚、二百枚と用紙の上に筆が走って行った。しかし、私の文字忘れがひどいため、常に辞書と首っ引きとなり、その上、同じ字を何度も繰り返し引くので、辞書が擦り減りそうになった。又、違った字を思い出しては、百枚も前の頁を訂正したり、という具合で、私なりに大変な苦労だった。だが、それでもまだ間違いだらけで、他人には見せられないが、息子ならば何とかしてくれると思うからこそ筆が動くのだった。この様にして、この六百枚の原稿が出来上がったのだ。他人が見たら子供のいたずら書きに等しいものでも、私にとっては血の走り書きと息子が思ってくれれば、有り難いというのが私の今の心境なのだ。                   
 私の人生を今七十七歳にして振り返るとき、余りにも波瀾万丈で、気の休まる時がなかったことが特色だと思われる。他の人ならば、もっと落ち着いた人生となる筈だ。私の馬鹿さが良く表れていて、他人がその点を他山の石とするならば、良い教訓になると言えなくもない。ただ、私が自分の一生を振り返るとき、何時も他人に助けられて生きてきたことが思われ、私にとっては、どうしても他人が有り難いのだ。それは、相当の時間、或いは、時代を過ぎた時点での旧友、旧師との遭遇、出逢い等によって起こるのだが、その時期、境遇等が絶好の機会となるのが我ながらまことに不思議であり、私は、このことを何時も神に向かって感謝し、その感謝を重ねることの繰り返しだったのだ。私の一生は、人に助けられ、それによって生き延びてきたので、それにも拘わらず、私にはこれに対する報恩の実が伴わなかったことが、今となっては恥ずかしいばかりなのだ。私は、既に老境に入ってこのことに気付き、愕然とし、余りに愚かな自分を恥じ入るばかりのこの頃なのである。                 (終)

洋吉 あとがき

 令和310月18日、全602枚に上る父 小池 勉の鉛筆原稿を、校正・入力する作業を終えました。この作業と、これより先 平成7年に発刊された父の「第一二一設営隊戦記」のための校正・入力をした分を合わせると、その原稿量は計900枚を超えることになります。改めて、父の自分史を仕上げる意欲とエネルギーに感じ入っている次第です。そして、それを維持・継続させてきたのは、父の精神を貫く感謝と報恩の魂であったと、私は確信しています。
 父が、父無し子(ててなしご)として世に生まれ、隙間から雪が舞い込み、襟元が白くなる藁布団を寝具とする様な極貧の生い立ちから成長して、細やかながら発展できた礎と原動力は、母親の 信念 (私の祖母 小池 シメは「おのれだに まことの道にかないなば 祈らずとても 神は守らん」を座右銘とする、米沢織りの、優れた織り子でした) に基づく強い生き方と、姉や教師、先輩、上司、地域の有力者の方々の ‘小さき弱き者‘ を救い、助けてやろうとする 愛情・恩情によるものでした。父は、その受けた恩愛を その身の血とし肉として、自ずから発する報恩・愛他の心をもって人生を送ったのだと思います。
 そして、又、父には困難や窮地に陥ったとき、めげず、腐らず、克服すべく、常に前向きに立ち向かう積極姿勢があった様に思います。幼いとき、任務と感じたことを果たすべく横殴りの吹雪の中を突き進んだは、その端緒と思います。長じて、職場での苦境から脱するため旧師や上司に訴えたにも、その姿勢が貫かれています。さらには、その場の閃きで窮地を脱する例として、夜の根津山での野犬との対決のや、酔って運河に転落し、車二台の武装警官隊を呼んでしまったなどは、その内の剽軽な例に挙げて良いと思います。酒に酔って電車で大事な鞄を紛失し、離婚の瀬戸際に立たされて、運の神様と自身の閃きによって無事窮地を脱したも、些かコミカルながら大変にドラマチックです。上記母親の座右銘にある「まことの道」で、父なりに窮地を脱する例としては、暮れの支払いに窮し、鳶の頭(かしら)に頭を下げたや、会社が倒産した際、下職たちに一切の財産の処分を委ねる旨告げて詫びたに、その「まこと」が表れていると思います。父は、艱難に遭っても ‘まこと‘をバネに 窮境を跳ね返したのです( 実は、私の司法試験合格も、窮地にあった私に父がその様な姿勢から与えてくれた助言に負うところが大きかったのです。本編中の当該箇所をご覧下さい )。友情を貫く誠実な心も父の重要な一面でした。多分幼い頃野山を駆けまわった友との交わりがその揺籃であったと思われますが、長じて後の友との交わりや語らいはこの自伝の随所に多数述べられています。「長沼君」、「友(荻君・湯野川君)との遊び」に揺籃期の一端が窺われ、又、長じてからの「心友」の各記述にも濃い友情が表れています。
