序                          

 我が家のベランダに毎年日々草が白や赤の花を咲かせている。この日々草は小池さんが、ブーゲンビル島のかつての激戦地を慰霊巡拝された折、現地に咲いていた日々草の種をとって帰られ、われわれに頒けられたものである。                 
 小池さんの率いる設営隊が南の島ブーゲンビルで苛酷な状況下で悪戦苦闘を重ね、その間多くの部下を失ったことについて、小池さんは長く責任を感じ、鎮魂の方法を考えつづけて来られた。そして、現地に慰霊・拾骨のための派遣を強く厚生省に主張し、これを実現させられたと聞く。                             
 また、最前線における生と死は紙一重で、その何れに分かれるかは全く運と云う外はない。小池さんは幾度も、そういう場面に遭遇しながら、幸運にも生の女神が小池さんに味方し、生きながらえることができた。それだけに不運にも運命を分かった戦友・部下への思いは一入強いものがあった。それを書き残すことが、亡くなった人達及びその遺族の方々への義務でもあるとの使命感のようなものが、小池さんをしてこれを書かかしめたものと思う。                                    
 我が海軍においては、直接戦闘に従事する軍人のほかに、これを裏から支える軍属が多くいた。特に、前線における飛行場や港湾の建設や輸送のための設営隊には、多くの人が軍属として従事した。その中には、土木や建築、機械や電気と云った専門の技術者が大勢いて、それらの人々が設営隊の実質的中心をなしていた。小池さんは学校で建築工学を修められ、海軍の施設部に勤務しておられたが、戦雲が急を告げるに至って、設営隊を志願し、前線に出られることとなった。                       
 これら設営隊の仕事は文字通り縁の下の力持ちで、軍隊の戦闘活動を容易ならしめる施設の建設や補給で、その奮闘ぶりは軍人に決して勝るとも劣るものではなかった。小池さんはその性分として、責任感旺盛、部下思いの熱血漢で、困難は自ら求めてもぶつかって行くというやり方だったから、人一倍苦労も多かった。しかし、それが幸いして一命をとりとめたということもあったから、人間何が幸いするか分からない。小池さんのやり方には上司・同僚・部下から絶対の信頼をえ、軍司令官からも感謝され、終戦後は豪軍からも信用されたというが、私はもっともなことと思う。
 小池さんがブーゲンビル島に出かけた昭和十八年は、ミッドウェーの敗戦ののち、我が戦況が日に日に非となって、ソロモン諸島から、敵が北上を開始した時期にあたる。タロキナにおける決戦ののち、敵はブーゲンビルやラバウルの日本軍をそのままにして、フィリッピンに向かい、更に沖縄へと進攻をつづけた。小池さんたちの奮闘が、敵軍の北上を妨げ、おくらせるのに役立っていたが、二十年にはついに我が本土を敵のうかがうところとなり、八月十五日を迎えるのである。                     
 この戦記には、第一線の戦闘の苛酷さ、悲惨さが、赤裸々に述べられているほか、我が軍隊の内部における規律や上下関係の実態、また軍人と軍属との反目なども率直に語られている。人間社会において免れ難い弱点が軍隊内部にもあったが、小池さんはそれらを何とかうまくまとめようと苦心されたこともよくうかがわれ、小池さんのお人柄に一層の親しみと敬意を持つものである。
 私も海軍々人として、この戦争に参加した者であるが、内地勤務ばかりで、第一線の苦労を味わっていない。それだけ、肩身の狭い思いであるが、我々の多くの仲間が無念の思いで散華して行ったことへの痛恨の思いと、敗戦による疲弊し切った国土と国民の生活を如何にして再建するかの使命感とは、生き残った者の義務として強く感じつつ生きたこの五十年であった点は小池さんと共通するものと思う。
 小池さんは出征を前にして、あわただしく結婚し、若妻を残して前線へ向かった。奥さんがいかにわびしい気持ちで小池さんを待っておられたか、今にしてしみじみと分かる。そして出征後数か月して長男が生まれる。戦争が終わって、万事混乱の中に小池さんが前ぶれもなく帰って来られた時のご家族の喜びはいかばかりであったろうか。それだけに、このようにして夫を見送った妻の多くが、とうとう夫が帰らぬままに五十年を経たことを思うと、断腸の思いがする。
 小池さんが、この戦争の語り部として、前線の状況をつぶさに書き記して下さったことに心から敬意を表し、多くの方々がこれを味読して頂くことを希望して序の言葉といたしたい。
  平成七年八月
                                               大 津 留  温