あとがき
私がこの戦記を書きだした状況について、説明したいと思います。これを書き始めたのは、丁度その年には私の大切な戦友の林書記が亡くなり、私も落胆のあまり呆然として、何をする気にもなれない状態でした。然しこの時にふと思い出したのは、息子が時々「お父さん是非戦争の事を書き遺して下さい。」と言っていた事でした。
あの私達の苦しい生き地獄の様な戦いの様相を何とか書き遺したいものと、私は何時も思い続けていたのでした。「そうだこれは私が書かなくては他に誰も書く人が私の部隊にはいない。これこそが私の最後の仕事であり義務でもあるのだ。」と思ったのでした。そして私は戦いの最初から書き始めました。書き始めて油が乗ったというか、次から次と当時のことが思い出されて夢中で書き進めたのでした。
そうすると、苦しかったことが思い出されて毎日がとても苦しくなりました。夜も全然眠れなくなり、頭の中は毎日が戦争となり寝ても覚めてもそれが頭から離れないのです。遂に病院から睡眠薬を貰って飲んで寝る様になりました。そして約二か月で三〇〇枚ばかり書き上げた時は、もう原稿を読み返す力も無く、投げ出した様にしていたのでした。息子が一日家に寄った時にそれを見せたら「これは僕がワープロで活字にしてみましょうか。」と言ったのを聞き、「それは有難い是非頼む、俺は校正も何も出来ない、一切お前に任せる。」と全部の資料、原稿共息子に頼んで送り届けたのでした。あのブーゲンビル島で大増水のプリヤカ川を単身で渡河した時、三か月遅れの妻からの手紙で知った息子の誕生!。その息子がこうして私を助けてくれる有難さ。それを思う時、戦没の隊員の事を思えば、この戦記を書いて本当に良かった、何としてもこれを出版して戦友、御遺族の人達に見て頂くことが何よりの鎮魂と思ったのだった。だが息子も仕事の合間をぬっての夜間のワープロなので中々進捗しなかった。一昨年年頭に息子一家と熱海で遊んだ時、妻と息子の話の中で、息子が「僕のワープロはどうも調子が悪くなって、この頃は時々悲しげに泣き出すんだよ。」と妻に告げたそうだ。翌朝その話を妻から聞いて、私は「それは機械の寿命が来たんだよ、新しいのを買ってやれよ。」と言い、そして新しい機械での作業が始まり、遂に完成したのは今年の五月だった。
そんな訳で五年の歳月を経て原稿が完成し、また有難い事に大津留先生の御手配で出版の方も進められたのでした。本当に私は未熟者で何も出来ず唯々皆様の御力添えでここ迄出来ました事は、私は神様のお助けとばかり感謝感激している次第です。校正などには株式会社エイチ・ジー・エスの石川二朗出版部長の一字一字親切に御教授下さるという並々ならぬ御力添えは唯々感謝の外ありません。私ごとばかり書いて誠に恐縮と痛み入るばかりですが、戦友、御遺族の方に何分かの御懐旧と御供養ともなればと念ずる次第でございます。
平成七年八月
小 池 勉