 私は、平成5年までに父が書き上げた602枚の「一代記」原稿を、その後受領して、私の裁判所在職中にその内の400枚余りはワープロで活字化することが出来たのですが、その後 仕事の責任が重くなるにつれ、この作業に時間を割く事が出来ぬまま、次には、新たな公証人の仕事に時間をとられている内に、父は、高齢による衰弱と認知症により 施設にお世話になる身となり、平成20年7月18日帰らぬ人となってしまいました。享年91歳でした。父の活躍を家庭にあってしっかり支え、偕老同穴で苦楽を共にした母も、その7年後に他界しました。私は、不孝にして 晩年の弱った父と母を 同居して看てやることができず、施設を定期的に見舞うだけの接し方しかできなかったことを申し訳なく思い、せめて、その不孝を、生前 父母とした「原稿を活字化する」約束を果たすことによって償おうと思っておりましたが、退職後、暫くは、私の法律家としての職歴をせめてホームページの形で世間のお役に立てたいと思い、「家族法入門ダイレクト」をまとめることに注力しました。それが令和3年春に一応まとまりましたので、ようやく父との約束を果たす作業にかかりました。これを約束通り「出版」の形で世に問うことが出来れば とも思いますが、この一代記には実在の人物に関する記述も多数あり、差し障りも懸念されますので、むしろ、ホームページの中にこっそり、関係者だけが閲読できるこの形が良いのではと思っています。それが、‘孫子まごこのため‘という父の発心にも叶うと思いますし、また、この形ですと、検索が容易で、事柄の経緯や関連の理解が容易い上に、上記「戦記」も一括して掲載できるメリットもあります。令和310月の今の時点では、まだ「戦記」の復稿ができていませんが、次には、それを遂げて、全一代記をこのホームページ上で 通して閲読できる形になればと思い、今後その作業に注力してまいります。なお、本文中には所々に短歌が詠まれています。これらは、父の歌集「日日草」等から私の一存で挿入した父の短歌です。私は、歌集としてまとまったものを読むよりも、この形にした方が、文も歌もさらに生きてくるように思われ、父も許してくれると存念します。
〔追記〕(令和4年10月7日)
 上記のように「戦記」の復稿を進め、その完了が間近となった昨日、私は少し方針を変え、私の「家族法入門ダイレクト」冒頭に、この「一代記」の案内を記載しました。もう父が亡くなってからでも14年が経ち、もし内容的に差障りがあっても、さらにさらに過去の事柄となったその記載内容は、恩讐の彼方の事であろうと思い、又、来月79歳となる我が身の急な衰えも感じますので、そうさせて頂きました。多くの方にお読み頂ければ、父も必ずや喜んでくれると思います。
〔追記Ⅱ〕(令和4年11月23日)
 本日、父 小池 勉の筆になる「軍属部隊のソロモン戦 海軍第一二一設営隊戦記」の入力を終えました。 振り返ると、昨年3月末から、父 勉の自伝「一代記」の内、私が判事補時代にワープロで入力して印刷してあった既プリント (「四九 息子の引越に奮闘す」までの) 分を、私のホームページに、ひっそり加える為、その入力とサイト転送の作業を開始し、6月末にこれを終えました。以後残りの手書き原稿602枚分にかかり、10月中旬にこれを完了して、以後、父が平成7年に非売品として出版していた上記「戦記」の入力にかかって、これが本日 完了した という経過になります。
思えば、平成3年に父から「戦記」の原稿を託されて以来30年以上の年月を閲してようやく父の誕生から晩年までの通史の発信に至れたことは、まことに感慨深いと共に余りに遅きに失した仕事振りには自ら深く恥じ入るばかりです。本来なら父が描いていたであろう出版物として世に送り出すのが理想ではありますが、年老いた身の現在の境涯では、ホームページとする事が能力の限界という感があります。ただ諦めてはおりませんので、いつか良い形でその理想を実現できますよう今後もそれをミッションとして生き抜いて参りたいと存じます。